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[23] 人生は樹木
日時: 2012/01/22 00:53
名前: Raise ID:i.IemFnY

「食後でも読める小説」を目指します。
2011/6/8〜2012/01/04

メンテ

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NHKのニュースウォッチ9で「一体、何があったのでしょうか」って大越さんが毎回言うたびに吹きだしてしまう ( No.5 )
日時: 2011/07/07 00:05
名前: Raise ID:ja5rxtK6

「三島由紀夫は言った。およそ女と食というものに興味がないやつに、ろくな仕事は出来ない、と。どんな文体で書いてあったか、どんな本にあったか、そもそもこの文章が一冊の本にあったものなのかも、まったく解らない。でも彼はたしかにそう言ったのだ、あるいはそれに類することを」
 あえて芝居がかった口調で、
「だからビスコ。そういうことだ」
「つまりどういうことだってばよ」
 テニスコート、球がぬるいテンポで左右に飛んでいくのにいちいち首を回しながら、ビスコはやる気がない声で。
「だからつまりだね、恋をするべきだと言っているのだよビスコくん」
「うんそれじゃあまずは接続詞つまりの意味について考えてみようぜ」
「あーいきなりうぜーの。だからさ、おまえ恋の一つや二つもしたことがないの」
「してたら小説なんて非リアなことやってませんからー」
「おまえ最近の小説家ってふつうにおしゃれでイケメンだったりふわゆる系だったりすんだぞ。星野さんとか、柴崎ゆっかとか。島田雅彦とか昔からイケメンじゃねーか。ていうかリア充が小説書いちゃいけないっていつ決めた」
 なんかふつうにいらいらしてきたのを察してるのかそうでないか、へへんと鼻で笑いまして、
「内面がない」
「死ね」
 間髪入れずに。今日も我々は平和です。
「内面ってなんすか」
 ボールぽこーんつって。
「しらん」
「内面とか外面とか、分ける意味ないし。ていうかなんか、内面とか、本当にあんの、って話だし。意味もわからないようなもんがそもそもある、って信じること自体、なんかおかしくね」
「異議あり! 今の発言は、あきらかにこの証拠品とムジュンしています!」
「……いやしてねえよ」
 ポールぽこーんつって。
「しまった……! 裁判長の心証を悪化させたか!」
 蹴った。今日も我々以下略。
「さてですね、本題に戻しますとだなユウキくん、そもそも意味の解しがたいものを理解しようとしない精神こそ、怠け者たる人間の最低のところなのだらよ」
「いや、でもね、そうは言いますけどね、明らかにおかしいじゃん小説って。よく解らん内面とか気持ちとか、自分の気もちだけを下敷きにしてちゃんちゃかシュミレーションして≪これが人間です!≫と言わんばかりに叫ぶんでしょ。おかしいでしょいや、どう考えてもおかしいでしょ」
「物は知り得ないかっこどやあ」
「いやその後ろのドヤ顔いらねえよ」
「まあそれは本当に置いといて、パスカルかモンテーニュかカントは言った。物は、知り得ないと」
「せめて特定ぐらいしていただけるか」
「物は知り得ないんですよ。究極的には。たとえば一本の鉛筆があったとする。その社会的な意味、言語的な意味、色々な意味、いっぱいある。肉眼で見える以上に、顕微鏡を使えば何かがまた新しくあらわれる。といった具合に、究極的にものについてすべてを知りつくすことはできない」
 どやはつづく。
「たとえば君の言う通り、感情は知り得ない。内面は理解しえないだろう。だが、それについての曖昧な理解をすることはできるし、さらにその理解についてコンセンサスを得、公共性を得ることはできるのだらよ! どや」
「まあ今一つ何言うてるのか解らんのですけど、所詮内面ってのもトレンドにすぎないってことすかね」
「ともいえる」
「あのせめて内面ディスんのか擁護するのかぐらいは白黒つけてね」
「君たち人間はいつだってそうだ。議論の中間派を決して認めない。まったく、わけがわからないよ」
「俺は常々お前の話が飛び過ぎて本当にわけがわからない」
「要するに中間派ってことだってばよ」
「それさっきも言ったじゃん。えー、つまりトレンドとしての≪感情≫も認めるけど、同時に曖昧で理解しがたい存在の≪感情≫も認めるってことですか。それって男として煮え切らないけどどうなるんですか」
「いや、男とか、所詮社会的に認められたものにすぎないから!!!! どや!!!」
「うんいい加減にしろな」
「君の疑問は解らんでもないすよ、つーかむちゃわかる。うん、内面とか、あと想像力とか、よく解らんよねっていう」
「あれやけに素直じゃん」
 ネタどやからややガチどやである。
「でも、そういうよく解らん、もしかすると旧世代の概念にすぎないかもしれないものを、しっかりつきつめたら何が残るのかとか、ちょっと興味湧いたりしないかなーっていうね。それがガチなとこでね」
「俺はそういう方向には全く興味ないから」
「知的じゃないなあ」
「知的ってなんすか」
「さあ」
「小説書くのになんで知的じゃないといけないんですか」
「なんでだろね」
「ていうか小説書くと知的であるかっこわらってまったくちゃう話じゃん」
「うん」
「だから恋をしようか」
「いい具合に話が戻ってくる構造ですな」
 テニスボールぽかーん。つって。先輩がたはずっと自主練。えらい。延々ラリー。糞あちいのにすげえである。
「あのね、部活が終ったからっていきなり携帯で呼び出して、そりゃないでしょユウキくん」
「結構重要な話だと思うけどね、俺は」
「あらためまして、こちとらお断りですから。恋とかお断りですから。我の強すぎる田舎のボンクラ娘にでも万が一引っかかったら毒殺されちゃうし、文学とかやっちゃう? 系のなんちゃって有閑マダムとつきあったら最終的に捨てられたあげく首切られちゃうし、とーちゃんの再婚がいややからって浮気芝居やったら再婚相手は死んじゃうし、恋なんてろくでもねーですぜ旦那!」
「いやいやいや、そこちゃんと何とかしましょうよ。いい加減にしろ男ども」
「お前も男だからね」
「じゃあビスケてめえも男だよね」
「いやまあ」
「せめてもう一人さ、緩衝材ライクな人間が欲しいとは思わんけ」
「それねー、文学史的に言うと、彼女めぐって三角関係、かーらーのー、アメリカ的ナイーヴだよ! 金持ちになって彼女のもとに華麗に帰ってきたら最終的にプールで撃たれちゃうんだよ! 死体ぷかぷかつーて! 恋愛こえ!」
「うんお願いだから日本語でいいよ。あとたぶんそれねー、三角関係違う」
「あれそだっけ」
「頼むからパロるならちゃんと正確な記憶を保とうかそして恋とは言わずとも誰かもう一人連れ込もうかわいいの」
「ロシア女だったらハッピーだけどアメリカのほうだったら結構悲惨だよね。最後に空っぽの銃握らさなきゃ。ていうか連れ込みとかユウキくん卑猥だと思います!」
「待った!」
 どんつって。ベンチを両手で叩く。
「連れ込むという言葉からだけで、卑猥と考えるのは短絡過ぎるのではないでしょうか!」
「しかし、連れ込むなどという言葉から連想されるものと言えば‥‥」
「まだ解っていらっしゃらない証人のために、弁護側はこちらの証拠品を提出させていただきます」
「‥‥日本高校生‥‥文芸コンクール入賞者冊子?」
