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[5] トラ・トラ・トラ
   
日時: 2009/12/29 22:12
名前: Omnibus ID:DiEekDeU

トラ・トラ・トラ。テーマは「奇襲」です。
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「不条理からの脱出」 ( No.1 )
   
日時: 2009/12/30 04:35
名前: にーさん ID:9Vy78Zaw

 だから、本当に出ないといけないんだ。
 夢の中でまで慣習だとか、常識だとか、そんなものに縛り付けられている僕は、実際のところ、夢と現実との区別がついていない。僕の夢は大体、目覚めから始まる。これがいけないんだ。昔はそんなことはなかったのだけど、ここ数年ずっとそう。夢というのは、本来いきなりわけのわからない状況に放り出されて、そこであれこれやった後、目覚めによって強引にフェイドアウトするもので、だから夢を見ている間は夢だとわからなくても、目覚めれば必ずわかるようになっている。ところがここ数年の僕は、そうじゃないわけだ。一体誰が、目覚めから始まる夢と現実との区別をつけることができるだろう。そんなわけで、僕には夢と現実の区別がついていない。
 といっても、全くわからないというわけでもない。殆どわからないのは事実だけど、ただ唯一、僕が夢の中で命を落とすその時に、ああこれは夢だなとわかる。これは考えてみれば恐ろしいことだ。それが夢じゃなかったら、僕はおしまい、ってことなんだから。でも、今のところはなんとか死なずにすんでいる。それだけは、こんな不条理に包まれた僕にとって、数少ない幸福なことと言ってよかった。
 しかし、だからといって夢と現実の区別がつかないということが、悪くないと言えるわけじゃない。いや、それどころかこれは、あまりにも多くの不都合を生む、その原因ですらあった。それがどういうことかというと、つまり――僕はいつだって食い違う、こういうことだ。例えば、ある時女性と出会う。そして僕はその女性をしつこく口説いて、とうとうベッドまで引っ張り込む。ところが目が覚めると隣に彼女はいない。「おい、アマンダ、どこに行ったんだ」そう叫んでみると、隣の部屋から全然違う女性が出てきて、「アマンダって誰よ」と僕に問いかける。そいつは記憶によるとアメリアなんだな。そして昨日一緒に寝た。あれ? 昨日一緒に寝たのはアマンダじゃなかったのか。でも、確かにアメリアとも一緒に寝た。僕の中では、昨日の記憶が夢と混同しているんだ。だから、相手にとっては完全に食い違ってしまう。その食い違いがどれだけ不都合を生んできたことか、少し想像してみればすぐにわかってくれるだろうと思う。色恋沙汰なんてかわいいもんだ。仕事が評価されて昇給になったから、スキップしながら銀行に向かった給料日、まるで数字が増えていないのを目の当たりにした時とか、一目惚れして買った最高のジャケットが、クローゼットに見当たらず、ちくしょうと思ってまた店に行っても、そもそも売ってなかったことを知った時とか、そんな時には僕はもう自分の手首を剃刀で掻っ切ってしまいたくなる。そうでなきゃ、飛び降りだ。首吊りだ。なぜって、説明は不要じゃないか。それでもう片方の、素晴らしい現実に帰れるとすれば、そうした方がいい。でも大抵そういうときは、悪い方を現実だと思い込んでしまうから、やっぱり勇気が出ない。そして僕はまた、混濁した世界の中で食い違いながら生きることを強いられるのだ。
