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[18] 世界を『真』と、仮定する
   
日時: 2011/07/28 11:08
名前: でりでり ID:qQ3KwPPE

綺麗なはずのこの世界が、数式や原子によって、味気なく分解されてしまう。そんなことが許せなくて、彼女はこの世界を否定しようとする。
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Re: 世界を『真』と、仮定する ( No.1 )
   
日時: 2011/07/28 11:09
名前: でりでり ID:qQ3KwPPE

 読書をしているとき、文字と文字はそれぞれ独立しているのに、何故かそこに流れが存在しているように感じる。言葉には切れ目があるというのに。
 結論から言えばそれは残像作用と呼ばれている。人間は対象が消えた後も、それを見ているように錯覚してしまう。映画のフィルムや、アニメーションのようなものが、文字の上にも存在するのだ。
 だというなら。手を挙げる。
 この行動に連続性はあるのだろうか。手が三十度まで挙がっていることと、手が四十五度まで挙がっていることと、手が真っ直ぐ挙がっていることと。
 連続しているように見えて独立しているのではないだろうか。
 お腹が減ったからご飯を食べる。いやいや、お腹が減るということとご飯を食べるということは独立しているのではないだろうか。それぞれが、残像として繋がっているように見えるだけで。
 という話をお昼休みに友人達に話してみた。前々から私は突如こんなことを言い出すことがしばしばあるので、彼女らは「まーたゆっちゃんの不思議ショーが始まったよ」と囃し立てるだけである。
 聞いてもらうことに意味はなく、私が喋ることが大事なのだ。そして独立した言葉を残像でもって意味ある言葉にしながら考える。
 少し話を進めると、彼女らはごめんねと断りを入れて、教室から出て購買へ向かった。
 オーディエンスがいなくなり、慣れたものではあるが、この状況に指で一摘み出来るくらいの淋しさをちょっぴり覚え、ふう、と深く息をする。昨日は球技大会をしたばかりなんだから、またこんな疲れる話を聞きたくないという気持ちも頷ける。
 私も一緒に購買へ行くべきだったかな、なんて今更なことを考えて、いやまだ間に合うかもしれないと椅子から小ぶりな尻を引き剥がそうとしたときだった。
「ねぇ、さっきの話の続きを聞かせてくれない?」
 ぼんやりしていたせいか、私の知らぬ間に小柄でセミロングの、やや幼く見える女の子がいた。春の花のように優しく明るい笑顔で私に続きを催促している。
 誰だろう。あまり交友が広い自負はないが、私は彼女を見たことがない。いや、今はそんなことはどうでもいいのだ。話したい。それだけで十分だ。そんなとき、ひどく不思議な感覚が私を襲った。クラスメイトの喧騒が聞こえなくなり、周りの黒板やロッカー、机も全て消えてしまって私と彼女だけが、ただここにいるという感覚。そんなことには気も触れず、私は話を始める。
「えっとね。化学の授業でこの世はあらゆる原子の集合って聞いたときね、ついぞっとしたのよ」
 無知は罪なり。知は力なり。それならば非力な罪人の方が良かった。
 気分が再びノッた私は、目の前の知らない彼女がついて来てるかどうかなんて一切気にせずに続ける。
 全て原子で構成されている。違和感はそんな化学のコンテクストだけではない。生物や物理だって。数学もだ。今私が口を開けて言葉を発しているのも全て脳の伝令。私の言葉が音波となって目の前にいる観測者、彼女に聞こえている波長もv=fλ。そしてあらゆる現象をその特異な数式で解決しようとする数学。それらを見つけた諸悪の根元、人間の好奇心が大嫌いだった。
 小さい頃にかつて見た、どこまでも美しく繋がるエメラルドグリーンのあの海も、折れ線形のH2Oとか、ナトリウムイオン、塩化物イオン、その他いろいろ(そこまで詳しくないというのが現状)な分子やイオンの集まりだと考えると、鳥肌が立つほどグロテスクで味気無いものに思われて、気味が悪くなる。あの景色は錯覚なのか。好きなものが否定されたような悲しい気持ちになる。
