ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[5345] 魔物ジョン・スミス所有すカントリー・ハウス殺人事件
   
日時: 2015/09/08 16:38
名前: sakana◆092jpOU0d. ID:saJlbNG2

【魔物ジョン・スミス所有すカントリー・ハウス殺人事件】

序章:旅の終わりに >>9-

本編:





ひとこと
序章はカントリー・ハウス殺人事件、起きません


目次  >>8(ジェーアール)
最新話 >>9-10(2015/9/8)
メンテ

Page: 1 | 2 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

Re: ジェーアール ( No.6 )
   
日時: 2015/08/26 13:53
名前: sakana◆092jpOU0d. ID:hTzJWa3w

 ◇◇◇

 博士は瀬島の言動の後、時折酔ったようにうわごとに乗せる言葉がある。そうじゃ、あの忌々しいきゅうりのやつに似ているな。似ているんじゃ。
 この場合のきゅうりは瀬島博士のことで、博士と相反する考えを持つ喜浦博士と瀬島が似ているとそう言っている。瀬島は内にある考えを博士に口にしたことはない。博士はひとつずつ、または揚げ足を取りながら喜浦博士の考えや論文を否定してやることが毎日の趣味であったから、瀬島は空気を読んだと言える。それでも、見抜かれた。きっと、そういうことなのだろう。しかし博士は喜浦博士のときのように瀬島を見限ぎらず、あれをしろこれをしろと馬車馬のように瀬島を扱き使った。なんとも不思議な思いに駆られる。
 そういうとき、決まった思い出す過去がある。
 いまでもしこりとして胸に残る出来事だった。
 そういう人の気持ちが分からないところを、喜浦博士と似ていると言われているのかもしれないし、そもそもの作り上げたいロボットへの考え方が似ていると言いたいのかもしれない。瀬島には分からない。
 キュウリのことはそこにあるだけの研究結果としか思えなかった。そこに、博士のような慈悲深さや穏やかさを与えることはない。
 幼い頃、意図して友人の時計を壊したことがある。顔も知らない父の形見だといっていた、友人の時計だった。その行為は、おそらく瀬島の嫉妬心が行わせた。それほど大事に扱うものが存在するのか、と不思議に思ったことも一因だった。それがバレた。瀬島がわざとそうしたのだと、彼は難なく察した。
 気づかれてしまったからというわけではなく、このことを知り、ひどく怒り悲しんだ母に言いつけられ、お詫び品と。ただただ自分の頭で必死に許しを乞おうと考えた結果、なけなしのお小遣いで新しい時計とを手にし謝罪に行った。
 しかし丸くは収まらない。
 誠実な謝罪なしに、更には代わりのものですまそうとする瀬島の軽い心が見透かされ、友人の逆鱗に触れる。
 ありふれた時計だった。
 少年の何ヶ月のお小遣いでも手に届くような、ただ時間を確認できれば良いというだけの安っぽい時計だった。
 これでは代わりにはならないのか。
 受け取りを拒否され、去っていく彼の後ろ姿を呆然と見送り、瀬島は必死になって考えた。
 その違いは何だ。
 同じ品。同じ色。安売りされていた値段。
 傷はない。針はひとつのゆがみもなく真っ直ぐで、使い古され落とせない汚れとなった垢もない。
 ああ、分かったぞ。経験か。
 ただそこにあるというだけで、年月という箔のついた経験か。
 いまでも釈然としない引っかかりを感じるものの、世の中はそういうものなのだと瀬島は理解はしている。
 機械を機械として生み出しているわけでも、者を者と生み出しているわけでもない。キュウリは。持つはずのない感情の色彩の情報を入れ込んだ人間を作ろうと、博士が必死に彼等を模倣したロボットだ。
 ならば同じように設計し、同じ部品を同じ部位に使用し、量産したとすれば、それらに何の違いがある。
 経験だ。
 一号機と二号機とでは、一号機の経験がものを言う。

