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[5316] ハイブリッド・ブレイズ
   
日時: 2019/03/24 16:49
名前: エシラ ID:anQXhEgY

かくて生まれた全ての出会いが、私の心に炎を灯した。

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【プロローグ】>>1

【第一章】

 私服の罪人 >>2-6

【第二章】

 たおやかな狂える手に >>7-11

 幼年期の終わり >>12-16

 殺戮すべき多くの世界 >>17

【第三章】

 疑惑の霧 >>18-22

 孤独な鳥がうたうとき >>23-27

 輪廻の蛇 >>28

【第四章】

 裁かれる花園 >>29-32

 探偵夜話 解決篇 >>33-37

 暗黒の祭祀 >>38-41

 滅びの讃歌 >>42-46

 奇跡なす者たち >>47-







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HYBRID BLAZE
メンテ

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Re: ハイブリッド・ブレイズ ( No.45 )
   
日時: 2016/01/09 05:58
名前: エシラ ID:yH35D7mU


 ロヴィーサの剣は、人間型のぐにゃりと曲がったような躯体に一撃を与えることが難しかった。必ず連撃を食らわせなければ切り裂けない。たった一回の攻撃では、必ず避けられる。避けられたうえで、避けたあとの一瞬の隙をもう一方の剣で斬り裂く。そうして初めて人間型に一撃を与えられた。一回の攻撃で切り裂けさえすればそれだけ体力は消耗しないが、二回でやっと一撃――という重ね合いの攻撃では、二回分の動きと体力を使わなければならず、一方でクリスティンの攻撃を凌がなければならず、ロヴィーサは圧倒的に不利な位置にあった。
「どうして諦めないのですか」
「そちらこそ」
 着地して体勢を立て直そうとする、その瞬間に地面から氷柱が立ちあがり、ロヴィーサを揺らす。だがロヴィーサは揺れたというのなら揺れに任せて、倒れるのなら倒れるに任せて、大人しく氷柱の頂上から落下するのだった。相手はロヴィーサは氷柱の頂上からどのように動くかを予測している。だとすれば、氷柱から大人しく落下することで、その裏をかくことができると踏んだのだ。氷柱から落ちて、地面の寸前で剣を突き刺して身をよじり、着地する。氷柱はそのまま障害物となる。
 その瞬間。
 氷柱が目の前で破壊され、人間型が突っ込んできた。
 殺してもきりがない。
 真正面の人間型を切り捨てる――切り捨てたことで、氷柱が隠してくれていた自分の位置を、クリスティンに教えてしまうこととなる。遠くで、どの氷柱よりも高い氷柱の頂上に立っているクリスティンは、冷静な眼差しで、こちらに手のひらを向けた。開いた手のひらから冷気が白く舞い、細かな氷の礫となって一斉にロヴィーサに向かってきた。ロヴィーサはそれらを全て、剣の一閃で斬り捨てる。もう一度クリスティンの方を見ると、すでにいなかった。
 右方からクリスティンが迫っていた。
 ロヴィーサは咄嗟に片方の剣を捨て。
 一本の剣を両手で握り締める。
 横薙ぎの剣を受け止め、鍔競り合った。
 クリスティンの瞳を間近に見つめる。
「残念」
 ロヴィーサは言った。
 クリスティンは眉を寄せた。
「何がですか」
「あなたはお強いです」
「ありがとうございます」
「できれば、敵として剣を交えたくはなかった」
「何として、剣を交えたかったのですか」
「仲間か、友人として。もう叶いませんか?」
「ヒストリカと同じことを言うんですね」
「あらら、先を越されていました」
 刃がじわりと擦れて、小さな音が、まるで耳鳴りのように響いている。
 お互い話しながらでも、まったく手を抜かず、刃と鍔の交わる位置で常に押し合って、拮抗していた。
「無駄です。あなたたちの考え方も、無駄……戦っても無駄なのです。不必要なものばかりが溢れているというのに、どうしてあなたがたは不必要なものばかりにこだわるのですか。パーシヴァル様が、きっと全て終わらせてくださるというのに。抗っても、無駄だというのに」
 剣が、小さく、小さく刃を擦らせて。
 指の力が重さに耐え切れない予感を燻らせ、解放を求める。
「無駄なものですか」
 クリスティンの背後から、人間型が突っ込んできている。
