このスレッドはロックされています。記事の閲覧のみとなります。
ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[7] 料理的解決
日時: 2010/01/08 14:27
名前: 匿名JR ID:mMwyxIkE

原題【クックドミナント】



 そこは土の匂いがした。かといって、大地に立っているわけではなかった。夕方の、狭い台所には、母娘が立っていた。
 土のついたにんじんを娘は手に取った。見たこともないようなものを見るような目で、にんじんを観察していた。
「これ、洗うよね?」
 娘は母を見て言った。母は手元のキャベツを見たまま、
「当たり前でしょ、間違っても洗剤なんて使うんじゃないわよ」
「それぐらいわかるよ」と、娘は苦笑いを浮かべながら答えたが、にんじんを掴んでいない左手は洗剤のほうへと伸びていた。
 流しの上の小窓からは真っ赤な夕日が差し込んでいた。まぶしいな、と娘は思っていた。

 にんじんのほか、キャベツ、たまねぎ等たくさんの野菜が綺麗に洗われ、鏡のように反射している銀色のボウルの中へと入れられた。
「お母さん」
 娘には名前がわからなかった青々とした大きな葉の野菜をボウルの一番上にちょこんと乗せて、母親のほうを見た。
「次、なにすればいい?」
「野菜を、切って」
 母は土鍋を一生懸命洗っていた。
「全部?」
 娘は自分が与えられた仕事に対する抵抗を示していた。
「全部に決まってるでしょ、そこの戸棚から大皿だして、切った野菜並べてって」
 母は土鍋だけを見ていた。大きな土鍋だった。これをガスコンロの上に乗せたら、バランスを崩してしまうんじゃないかと娘は思った。これの中に野菜が全部入ったのなら、きっと重くてもてないんじゃないか、と娘は思っていた。
 娘は面倒臭そうに流しの下の収納棚からまな板を取り出し、それから戸棚の大皿を一枚取った。
「お皿、何枚出した?」
 母は土鍋をひっくり返し、焦げ付いた裏側を水で丁寧に流しながら、娘に言った。。
「一枚」
「それで足りるわけないでしょ、野菜の量見なさいよ」
 母は野菜の方も、娘の方も見ずに、ただ手元だけに集中しながら、冷たく告げた。娘はそんな母を見ながら、うんざりしたような声でごめんなさいと呟いた。
 蛇口から流れる水の音で、娘の声はかき消されていた。そんなことは気にもせず、まな板を満遍なくぬらして、包丁を手に握った。
「ねえ、野菜はどれくらいの大きさに切ればいい?」
「適当でいいわよ、大きすぎない程度に」
 先ほど乗せたばかりの名前の分からなかった葉っぱをまな板に載せると、娘はおどおどとしたように真っ二つに切り始めた。大きさは、到底一口大とはいえない大きさだった。
 ざくり、ざくりという音と、野菜を切る娘の真剣な表情、キッチンの壁に敷かれたつやつやとした黒いタイルに反射された紅い光が、なんでもないようなその空間を、ほんの少しだけ不思議な空間へと変化させていた。
 ざくざく。ざくざく。ゆっくりと着実に刻まれるそのリズムは、どことなくぎこちなく聞こえた。しかし、娘は真剣だった。最初にとった葉っぱの束はもうなくなりそうになっていた。娘は、野菜を切るという作業が面倒だと思いながらも、真剣だった。真剣さが娘を突き動かしていた。
 そうして、二つ目の葉の束を切り終えた頃、娘もコツを掴んだようだった。ざっ、ざっ、ざっ、という小気味良いリズムが、狭いキッチンの中でこだましていた。しかしもう葉の束は残っておらず、次にボウルから顔を覗かせているのは、娘が最初に洗った大きなにんじんだった。
 にんじんをまな板において、包丁を握る手に力を入れて、娘は一度止まった。そして、「んー」とうなり声を上げてから、母のほうを見た。
「にんじんも同じ感じで切っていいの?」
 母は、娘の隣で白身魚の入ったパックとお徳用と書かれた大きな鶏肉のパックを出していた。
「うん」
「皮は?」
「ちゃんと剥きなさいよ」
「どうやって?」
「そこの引き出しにピーラーがあるわよ」
「剥いたら?」
「後ろの炊飯器が置いてある棚の引き出しに生ゴミ用のゴミ袋があるからそれに入れて」
「はいはい」
 母は、一度も娘のほうを振り向くことはなかった。娘はそのことが少し気になりもしたが、まだたくさん残されている野菜の山を片付けなければならないので、にんじんの皮を剥く準備をし始めた。
 もう、真っ赤だった空は少し暗みを増していた。それでも、そんなことには負けまいとタイルは光を反射させて二人を照らす。食器棚には、夕日に照らされてできた二人のでこぼこなシルエットが映っていた。
 ピーラーを手に取り、娘はにんじんと格闘を始める。しかし、皮は全く剥ける様子もなく、にんじんにぎざぎざとした傷跡を残すだけだった。どうやら娘はピーラーの使い方を理解していないようだ。
「ピーラー、使いにくいね」
 と、娘はため息混じりに母親に話しかける。
「ちゃんとピーラー寝かせてる? ゴシゴシ削ろうとしてるんじゃないでしょうね?」
 母はさっき取り出した白身魚と鶏肉を大皿に盛り付け始めていた。比べ物にならないようなスピードで仕事をこなしているので、娘はなんだか疎外感を感じた。
「あ、剥けた」
 母の言いつけどおりにピーラーを使うと、皮が驚くほど簡単に剥けたので、娘は楽しそうな声を上げた。
「これ、楽しいかも」
 しゅっ、しゅっとにんじんの皮がむけていく音が響いていた。皮の剥けたにんじんはつやつや光っていて、眩しすぎるな、と娘は思った。
「ゴミ袋だしたの?」
 母は娘に釘を刺した。冷ややかな口調だった。
「まだ、今出す」
 振り返って戸棚の引き出しをあけると、ゴミ袋より先に娘の目に飛び込んできたものがあった。娘は、甘いものを見つけた蟻のようにそれに手を伸ばした。
「お母さん」
「何よ」
「型使っていい? さくらの型」
 娘は笑いながら母の方を振り向き、両手でアルミの型抜きを前に出した。
「……いいわよ」
 母は振り向かず、ただ了承しただけだった。