 ◇◇◇

 Htが完成し、それから数年も経たずに博士は死んだ。それは肌寒い秋のことで、瀬島は三十半ばとなった頃だった。キウイと呼ばれた、そのHtが博士より数年長生きしたぐらいだ。
 病気などではなく、天寿を全うしたのだろう。手や顔はしわくちゃに、髪は真っ白になるまで自分の好きなことをして生きたのだから、少なくとも彼に人生への後悔など無いはずだ。
 博士はその命をあと数年と残した頃から、瀬島が加工を施し、研究所の敷地内に設置したベンチで、一日を過ごすようになっていた。人造人間であるキュウリIタイプからは、博士の研究を引き継いだ瀬島の手だけが加わった新種になる。瀬島は未完成のキュウリや、時間を掛けて作り上げたキュウリを博士へ見せるために、研究所内と外とを行き来した。キウイを助手に、ロボットのくせに、人間のくせにと罵り合い、口論している場面に訪れたことも多々あった。いままでは、その様子を見て博士は太陽のような笑みを堪えて笑っていた。けれど瀬島の印象に残るのは、この頃の、寂しそうにくしゃりとした笑みだった。軽口を叩く回数も減っていった。お金をケチるような言動もなくなった。ここは駄目だと瀬島の研究の指摘をすることもなくなった。ベンチに腰掛ける博士は心なしか、喜浦研究所の方角を向いていて、日が暮れる頃、夏でも手放さず身に纏う毛布を引きずって部屋へ戻る様子をよく覚えている。
 
 成功を収め、世間に公開するための研究ではない。
 博士が息子を亡くしたからと、その悲劇に耐えきれず作り始めたというわけでもない。よく物語であるような、悪の組織に対抗するための研究でもなく、そもそも瀬島が悪の組織の研究員というわけでもない。ましてや、いまこの研究において、博士から引き継いだ瀬島の研究が最も進み、一番人間に近いと思われるロボットが世界の平和を守る正義の味方の振る舞いをするわけでもない。
 キュウリの製作は、人を助けるための研究ではないのだ。
 瀬島にとって、ただただ探求心に駆られ、そしていつしか終止符を打つタイミングを失った惰性に変わり果てる。
 ただキュウリを作るだけではない。
 前のキュウリの記憶を引き継がせたかった。博士がしようとしなかったそれは、博士の組み込んだ言語とそれを理解するための回路と合わせれば、簡単に引き継げた。
 ただ経験を引き継がせたかった。これは中々難しく、ひとつ引き継がせると、それ以上の経験を引き継がせることはできず、それだけで終わることを幾度も繰り返した。行き詰まった瀬島は気紛れに、キュウリとキュウリを引き合わせた。
 不調を訴え始めたキュウリと、新たなキュウリとを。
 博士がいたときには、それぞれ彼等自身が経験した事柄のみを持つ、そんなキュウリが同時に起動されている状態だったのだが、その残る全てを瀬島は破棄した。
 キュウリHtは既に。しかしどうしてもその身体を分解し再利用することが躊躇われ、倉庫へ放り込んだままだ。
 彼等は思う。ドッペルゲンガーと一緒だ。同じ者は二人はいらないと。君は何だなんだといいつつ、無意識下で思うところもあるだろう。
 そうしてしばらくすると、古い方のキュウリの回路が先に焼き切れる。それは人間で言う、ストレスや心労が原因だろうと推測した。
 どちらかが。大概は古い方が、壊れる様を瀬島はじっと観察する。
 新しいキュウリと瀬島との関係の違いは、友人ではなかったことだった。