 目の前の彼女も、私も、いつもの仲の良い友人も、大好きな担任の先生も耳障りな親も、全てそういう原子の集まりだと考えるとそれが人の形をした極めて不気味な、おぞましいものに思える。
 こうして私が悲しんだり、怒ったり、しゃべったり走ったりするのも全て脳の神経物質がどうだったり電気信号がどうだなんて考えていると、私が私の意思で動いてるのではなく、脳によって動かされ、生かされている気がして気分が悪くなる。私とはなんだろうか。入れ物か何かだろうか。
 好物の味噌の鯖煮のあの匂いも、そういう物質を鼻が感知しているだけで。となると心にぽっかり穴が開いて寂しくなる。
 兼ねてから好きな男性アイドルの歌も、何Hzかは知らないけれど、そう定められているならば、あの心を洗われた歌が機械的なように思われて、ペテンにあった気がする。
 不愉快なのだ。私は、この世界が。
 そこまでノンストップで歌うように続けていたのに、彼女は嫌な顔をせずにうんうんと聞いてくれた。
 これからが本題だ。深く吸い込んだ息を吐き出して、さあ続けよう。ところがここで運悪くチャイムが鳴ってしまった。ふと辺りは喧騒を取り戻し、見慣れた教室が広がる。ああ、ついお昼を食べるのを忘れちゃったなぁ。とよそ見をしていたら、束の間に例の彼女がいなくなっていた。呆気に取られたが、すぐに担任でもある数学教師が入って来て、今日は楽しい積分日和だなんて、浅黒く焼けた顔に笑みを浮かべた。



 黒板をめいいっぱい使い教壇の上を縦横無尽にはしゃぐ担任の授業にうっとりしていると、早くもチャイムが鳴ってしまう。もうチャイムが鳴ったのか、と彼はいささか残念がると、颯爽と廊下に出てしまった。
 残念がることと教室から出ることとも、それぞれ独立している。なんて一人で思っていた。
 そんな場合ではない。私は椅子から立ち上がると、教室を見渡し、続けて廊下へ飛び出た。
 さっきの彼女を探す。せめて、名前を聞いていれば良かった。迷惑かもしれないが、あの彼女に私の本題を聞いて欲しかった。
 辺りをキョロキョロ探し回るとふと見知らぬ男子生徒が声をかけてきた。
「どうかしたのかい?」
 なかなか快活そうな、さっぱりした印象を与える二枚目の男だった。
「友達を探してて……」
「それは本当なのかい?」
 えっ、と小さく声が漏れた。一瞬何が何だか分からない混乱に陥る。彼は私の何を知っているのだろう。
 彼のどこまでも深い闇色の瞳孔を見つめていると、周りの世界が融解してしまう。教室、廊下、窓ガラスから見える青い世界、すぐ隣をすれ違った人まで皆溶けて無くなっていく錯覚。夢の中にいるような。
 いいや、この感覚に覚えがある。しかもかなり最近、一時間前。あの『彼女』と話していたときと同じ感覚が『彼』からもする。
 媚薬のように甘い快感が、私のデザイアの扉を抉じ開ける。そう感じた時には既に口が動いていた。
「私は数学だとか化学で出来た世界を、否定したい」
 言ってしまった。私の感覚、感情、記憶を元に造られたデザイアを、研ぎに研いだ中核の部分。
「どうやって?」
 柔和な笑みで彼は返す。期待されている。心地よくなる。
「世界を『真』と、仮定する」
 背理法。ある命題の否定を真と置き、不条理な結論が出ることを明らかにしてその命題を真だと証明する、素敵な素敵な証明方法だ。命題に表面からぶつかっていかないその姿勢が、私の心をどこかくすぐるのだ。それでいて自分の主張したいものではないことは違う、認めない。と言いきる潔さが、私はひどく気に入っている。
 これからだ。私はそのために武器を、秘策を吊り下げてきた。
 そんなとき、憎いタイミングでチャイムが鳴る。彼はまた聞かせて欲しいと言い残して去って行く。人混みに紛れてしまい、彼がどこのクラスにいるのかを見失ってしまった。



 アンニュイな授業が終わり、ホームルームもサクッと終わった放課後に、私は彼か彼女の姿を探した。
 先の事からなんとなく予想はついていたが、どこにもその姿はなかった。探すにあたって彼の名前も聞くべきだったと再び後悔するも、過ぎたことだと諦めて校舎を出る。駐輪場で一際目立つ、黄色のママチャリに跨がり、夏至も過ぎて真夏日の続く、まだ陽の高い夕刻の町を過る。肺を熱する湿気が辛い。