 だから、本当に出ないといけないんだ。
 全く、何度この言葉を繰り返してきたことだろうか。
 僕はピストルを頭に当てて月を見ていた。このまま引き金を引いて、頭を打ち抜いてやれば、とりあえず事態は変化するに違いなかった。これが夢だったとすれば、僕は次に現実に、唐突に放り出されることになる。そしてもしこれが現実だったとすれば、何もかもが消えうせる。つまりあばよってことだ。それも別に悪いことではなかった。厭世というわけではない。この世には楽しいことが沢山ある、それは間違いなかったし、その楽しいことに疲れきってしまうほどに、追い詰められていたわけでもない。ただ、人生はやはり不条理だ。その不条理に気づいてしまうと、楽しいことだって苦しいことだって、自分を人生に括りつけておくための、格好な餌だという感じがしてならなくなるものだ。あくまでも本質は不条理にあるのだから、そんな枝葉に一喜一憂するということは、永遠に人生に負け続けることを、甘んじて受け入れているようなもので、僕はそんなものには打ち勝たなければならないと、以前から思っていた。そしてその方法は、人生に対する奇襲以外にはなかったことも、知っていた。つまり、自殺だ。人生の、どうしようもない不条理に対する、最高に不条理で唐突な幕引き。それは悪くないどころか、愉快なことですらあった。特に、僕のように普通の人間では想像も付かないような、ひどい不条理にさいなまれている人間にとっては。
 しかし、いざ引き金を引くというところで、なぜかいつも躊躇してしまうのだ。死の恐怖とでもいえば、聞こえも悪くは無いし、誰にでも理解してもらえるだろうが、そんなものではなかった。というのも、死の恐怖であればそれは、未知のものに対する恐怖であって、そんなものはその人間の想像力によって大きくも小さくもなるものだが、僕の場合はよくわからないが、その恐怖を知っている、そんな感じがあったのだ。引き金を引く瞬間、記憶が画像も音声も伴わずに、恐怖だけを頭の中で再生して、僕の指を止めてしまう、と説明するとよりわかり易いだろうか。とにかく僕は、その恐怖に萎縮してしまって、いつも引き金を引けない。今日も――引き金に力を入れるまではできたが、やっぱりダメだった。ことり、と銃が手から落ちた。
 だから、本当に出ないといけないんだ。
 窓の外では月を覆っていた雲が流れ、満月が青白い輝きをぼんやりとまとっていた。ダメだった――何がダメなんだこの! 僕は銃を再び拾い上げた。満月が撃てと叫んでいた。僕は全身の力を振り絞って、拳銃の引き金を引いた。人生に奇襲をしかけてやるんだ。今、やらないでどうするんだ。銃声が響いて、僕は頭の右からがんと殴られたような激しい衝撃と、それから鋭くえぐるような痛みを一瞬で感じて、それから左に吹き飛ばされるようにして、地面に倒れた。そして意識はばたんとシャットアウト。何も見えなくなった。