 うなずき。俺が提出したのは、薄っぺらい冊子。日本高校生全国文芸コンクール作品集。全国のわりに、なぜこうまで冊子が薄っぺらいのか。そのなかの、一人のページを見せる。
「……秋吉すみれ?」
「うん。まあ、なんか、普通にお前に会いたいらしいから」
「は」
「いや、普通に小説書いてるって話きいて、どんな子かなーと思ったら古臭い名前のわりに結構かわいかったから、これはもう一人放り込んでくるべきだよね、っていう、ね」
「なんだよそのジャンプ的展開は」
「でもってお前が適当に恋したらいいよねっていう」
「適当にってなんなの日本文学史的には適当な恋とかいまいち許されねーよ。たぶん……」
「まあええやん」
「いやそこ人生の重大事だよ! まじバルザックとか見習おうぜもっと!」
「ということですみれちゃんとこれからごはん一緒に食いに行くぞ」
「全力でお断りします!」
「お前に拒否権ねーから!」
 そういうわけで、おれはくそ暑いテニスコートから、蹴りを起点にしたコンボを決め、むりくりにビスコを引っ張るのだった。なんというか、いい加減だらだらしすぎるのも、まずいな、と思ったのである。
メンテ
これ書きながらラターの「マグニフィカト」をきいていました、すごくいい合唱曲なんでよかったらきいてください(千円でCD買えます) ( No.6 )
日時: 2011/07/23 22:15
名前: Raise ID:goP3N4uQ

「なんていうか、昔から、いろいろ書くのが好きでした。ちょうちょの羽の色がどうとか、今日なんとかの服を買ったとか。別に、へんなお家で育ったわけじゃないんですけど、そういうのを一冊のノートにまとめてたんですね。で、最初はただの日記みたいなやつだったのが、どんどん嘘? じゃないけど、確かにそこにあるんだけど見えないようなもの? が一杯いりまじっていて、気が付けば小説みたいになってました。それで、ぼーんやり、ぼーんやり、書いていて。あんまり、こう、作家になりたい、とかは、ないです。小説の勉強したいとも思わない。だからといって、得意げな顔をして、書く、っていうのは、私の本能だから、とか、言葉がむこうから来てくれるんだよ、みたいなことは言いたくない。だってそういうことはなくて、いつも頭のなかでちゃんと考えて書いているんだから」
 どうでもいいけどサイゼリアのワインはくそまずいと思う。アルコールの原液みたいじゃん。あと俺的にはミラノ風ドリアは毎回口が荒れてなんかこわい。あれどうなってんの感。
「でもまあ、賞とか取ったんですよね、すみれさん」
 ビスケ、
「いやまあ、賞っていうか、そんな大したものじゃないんですけど。出してみたら、って言われて、まいっかと思って、出したら、で」
 ビスケの手が軽く握られるのが、テーブルの下から見えた。俺は誰にもわからないようにちょっと溜息をついて、
「まあ、賞を取るために書いているわけじゃないっすよね」
「ですね。本当に、そういうことだと思います」
「自分はそうは思わんですけどね」
 ビスケは思いっきり手を握って言った。
「おいおいおまえ今のちょっとリテラルな雰囲気を見事にぶち壊してくれたな」
「だってむかつくじゃん」
 そうしてあのくそまずい赤ワインを一杯ぐーと飲み干して店員さんもう一杯、
「むかつくって何がだよ? すみれさんに?」
「うん。あとおまえに」
「なんでだよ」
 すみれさんははわわしていた。すまんすみれさんと思いながらさすがに淑女の目の前ではこいつに手はだせん。
「すみれさんみたいに美人だったりおまえみたいにある程度リア充だったらそういうことも言えるかもしんないけどさ、うちみたいに書くことしか残ってないようなやつだったらもう賞書いてなんとか社会に守ってもらうしかないんすけど」
「うーわ」俺はにやりと笑った。「いいキモオタの発想だねえ」
「オタで悪いか!」
 どすん、とテーブルたたいて。店員さん吹き出す(あと俺も)。二杯目を飲みほし、たったそれっぽっちで顔を赤くして。
「不健全だよ」
 チョリソーくいくいしつつ宣言してやった。
「書くことだけがこの世の中のすべてじゃない」
「そんなの人それぞれでしかないじゃん! ユウキにとってはそうかもしんないけど俺には違うんだよ!」
「えーお前俺とか使うの」
 俺の素朴な驚きをさわやかに無視してビスコは俺のカツレツにまでフォークをがしがしぶっ射し、
「もう書くことしかない人間にとっては賞とるしか生きていく道がないんだよ……」
 つって突っ伏した。
「あの、大丈夫でしょうか……」
「いや大丈夫。こいついつもこんなんだから。いや今日はさすがにちょっとひどいけど。あーあとワインもう一杯おねがいしやす」
 そう言って俺は気まずいしかも笑える面白くてたまらん沈黙のなかで、あらためて秋吉すみれさんの容姿をまじまじと眺めていたのであった。美人であります。それをラノベ風に描写しようが牧野信一風にディピクト(どや)しようがとにかく美人だった。ちょっと古いけどearth music&ecologyのCMの宮崎あおいに似てた。あ、同じCMでも上野樹里とかじゃ全然ないっす。顔だけで言うと宮崎あおいなんだけど髪はちょっと伸ばしてて後ろでブルーのリボンでまとめてる。顔だけ見てると宮崎葵風なんだけどそこは美少女ゲームのなかのウェスタンに出てくるバーの手伝いのお姉さんみたいな感じだった。化粧はそんなしてないけど塗ればぬるほど自然に見えてくるのが化粧なんだよなあそういやとか俺が回想していると、
「書くことしかないの!!」
 って絶叫して来たワインをいきなりまた飲み干しやがった。店員さんドン引き。ごめん店員さん。
「おまえの人生まじ書くことしかなかったの」
「うん」
「だめじゃん」
「ええ……いまさら人生やりなおさせないじゃん……」
 なんか俺の一言が珍しく余程心に突き刺さったらしくビスコは真剣に涙目になり始めた。げげまじか感。
 俺は一切酒は入ってなかっけだとでもだんだんむかついていた。
「お前さなにさまなの」
「あ?」
「書いてるからってそんなえらいのかよ」
「なんだよお前いきなり」
「書くことだけがぼくの人生でちゅーとかかっこわらの世界じゃんお前何時代の人間だよばーか」
「あ? ちょっとなんなの?」
「いやなんなのとかフェミニンで繊細でいいっすねえー繊細な感受性お持ちじゃないっすか」
 俺がいきなりマジ切れしだしたのがビスコにはショックでたまらんかったらしく「あ?」で必死に威嚇のポーズとってたけどお前それ雑魚の証明だろっていう、たたみかける俺、四杯目のワインはあいつの手からぶんどって、あーあと五杯目のワインください、
「なんかさーなんなんだろーねー小説書いてるってそんなに偉いことなんかな? 世界のなんかよくわからんものが見えてるから偉いとでもいいたいの? 書くことだけがぼくの人生でちゅってなんでヒーローぶんの? そんなわけないじゃん? 書くうえでまさかおまえ自分だけでかけてるとか思ってんの? 自分が賞とれないとかぶっちゃけおかしいとか思ってるんじゃないの? ばかじゃないの? いい歳こいてなんでそんな風に鼻高々でいられんの? そのくせなんなのぼくは書くことの奴隷ちゃんだよぉーみたいなつつましアピールしてんの? そんなところで予防線貼っちゃうんだふーん? へたれじゃん! おまえただのへたれじゃん! そりゃ賞もなにも受からんしそんなクソ気持ち悪いお前の書くものなんて誰もよまねーよ! 人生は樹木ってなんだよ意味わかんねえよ! 小説なんだから彼の話とか路上でゲロした話とかでいいんじゃん! それをなんでかっこつけてわざわざ人生は樹木とか言わなきゃいけないの? 意味わかんねえよ? 恥ずかしいならはずかしいでいいじゃん! なんでそれを隠したがるの? 偉ぶって隠したがんの? 意味わかんねえよ! だから書かないと生きてけないでも賞くれないから書けないのー死んじゃうのーとかぐちる暇あったらとっとと書くか死ねやこのクズオタがよ」