 茹(う)だるような暑さに、真っ白なサマーブラウスをやや着崩して、風を浴びやすいようにする。二日前に髪をばっさり短くしたのが功を奏し、首元が涼しい。
 自転車を漕げば風を感じる。景色が変わる。足が疲れる。
 怖い。
 こんなありふれたことまでが、色のない無機的な数式などで記されることが。
 なんとしてでもこの世界を否定しなければ。そのために彼女か彼に会いたい。証人が欲しい。自分勝手な使命感に燃えて、自転車を漕ぐスピードが上がる。テンション、パッション、イグニッション。なんとなく頭に浮かんだ連続性のない単語が、リズムを刻んで歌い出す。
 テンション、パッション、イグニッション! なんだか楽しくなってきた。ワントゥースリー、の後は四分休符。そんな四拍子でペダルを左右交互に踏んでいく。出来る、今なら何だって出来そうな気がする。と思ったと同時に自転車を止め、ゆっくりと降りた。
 流石に棒の降りている踏切には勝てまい。それを越えることは容易いが、越えた後を思えば自然に両手でブレーキを切るのだ。
 カンカンカンカンとけたたましく叫ぶ踏切に、ちょっと苛立ちを隠せずに、ちらりと右を向く。水色の半袖を着た、顔にいくつも皺の入ったおじいさん。
 ふと目が合って、習慣付いた体がお辞儀をする。
 予感がした。
 おじいさんは、笑った。
 今から通過しようとした電車が消えていく。耳を刺す轟音も、足元の雑草も、広がる空も何もかも。
 固唾を飲んだ。わくわくと同時に、緊張を覚えた。大丈夫。テンション、パッション、イグニッションだ。
「あんたぁ……。そんな顔してどうかしたか?」
 どんな顔をしているのだろう。ふと鞄の中にある、キャラクターものの絵が背面にある手鏡のことを想う。
「楽しみなんです」
「何がぁ」
 世界と戦うときが来た。最初の『入り』が肝心だ。
「これから世界を否定するんです」
「否定ねぇ。まさか、世界を『真』と、仮定するんじゃあなかろう」
「そのまさかです」
 この際彼らが誰だなんて二の次だった。今の私の興奮を削げるモノじゃあない。
 緊張。そして我がステータスを確認する。私の秘策は居合い切り。得物はよく切れる。刀身はさしたることはないが、夥しく蔓延る数式を、バッサリ綺麗に両断できる。
 踏み出すタイミングは今だ。冷汗三斗の思いから放たれるとき。もう苦い思いとおさらばするのだ。
「あらゆる物事は連続しているように見えて、独立しています。例えば言葉それぞれが一つだけでは意味を成さないのに、それぞれが残像作用によって繋がっている。これは言葉に限らないと思うんです。数学帰納法だって、nがkのときとnがk+1のときもそれぞれが独立しているのに、残像を信じて証明したと思い込んでいる。つまり数学帰納法なんてそもそも正しくないんですよ。公式だってそう、関数だってそう。これだけで、世界は『真』ではない反例になりますよね。だから世界は『偽』なんです。証明終わり、QED」
 決まった。ガッツポーズをしたい衝動をこらえ、おじいさんのリアクションを伺う。渋い顔だった。期待を裏切られた、恐怖が滲み寄る。息をするのも忘れるほど、体が途端に強張った。
「それはいいが……、連続性がないだとか独立だとかの証明はどうするんだい。確かに本を読んだりするときは、慣性の法則とかによってそれは正しいが、果たしてそれが全てにおいて言えるのかい」
 釜中の魚。そんな言葉がぽーんと浮かんで、弾けた。
 自慢の武器を抜いたつもりが、柄だけであった。肝心の刀身は夢想の存在だった。
 撃たれたのだ。刀身のない刀で切りかかろうとした横から、おじいさんに。
 冷や汗が止まらない。体が震える。泣きたくなる。これまでなんとか私を支えていたものが形を崩して散っていく。支えを失い私も崩れてしまいそう。心に穴がぽっかり開いて、すーすーと速度v1で風が駆け抜ける。
 いつの間にか周囲が色を取り戻し、踏切に戻る。16進法で表記される色コードでべっとり貼られた景観が、私の目から視神経を通じて脳に情報が送られる。空を飛ぶ飛行機が速度v2で視界を横切り音速cで発する音が、私の耳にf1Hzで入ってくる。
 ダメだ、嫌だ、ダメ、ダメ、ダメ!