 ロボットの寿命は短い。
 特に最近起動させ、直ぐに廃棄となったJrの後から、目に余るような勝手な振る舞いをするキュウリが増えてきた。Jr以前から、時折キュウリたちがひっそりと外へ出ることがあったのは知っている。瀬島はそれを黙認していた。一晩の内にこっそり戻ってきたり、もしくは不備の事故に遭い回収するはめになったとしても、いまに比べれば彼等はまだ瀬島の言葉に従順で大人しかったからだ。というより、あまりに瀬島が気づくか気づかないかという境界線でのひっそりであったため、注意するのも面倒に感じられ黙認していたというのが正解である。もしかすると、瀬島の見逃していたその下積みのせいでいまのキュウリへと形成されていった何かがあるのかもしれない。
 Jrの捜索に、瀬島は急遽Jsを作り上げ駆り出した。キュウリ同士には、互いがどこにいるのかが分かるようこの町や世界中の地図や位置情報を組み込んでいるし、そもそも人工知能のストックもいつでも取り出せるよう保管してため、やっつけの組み立てでもそれなりに機能した。
 それで一晩を開けずに、Jsは帰ってきた。瀬島の予想よりも遅い帰還で、密に閉じている頭部以外に無事なところはないだろうと思われる腐食にまみれたJrを命令通り連れていた。Js自体もひどい腐食に侵され、瀬島は不可解に眉を寄せる。
 Jsの腐食部分を乱暴に切り離し、Jrの脳内の記録を研究所内の機器の中に移す。Jsのそれと、Jrは廃棄だ。腐食は伝染る。運動不足で軋む身体に鞭打ちながら、ひどく重量のあるそれらを引きずり、瀬島は長い廊下を経て、外へぽいとそれらを捨てた。敷地内は、錆の赤土にそのほとんどが覆われている。いつしかそこが、キュウリの墓場となっていた。
 頭部を押さえる。まただ、と瀬島は舌打ちをした。いつからか、ひどい頭痛が慢性化し、瀬島を悩ませるようになっていた。
 ずるりと崩れ落ちるように、ベンチに腰掛ける。外に設置され、腐食の始まりつつある、博士のお気に入りの場所だった。
 博士。
 脂汗が額に滲み、そこに留まろうとする思考を無理矢理動かす。痛みが、ひどい。
 博士。
 瀬島が厳重に鍵を掛けた記憶の中、ようやく絞り出せた言葉がそれだけだ。そうして、この一日は幕を下ろす。

 彼等がそれを望んでいるかは瀬島の知るところではないが、瀬島の目には、キュウリが正義のヒーローという立場を成就させようとしているふうにしか映らず、どうしても世間に《キュウリ》を知らしめさせたくない瀬島のズボラが、そうして始まった。
 どうして外の人間と関わろうとするのか。キュウリの記憶のチェックを行い、外へ興味を持つようなものは削除した。それを新たなキュウリに組み込む。そうしても、どうしても。キュウリは外へ行ってしまう。瀬島には、もう分からない。
 メンテナンスをサボり、重大な不具合が起きたときに渋々と手を加える程度。人工皮膚がはげ、その下が錆びているままであることも多々。
 街に住む人々と関わり合い、感謝されるような行動を好んで取り始めるキュウリには、いつまでも旧式の部品を使い、そうして頃合いを見計らって次のロボットの製作の続きに取りかかった。何度も何度も。その時折で、痛む頭を抑えながら、いつしか思った《あの》キュウリを作ろうという意志は薄れ、その時代の産物を、様々な場所に取り入れた。
 少しずつ。ほんの少しずつ。
 そのためか完成し、目覚める度に微妙に性格や行動様式の異なってくるロボット。
 初めから外れていた歯車は、次第に顕著な違いとなって、瀬島の思考を苦しめ始めるのだ。

 知能や意識に、動かせる体を与えたわけではない。
 ロボットという器に、知能や意識を。人間のように、与えたかったのだ。
 瀬島は彼に、いつかの日を照らし合わせる。
 それをひとりの人間と見なし、しかし人より寿命の短いそれを信じることができず、次へ繋げた。
 繋げれば繋げるほど、得体の知れない矛盾が瀬島の後悔に投げ出され、日に日に悪化する頭痛により顕著に姿を現した。