 そうしてやってきた五杯目のワインを俺はビスコにぶっかけてやったのだった。
 さっきからにやにやしてた店内が黙った。
「あーすっきりした」
 思ったままに言ったらそれがびっくりするほど響いて俺までマジでびびったけどさらにびびったことにはチョリソーの置いてあったプレートがいきなり浮遊して俺の頭を携帯小説ばりにがちんと殴ったんだけど、えーおまえマジ反撃とかきいてねーぞおいって思いながら俺はふらふらする意識のなかでテーブルのなんかとにかく食器? か? 皿? あとミラノ風ドリアの残りとかリブステーキ? ていうか誰のやつなの? 俺ら注文してなくね? みたいなやつをひっつかんで投げつけようとしたけど頭は言うことをきかなくて俺はぼてっと身体が落ちるまぬけでぱっぱかぱーな音と感触だけきいて、「わーお客様お客様やめてください」つってる悲劇の店員さんの声とガチで殴りながら眼を真っ赤にして泣くに泣いていたビスケの顔が本当に最後に一瞬だけ見えて「大丈夫ですかーきこえますかー」ってスミレちゃんの声がして、あ、すみれちゃん今日まじ意味のわからん喧嘩に終わってごめんねって聞こえない懺悔をして、そういや今日のビスケなーんかおかしかったな何かあったのかなーそんぐらいくみ取ってやったらよかったかもなーって今更後悔、そこでぷっつり何かが切れちゃった。
メンテ
なにもかも忘れられたらどれだけ良かったろうか ( No.7 )
日時: 2011/07/30 14:53
名前: Raise ID:mBA9VleA

 なんともおばかな話だが俺はそのまま病院に運ばれ、遠くの父親が被害届を書こうとするのを母が全力で止め、でも真っ先に見まいにやってきていきなりぼこりやがったのはその母でございまして、一体何があったのか説明を要求されたが「ただの酔っぱらいの喧嘩」で済ますしかなかった。
 だって、ふつうに、いみわからん話だし。
 書くのだけが人生とか、よーわからんし。病院の夏の庭はばかみたいに青葉が茂っていて、俺は母の心配そうな言葉を適当に聞き流しながら、いや、それにいちいち切れる俺も、よーわからんし、とか思っていた。いみわからんし。怪我自体はまったくもって大したことないものだったが、一応検査云々があり、そのために俺は一日の停留を余儀なくされたわけだった。部活なり約束なり何だかんだあるのになあ、と思いながら、俺は今一つ休暇になっていなかったような気もする夏休みの、いよいよちゃんと味わい方にたどり着いたというわけ、なんだろうか。大丈夫大丈夫と母を追い返し(検査が終わるまでホテルに泊まるらしい、金かけさせてすまんかーちゃん)、俺は静かにシーツのなかにくるまって目をつむっていた。共同病室のざわめきが、蝉の声、夏の鳥、あらゆる雑多な響きがカーテンの下をすり抜けて心地よく聞こえてくる。書くのだけが、人生とか。ばかでねーの。悲しくなるだろ、そんなの。俺にはよくわかんなかった。この世の中には書く以外のことも一杯ある。書くのはそのひとつの選択肢に過ぎないんだって。何をそんなに夢中になる必要がある。わかる。わかるよ。楽しいって。しかも苦しいって。何かどこかたどり着く場所も、俺には見えないけどきっとあるのだろう。それでも、それでも。書くだけが現実とか、だめじゃんか、
「なあ、ビスケ」
 カーテンのむこうの影がびくびくっと動いた。そのまま背中を向けるから、
「いやちょっと、逃げるのはないっしょ」
 言いながら手を伸ばそうと首を持ち上げると激痛が走った。思わず「いてー」と呟くと影はやはりびくびくっと縮み上がって、俺はなんだか笑った。
「入ってきなさい」
「……むう」
 入ってきたビスケはいつも通りさえないギャップのシャツと確実にクリーニングに出してないよっれよれのジーンズで、たとえ俺の頭がじんじん痛かろうが共同病室にいようがこいつも俺もあんまりかわんないんだなーと思って妙に安心した、もっともそいつの頬にもガーゼがしてあったけど、
「それ、なに」
 おれなぐったっけ、
「いや、すみれちゃんにあの後思いっきり殴られて、……ついでにお酒で酔っぱらってたからアパートの階段から落ちて同じところ打った」
 二重の傷というわけらしい。
「え、警察とか別になかったっしょ」
「うん。店の人とすみれちゃんが気利かしてくれたから。倒れたから一応病院には担ぎ込まれたけど」
 ひとまずは、何事もなかったのだ。俺は死ぬほど安心して、それからベッドの枕を思いっきり投げつけてやった。まさか一撃来るとは思っていなかったらしくビスケは「もごぅ」と言いながら頭を横にしてずっこけた。ものすごい音がたって一瞬共同病室のざわめき全部が消えた。
「謝れ」
「……やだよ。どんだけ横暴だよ」
 起き上がりながらぶーたれた顔でビスケは言う。
「君みたいな現実主義者はいつだってそうだ。僕みたいなやつを、現実が見えてないっていうんだ、結局」
「だって、見えてないし、意味ないじゃん」
「意味ないってなにが?」
 カーテンの裏に隠したらしいフルーツバスケットから、
「書くのは意味ないって?」
 赤くて丸くて重そうなりんごをばしっと一撃。捻挫でもしているのかキャッチすると結構痛い、というか運動出来ないわりにかなり重いボールでいい加減にしろ、
「だろ」
「……ばか。ざこ」
「なんだよ」
 ビスケはサイドチェアーに座ると、もう一つりんごを持って、にぎって、かるーく、しかも重たく投げて、俺キャッチ、
「あのさあ、そんなふうに意味ないって否定されたら、どうしようもないじゃん。確かに、書くってのはセックスみたいに、生物的な意味をなんも持ってない。遊びだよ。遊びだ。でも、それを本気でやってるからって、ばかにされる筋合いはない」
 拳をぎゅっと握りしめていた。
「食べることとか眠ることとかセックスとか、たしかにぜーんぶ意味がある。楽しいことだって意味がある。でも書くことには確かにほんとに何の意味もないんだ。なーんにも返ってこない。精々面白かったですねーとかいう感想がつく程度でそれもアマチュアにはめったにこないわけでさ、しかも書いたものって前に言った通りいつか忘れちゃうんだよ。しかも楽しくないんだよ。苦しいばっかで。時々ちょっと楽しみがあるぐらい」
「じゃあなんで書くの?」
 蝉の声。鳥の歌。
「しるか」
「名誉じゃない」
「うん」
「意味でもない」
「うん」
「じゃあなんで書くの」
「ヴェルコールならきっと抵抗と言えた。もしかするとサルトルとかも。フィリップ・ロスならきっとアメリカのため、だ。もっと昔の文学者なら探究のためとか今からみたら上っ面だけの言葉を並べたらきっとそれで良かったんだ。でも、今はなんにもない。だから巷の作家はこんなふうに言う、本能だ、とか、言葉がむこうからやってくるって。でも僕にはそんなわけがないんだ、いつも言葉は、考えた分しか書くことは出来ない。才能がないから、とかいう言葉で片付けたほうが、きっと楽なんだろうけど、原因が見つからないからって、超自然的な、人間の意志ではどうしようもできないものに委ねるってのは、神様が云々って時代から何にも変わってない。僕はそれがいやだ。でも、そうなると、なんで書いてるか、とか、説明できない。なおさら、説明できない」