 ああ、そうだった。
 人生の不条理に奇襲をしかけるなんて、ばかげたことはやっぱりやめるべきだったんだ。
 目を開けた僕の隣でアメリアが死んでいた。銃で頭を打ち抜かれていた。彼女の頭を打ち抜いた拳銃は、僕の右手に握られていた。きっとこの右手は、まだまだ人を殺すぞ、と僕は思った。なぜなら僕は、不条理の次のステップに、上がってしまったんだから。
 また記憶が混濁して、曖昧になっていくのだろうか。僕はもう朦朧としはじめた頭でそう考えた。そしてあの夢の不条理が最初の自殺を境に起こったことも、思い出したばかりだというのに、もう記憶からこぼれ落ちてしまいそうになっていた。

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「五月という魔術」 ( No.2 )
   
日時: 2009/12/31 22:59
名前: ずんずん ID:7S2FRrTI

「五月という言葉は、それだけで詩になるからいいね」
 この男は一体また何を言い出すのかと呆れてテーブルを拭いていると、本を突き出して、「ほら、読んでみろ」である。
《いつの間にか、六月もおわりに近く、昼間の雨も上がって、その晩はたしかに夏が突然やってきたように蒸し暑かった。私たちは、市場通りの小屋の縁台で、氷とラムネを飲んだあと、勝鬨橋まで出て、しばらく欄干にもたれて隅田川の川風に吹かれていた。上流は両岸とも倉庫が並んで真っ暗だが、下流は海につながって広びろとひらけ、海軍経理学校のカッターを漕ぐ水兵たちの服が、夜気をとおして仄白く浮き上がって見える。――一体彼等は何処まで舟を漕いで行くつもりだろう?》
 六月じゃないか、と言う気力もなく、私は無視して整理を続けた。
 彼と生活して一週間になるが、とにかくこの男――町田は何事にも非協力的だった。彼とは近場の大学の無縁の学部という接点らしい接点も無い私がどうしてこの男と顔を付合わして住んでいるか、それにはまったく馬鹿げた話しかない。私が大学帰りに疲れて戻ってくると、見知らぬ男が玄関前に倒れている。男は私を認めると、「おお」と一声あげるなり、「今日から住ませて」と言った。私はまったく呆れて、こいつは頭のネジを修理工場に出さなきゃならん類の人間だと考えたし、それを実際に口に出した。「おいおい冷たいねえ兄さん」と返答がこれである。「兄と呼ばれる筋合いはない」「あるよ」と男が出したのは家系図。「俺、お前の弟だから」
「兄さん、掃除は後にしてくれないか。今俺は本を読んでいるんだ」掃除機をかけただけでこれだ。年の瀬だというのに、町田は一切掃除を手伝おうともせず、「年越し蕎麦にはいくらが欲しいな」という始末。これが五月だったら私も自分の短期を改めたところだろうが、生憎時候は一月手前、後にしてくれないかと言われても困る。本片手に寝転がって、「なあ、六月だって悪くないものじゃないか」「だが今は十二月で、こっちは掃除で忙しい」「掃除なんて来年すりゃあいいだろう」「お前のゴミでこっちは手をわずらわされてるんだよ」
 兄と名乗る男の家系図には、確かに私の名が載っていた。だが家系図なんぞ道端で出されて信用する人間がいるものか。構わず部屋に入ろうとすると「兄さん助けてくれ、俺は勘当されたんだよ」と泣きわめく。何もこの年の瀬に路上でわめかなくとも……と仕方なく入れる。すると彼は身の上話を語り出す。
 何年もの間親に反対されながら文学者を志してやってきたが、とうとう勘当を食らってしまった。今日から住むところもないし、貯金など言わずもがな。それで頼れるところを頼ろうと引き出しの家系図を探ってみると、意外や意外、生き別れの兄が自分の大学のそれも同じ学部に居るではないか……。
「帰れ」「ちょソーリーマイブラザー」「帰れ」「にいさああああん」「帰れ」
 にもかかわらず帰し切れなかった私も私でどうかしていた。その後の町田の傍若無人振りと来たら! ゴミは捨てない、夜中に鯨飲しては歌い出す、ポエジーが煌めいたのだの何だの言って人に無理やり話を聞かす……おまけに文筆の方はといえば三文どころか三銭以下の屑以外の何物でもなかった。
 そんな私が何故彼を追い出さないかは、自分でもわからないから不思議なものである。
「兄さん冷たいねえ……そんなんじゃ感受性も鈍っちまうよ」「いるかぼけ」
「詩的精神は人間の持ちうる心的機能で最も優れたものだよ」「知るかぼけ」
「兄さん……」「掃除手伝え」「ごめん兄さん、俺掃除出来ない」「邪魔すんな」
 本当不可解である。