 初めは、どんなふうだったのか。よく思い出せない。
 瀬島が確かに触れあった《あの》彼は。瀬島の友人だった。

 もう思い出すことすら困難になるほど、違う彼を見届けた。
 けれど、たしかアレは。
 少なくとも、僕の友人は。キウイは。
 口汚く罵り合うこともあったけれど。
 普段はおしとやかで、繊細だったよ。

 博士。わからない。助けて。助けてください。
 どうやって。どうすれば。良いのだろう。

 博士。
 でも、あなたも。
 あなたも、初めは。
 たったひとりの。
 あなたの《キュウリ》を目指して作り続けて、いたのでしょうね。
メンテ
Re: ジェーアール ( No.7 )
   
日時: 2015/08/27 10:18
名前: sakana◆092jpOU0d. ID:vEHzvtOY

 キウイと呼ばれたHtは、その後の記録の基盤となる。
 Jqは少女と接し、Jrは少女の願いを叶えたく、Jsはそれをやり遂げた。
 Kaは研究所の奥深くで放置されたキウイからその情報を吸い取り、《いままで》を0と1での情報で整理し、誰かが解析できぬようその記録をブロックする。
 Kbはすべてを読み解いた。それを踏まえて外の世界へ飛び出した。
 彼等は外の人間に興味を持ち、瀬島の意に沿わぬ行為を行う。《キュウリ》が自身のため望んだことでもあったし、瀬島を残した博士への弔いの意味も持っていただろう。
 
 博士は失敗した、と思ったのかもしれない。
 瀬島に人工意識のその組織や構造を教えてしまったことを。
 いま思えば、後先長くない自分が、研究だけを瀬島に残してこの世を去ってしまうという事態に罪悪感や同情心を持ったのかもしれない。危惧だった。瀬島がこの先どう生きていくのか。思い変わらず、淡々と日々こなす瀬島に、この道へ引き入れた自分がその軌道を修正してやる義務があると、そう思ったのかもしれない。
 それで、タイプHtのキュウリと友人になれ、だなんて博士は言った。けれど、それ以降も続く。博士の人工意識を手に入れて、引退する博士の手前、瀬島は己の研究に没頭するようになった。記憶を引き継がせることをしてみたいと。やってみたいというからっぽの信念だけに突き動かされる瀬島に、博士は自分が彼の背中を一押ししてしまったのだと気づく。理由がHtにあったのだ。瀬島のそんな様子に、つい数年前にひとりであっけない最期を迎えた、喜浦博士の姿を見てしまった。彼もまた、博士と決別した後もなお様々な研究者と道を違え、運営していたあの膨大な土地を有する喜浦研究所は、疾うにまっさらの空き地になって日は浅い。
 しかし瀬島にはキュウリがいる。Htがいなくなっても、瀬島はその先を止める術を知らない。
 だから博士はキュウリに、託した。喜浦博士に対する罪悪感がまた瀬島へ重なり、先の短い自分が何をしてやれるか。考えた末、博士は自分を映像として残した。それはキュウリへ呼びかけるものであったのと同時に、瀬島が求めるものはそこにないのだと気づかせて欲しい。そういう願いが込められた。
 望まず次へ紡がれ続ける、目的さえ知らないロボットたち。それでも彼等は、作られ続ける限り、いつも瀬島と共にある。
 終着点は、己の意志でキュウリを量産することを止めることだ。ひとりになることなんて、なくていい。研究が思い通りいかないあまり、苦しむことになるであろう未来予想なんて、裏切って良い。けれど、作り上げる彼等を、連続としてではなく、点として見るべきだ。ひとりで完結するキュウリがしっかりと独立した個だといつか気づく日がくるだろう。それが博士の求めた人だったのだと、思うだろう。
 それが終着点だ。
 長い時間を経て、辿りついて欲しいと望んだ執着地点だ。

 瀬島はその心を、まだ知らない。
メンテ
Re: 目次 ( No.8 )
   
日時: 2016/06/18 11:41
名前: sakana◆092jpOU0d. ID:CWiGUch.