 ロヴィーサは思いきり力を籠めて、鍔迫り合いの剣をクリスティンに押しやった。その圧力に押されて、二人の身体は離れ、クリスティンは少しばかり仰け反る。その反動で、やはりロヴィーサも同じように仰け反った。――その一瞬の挙動の中で、ロヴィーサは剣を投げた。剣はクリスティンを通り過ぎる。
「どこに投げているのです」
 ロヴィーサの右方から人間型が迫っていた。
 ロヴィーサの両手にはもう、剣がない。
 だが。
 すでに、鼓動は共鳴していた。
 ロヴィーサは笑った。
「――――ヘルヴィス!」
 クリスティンは、はっとして目を見開き、後ろを向く。だがすでに遅かった。クリスティンの投げ飛ばした剣を受け取ったヘリヴィスが、クリスティンに斬りかかっていたのだった。反応の遅れたクリスティンは、咄嗟に剣で塞ぐも、ヘルヴィスの万全な体制の剣激に防ぐだけの体制はとれず、押し負けて後ろに吹き飛ぶ。後ろとはすなわち――今、まさにロヴィーサが人間型の攻撃を受けかけた場所であり、吹き飛んだクリスティンは、人間型の片手の殴打の直撃を食らった。
 ヘルヴィスは、クリスティンを吹き飛ばした人間型を切り捨てた。
 先ほどまで辺りに乱立していた氷柱が、水になって地面を濡らした。
 クリスティンは地面に倒れ、起き上がれそうになかった。
「……ごめんなさい。ヘルヴィスは、先ほどわたくしが抱えて、あなたとお話している時点で、目を覚ましていたのです。ただ、意識がないふりをしていた。あとは、クリスティン、あなたがどれだけわたくしにばかり意識を向けて、ヘルヴィスの強襲をいかに不意打ちにできるか。それが狙いだったのです」
 ロヴィーサは、ヘルヴィスの肩を借りて、クリスティンの元に近づく。
 クリスティンはどうにか立ち上がろうともがくも、痛みのために四つん這いで、息を切らしていた。ヘルヴィスは自分の傷を全て治癒で治していたので、万全の状態だった。クリスティンは二人を見上げる。ヘルヴィスはクリスティンを寝かせると、脚に手を当てた。
「安心してくれ。応用で痛み止めの魔法を掛ける。でも、怪我だけはまだ治さない。少しだけ、足止めだ。君の足が止まれば、少しは君たちの狙いのための動きも止まるだろうと思ってのことだ」
「……随分、優しいのですね。痛み止めとは」
「誰かに痛みを味あわせたいわけじゃないんだ」
「…………」
 ロヴィーサとヘルヴィスは並んで、クリスティンの傍に座り込んだ。
「……クリスティン、あなたの力を貸していただきたいのです」
「私の力、ですか」
「何もかも見透かしたように行動するパーシヴァルやハルカ・フレイザーを止めるのには、不意打ちが必要だと思うのです。予想外の何かで一撃を加えなければ、きっと向こうは動揺しない。失敗しない。あなたが協力してくだされば、あの二人はまさかあなたが裏切りとは思っていないでしょうから、きっと何かしらの反応をする。失敗や隙を誘発できるかもしれないのです」
「……浅はかな」
「クリスティン」
「まさか、私がこうして戦いに敗北したからといって、心まで変わったと思わないでいただきたい」
 クリスティンの眼鏡には、片側にひびが入っていた。
「今も私は、パーシヴァル様を想っています」
「……そこまで」
「説得など無意味です」
「クリスティン、あなたは」
 その瞬間。
 クリスティンの瞳が鋭くなった。
 ヘルヴィスとロヴィーサは咄嗟に剣を抜き、二人の後方に振り切った。
 人間型が二体いた。
 二人の一撃でそのうち二体の腹部を切り裂き、身体が分裂して吹き飛んだ。――だが、またしても今度は左右から人間型が二体迫っており、二人はそちらに目を向け、剣を構えなければならなかった。ロヴィーサが舞うようにして二体を切り刻むと、今度は上から人間型が殴り掛かってくる。ヘルヴィスは半月を描くように剣先を浮かせてそれを斬り捨てた。
「――――クリスティンッ!」
 ヘルヴィスが彼女の寝ていた方向に目を向ける。
 クリスティンは、脚を引きずり、肩を押さえながら、あちらの方向へ歩き出していた。
「馬鹿な。君の身体は、痛み止めの魔法を撃ったとはいえ、怪我をしているんだぞ!」
 クリスティンは無視して、どこかへと歩いていく。
 ヘルヴィスはそちらに駆け寄ろうとしたが、人間型の猛攻に阻まれた。ふと気付けば、そこらじゅうに人間型が溢れていた。およそ十体。身体の限界まで、剣術の限界までを引き出しても極めて難しい局面に、ロヴィーサとヘルヴィスは囲まれてしまっていた。人間型と人間型の隙間から、クリスティンが、今までの冷徹な佇まいから一変して、惨めな姿であってもどこかへ歩いていこうとする姿が見える。ヘルヴィスとロヴィーサは剣を構えて、人間型に対抗する構えを見せた。
 クリスティンが向かったのは、ヘヴルスティンク魔法学院のある方向だった。
 