 お前のお父さんはねえ、すごくお金持ちで、誠実そうな見かけをしていたものだから、お母さんもすっかり騙されちゃってねえ……あんたが出来ちゃったからとりあえず食っていけるお金だけは毎月貰ってるし、そういうところは誠実じゃないとは言えないんだけど、そういう男にはなっちゃ駄目よ……。
 みたいな少女漫画丸出しの世界観が生きている国がこの二一世紀に現存するのかとお疑いになられる気持ちは解る。だが恐ろしいことに我が家がそうだった(返す返す本当に恐ろしい)。母は遊びで付合った父に本気になったが、父は子供が出来たと知るやいなやあっさり母を捨てた。だが資金援助は十二分にしてもらったおかげで、私としても何ら不足はなかったし、母の戯事に同情心を抱くことはなかった。むしろそういう具合に父を悪く言う母に一種の敵愾心、ないしは疎ましさのようなものを感じていた……と言えばあんまりにもひどいだろうか。
 だがそう言いたくなる気持ちもその晩のことを聞けばお解りになられるかと思う。家系図を突き出されたものの信頼性は薄いし、追い出しにかかると「兄さんそれだけは勘弁して凍死しちゃうから」などとのたまう男を通報してやろうかと思った矢先の電話一本。「雄介起きてるうー」「母上五十にもなってその軽い口ぶりはいかがなものかと存じますが」「相変わらずお堅いよねえ。ねえそっちにあの人の子供来てないー?」「弟などと抜かすアンポンタンなら一名おられますが(「誰がアンポンタンだ」)」「その人ねえ、あんたの弟だから、今日からお世話見るように」沈黙。「何故そのようなことをおっしゃる母上」「いや、あの人からお電話あったのよう。ついでに今の奥さんの愚痴があるから聞いてくれって頼まれちゃったのー今一緒に飲んでるとこお」開いた口塞がらない、塞がらなさすぎなのでお願いだから塞いでください状態。「そんなわけだからよろしくう」「……了解しました」電話切り。奴は笑った。「認知してくれる?」私の中で何かが切れた。とりあえず電気スタンドで一発殴ろうかと思うと「すげえ兄のマジ切れだ! すげえ!」と大はしゃぎするのでこいつは脳内麻薬ナチュラルで出てやがんなと思うと急に力が抜けて「ごめん今からニトリでもう一個布団買ってくるからそれでいい?」ってなった(弟は大喜びだった。私はいやいやながらそいつを認知することにした)。