【ジェーアール】>>1-7
>>1-3 Jr
>>4-6 瀬島
>>7  XXX


【魔物ジョン・スミス所有すカントリー・ハウス殺人事件】
序章:旅の終わりに >>9-
本編:
メンテ
Re: 魔物ジョン・スミス所有すカントリー・ハウス殺人事件 ( No.9 )
   
日時: 2015/09/08 16:12
名前: sakana◆092jpOU0d. ID:saJlbNG2

 魔物というものは、元が死霊の類だったと言われる。
 死霊(アンデット)は言葉の通り、人間や獣が死んだ後、世間に登場する幽霊の一種だ。意志を持たず、しかし滅多に人間にその姿を目撃されることがない。死ねば必ず死霊に成り果てるというわけでもなく、深い憎しみに彩られなる者もいれば、なんの欲求を持たずしてなる者もいた。死霊が長い時間を掛け、どういうわけか意志を持ち肉体を構築する。それが魔物と呼ばれるもので、以前の身体を持っていたときの思考や理性とは異なることがほとんどだ。魔物は同種族を喰う。以前獣であれば、己が獣であったときの種を好んで喰い、人間であったのならば、人肉を好む。その行為にどういう意味を持つのかは知られていない。もしかすると、無意識下に元の種に戻りたいという想いが存在するのではという声もある。
 また、魔物の中には知恵を付け、人間や獣に化けることによって、彼等を誘い込む者もいたし、いまを生きる人間のように生活し、食を自重するものもいた。
 数いれば、数多の生き方が存在し。しかしその半数以上が、人を餌とみなし、襲った。
 それでも人々は、それが獣の仕業だと誤認する者が多い。
 そもそもの正体を知らぬまま共存なぞ、過去も現在も、できはしない。
メンテ
Re: 魔物ジョン・スミス所有すカントリー・ハウス殺人事件 ( No.10 )
   
日時: 2015/09/08 16:14
名前: sakana◆092jpOU0d. ID:saJlbNG2

 ウッドバァーナの朝は、《大蛇(サーペント)の霧》から始まる。
 小蛇が妙に多い地域で、明け方に発生する霧が親玉の大蛇のように地を這い、ウッドバァーナの町を覆うことからその名前がつけられた。小さな町で、針葉樹の《蜷局(とぐろ)の森》と《北東の湖》を所有し、森を抜ければ海食崖がある。つまりウッドバァーナ自体が崖の上の町なのだ。しかし上手いこと森に囲まれ、町人たちが明確に潮風の害を受けたと感じたことはない。
 町の背後に立ちふさがる森へ入ると、緩い坂が続き、素直に坂を登り切れば《北東の湖》に出る。《北東の湖》自体には、《蜷局の森》へ入らずとも、町から行くことは出来るのだが、森からの道だと、湖の背後の崖の上に出るのだ。《蜷局の森》は、鎌首をもたげた蛇のような形をしていると言われる。口先とその首中に接する場所にウッドバァーナの町が位置し、その三つが取り囲んだ場所に《北東の湖》があった。