「だからといって俺は」投げられたうちの一つを投げ返して、「そうだな、たとえば書くとは何かを追い求める過程こそ書くことなのだ、みたいなお茶濁しのそれっぽい答えはゆるさねーぞ」もう一つ、かるく投げて、「なんたって俺を殴ったんだからそんなクソみたいな回答だけはゆるさねー」
 考え込んで、ビスケはちょっと笑った、
「今まで書くしかなかったばかのため」
 そう言うと、ビスケは落ちたままの枕をもう一度投げ返して、それから俺のためのはずのリンゴを一人でむしゃむしゃやりだした、
「農薬ついてんぞ」
「知るか」
 今まで書くしかなかったばかのため。
「そんな怨霊みたいなやつに憑りつかれてていいの」
「じゃあそいつらはどう報われるんだよ」
「そいつらってたとえばだれよ」
「たとえば久坂葉子とか?」
「だれさん」
「続きはWebで」
 といいながらビスケは携帯を引っ張り出した。
「青空文庫?」
「ん」
「久坂葉子の誕生と死でググれ」
「うい」
 俺は出てきた文章をつらつらと読んだ。時折ビスケが合の手を入れた。島尾敏雄に気に入られて、持ち込んだ同人誌VIKINGに小説「入梅」が掲載さる。なんかつらつら書いているうちに四作目の「ドミノのお告げ」で芥川賞候補に。齢十九歳。それから書く。だめ。書く。だめ。化粧品の仕事をやる。ラジオの放送作家じみた下働き。だめ。肺病。病床で書く。苦しみながら書く。それが「華々しき瞬間」。病気治る。「華々しき瞬間」読み返す。だめ。駄作に見えた。
「どうして、苦しんでまでして書かなきゃならないのか。もう私は意地をはるのをよそう。私はこの道に才能がないことをはっきり知ったようだ。どんなに苦心をして作ったものでも、その作品が駄目な場合、その苦心は無駄骨折なんだ」
 ビスケは何の感情もこめずに平板に読んだ。
「でもそこでこいつは負けなかったんだ」
 りんごを上に放り投げては、キャッチして、
「久坂葉子は書いた。諦めながらも書いた。……かつて、書きかけの原稿をまるめてしまうという経験のない私であったのだ。それなのに書けない。なぜ苦しんでまで、原稿用紙に字をうずめねばならないのか、と頭の方で疑問をもちかけるのだ。それが五日つづいた……」
 私は、決心した。久坂葉子を葬ろう。
「それで、どうなった」
「書くことが本当にこの人の人生に関わってたかは、僕にはよくわかんないよ。でも、久坂葉子はこれを書いた十一月の一か月後、大晦日の日に地味に鉄道自殺で死んだ」
 ビスコは赤いりんごをもう一つ俺に投げて、残ったのをぎゅうと抱きしめながら、言った。
「意味わかんないっしょ?」
「ああ」
「芥川賞候補にまでなったんだよね。そのちょっとした、いや全然ちょっとしてない名声をぎゅーって抱っこしながら、ゆるゆる書けば良かったんじゃん。それができなかったんだよね。書けない、ということが生まれた。それでこの人は書かないまま死んだ。久坂葉子という名前とともに」
 ――三年半の久坂葉子の生命であった。久坂葉子の存在のおかげで得をしたのは、映画好きの私が、試写会の招待券なるものを頂戴したにすぎない。多くの知人を得たことは、得であったようで、あまり結果的にみてよかったことはない。
「別に、書くってことへの意識が低かった、とかそういう、わけじゃない。ただ、この人の人生の最後のほうは、ずっと書くってことにあった。それに絶望したり、希望したりした。……うん。意味はまったくないと思う、偉くもなんでもない。賞をとったって内輪のなかで偉いだけ。でも、この人は、それで苦しんだんだよ」
「だから、書くっての」
「うん」
「その人が苦しんでいた書くってこと、その苦しみを時代の一言で終わらせてしまうってんなら、なんでこの人たちが苦しんだのか、そこに何の意味があったのかって」
「うん」
「死ね」
「ん」
「理解できんよ」
「だよね。きっと、ただの言い訳」
 書くってのは意味がない。でも、意味がないからこそ、それに憑りつかれる。しかも、戯れには成り得ない。金があり、生活があって、とても、遊びという言葉では、内包できない。
「だからお前は作家になりたいんだ」
「かもしんない。お金とか、色々回ったら、書くってすごくしんどくなるでしょ」
「で、それでわめき倒すわけなんだ」
「迷惑だよね」
「迷惑二人が飲み喧嘩」
 俺は笑った。心底笑った。ばかみたいに笑った。地面が引っくり返っても富士山が大噴火しても群馬がアフリカの未開の地みたいになっててもきっとこんなには笑わなかったと思う。意味がわかんないし絶対に共感なんてしてやるかと思った。絶対に。絶対に。
「なんでわざわざお前が引き継がなきゃいけないの?」
「直感かな」
「ふざけんなよ」
「またっすか」
「いやふざけんなよ。それでお前の人生むちゃくちゃになるんだよ? 恋愛もしないわまともな人間の行為もしないわで結局ワナビーのまま人生終わるかもしんないじゃん。ワナビーでも働いてたらまだマシだけど生活力ないお前のことだからどうせ無職のぷーたろーのまま死んじゃうじゃん。直感とかもうやめろよ。自分に与えられた分だけやればいいんじゃん。それじゃだめなのかよ」
「わかるかよー」今度はメロンを投げられうおっと急いでキャッチすると今度はすいかでお前マジそれでも自分がやらかした怪我人への仕打ちかっていう、
「ユウキには、書くことは意味ないのかもしんない。この前のすみれさんだってそうだ。結局自然にばーって出てくるとか抜かしたところで要するに自分の楽しみのためにやってんだよね。だって言葉をじゃんじゃかじゃんじゃかやるのって音楽と一緒で快感があるもの。それはそれでいい。でも、それを遊戯よりさらに一歩進めるやつがいたっていいじゃん。こっちは、書くことには意味があるんだ。そんだけだよ。むちゃくちゃになってもどうでもいい。こっちの人生じゃん! そんなのいちいち気にされる筋合いとかねーじゃん」
 夏の空気の妙な重み、きっと煙より軽いのに、不思議なおもたさをもった何かが狭苦しい共同病室のカーテンのスペースのなかで充満して、俺は目を落としてスイカとリンゴとメロンのきらきらとした皮の反射を見ていた、
「心配だよ」
「うん」
「そんだけだよ」
「ごめん」
 そのごめんは、たぶんこの世のどんな言葉よりも冷たくて、俺はばかやろーと本来なら言うところなんだけど、どうにも出来ないような気もして、打ちのめされて、上げていた身体を起こして、そのままぼてっとシーツに埋もれて、そっぽ向いて、三つの果実をだきしめたまま、
「もー、もー知るか。おまえなんて絶対しるかー。おまえなんて何があろうと絶対もうしらんから、とっととどっか行って野垂れ死にしちゃえばいいんだよおまえなんか」
 こいつは頭がおかしいのに、その頭のおかしさを絶対に治すことなんてできないのだ。ただのヒロイズムっしょって言いたかったけどそんなのこいつはとっくに解ってた。ヒロイズムでもいいけど、それでもいいから過去の人々が受けてきた苦痛を忘れたくなんてないのだ。それを広める必要なんてない。ただ自分一人だけでも記憶していられればいい。