 唐突に耳を塞いで目を瞑る。果たしてこれは自分の行動なのか。脳が発した電気信号によって腕などの筋肉に伝わった賜物ではないか。
 私という肉体の中で、胃腸が荒ぶる。生理反応による猛烈な吐き気に脳、神経、筋肉が働いた。身をよじり、屈め、耳を塞いだ手を離し、右手で口をぐっと抑え、左手で相当な熱エネルギーQをもったアスファルト、飽和炭化水素と不飽和炭化水素の固体混合物に手をつける。熱の移動によりTケルビンが左手を通じて私を通る。上手く息を吸えず、空気中に20・95%存在する酸素mグラムを取り込めずに血中に新鮮な酸素が行き届かず、細胞が渇く。
 いつの間にか開いていた視界の隅ではおじいさんが近付いてくる。いつの間にか彼女や彼もいた。しかし形を捉えるだけで精一杯で、ただの有機物にしか見えない。
 貴方たちは何なんですか?
 声になったかどうか分からない。もしなっていたとするなら彼らまでの距離dメートルを波長λで進み、f2Hzが観測者彼らに届くだろう。
「私は貴女」
「僕は君自身」
「最初からわしらなんていなかったんだ」
 私は現状を理解出来ずに、ただただこの気持ち悪さに苦しみもがく。
「私は貴女のデザイア」
「それでいて君のセーフティー」
「世界の否定はお前さんには太刀打ち出来ない。解っていたことを、解らせるためにお前さんの理論をへし折った」
「私は――」
「僕は――」
「わしは――」
 突如彼らと距離を感じた。直立していた彼らがぶれて、踏切も線路も自転車も民家もアスファルトも青空も歪み始める。彼らの声にエコーがかかり、歪みは次第に強くなる。揺れて、ぶれて、溶けて、捻れ、霞み、やがて、静かに消えた。



 目を醒ませばうっすら黄ばんだ天井が見える。
 涼しい。と思った次に、頭がいたい。毛布もかけられている。ベッドの周りは空色のカーテンに仕切られていて、それにデジャヴを感じる。少し腰を浮かせて、頭が痛い原因を見つける。固い氷枕に寝かされていたのだ。
 しかしどうして体操服を着ているのだろう。分からない。さっきまで何をしていたのか、と考えようとしたが、何だか上手く頭が働かない。
 少なくとも今いる場所は思い出した。保健室だ。そこのベッドで寝ている。
 ふいにゴォォォ、と保健室の古びた引き戸が雄叫びをあげる。トントン、と刻みの良い足音がする。
「大野、いるか?」
 と同時にカーテンが開けられ、三十過ぎで健康的な浅黒い肌が特徴の担任が姿を現す。右手には私の鞄を持っている。
「起きてたか」
「先生いろいろ順番が逆です。起きてるかを聞いてからカーテン開けてくださいよ」
「過ぎたことだし気にするな」
 先生はその手にある鞄をベッドの端に置く。どこから鞄を持ってきたのだろう。
「本当に大丈夫か? 急に倒れてびっくりしたぞ。熱中症になって」
 熱中症、だったのかぁ。そう言われてもなんだか腑に落ちなくて、他人事のようにも感じる。
「あ、一応球技大会はうちのクラスは二位だった。一位は取れなかったけと、五組には勝ったから俺としては大満足だ」
「球技大会?」
「まだ寝惚けてるのか? 夢でも見てたのか?」
 夢。そうか、あれは夢だったのか。大丈夫です、と言うと、スポーツドリンクを手渡される。
「やるよ」
「あ、ありがとうございます」
 ひんやりした感触に触発されたからか、だんだんと脳が活動し始める。ようやく起きた、そんな気がした。
「それじゃあ気をつけて帰れよ。まだ明るいとはいえ変質者には気を付けて、な」
「待ってください」
 踵を返そうとした先生が、一時停止したかのようにピンと動かなくなる。