 そんなウッドバァーナの町へ、馬車を走らせる男がいた。
 霧で見通しの利かない一本道。街から町へ経由し、敗戦した騎士が逃亡する際利用したという逸話のある《緩慢(ヴァンダイク)なる峠》を越すと、土が姿を露わにする。昨日降り続いた雨によるぬかるみを馬や車輪が弾き、しかし泥の付着した車輪はその勢いを止めない。峠の車輪跡と違って、自然に出来たわだちに軌道を乗せる。主の心持ちと同じく、迷いなく、荷を積んだ馬車は駆けていく。長年の勘というやつだ。そう舌を巻いて豪快に馬を操りながら、男は荷台に腰掛ける青年へ話しかけた。
「おれぁ、何十何百とこの道を走り続けてんだ。迷うこともねえ。事故を起こすこともねえ。それに、ウッドバァーナの向こう側は断崖絶壁の海があるだけで、賊なんかもこんな逃げ場のない辺鄙に興味を示しやしねえ」
 わだちを辿るように馬車を走らせるのは、商人の中年男だ。でっぷりと膨らんだ腹はまさにビール腹で、茶の衣のせいで樽のようにも見える。
 ウッドバァーナの《蜷局の森》には、立ち入らずの暗黙の了解があるという。
 大体、蛇の多い森というが、蜷局を巻くというと、警戒心を全身全霊で現している行為だ。彼等が脅威に思う天敵が森にいるということであり、獣が出るのだと言われている。しかし、そんな脅威を感じるほどの凶暴で巨体を持つ獣の姿を見た者はおらず、ただ食い散らかされ、蟻に集られる蛇の死骸だけがよく発見される。だから、見えない獣に対しても町の者たちは警戒を怠らず、女子供は森にはいるなと言いつけられていたし、大の男だって、夜森に立ち入ることは禁じられていた。
「そんで、化け物がでるんじゃねえかって一時期噂になったぜ。人の前には決して姿を現さず、森に棲み着く蛇喰い。だが、やっぱり、思えばそれは獣だったんじゃねえかって思うよ。噂だけだ。そんな奇妙なモンを目撃したやつはいねえ」
 ガラガラと車輪は回る。隣町を出発して日は浅い。馬を操る親父は神妙な顔で、荷に寄りかかる青年へそう言った。
「森を抜ければ、海を見下ろせる場所と聞き及んでいます。どちらにしろ、危険な場所なのでは」
「ああ、その通りだ。だから女子供が森に入ることはあっても、俺のような大男と一緒だぜ」
 へへへ、と口を大きく開け笑い、男は手に持つ酒を呷った。
 三日馬車を走らせれば、人が溢れ活気に満ちる豊かな街や、そのお零れに預かる豊かな町々がある。それらの町を通過して、ウッドバァーナへやって来たのがこの青年だった。
「俺は五日ここに滞在して、街に戻るさ。そんで一月後、またこの町に商売しにくる予定だ。なあんにもねえ、この町が飽きたっつうなら、運んでやるぜ」
 行者の親父に男は礼を言い、町へと踏み込んだ。
 煉瓦で組まれた家々が身を寄せるようひしめき合い、くすんだ茶色に身を包む。一歩ウッドバァーナへ踏み込んだときから、地面には石畳が張り巡らされ、男はその歩き心地に、わざと音が鳴るよう石を弾いた。
 老若男女、様々な人とすれ違いながら、ウッドバァーナの町を抜け、向かう先は町の外れ。というよりも家々のない《北東の湖》で、踏み固められた道をただ辿る。《蜷局の森》を入らずにしての道のりだった。湖の脇を通り去り、切り立った崖を登りきったならば、その屋敷は姿を現す。かつては、ある貴族のカントリー・ハウスであった屋敷だ。
 男は苦笑する。
 灰色の外套は、裾を土にまぶされている。固い岩山を素手で上り詰めたというのに、その両掌は無傷。額に浮かぶ汗粒ひとつ無く、崖の斜面を乱暴に蹴りつけても挫けない足首は、とても頑丈だ。
 こんな姿を目撃されれば、人間業ではないと驚かれるばかりか、町から追い出されるかもしれない。
 稀な肉体を持ち、稀な力を持つ。
 男は、吸血鬼だった。
メンテ

Page: 1 | 2 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前
パスワード (記事メンテ時に使用)
コメント

   クッキー保存