「でも忘れんなよ。おまえがそうやって一人で突っ走ってる間に確かにうざい思いするやつはいるって。まじやってられんなって気持ちになるやつはこの世の中にひとりはいるんだよ。おまえがどんだけ孤独とか孤高になってるつもりでも一人は絶対いるんだよ」
「うん」
「あと果物ありがと。ジャスコとかのフルーツバスケットとかでも正直叩かれ得だわ。ジャスコにフルーツバスケットあるんか知らんけど」
「うん」
「わかったらとっとと出てけ」
「うん」
「あと忘れてたけどなんか昨日あったの妙にきれるから」
「叔父さんがさ」
「うん」
「もう書くのやめるって。昨日ブログかなんかで書いてた。十分、上手くなったって。もう、書く必要はない、って。これからの時間をどうすればいいのか、それが今のところの悩みだって。書けないわけじゃなくて、今からでも何か言われたら書くけれど、書かない、って」
「そんだけ」
「そんだけだよ」
 そういって、ビスコは顔も見せないままカーテンの向こう側へと消えていった。俺は胸元にかかえた三つの球体をあらためてぎゅうと抱き直し、すると聞こえてくるのは、蝉、鳥、人のてんでばらばらな三つのリズム、一冊の本もなくただ果物しかない小さな共同病室の一角、俺は布団をぎゅうと、ぎゅうと思い切り強く自分に巻きつけて、おそろしい暑さのなかを、なんとか、なんとか、昼寝のなかに沈み込んでしまおうとかないっこない努力を続けるに続けていた。
メンテ
人生は樹木 ( No.8 )
日時: 2011/09/01 22:26
名前: Raise ID:/Y/iqa82

 その日の夕方、すみれさんも見舞いに来てくれた。面会時間ぎりぎりですみません、と頭を下げる姿はやっぱりかわいくて俺は世界グッジョブ感あった。ちょうど病院食のまずいごまだんごをつついている最中だった。すみれさん、やっぱりビスケを切れさせた一因が自分にあると思っているらしく、妙に高そうなフルーツバスケットをくれた。俺は後ろ手に何か持っていると解った瞬間から、そっとビスケのくれたやつをベッドの下に隠した。俺はビスケの話をした。ばかだよね、っていう。そうかもしれない、とすみれさんは言った。実際むっちゃむかついたよ、って言ってた。意味がわかんないしあの程度で、と(だから殴ったんだろうけど、そのことはまあ、触れずにおいた)。でも、こうも言った。
「わたし、何となく言いたいこと、わかるんです。書くっていうのはすらすらと、そこにあるものを見つけるだけの作業であるときもあるし、人生で一番つらい行為であるときもある。それでも書かなくてはならない瞬間みたいなのが、確かに存在するんじゃないかなあ……と思うんです」
「書きたくないのに書かなきゃならないってこと? 締切とか?」
「いえ、そういうのじゃなくて、もっと個人的な欲求なんじゃないかな……。たとえば、頭のなかで登場人物をおままごとみたいに動かしたことありませんか。はじめは小さかった動きがどんどん大きくなって、人間にも膨らみがでてきて、もはや頭のなかに置いておくにはあまりに大きくなってしまう。だから書かなきゃいけない、みたいな」
 俺はわからないこともない、と言った。そういうやり方を実践してみたことも、少なからずあったので。
「たぶん、それはビスケさんのとは違うと思うんですけど。あの人が言うのは、もっと宗教的なものな気がするんです」
「宗教? 書くことがイコール聖なる行為みたいな?」
「ううん……聖なる行為っていうよりは、あまりに日常に深く根ざしすぎてしまっていて、もはや書くという行為を前提にしか何もかもを考えられなくなっているんじゃないかって」
「何それ」笑った。「全然笑えない」あまりに笑えないから俺は笑っていた。「じゃあさ、もう書かない人生は考えられないってわけ」「もしかすると」「だとしたらキチガイじゃん。いや……」俺は愕然とした。
 キチガイであってほしかった。
 ちょっと自分語りしていい? もちろん。
「俺は、……ずっと書くなんてのはあくまで趣味の一領域でさ。スポーツみたいな感じで、どんどんどんどん上手くなっていくのを見るのが気分いいんだよね。人の小説見て俺よりうまかったり、俺には絶対思いつけなさそうなことがあったりするとびっくりして、いらいらして、絶対ものにしてやろうと思ったりすんの。ほら、よくあるっしょ、ジャンプ系の漫画みたいなノリでさ。そういうのやりたくなるんだよね。でもさ、スポーツだけが人生になるっていうのはごくわずかで、普通はもっと妥協点を探るじゃん。趣味ってそういうもんじゃん」俺はもう一度笑った。「なのになんで書くってのだけはさ、そういうことをあんまり許さんのかな。それでいろんな人の人生無茶苦茶に出来るわけじゃん。意味がないことじゃんさ! なのになんでかなあ……」
 俺はほんとうに不思議だった。悲しいとかじゃなくて、もう何がなんだかよくわかんなかった。久坂葉子のことを、そしてビスケの語り口を、思い出す。すみれさんは窓の縁に腰かけて、二階から足をぶらぶらと投げ出しながら、何かを考えているらしかった。しばらくしてから、
「意味がないから、きっとどんなものごとより意味がある、みたいなことって、ないですか。たとえば、子供のころ大切にしてた、本当にどうでもいいものとか、あるじゃないですか。ああいうのと、書くのって、似てる。意味がないから、子供はいくらでも好きな意味を書くことに付け加えられる。それは自分がはじめて手にした意味、自分のはじめての獲得物。その快感、いつまでたっても忘れられない。そういう側面あると思うんです、意味がないものっていうのは」
 意味がないからこそ、すべての意味を持ちうる。
「でも、ビスコは苦しんでるけどさ、あれは明らかに快感なんかじゃないよ」
「書くってことは、どうしても人間とか、世界とかを相手にするものですよね」縁からぽんと下りて、両手を前に組んだまま。「なんだか変なことばっかりいっちゃってるな。いいですか、続けて? ……ありがとね。うん、でも、人間とか世界とか、よくわかんないものだと思うんです。ずっと。だから楽しいし、だから苦しい。……しかも書くってことには、さっきも言ったとおり、意味がないからこそ色んな意味を付け加えられる。意味が増えれば増えるほど、書くということはどんどん重みを増していく。そしてそれが、人生を引っ張っていく。下に、下に、ずっと、下に」
 夕暮れのオレンジが病室のうえに幾多もの光の層を作っていて、俺はそのなかですみれちゃんの脚が作る影を見ていた。下に。下に。俺は笑った。やっぱり、笑えないということに。
「それ、すみれちゃんの体験談なの?」
「それはなかなか言えないです。事実だから言えないっていうんじゃなくて、自分がどの程度までそういう状態になっているのか、わからない。書くってそういうところないですか? 自分で考えてやっているつもりなのに、いつのまにか考えの外側から想像もしていなかったものが突然飛び出してきて、今まで積み立ててきたものをむちゃくちゃにする、それどころかむちゃくちゃに荒らしたものを、もっとすてきなかたちで組み立てなおしたりする。でも、それってすごくさみしかったりしますよね。今までの自分の考えは、何だったんだろう、って。結局、考えより言葉が勝っちゃうんだって。人間のできることってすごく限られてるなーって」
「言葉は人間とは別物だと思う?」
 すみれちゃんは頷いた。それから俺の体調の話とか、まあこうなっちゃったけどまたいつか飯でも行きますかーみたいな話をして、そのうちに面会時間が終わってすみれちゃんは帰っていった。ああ、やっぱり書く人間ってのはよくわからん、と俺は枕に頭を突っ伏しながら考えた。そのうちに、この大量のフルーツ、どうやって食ってくかなあという方向に考えはシフトしていった。