 ウィルがケイトリンの剣激を後退して避けたとき、彼女の後ろ側――そのずっと向こうの、今もまだクレイドールの襲撃を受けつつある街角の一瞬に、その姿は映った。黒髪の少女。見慣れたローブに、見慣れた歩き方。それに目を奪われてしまったために、追撃してくるケイトリンの攻撃を、寸でのところに至るまで対応しきれず、ウィルは精一杯に体を捩って、どうにか諌めたのだった。その結果バランスを崩すと、地面に手をついてしまい、ケイトリンの剣がしゃがんだような体勢のウィルを真上から叩きつけようとする。ウィルはそれを、剣身の真ん中あたりを手のひらで支えるようにしてどうにか受け止めた。
「今の、見たか、ケイトリンちゃん――いや、見えるわけないか」
「何を言っているんですか」
 剣でじわりと互いを牽制する。
「アリサだ。アリサが、どこかへ向かっている。多分、学院の方だ」
「……だから、どうだというんです」
「今、表情がぴくぴくとしたぞ」
「そんな馬鹿な」
「嘘だよ」
「――っ、冗談を話している暇があるんですか」
「だったら、君も、冗談めいた攻撃で自分の心を偽るのをやめろ!」
 ウィルはがら空きのケイトリンの足を腰を捩って回した右足で引っ掛け、ケイトリンの体勢を揺らした。足をくじかれて倒れそうになったケイトリンを、ウィルは、地面に風を撃って、直激を少しばかり緩和した突風を吹き起こす。ケイトリンはそれに巻き込まれ、ウィルから大きく突き放されるようにして、遠くへと吹き飛んだ。地面に叩きつけられる前に魔法浮遊の要領で地面に雷を撃ちこむも、対応が間に合わず、地面に転がる。ウィルは緩やかに剣を構えた。
「君の相手をしている暇はない。アリサに会いに行くんだ。だけど――」
 ケイトリンも、剣を突き立てて杖のようにしながら、ゆっくりと立ち上がった。
「アリサが戻ってきた時に、ケイトリンちゃん、君がいてくれたらずっと嬉しいはずだ」
「…………」
「ヒストリカさんと一緒に、カルテジアスまでアリサに会いに行っただろう。俺はあの旅の途中、君がアリサの友達になってくれてよかったって、何度も思ったよ。それに、カルテジアスが襲撃されて戦いに行かなきゃいけなくなったとき、君は俺に言ったよな。無事に帰ってきてくださいね、アリサのためにって」
「…………」
 ケイトリンはゆっくりと立ち上がった。ローブが土に汚れていた。
「今、俺は同じことを君に言う。君もこちら側に戻ってくるんだ。アリサのために」
「……そんな、こと」
 ケイトリンは剣をとり、ウィルに向けた。
 が、その手は震えていた。
 ウィルはそこで黙り込んだ。手が震えているのは、何のためだろう。怯えているのか、何かが怖いのか。わからない。ただ、ケイトリンの表情は、先ほどまではただひたすらにウィルを攻撃するための勇ましさに溢れていたというのに、こうして言葉をぶつけてみれば、何かに惑うような、何かに迷うような、表情に薄らと溶けた暗がりが見え透いているのだった。
「無理です」
「どうして無理なんだ」
「怖い」
「何が、怖いんだよ」
「失うのが」
「何を失うんだ」
「お姉ちゃんを」
「姉――クリスティン先生、か」
「考えるだけで、駄目なんです。想像するだけで、身体が全然動かなくなる。わかりますか、この気持ちが」
 ケイトリンは苦痛に歪んだような表情でウィルを見つめた。それは、先ほどのウィルの不意の攻撃によって受けたダメージによるものとは思えなかった。先ほどの一撃と、あるいは先ほどの着地の失敗で、それほどまでの痛みを誘うことはできない。だとすれば、今、こうしてケイトリンが何かに表情を揺らがせているのは、その精神の問題としか思えなかった。姉を失うのが怖いと、ケイトリンはそう言った。ウィルには何のことかわからなかった。ただ、それが彼女の表面にこうしてじわりと滲み出るように現れているという事実は、不穏な予感をウィルに過ぎらせた。
「アリサちゃん側に付くということは、お姉ちゃんを裏切ること、だから」
「……クリスティン先生を、裏切れないのか」
「だって、裏切ったら、嫌われちゃう」
「何言ってるんだ。嫌われたくないから、君はこんなことをしているのか?」
「いけませんかっ」
 ケイトリンの雷撃が、ウィルに迸った。ウィルが軽い身のこなしで後退し、地面を何度か蹴って避ける。雷撃は地面に不発で激突し、熱で地面を黒く染め上げた。ウィルは剣の構えを解き、ケイトリンの雷撃をひたすら躱すことに専念する。ケイトリンはほとんど自棄のようで、緻密な戦略も計画性もなく、ウィルをただ魔力と息の続く限り、ひたすら狙い続けることに徹した。ウィルはケイトリンを中心に円を描くように、一定の距離を保つようにしながら駆け抜ける。時折瓦礫と建物が邪魔をすれば、風魔法で建物の屋上に跳び上がった。ケイトリンはそれを追跡して、ウィルをただ一方的に狙い続ける。