 それから、娘は力いっぱい型を抜いていた。ゆっくりだけど、これもまた真剣に抜いていった。時間はかかっていたが、とても丁寧だった。
「誰も帰ってこないね」
「すぐに帰ってくるわよ」
 母は隣で野菜を切っていた。外は既に真っ暗で、キッチンの中は煌々としたスポットライトで照らされていた。
「ねえ母さん」
「なに」
「なんで私たち、料理してるんだろうね」
「さあ、なんででしょう」
 ざくざく、という母の包丁が鳴らす音は止まった。キャベツを切り終えたからだ。母の包丁さばきは見事だ、と娘は思った。娘はまだ、にんじんの型抜きを終えていなかった。
「あいつ、早く帰ってくるっていったのに」
「今日は部活だって言ってたわよ。いいから急ぎなさい。帰ってきちゃう、みんな」
 母は流しに出していた大きい土鍋をコンロに載せて、水を半分だけ入れて火をつけた。
「手が痛くなっちゃった」
「あと少しだからがんばりなさい、あんたがやるって言ったんだからね」
「はいはい」
「どれ、見せてごらん」
 と母は娘の手首を握り締めて、パーの形を作らせた。娘の手のひらにはさくらの形のあとが残っていた。
「このくらいなら大丈夫よ、あんた弱いのね」
 母はそういって笑った。
「なんで笑うの」
 娘は膨れ顔で言う。膨れてはいたが、怒ってはいなかった。
「やっぱりそうなったか、とおもって」
「知ってたの? ひどい」

「ねえ母さん」
「なに」
 鍋のお湯はぐつぐつと煮えていた。
「私、料理してた理由ちょっと忘れそうになったよ」
「そう。みそとって」
「あ、はい」
「そんな理由、思い出さなくてもいいのよ」
「え?」
「あ、しょうゆとって」
「あ、はい」
「うん、これでよし」
 と色が変わった鍋の中にお玉をいれて、それを口につけた母が満足そうに言った。
「そんなことは、終わってから考えなさい」
「え?」
「にんじん終わったら流し片付けといて」
 母は娘の問いに答えぬまま、土鍋を持ってリビングへと移動した。娘は独りになったキッチンの中で、母の言葉の意味だけを考えていた。母と同じ苗字で過ごす最後の日に、ふさわしくないな、と思った。







++++++++++++++++


落ちたので晒しにやってきました。
メンテ

Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成