 所詮そんなもんっすよ。と俺は夜のなかで布団に縮こまって考える。俺の人生には書くなんてものはそんな大層な位置をしめてなくて、そんなことよりフルーツの食い方のほうがずっと問題なんだ。暗いなか手さぐりでりんごを一つ握って、だきしめたまま、目をつむる。ずっと眠れない。検査の結果は明日出るらしい。別に何てこともないだろうけど。
 ただつらいのは、自分の近くにいる人間が、自分には絶対に理解できない苦しみに喘ぎ続けているということだった。俺なら、叔父さんが書かないつーても「ふーん」で終わっちゃうからさ。誰か書くのをやめるっていう人がいても「いや書けよ」なんてことは言えない。無神経に思うから。だから。だからきっと、ビスケのことを理解はできない。
 それがいちばんつらい。
 なんで近くの人間のことさえ理解できないのか。すこしでも仲良くしたいと思っているやつのことをどうして理解できないのか。そいつと俺とでどうして価値が違ってくるのか。そして、理解できないからこそ、価値が違っているからこそきっと俺はあいつと仲良くしたいんだよなあって思った。昼にビスケに行ったことは本当の気持ちから発した。俺はあいつがどんなところにいようと必ずうざいことされたらうざがってやる。でもそれでも俺は絶対にビスコのことを理解はできない。
 じゃあどうしろっつーの? ていうか俺は何がしたいの? 問い返す。理解のできないものならしなくていい。それで終わる話じゃん、と。何でそれでだめなの。俺は深く息を吐いた。負けん気だよ、と俺は言った。そのまま理解できなかったら、なんかここでもうだめになっちゃう気がするから。一粒だってわかんないものでも、その一粒の百分の一だけでも理解できたらそれでいい。でもそれさえ出来ないならだめなんだ。じゃあどうしろっつーの? そうだ。そこで俺は途方にくれる。理解のし得ないものをどう理解したらいいのか。俺はふつうの人間だから、絶対にあいつの領域に飛び込んだりはしない。俺だって自分の人生が大切なんだ。書くのは病だ。頭おかしい。人生をぶっ壊さなきゃ理解できない。じゃあしなくていいだろ。そこまでしなくていいじゃん。ほどほどに書いてたらいいじゃん。もうどうでもいいんだよ、と思った、心の底から。
 でもわびしい。
 
 検査の結果に特に異常があるわけでもなく、俺はメディカルスタッフに「ばかっすねー」「二度とこないでねー」みたいな目で見送られながら、母と一緒に帰って行った。母はひとしきり俺を心配し、部屋の掃除を帰るなりいきなり始めた。あんたいつの間にこんな本読むようになったのよ。しかもどうでもよさそうなのばかり。そんなのしてる暇あるんだったらもっと勉強しなさい高い金払ってんだから。ごもっともでございますと頭を垂れながら、俺のなかでなにか、静かな感情が広がった。いつの間にこんな本を読むようになったのか。母は汚いキッチンを清掃した後、チャーハンに酢豚の昼飯を用意してくれた。久々のおふくろの味というやつで大味だけどやっぱおいしかった。故郷に帰るときは見送った。最後にすいませんでしたというともう二度とすんなって頭叩いて、それから笑って帰っていった。俺は夏の夕暮れのなか、乱暴なぐらいに速く走っていく新幹線をじっと見ていた。
 人間の行為って、響くんだ、と思った。
 かーちゃんが作った酢豚とチャーハンの味を、俺はこれから忘れるかもしれない。でもそれはきっと、いつかのときにぱっと思い出されるだろう。はじめは何なのかも解らない。思い出す努力をしていくうちにおれはきっとかーちゃんのことを思い出す。
 同じことはいくらでもある。
 俺はいつからあんなどうでもいい本ばっか読むようになったんだろう。もっといろんな友達がいるのに、なんでそいつらとの付き合いをだんだん減らしていったんだろう。
 すべて響いているのだ。人間の行為は。おれは色々と渦巻いていた気持ちが透明になっていくのを感じた。そうやって人生というものは波打ちながら進んでいく。人生同士が重なり合い、絡まり合い、一本の樹のようになって。
 人生は樹木。
 俺はホームからの長いエスカレーターを降りながら、あらゆることが少しだけ輝いて見えるのに気付いた。改札から出たあと、俺は電話をしようか、迷った。中身なんて知るわけもない、ビスケのその小説のその題名、たった五文字が、確実に俺のなかの何かに響いて、俺のこれからをきっと変えてしまったのだ。それは恐ろしかった。中身を読むこともこれからないのに、そのたった五文字が、変えてしまう。人生はそういうことだ。たった一つの石が、はじめは小さな波を、そして最後には巨大な波紋をつくって、それまで進んできた道をぐにゃりと曲げてしまう。
 地下鉄に。
 そういうこと全部をひっくるめて、そう、自分のちょっとした行為が誰かを変えてしまうことを意識しながら、それでもまあ、とりあえずは生きていくこと。そういうのが人生。樹木は否応がなく伸び、絡まり、歪み、しかもなお伸び続けていかねばならない。狂おしいぐらいに。
 理解するということ。それはいつだって難しい。生きていくのは結局ひとりだし。誰かの生を認めたり理解するなんてことは誰にだってできない。だから。だからこそ、その生を理解できないということが、こちらの生にどのように絡んでいるのか、それを見つめるということのほうが、ずっと大事なのかもしれない。
 地下鉄を出て。そのまま、階段を上がりながら。
 当たり前じゃないか。俺は笑った。そんなことは当たり前なんだ。一期一会っていうぐらい。そう。俺はいつも当たり前のことを遠回りして再確認することばっかだ。まあ、それもいいか。俺はふいに静かな気持ちになって、気づいた。もう電話は、二度としないだろう。
メンテ
これでおしまい、最後はハワード・ハンソンの交響曲第二番「ロマンティック」 ( No.9 )
日時: 2012/01/04 16:58
名前: Raise ID:3AEckN7Q

 俺とビスケは、やはり釣り合いのとれないペアだったと思う。だからこうして別れは簡単に訪れた。釣り合いのとれない、本当は一緒にいるはずのない人間同士がたがいにくっついたりするような世の中というのは、一体どういう考えで作られたのやら、俺にはとんと想像がつかない。すみれちゃんとは微妙に気が合ったけど、だから何があったわけでもない。ただ会ったら一礼して、天気が良いとか、金正日死んだよね、みたいな曖昧な国際状況の話をしていた。ビスケとは、不思議に会わなくなった。たまに会ったときでも、一礼程度で、何も起きなかった。世紀末パリの病んだ芸術家よろしく、アル中ヤク中といった青白い顔をしているわけでも、書いてるんだぞどうだ偉いかあという自己完結マックスの膨らんだ赤をしているわけでもなく、ビスケは、俺と別れたままのビスケだった。
「おーっす」
 たまに喫茶店ですみれちゃんと会ったりする。俺とすみれちゃんは文芸サークルに入った。まあ、波風がなければ、そんな高邁な理想も、悲愴な覚悟もないようなところだった。
「新歓誌の締切きつくない? 全然間に合わなくないですか」
「間に合わないような人間はこんなとこいません」
「ばれたか」