「どうして、どうして逃げるんですか!」
「馬鹿野郎! そんな悲しい顔しているやつに攻撃なんてできるか!」
「っ! あなたに何がわかるんですか! 何も知らないくせに、悲しい顔だなんて!」
 ケイトリンの雷撃がウィルの片脚をかする。ウィルは痺れなかったが、足を踏みしめたその足場が爆裂して、ウィルは吹き飛んだ。瓦礫と共に宙を舞う。そこに、ケイトリンは浮遊して剣を突こうとする。喉が狙われていた。ウィルは首を思いきり片側に曲げることで躱すと、咄嗟にケイトリンの片手首を掴むと、風魔法を噴射し、体を回転させ、ケイトリンを掴んだまま空中で回転した。そのまま風魔法の噴射を手首の角度で調整し、回転は一回だけでなく、宙で何十回も回転する。ケイトリンは捕まれた手首を離そうとするも遠心力で身体をうまく扱えなかった。どうにか掴まれた方の手から雷撃を炸裂させる――が、その瞬間、ウィルは彼女の手首を離していた。雷撃の一部がウィルに当たるも、ケイトリンは地面に放り出され、遠心力でバランスを崩しながら地面に落下した。先ほど放出していた雷撃が不発に終わり、地面間際で辺り一面に広がった。ウィルは雷魔法のダメージを抱えながら、ゆるやかに地面に降り立った。
「事情は知らないが、どうも君は、クリスティン先生を――脅されているとか、そういうことではなく、純粋に、素直に、裏切れないんだな……そりゃ、そうか、姉妹なんだから」
 ウィルは痺れた体を奮い立たせるようにしながら、ケイトリンを見る。ケイトリンはゆっくりと体を起こそうとしていたが、先ほどの空中で連続回転をしたために、目が回っている。かつ、放り出されて落下した痛みが体にあるだろうから、まだまだ動けるとしたって、少しは動きを止められるだろう。
「説教するつもりはない! でも、クリスティン先生のやっていることに、君のお姉さんのやっていることに真っ当に協力することが君の望みだというのなら、もっと自信を持ってやってくれよ。どうしてそんなに悲しそうな顔で戦うんだ。そんな顔で、迷いがないなんて言わせないぞ」
「……悲しい顔、私が……そんな……」
「残念ながら、俺は鏡は持ってないけどね」
「……そんな。お姉ちゃん……お姉ちゃん…………」
 ケイトリンは立ち上がろうとしていたが、泣きそうな顔をして、膝をつき、剣を落とした。両手を自分の顔の前に持ち出して、指を曲げ伸ばして、呼吸をする。手のひらを見つめたあと、顔に当てた。ウィルは立ち尽くして、何も言わないで、彼女を見つめていた。――もう、戦う必要はない。ウィルは剣を鞘に収めようとした。
 が。
 気配を感じて、左方を見た。
 すでに瓦礫に塗れた道の、途中に。
「――――あなたは」
 ケイトリンはウィルの声に、反応し、はっと顔を上げて、そちらを見た。
「お姉ちゃんっ!?」
 道の半ばで、脚を引きずりながらこちらに歩いてきているのは。
 紛れもなく、クリスティンだった。
 ウィルが目を丸くしていると、ケイトリンはウィルを放ってクリスティンのところまで駆けた。自分の足の動きと急ごうという意志の勢いが空回りして、ケイトリンは何度か転びそうになった。それでも、肩を大きく上下させながら息をして、ケイトリンはクリスティンの元へ駆け寄る。ケイトリンがクリスティンを優しく抱き留めると、クリスティンはゆるやかに膝を折り、その場に崩れ落ちた。ケイトリンに胸を預けるようにして、全身の力を抜いたようだった。ケイトリンはそんなクリスティンを抱き寄せて、自分の胸にクリスティンの顔を寄せると、何かを話し出した。
 ウィルの位置からでは、二人の会話は聞こえなかった。
 クリスティンが満身創痍という事実に、ヘルヴィスとロヴィーサの勇ましい姿が浮かぶ。どうやら、あの二人がやってくれたみたいだ。けれど、怪我をしている風でここまで歩いてきたのがなぜなのか、わからない。ヘルヴィスなら、クリスティンを動けないように拘束して、かつ怪我を治療するなどしそうなものだが――……今、あの二人は何か別のものと戦っていて、クリスティンはその激烈な戦いの最中、傷を負いながら逃げてきた。そういうことなのか。
 でも。
 この機会を逃す手はなかった。
 元々、戦う気など微塵もないんだ。
 今、俺がやらなければならないことは。
 アリサに会うことだ。
「――――…………」
 ウィルは、寄り添うように何かを話すケイトリンとクリスティンを長く見つめた。
 それから、先ほど一瞬だけ姿を見たあのアリサの姿を追うように、学院の方向へを走り出した。
 