「聞きたいことがあるんです」
 どうしてこう言ったかは分からないが、心当たりは一つだけある。先生の『夢』、という言葉がきっかけになって、徐々にあの夢を思い出し、夢なのに現実に打ちひしがれた悲しい気持ちが込み上げる。それの責任を取って欲しいんだと思う。
「先生って理系ですよね」
「どうした大野、何を今さらなことを言って。俺は文系出身の高校数学教師に会ったことがないぞ?」
「先生は理系科目を勉強して悲しくなったこととかあります?」
 私の問いに、ふむ、と筋肉質な左腕を持ち上げて、左手を口元に軽くあてる。
「どういう事だ?」
「理系科目を勉強していると、世界が無機質で味気のないようなものに感じるんです。数式や原子の集まりみたいに見えてしまって怖いんです」
 そこから自分の感じていたことを少し言葉にして紡ぐと、なるほどな、と先生が答える。先生は誰もいないベッドに勝手に腰を下ろす。
「大野ってそんなに真面目だったんだな、初めて知ったよ」
「茶化さないでくださいよ。辛いんですから」
 悪い悪いと返す先生の顔は相変わらず笑ったままだ。ついつい頬を膨らます。
「だけどそんなことばっかり考えていると眉間に皺が増えてニキビが増えるぞ?」
「ちょっとぉ、先生!」
 不真面目な解答にいきり立とうとしたところ、先生は立ち上がり、私の頭にその大きな固い手をぽんと乗せる。ちょっとびっくりして、その先の先生の目を見つめる。保健室が、ベッドがカーテンが消えて私と先生だけになる。この感覚も、デジャヴがある。
「確かに言いたいことは分かる。つまらなくなるよなぁ。でもお前は友達と喋ってたり遊んだりしてるときにそんなことを思うか?」
 先生の手が離れ、自由になった首を横に何度か振る。
「それがお前にとっての世界だ。お前がさっきから言ったのは、あくまで学者にとっての世界。要はな、気にするなってことだ」
 気にするな、なんて簡単に言って。そう言わんばかりに頬を膨らませる。
「あのな。繰り返して言うが、考え過ぎなんだよ。自分の見ている風景、感じている世界が大事なんだ」
「どういうことです?」
「お前がある景色を見て綺麗だなと思ったとする。だが同じ景色を見た俺がそんなことはないと言う。お前にとって大事なのはどっちだ」
 心の奥で絡まっていた糸が、ちょっとした綻びからほどけていくような、そんな心地よい感じがした。
「もちろん私の、です」
「ならそれでいいじゃないか。細かい理屈は要らないんだ。正解なんて最初からないんだから」
 気取って口で笑う先生を見て、ついついつられて笑いたくなる。
「そう、ですね……。なんだかスッキリしました」
「じゃあ帰るか。明日もちゃんと遅刻せずに来いよ?」
「あ、先生一緒に帰りません?」
「断る。まだ今週授業で使うプリント出来てないから職員室で仕事しないとな」
「熱中症だったか弱い女子高生に。ひどい!」
 慣れない上目遣いで気を惹こうとするが、先生は一瞥しただけですぐに視線を逸らした。
「そこまで言う余裕があるならやっぱり一人で帰れるな。それじゃあな」
 ぴしゃりと目論見を弾かれた。はーい、と不満げに返すと、五月蝿い引き戸の悲鳴の後に先生が保健室から出ていった。
 一人になるのがちょっと悲しくなって、ベッドから降りて窓から外を見上げる。
 梅雨も終わった初夏の青空がどこまでも広がっている。もうあのパニックは起きない。これからは私の、私だけの世界が輝き続けるのだから。

─完─
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