 でへへ、とすみれちゃんは舌を出して笑った。俺はカフェオレ、すみれちゃんはエスプレッソ。エスプレッソって小さいよね、本当だよこれ詐欺じゃん、と初めて飲んだらしいすみれちゃんの不満から会話は始まって、一段落したところで、雑誌がぽん、と置かれた。そこそこ有名な文芸誌。
「何これ」
「見てみなよ」
 開かれたのは新人賞ニ次選考通過者の告知だった。俺はため息をついて、ちょっと笑ってから、天上のぐるぐる回るファンを見ていた。あの夏から一年たった同じ喫茶店で、同じようにファンは回っている。すみれちゃんの指が置かれた名前を、俺は少しだけゆっくりと、読んだ。夏原ビスケ。その読み方が、いかにも悪趣味だったので、俺は笑った。樹の蓄音。意味わかんねーなあ。なんだよこのタイトル。蓄音機と引っ掛けたダジャレか。いまどき蓄音機なんて誰もしらねーよ。
「ユウキ君は、賞とか出すの」
 エスプレッソを一つすすって、苦味に顔をしかめて。
「ない」
「やればいいじゃん」
「まあね」
 やればよかったのだ。別に何にも目的がないでだらだらと書くより、こういうとこに書いたほうがモチベーションだって上がる。ひょっとしたらの就職活動だよ、と言っておけばまあ書く言い訳にもなる。それを何故、俺はしなかったのだろうか。あれほどに書くということにどうでもいいことをしょい込ませた人間の姿を、見てしまったからだろうか。
「悲しい?」
「なんで?」
「だよね」
 スミレちゃんは笑って、ばたん、とページを閉じた。置いていかれたような気分だった。まだあいつ書いてんだ、と俺はボサノヴァを聴きながら静かに思った。俺たちも確かに書いていた。だけど、何となくあいつは別の場所で書いているような気がした。だけど、俺たちは書いている。それでいいのだ。きっと、場所が違っていても、書くという意味に違いはない。いや――
「どうせあいつの小説、二次通っても三次通っても、つまんねーよ」
「悔しい?」
「なんで?」
「でも悔しいんでしょ?」
「だからなんで?」
 俺は笑ったまま、椅子に後ろ頭を投げかけた。さかさまになった視界のなかで、一年だけ年をとった夏の光が、柔らかくさざめいていた。気持ちがよかった。とても。それ以上の言葉は、何もいらなかった。

 「人生は樹木」「樹の蓄音」という二つの樹をめぐる小品を書いたあとの、夏原ビスコの歴史をたどることはたやすい。wikipediaに載ってるもんね。あのあと、あいつは「ムーン・バギー」で念願の賞をとった。受賞後第一作「春の炎」と合わせて本を出した。本屋で平積みしていたけど、俺は買わなかった。どうせつまんねえんだろうな、と思ったから。ビスケのその本は、まあ世間一般で言う純文学の本と同じ売れ方をした。要するに、ぱっとはしない。局所的に評判は良かったけれど、まだまだこれから、というところで、二作目「記憶のために」。最近出たばかりなので、売上はまだ、知らない。売れればいいな、と思っている。夏原ビスコという筆名をこんなウェブサイトの片隅に出したのも、だからまあ、ちょっとばかしの宣伝であり、昔かかわった人間なりのお節介である。
 それからの俺の話を、するべきなのかどうか。
 この話がもし一編の、本物の小説だとしたら、きっとするべきじゃないのだ。前に書いたところ、地下鉄での俺の妙な、だけど本物の感動で、俺の物語は全部終わってしまっている。だけどこの話は小説じゃない。あくまでそれは、適当に書かれた雑文に過ぎないのだ。記憶のために。だから、俺の曖昧な記憶のなかで、あいつのことをビスケと呼んでいたのか、それともビスコだったのかさえはっきりしない。どっちもだった気がする。あいつの筆名がビスコだったのは間違いないけど、俺はよくビスケで呼んでいた。本当ならこれは直すべきんだろうけど、まあいいや、という気もしている。そのほうが、なんとなくあの夏に似合っている。相変わらずあいつは書くことでしか世の中のことを考えられていないんだろう。それでいい。俺はそこまではいかない。いけない。俺は、書かなくなった。
 だからこそ、それからの俺の話を、するべきだと思っている。

 あのあと、俺は文芸サークルで適当な小説を書き、すみれちゃんに微妙に煽られたように公募には出さなかった。煽った当人であるすみれちゃんは公募に何回か出していたが、さっぱり当たらなかった。酔っぱらったついでに「何でこんなどうしようもない小説が受かるのーわたしのが落ちるのー」とビスケの受賞作をけちょんけちょんにしていたのはいい思い出だ。俺も読んだけど意味がわかんなかったので、同感。彼女には彼女なりの書くということの葛藤があったのだろうけれど、それもサークルのニ三年で静められていった。浄められたというべきなのかもしれない。すみれちゃんと(男女という意味で)色々もあって、喧嘩もあって、仲直りもあったが、最終的にはまあ大した関係にはならなかった。いわば青春の戯れという段階で終わったのでした。このことに関してはまた本人から話を聞いてください(機会があればだけど……)。テニスは続いた。勉強もした。し、友達も出来た。就職活動。楽しかった就職活動! (全員で)就職活動! というわけにはいかなかった。冗談に出来ないレベルできつかったけど、俺はなんとか、まあまあの会社に行けた。まあまあ、というべきか、まあ地方の、ね。すみれちゃんはクソ難しい試験を何とかパスし、二流とはいえ編集の職に就いた! 割と早々と小説というものに見切りをつけた俺とは違い、彼女はまだまだ小説への思いを断ち切れないらしい。「すんげー」お祝いの飲み会で俺がぼつりと言うと、「まだまだ小説のこと、嫌いじゃありませんから」カシスウーロンのグラスどでんとおいて(中身がそれじゃ迫力がないだろ、あとすみれちゃんは地味に酒が苦手)、「いい加減にしろばか」「は?」「なんであたしのほうが小説ずっと書いてんの。しかもどこにもまだ受かってないし」「いや、覚悟の違いでしょ、そんなん」「なにそれーしかも夏原くんの小説すげーつまんないしーもおやーだあ」つって、祝いの席なのに泣きだしやがって、周りのみんながぽかーんとしているさなか、ぼそっと、「いい加減にしろ男ども」。いや知らんがな。
 ともかく。
 この小説は、いや小説というべきかも解んないのだけれど、その会社での出会いで、終わる。

 上司の名字は夏原、といった。えー、偶然って気持ち悪い。と感嘆する前にその人について簡単に述べておくと、まあうだつの上がらなさは風体にもよく出ている。いつまでたっても埃のとれないスーツ、奥様のアイロンがあんまり入っていないのであろうネクタイ、100円均一のネクタイピン、常に及び腰のその態度……。「夏原課長っていい人だよね」「いい人ね」「本当にいい人よね」「いい人ね、心の底から本当いい人」みたいな、そんな人物であった。夏原課長は、小説が好きで、いまだに書いているんだけど、奥さんに快く思われていないらしくデータ消されたりもしょっちゅうらしい。だからUSBに入れてこそこそ持ち歩いてるんだ、という話を残業帰りに誘われた飲みで告白された。親戚が小説書いてて、その子は作家にまでなったんだけどね、と冴えない眼鏡をぐいっとあげ、ネギマの葱を歯で櫛から抜いた。俺のそのときの気分の悪さといったら、まじうげー、って感じですね。いいちこ飲んでなかったら俯いてふるふるしてたかも。勘弁せえよ、と思いながら、「もしかして、その親戚の人って、ビスケ、って言います?」あーそうなんだよ、なんで知ってるの? もしかしてユウキ君もそういうの詳しい人だったりするの? いやそうではなくてですね、いやまあ小説は嫌いじゃないんですけどね、と次々と芋づる式に俺が小説書いていたこととか、ビスケとかかわりがあったことがほじくられていった。いい人世界ランカー確実の課長は、焼き鳥屋の勘定を全部出してくれた。うう。本当いい人。