「お姉ちゃんっ……お姉ちゃん……」
「ケイトリン…………」
 クリスティンが細々とした声でケイトリンの名前を呼んだ。彼女の頬はケイトリンの胸元に抱き寄せられ、呼吸の音が直にケイトリンに伝わった。穏やかな声だった。痛みがない――痛み止めの魔法だろうか。ケイトリンは、クリスティンの全体重を受け止めている。そのために投げ出されたクリスティンの足が、どうにも怪我を負っていることを見抜いた。痛みはないけれど、身体が動かない。痛みはないけれど、怪我を引きずりながらここまで歩いてきたんだ。
「お姉ちゃん、怪我してるの」
「ケイトリン」
「治さないと。治癒気質の人を、私、私、探してくるから、だから」
「ケイトリン……」
「お姉ちゃん?」
「パーシヴァル様のところへ、連れて行って」
「…………」
 クリスティンは言った。ケイトリンは何も言えなかった。名前を呼んでもらえた。こんなときでしか呼ばれないおしても、名前を呼んでもらえた。それだけで十分だった。ケイトリンは、クリスティンを抱き寄せる手のひらに力を籠める。クリスティンの眼鏡の感触が押しつけられていたかった。眼鏡は片側にひびが入っている。少しだけ力を弱めて、自分の曲げた膝の上に膝枕の要領でクリスティンを仰向けに寝かせた。彼女の瞳が、真っ直ぐにケイトリンを仰いだ。
「こんなときでも、やっぱりパーシヴァル様、なんだね」
 ケイトリンは笑った。
 無理やり笑った。
 無理やりでないと笑えなかったことに、自分でも気付いていた。ウィルフレッドの言葉は全力で否定したけれど、でも、本当はわかっている。ケイトリンは目を閉じて、唇を噛み締めた。瞼の裏側で、いろいろなことを思い出した。そのいろいろなことのほとんどは、姉のクリスティンのことだった。言葉の一つ一つを思い出すことができるほど、思い出は小さくも少なくもない。もっと大きくて取り留めもなくて、形がなく、だからこそ覚えていられないほどに。
 遠くで轟音が響く。
 誰かの戦う声も。
 ケイトリンは俯き、クリスティンを見つめる。
 自分の髪が横から垂れて、クリスティンの頬に乗った。クリスティンは黙っていた。クリスティンの顔にケイトリンが俯いた分の陰が差し、クリスティンはケイトリンの瞳と真っ向に見つめあうしかなかった。クリスティンは眼鏡を持ち上げようとしたが、手が動かなかった。ケイトリンは、何度か口を開いて、閉じる――そんな曖昧な動作を繰り返して、ようやっと、長い時間を掛けて、喋り出すのだった。
「ねえ、お姉ちゃん。私たち、お父さんとお母さんが死んじゃってから、本当にパーシヴァル様にお世話になったよね」
「…………そうね」
 お父さんとお母さんが死んだ。
 事故で。
 何の前触れもなく。
 死ぬって、何。わからなかったのは幼い頃の話だけじゃない。ずっと同じ。
 ケイトリンは思った。
 昨日は確かにそこにいて、いてくれたのに、今日はもういない。いなくなった。どうして昨日はそこにいてくれたのに、今日はもうそこにいないの。ここに、お姉ちゃんと私しかいない。たくさんの人が慰めてくれたって、そこには私とお姉ちゃんしかいないんだ。今日は、昨日の明日だった。延長線の上なのだ。だから、昨日までの出来事のいくつかがそのまま幸せに続いてゐなきゃいけないはずなのに、どうしようもなく、何かが失われていって、もう戻ってこなかった。
 私とお姉ちゃんだけ。
 でも、そこにパーシヴァル様がやってきた。
 私たちの後見人になるという。彼は私たちのためになんでもしてくれた。足りないものがあったら、それを満たすだけのことをしてくれた。お金だって用意してくれたし、ご飯もたくさん用意してくれた。いろいろな場所に連れて行ってくれたし、どこにも行かなくていい時は、安心して生きていけるだけの住居を用意してくれた。こんな言い方はしたくないけれど、まるでお父さんのようだった。お父さんだった、ではなくて、お父さんの『よう』でしかなかったけれど。