「お前は詩人にでもなるつもりか」ハタキをかけながら訊ねる。「まあね」「そんな霞を食うような仕事をして楽しいか」「ええ何、お説教してくれるのかい」素直にそうだとは言いたくなかったし、説教というにはあまりにもつまらない感情の発露であった。「いちゃもんだよ」「へへえなるほど」町田もその方が良かったらしかった。「文学部だからといってそんな仕事についたってな、なかなかいい飯は食えんよ」「良いじゃないかそれで」「お前何の苦労もせずに生きてきたんだろ」「まあな」「こっちもそうだけどな」「へえ、意外だ」「シングルマザーだからって苦労はしなかったよ。いい世の中だ。おまえのお父さん、きっちり世話見てくれたしなあ」いい父親だろ、と町田は言う。それはその通りだと思った。父の記憶など絶無に等しいが、どこか温かみのある遠さ、というものが産まれたときから感じられた。温かい距離が、どこかに向かって伸びている、そんな感触がしていた。「父親のことを善人呼ばわりする息子なんてな、心理学的に見たら異常なんだよ」町田はからかうように言った。「この世はエディプス・コンプレックスで回転してんだからな」「どうだかな……こっちはむしろ母親の方が嫌だったね。終始鼻を突き合わさなきゃならない」「複雑だねえ」「どこがだよ。単線だよ……」かけてもかけてもホコリが出てくる。前々から掃除しておけばよかったのに、と声。まあなと言うのも尺なので、黙る。それでもホコリは年の瀬だというのに寸断なく出出続ける。
 ホコリを見ると思い出す。母は掃除の嫌いな女であった。母の母は掃除の嫌いな女が嫌いだったので、私のことを何かと気にかけて世話を見てくれた。だがそんな祖母の努力は実のところ私に何の感慨ももたらさなかった。祖母が何をしてくれようが実際に一番大切なのは母だったし、何だかんだで母も私の世話は十二分に見てくれていた。年を経るにつれ自分がこんなに幸福でいいのだろうかと思うことさえあった。世の中ではシングルマザーの息子と言えば不幸の極致のように取り扱われるというのに(実際人前でこのことを言うと、えらく同情されて不愉快だった)、自分はまったく世のシングルマザー像からかけ離れてぬくぬくと暮らしている。何だかそれが申し訳ない気がする程であったし、どこかで何かが噛み合わない気さえしていた。
「なあお前」呼びかける。「今のお父さんと一緒に居て苦労したことは」「一杯あるね。正直お前より苦労してるよ」本を繰るその姿に、解ってるじゃないか、と呟く。ああ、認めたくないけれど、そういうところは時間の隔たりを関せずして解ってしまう。どうして兄弟なんだろうか、と思う程に。普通の友人であれれば。気張り過ぎ、なのだろうか。口には出さない。「父さんは色々と継がせたがってね。でも最後には諦めてくれて、俺が詩人や文学者になるのを許してくれたよ。だめだったのは母さんの方だ。母さんは父さんが強がってると思ったんだな、俺を何とかして一人前にしようとしたが」手を上げて、「無駄だった」落とす。私は笑う。「笑うのか? ひどいな」そういう町田の顔も笑っていた。「兄さんはどうなんだい」「苦労はしなかったよ。お前のお父さんに金はきっちり貰っていたから」「いい父さんだろ」「ああ……」本を繰るその手が止まる。本が置かれる。
「五月という言葉は、それだけで詩になるからいいね」
「急にどうした、五月にそう執心するなんて」「いい言葉だ。五月……五月だな」「何月生まれだ」「残念十二月だ。ここに転がり込む数日前」「惜しいな」「祝ってくれんの」無視。溜息をつかれた。「五月、五月ねえ……何があったっけなあ」町田がひとりごちる間に、私はテレビの裏側に布巾をかける。埃だらけだ。「ああ思い出した。兄さんに会いに行こうとしたんだよね」「へえ?」
「何でだっけなあ、塾の成績が悪かったんだっけなあ、それで父さんに怒られてね……みんなして俺に勉強しろって言うものだから、この世には誰も俺のことなんて解ってくれる奴はいないんだ! ってなってね。笑うなよ、まだ小さいときの話だからさ……急にそのとき閃いたんだな、名前だけ知っている兄なら自分のこの気持ちも解ってくれるんじゃないかって」「泣ける話だ」「だろう? でも恐れはあったんだ。自分の父親のせいで迷惑がかかっているであろう兄のところにむざむざ出ていって、果たして余計ひどい目に会うんじゃないかってね」「実際はずいぶん楽させてもらったんだけどな」「そんなの子供が知るわけないだろ! それで随分悩んだんだけど、結局出ていった。夜の七時だ」「危ないな」「危ない。今なら人さらいに連れられてるところだ。でも住所は解っていたから、電車賃を貯金箱からとり出して、電車に乗った」「ちょっとした小旅行だ」「その通り。怖がりながら、でも内心うきうきしていたんだな。それがまずかった。俺は電車の線を間違えて、しかもそれに気付いた頃にはもう八時だ。すし詰めの電車。大急ぎで俺は駅に降りたんだが、周りからは変な目で見られるし、いよいよ人さらいにさらわれちゃうんじゃないかって思ったね……で、そのときだ」「ふふん、そのときがどうしたって言うんだ」「お前に会ったんだよ」「はあ?」「文字通り。お前に会ったんだよ」会った記憶などない。「町田! と呼ぶ声あり、だよ。お前にそっくりの子だった」「幻聴だろう」「たぶんな。でも俺はそれが見知らぬ兄の声だと思った。それで俺はすっかり満足して、帰って、で」「怒られた」「その通り、だ」
 ふう、と雑巾の手を止める。「変な話だな」「まったくだ。言っておいて何だが、俺もずいぶん変な話だと思うよ」「お前のネジがゆるんでるってことで片がつきそうだがな」「はは……」「ミカン食う? 母さん贈ってくれたんだけど」「おお食う食う」テーブルにミカンを出しながら、ふと五月について、考える。
 