「あの子はとうに作家になれたのに、俺はまだまだなれそうにもないなー」
 芋焼酎で顔を真っ赤にした課長は、ふらふらだった。駅まで、俺たちは一緒。大丈夫っすか。いやいや大丈夫だよー。ただなんか今日無性に飲みたくてねー。ふげー。何やねんその意味のわからん吠え。
「ビスケくん、なんか俺の話してた?」
 そう聴かれたから、俺は蓄音樹の話をしてた、と言った。あと、ビスケの二作目、「樹の蓄音」について。星がきれいだった。地方都市の駅前には馬鹿みたいに車が走ってて、そのランプの白が、オレンジの街灯と混じり合って、俺はなんとなく気分が良かった。その話をすると、課長は赤ら顔のまま、ちょっと恥ずかしそうにうつむいて、また、ふげー、とうなった。だから何やねんそれ。
「まだ、小説書いてるんですか」
「書いてるよー。君は?」
 笑った。この人、書いてないんじゃなかったのか。ビスケに妙な不安と覚悟を与えさせた彼の言葉は、案外に軽かったのだ。それが俺には、奇妙な喜びを催させた。
「俺はもう、……終わりですねえ」
「そうかあ」
 課長は妙にすがすがしい顔で笑っていた。横断歩道の信号で、止まる。
「ユウキくんさ、俺がまだ書いてるのって、変だと思う?」
 星をちょっと、見て。課長はアルコールくせえ。スーツはよれよれで、また、ふげー、である。
「賞もとれない、奥さんにも嫌がられてるのに、書いてる、って変だと思う?」
「ちょっと、変だと思います」この空気ならいけるっしょ、と踏んで、俺は勇気を出して言った。「ていうか、かなり変だと思います。俺、なんでそんなに書きたいって思うやつらが、頭いっちゃってるぐらいに書くのか、全然わかんねっす。課長もそうだし、ビスケもそうだったし、あと……知り合いの女の子にも、一人、そんなのがいる。俺も書いてたからわかるんすけど、そんな、楽しくないっすよね、書くことって別に。なのに、……なのに、どうしようもなく、そこから逃れられないのは、なんでなんだろう、とは思います。本当に、ばかみたいに、そこからは、逃げられない」信号が、青になる。ひとびとは、まばらな星のともし火のしたで、ゆっくりと歩きだす。今日は三日月。「小説にかかずらった瞬間、人間はそれに絡みつかれて、そのまま小説になっちゃうみたいに、もう逃げられなくなってしまう。それは……」「とても怖い?」「ええ」「気持ち悪い?」「はい」「頭おかしい?」げへへ、と笑って。「キチガイじみてる」あっはっは、と課長は笑った。君も変なところで度胸があるんだね。頭おかしいよ。まあ、元々小説なんてやってた人間っすからね。駅の入口。路線が違う。それじゃあ、気をつけてね。どうもっす。背を向けて、歩く。階段を上がる。プラットホームへ。
 キチガイじみてるよな、小説書くやつらって。あんなにつまんないのに、あんなに取りつかれて。
 「あのさ!」
 急に呼びかけてきた声は、プラットホームの向こう側からだった。課長は、相変わらずふげー、と一うなりし、身体をふらふらさせながら、人の一杯いるホームからわざわざこちら目がけて叫んできたのだった。おいおい何してるんだよ中間管理職。
「その論理からいくと、君も小説から逃げられないんじゃないかい!」
 俺は笑った。
「そんな気はしてないですよ!」
「うそだ!」
「ウソじゃないですから! 恥ずかしいから駅でそんな話勘弁してください! ここ居酒屋じゃないんすよ!」
 一番線に電車参ります、というアナウンスはまさに天恵というやつで、俺はようやく周囲のくすくす笑いから解放された。絶対嘘だろ! またこの話は今度するからにゃ! 叫ぶ課長の声、姿ともに、ホームを割り込んできた電車で、もう解らなくなった。俺は極力向こう側の窓を見ないように電車に入った。あの人、やべーよなあ……さすがは親戚だ、と思った。電車はゆっくりと走り出す。誘惑に負けてつい後ろを見ると、課長は素晴らしい笑顔で俺に手をぶんぶん振っていた。その三番ホームにも、電車が入ってきたのに。一生中間管理職かもなあ、と俺はため息をついた。おごっといて悪いけど。
 電車は走り出した。ゆっくりと、そしてどんどんとスピードを上げて。街のあかりが、一斉に窓辺の暗闇から吹き出してくる。俺はしずかに、目をつむった。光は闇を裂いて、どんどんと輝きを増していく。スピードは加速し続けていく。車輪の音はやまない。次はー、かわちまつばらー、かわちまつばらー。俺は目をつむり続けた。何を考えていたのかはわからない。ただ、ただ、そのとき俺は、何かに祈り、何かに喜びともつかぬ凄まじい何かに震えあがっていた、俺の中の何かに。どうしようもなく、人は小説からは、逃れられない。俺は頭のなかで、その言葉を繰り返す。どうしようもなく、逃れられない。光がふいに止んで、橋を叩く音、目をひらくと、そこは暗闇の大河。強烈な感情が、胸を付いた。人はどうしようもなく、逃れられない。だからこそ、小説は、素晴らしい。だからこそ、人は、一度物語に魅せられた瞬間、どうしようもなく書き続けていってしまう。人生は樹木。その五文字が、何の脈絡もなく、あらゆる文脈を通り越して、俺の喉に注ぎ込まれた。俺は誰に聞こえるともなく、河辺を超えて、薄闇の住宅地と三日月に向けて、静かに呟いた。人生は、樹木、と。

 これでこの物語を締めるといっても、納得はしてもらえないかもしれない。俺の中で終わった、といっても、それでは納得してもらえないのかもしれない。俺では、もしかするとこの物語を、あの目には見えぬ華々しさに包まれた瞬間の連続のことを、終わらせることなんて出来ないのかもしれない。だからというわけではないけれど、最後に俺は、ある小説の会話を引いて終わらせたい。あの病室でビスコの話していた、女性作家久坂葉子の「華々しき瞬間」である。火星日のうまれであり、「戦闘的性質を有し、目的に対して積極的なれど、多難な運命」なる女南原洋子は、「紡績会社の広告部の嘱託」となり、民間放送に関連する仕事を周りも驚く精力で次々こなしていく。彼女は計算ずくめで冷徹な、佐一持ちの放送屋、仁科六郎と出会う。「今までとちがった感情」を覚えていた南原洋子は、二人きりの酒の席で、こう語る。
  「いえね、あなたの恋愛はどんなのかと想像したの、可能性の限界を究めた上での恋でしょう。一プラス一は二になるのでしょうね」
  「みぬきましたね。確かに一プラス一は二にしなきゃすまされない男です。すべてにおいて」
  「詩人じゃないわね。やっぱり放送屋ね」
  「あなたはどうです」
 続く彼女の言葉を、俺は――ただ火星日に生まれた女の性質から出たものだとは、今でもついぞ思えずにいる。この小説はいかにも若書きの不格好なところがあるけれど、俺はあれから何年経った今も、この部分を忘れられずにいる。
  「私。自分の行動に計算なんかしないわ。一プラス一がたとい三になっても二に足らなくてもいいわ。割切れないものは確かにあるのですから」
  「自分のことで割切れないものがあって、よく、生きてられますね」
  「あら、割切れなさがあるから生きているのですわ」
【了】
メンテ

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