 お姉ちゃんはいつしかパーシヴァル様に心酔するようになった。私はいつも彼のことを「お父さんみたい」だなんて、確かにそれらしい空気を教えてはくれるけれど、でも、絶対にお父さんの代わりじゃないんだっていう確かな思いがあったけれど、お姉ちゃんは違った。お姉ちゃんは私よりお父さんとお母さんの死が悲しくて、悲しくて悲しくて仕方がなくて、だから、何かでその失われた隙間を埋めるしかなかった。だから、パーシヴァル様という存在でその穴を埋めたのだ。だから、だから。
「こんなに、怪我しているのに、パーシヴァル様のところへ、行くの」
「…………」
 お姉ちゃん。
 お姉ちゃんは、パーシヴァル様がいてくれたから、その悲しみを癒すことができた。お父さんとお母さんが死んで、私たちは、それまでたくさんあったものと全部一緒に何かを失ってしまった。体には何の異常もないのに、二人が死んじゃった瞬間、もう全部、意味がなくなって、生きる意味もなくなって、私たちの生きている世界ってなんだろうって、そのことばかり。だから、お姉ちゃんにとってパーシヴァル様は、そんなお姉ちゃんの呼吸を、お姉ちゃんという存在を、この世界に繋ぎ止めている唯一の存在になった。そんなこと、わかっている。だから、お姉ちゃんはパーシヴァル様のためならなんだってする。どんなに悪いことで、どんなに破滅的なことでも。
 でも。
 でも。
 私にとって、それはお姉ちゃんだった。
 お姉ちゃんがパーシヴァル様の存在で悲しみを癒したっていうのなら、私は、お姉ちゃんがいてくれたから、お父さんとお母さんがいなくなっても、ずっとずっと大丈夫だったんだ。お父さんとお母さんがいなくなった。急に世界が崩れ落ちてしまいそうになった。――でも、でも、私にはお姉ちゃんがいた。どれだけ苦しくたって辛くたって、どんなに心が痛くたって寂しくたって、お姉ちゃんがいたんだもの。頭を撫でてくれたし、笑ってくれたんだもの。だから、私には、お姉ちゃんだけがいる。それだけで、生きてこれたんだよ。だから、お姉ちゃんにとってパーシヴァル様が、全てを投げ出してもいいと思えるような存在なら、私にとってそれは、お姉ちゃんだったんだよ。
 だから。
 こんなの。
 もう。
「無理だよ」
 ケイトリンはぽつりと零した。
「ねえ、もうやめようよ。お姉ちゃん。私、もう無理。私、お姉ちゃんだから……他の誰でもない、お姉ちゃんの望みだったから、こうして、一緒にいるためにこんなことしていたけど、でも、もう、嫌だ。お姉ちゃん、戦わされているだけだよ。もう戦う必要もないくらい傷ついたのに、まだ、まだパーシヴァル様のところへだなんて、そんなの」
 私にとってそれはお姉ちゃんだったから、いったいどれだけ傷ついたって感情を封じ込めることに慣れていかなかった。私の全てはお姉ちゃんだった。お姉ちゃんしかいない。他の誰でもなくって、ただ、そこに。だから、もう傷ついているのを見ていられなかった。お姉ちゃんだけが私をこの世界に繋ぎ止める唯一の存在だとしたって、お姉ちゃんがこうして何かに傷ついて――そして、どういうわけか、自分が出会ったいろいろな人たちの顔が混じり合うようにして、そんな言葉を吐かせた。もう、やめようよ。
「黙りなさい……」
「お姉、ちゃん」
「私たちがどう思うかなんて、そんなのは、もう捨てなさい」
「でも、お姉ちゃん」
「あなたがやめたいのなら、もう、やめてもいいわ」
「…………」
「けれど、せめて私を、パーシヴァル様の元へ――――」
 クリスティンは手を動かして、ケイトリンの頬をそっと撫でた。表情は変わらなかった。笑ってもいなかったし、怒ってもいなかった。ただ、ケイトリンを見つめるクリスティンの目は、その瞬間、柔らかく細められた。ケイトリンの息が詰まった。自分の事を想っている瞳ではなかった。パーシヴァル様を想っての瞳であった――ケイトリンはわかってしまっていた。やめてもいい。やめてもいいの。やめるなんて許さないと、そう言ってもらえた方が、ずっとよかった。
 ケイトリンは唇を噛み締める。
 それでも。
 私はやっぱり、お姉ちゃんを裏切れない。