 五月は母の誕生月で、といっても自分には大迷惑だった。いい年こいて誕生日に大いに盛り上がる母は騒がしい友人を山ほど呼んできて夜な夜ならんちき騒ぎ。警察が来たことも一度や二度ではなかったものだから、いよいよ五月という月は憎むべき月で、とても詩魂のあふれるような時節ではなかった。ある年の五月、母はいつものように友人と大騒ぎをしていて、私はいよいよ何かに堪えられなくなった。女達の饐えたにおい、その存在の饐えたにおいのような何かに、私は家を飛び出したのだった。そのとき私が考えたのは、見知らぬ弟についてだった。別れた女に金を払い続ける豪気な父のもとなら、弟もずいぶん幸せに育っていることだろう……呆れたことだが、その頃の私は未知の弟に一種の嫉妬を抱いてたのだった。黄金色の月のした、私は路線沿いを行くあてもなく歩いた。どうせ遅く帰ったところで怒られもしないことは解っていたので、行けるところまで行こうと思った。歩きながら、私のからだの中でおとうとという存在が質量を膨張させていくのが解った。おとうと、おとうと、おとうと! 私は何だかやり場のない怒りに駆られて走り出した。路線の金網は夏の始まりの夜風にちりちりと音を立て、時折響く電車の轟音が耳を引っかいては消えていく。走る、走る、走る……気がついたときにはすっかり解らないどこかに居た。だが自分にはそのどこかが好ましいことこの上なかった。夜気が立ちこめる、見知らぬ家々の塊。そこに住む人間の顔一つ知らないということが、至上の愉悦を伴ってさえいた。私は空地の青草に一人ぽつねんと座り、そして一つの祈りを発した。おとうと、と。そのとき、だ。兄さん! という声が、五月の夜空を翔けて降りてきた、そんな気がした。いや気ではなく、実際に聞こえたのだ。私は振り向いたが、それはおそらく家々のどこかの声に過ぎなかったのだ。続けざまに呼ばれることを期待したものの、五月の星はそんな見知らぬ声を届かせることなどなく、私の疲れ切った身体に光を降らせるのみだった。
 それから、の話はない。それから私は一つの諦めを持った。おとうと、という存在はそのまま私の諦念に結びついたのだった。私は母に一種の同情と妥協の精神を持ち合わせることに決め、弟については知らない人間なのだから考えないことにした。それで正解だった、と思っている。

「五月にミカンは食えないな」何ともなしに言うと、町田は変な顔をした。「当たり前だろ」テーブルの上のみかんの皮はすっかり領地を広げて、町田のテリトリーを占有し尽くしてしまっている。この男はミカンが好きすぎる。ふと思い立って、
「五月という言葉は、それだけで魔術になるからいい」
「どうしたんだ急に」「解らん」「さすが俺の兄だ。一本ずれてる」「だろう」
 考える。もしこの話に魔術というものがあるなら、それは間違いなく五月ではなかっただろうか、と。おそらく二人の幻聴が重なったのも、五月という夏の始まりにこそ理由があったのではないか……と。でなければ面白みが無い。折角弟と名乗る男と出会ったのだから、たまにはそういう考え方をしても罰は当たらないだろう、と道理付けることにした。
「知ってるか町田」「何をだ」「五月は母さんの誕生日だ」「へえ。今度祝いにいってやろうかな」「それがいい。自分も行こうと思う」「会ったことないんだよね、お前のお母さん」「まあ、適当に想像すればいい。ところでお前はどっちの方に似てるの」「父方」「解るね」「解んのかよ」「ああ」何となくだけれど。それでいい気がした。何となくの兄弟という距離感が、おそらく一番いいのだ。
「寒いのはやだね」町田がひとりごちる。再び本を手に取る。「ストーブ付けてるじゃないか」「冬の空は暗いから嫌だ。夏がいいんだ」「五月を待とう」弟は笑った。どうしてそう五月に御執心なんだ兄さん。解らん。おそらく、五月という言葉は、それだけで詩になるから、だろう。うわ盗用だ。訴えてやる……。
《海軍経理学校のカッターを漕ぐ水兵たちの服が、夜気をとおして仄白く浮き上がって見える。――一体彼等は何処まで舟を漕いで行くつもりだろう?》
 私はこの文章を思い返して、そこに六月のかおりが立ちこめるのを感じる。六月の終わり、それはもう夏も間近だ。春が終われば五月……今年は母に里帰りの電話を入れてやるのも悪くないと思った。それと、この見知らぬ弟とやらと、ふらりふらりと舟を漕ぐのも、そう悪いことではないのかと思い直す、年の瀬のミカンと掃除。

※本文中の引用は、安岡章太郎「私説聊斎志異」に拠ります。
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