 
メンテ
Re: ハイブリッド・ブレイズ ( No.46 )
   
日時: 2018/07/03 21:06
名前: エシラ ID:Qm4fHEwc

 パーシヴァルの拳が炎を纏い、そのまま私に接近し、殴り掛かってくる。私はそれを、屈伸する格好で躱し、地面を再び蹴って右方へ飛び出す。彼の左わき腹を狙って、剣を入れた。パーシヴァルの銀色のマントが微かに切れた程度で、次の瞬間には、すでにパーシヴァルは私とは距離を置いて、遠くに佇んでいる。「ほう」とパーシヴァルは髭を撫でた。
「先日、一戦交えたときは大したことはないと思っていたが」
「…………」
「ハイブリッドの力とは、これほどまでに凄まじいのか」
「逆に、あなたは随分と弱く見えるわ、パーシヴァル」
「たわけたことを」
 しかしこれは、嘘でも虚勢でもなかった。先日の一戦は憶えている。夜、駆け出した私が出会ったパーシヴァルと、その場で剣を交えたこと。――しかし、結果は惨敗。私は惨めに地面に背をつけ、転がり、炎はパーシヴァルのそれに呑まれた。準備を怠ったわけでもない、いつでも私は全力で戦う準備は出来ていた。それなのに、あのとき、私は確実なまでにパーシヴァルに敗北したのだ。五年間の修行の意味が、私の脳内で明滅する。あのとき、パーシヴァルの剣は、炎は、私には見えなかった。あらゆるものが遠く、霞みかかり、取り留めもなかった。
 それが、どうだ。
 パーシヴァルの炎は、止まって見えた。
 その少しずつ少しずつ動き出す指先に、炎に、剣に、私は何呼吸の隙間があったろう。パーシヴァルの微笑みが、あまりにも滑稽で笑い出したくなった。いつでも、殺せる。本気を出せば、簡単に殺せる。そう思った。いつでも、この次の瞬間にパーシヴァルの胸に剣を突き刺してもいい、首を斬ってもいい、そのまま炎を叩き込んでもいい。相手があまりにも弱すぎるということは、こんなにも難しいことなのかと悩ましい。選択肢があまりにも目の前に広がり過ぎて、それを選び取ることの方に難儀する。あんなにも弱かった私の炎。この男に一度負けた炎。でも、こんなにも、パーシヴァルは。パーシヴァルの剣を自らの剣で軽く凌ぐ。パーシヴァルはそれが隙だともう片手の拳に炎を纏わせ、殴り掛かってきた。巨大な拳だ。しかし――私は手のひらに火球を瞬時に生成すると、パーシヴァルの拳に直接ぶつけた。火球と火拳が衝突し、摩擦し、火花を散らす。巨大な拳の炎は確かに強力で、常に炎の力を放出し続けているようだった。が――造作もない。火球でその拳を押し返そうとすることに、何の重さも感じなかった。それを感じたのか、パーシヴァルは上空に飛び跳ねるようにして衝突を回避する。拮抗していた火球は、そのままパーシヴァルのいなくなった空間に発射され、王の間の壁に激突した。爆発し、粉塵が舞う。壁が粉砕され、風が入り込んだ。
 パーシヴァルが着地する。
 私は息を吐いた。
「……パーシヴァル、時間の無駄だわ」
 弱い。
 みんな、とても弱い。
 私は、勝ちたいなんて思わない。
 邪魔なだけだ。
 そこにある、意味の解らない微笑みが不快。
「もう辞めましょう。あなたは私には勝てない」
「ハイブリッドの力に頼った、小娘風情が」
「頼った? 違う。これが元々の私なのよ」
「ふん。ほざきよる」
「パーシヴァル。私はこのまま、ヘヴルスティンクを陥落させる。私のあらゆる炎を使って、この学院を燃やし尽くす。あなたは私には勝てない。結局、あなたは負け、学院は塵と化す。戦うだけ時間の無駄と思わないの」
「思わんな。君こそ、もうこの学院は仇ではないというのに、なぜ燃やし尽くすこと?」
「そんなものは関係ない。確かに、ハルカは生きていた。ハルカの死を隠匿し、ハイブリッドなるものを密かに養成して、様々な悲しみを生み出したこと。そのために、この学院を、あなたを、必ず燃やし尽くすと決めていた。けれど、この学院がやったことに対する報いとして燃やし尽くすつもりはない。もう、そんなものはどうでもよくなった」
「ならば大人しく、私の栄光の糧となれ」
「何度も言わせないで」
 私は右手に炎を纏わすと、それを振り払うようにして大きく振るった。
 遠心力で鋭い錐のようになった炎が、パーシヴァルに一斉に襲い掛かる。
 パーシヴァルはそれを難なく剣で振り払った――――が、振り払って床に落下した炎の錐は、まるで遺志を持つ生きもののように床の上を疾走し、パーシヴァルの周囲を駆け巡った。それらが縦横無尽にパーシヴァルに襲い掛かり、炎の渦のように包み込もうとする。炎はあまりにも自由な動きすぎて、パーシヴァルはそれを追尾できず、対応が出来ない。
「ぐおっ――――……!」
 初めてパーシヴァルが声を荒げた。
「熱い? パーシヴァル」
「小娘がっ……!」
 彼はすぐに自分の足元に炎を勢いよく噴射して、噴煙を起こし、私の炎の渦を吹き飛ばした。同時に、その噴煙は煙幕となり、彼の姿を見えなくする。――――後ろだ。私は振り返り、剣を思いきり振るう。大きな金属音が響き、パーシヴァルと鍔迫り合いになった。じりじりと剣が拮抗する。私を睨みつける彼の顔が目の前にある。その最中だった。パーシヴァルは息を吸い込む動作をする。私はほとんど本能的に、剣を弾き、後ろに飛んだ。。パーシヴァルは勢いよく吸い込んだ息を、ふうっ――と吐いた。パーシヴァルの吐息が、まるで膨らんだ風船のように業火となって、その場に噴出されたのだ。本来魔法は指先によるものだが、パーシヴァルは口から炎魔法を扱って見せた。さすが学院長といったところか。
「でも、そんなものは、ただの手品よ」
 大きく後ろへ飛んでいた私は、最大火力を剣に纏わせて、それをパーシヴァルの吹き出す炎の中心へ投げ込んだ。私の火力の方が格段に上であった。私の炎を纏った剣が、パーシヴァルの炎の中心へ、まるで柔らかい球を押し潰すように突進していく。そちらからは見えないはず。パーシヴァル、くらえ――私が床に降り立つのと、パーシヴァルの声が響くのは同時だった。炎が弾け飛び、パーシヴァルは後ろへ大きく仰け反った。血飛沫が飛ぶ。パーシヴァルはどうにか床へ転がらず着地を決めたが、銀のマントが血に染まっていた。
「剣がかすめたのは、肩だったようね。残念。炎の勢いで少しずれたのかしら」
「ふっ、調子づくからだ」
「黙りなさい。次の一撃で、あなたは負けるのよ」
「やってみろ」
 この期に及んで、パーシヴァルは醜い笑みを絶やさなかった。この男の、その執念。いつ何時であっても私を見下そうとする、その黒々しい性懲りもなさだけは一流だろう。彼は片手に、大きな火球を作り出す。最大出力か。私も同じように、右手に炎の固まりを作り出す。魔力を練る。炎の渦を回転させるようにして、挑発に乗らず、イメージを膨らませた。以前の私よりも、ずっと質の高い火球を作り上げられている自信があった。おそらく――パーシヴァルの骨すら残らない炎だ。
「パーシヴァル――これで、終わりよ」
 私は火球をパーシヴァルに放つ。
 パーシヴァルもまた、火球を私へ放つ。
 その、瞬間だった。
「アリサ!」
 右から。
 声が聞こえた。
 アリサ。
 誰?
 私のことを、呼ぶのは。
 その声。
 この声は。
 私は不意に、その声の方向を向いてしまった。
 この部屋の扉から、こちらへ入ろうとする。
 男。
 あの、男は。
 あのひとは。
 その、不意の一瞬の所為だった。
 私の集中力は霧散し。
 火球の勢いが弱まる。
 ふと気付けば、パーシヴァルの火球が目の前にあった。






 ウィルが学院長室に入り込んだ瞬間に見たもの。
 それは、アリサがパーシヴァルの火球をまともに食らう瞬間だった。
 一瞬、目があった気がした。
 ――しかし次の瞬間、アリサはパーシヴァルの火球に押しつぶされ、その勢いは学院長室の窓ガラスをぶち破り、アリサもろとも外へと突き抜けていった。轟音が響き渡り、唸り、次第にフェイドアウトする。それから、まるで木が倒壊していくかのような、大きな破裂音、鋭い音が響き渡った。ちょうどその窓の下は、木々の茂り噴水のある、学院の憩いの広場。もしやアリサは、ここから落下して、木々のある茂みに墜落したのではないか。ウィルは駆け出そうとした。その勢いを、パーシヴァルの呼び掛けが食い止める。
「ウィルフレッド・ライツヴィル」
「パーシヴァル!」
「いいタイミングで来てくれて助かったぞ」
「……ちょうどいい」
 ウィルは立ち止まり、剣を構えた。
 パーシヴァルもゆるやかに立ち上がり、指先をウィルへ向ける。
「あんたに確認しておきたいことがある」
「なんだ」
「親父は……ターナー・ライツヴィルは、どこにいる?」
 ウィルはパーシヴァルを睨みつけた。パーシヴァルは指先を、すっと下げ、口元をゆっくりと歪ませると、じりじりと、しかし溢れ出すように、最終的に高笑いを始めた。ウィルは微動だにしなかった剣を構えたまま、その切っ先を常にパーシヴァルの首元を狙うようにしたまま。パーシヴァルは笑いを終えると、顎に手を当て、高圧的な眼差しで不敵に微笑んだ。
「死んだ」
 鋭い一言であった。
「ハルカが殺したよ」
「……そうか」
「なんだ、意外と薄い反応だな」
「覚悟はしていたよ」
 ウィルは奥歯を噛み締めた。
 しかし、覚悟はしていたとはいえ、真実は堪えた。
 だが。
「……それでも、俺は諦めていない」
「何を?」
「親父が残してくれたものを、だ」
「そのしぶとさ。お前たちが密やかに何か動いていたのは――ターナーの遺志だというのか?」
「その通りだ」
 ウィルは思い出す。全ての始まりは、ターナーの手紙であった。あの手紙がなければ、自分たちはここまで来られなかった。あの手紙が、引き金になった。あの手紙がなければ、真実は闇の中のままだった。アリサは、ずっとずっと帰ってこない兄の帰りを待ち、彼の行方がどこにあるのかすらも知らないまま、無垢なまま、待ちわびただろう。それはそれで、幸せだったのかもしれない。復讐に身を焦がさずに済んだのかもしれない。あるいはアリサなら、兄の行方を調べるために、そのままヘヴルスティンクに入学を決めたのかもしれない。けれど、あの手紙がなければ、糸口はなかった。ハイブリッドという存在も、経過も、なにかもが解らないままだった。あの手紙が始まり。そしてその始まりの延長上に、今の戦いがある。アリサは闇に落ち、ヘルヴィニアは炎上している。――――だから。
「だから、その遺志を意味のあるものにしなくてはいけない」
 親父の死を。
 あの手紙を。
 意味のあるものにする。
 このまま燃え尽きて、アリサも救えず、炎が痛みのままに全てを焼き尽くすのであれば、それは、ターナーの死を無意味にしてしまう。あの手紙を、間違ったものにしてしまう。それではだめなのだ。今、生きている自分たちで戦い、生き延びて、何としてでも、幸福を掴み取らなければいけない。今は苦しくてもがいても、挫けそうになっても、全てを意味のあるものにしなければいけないのだ。ターナーは殺された。無意味に。虚しく。理不尽に。けれど。
 死んだことは、覆らない。
 もう、生き返ることはない。
 だったら。
 無意味にしてはいけない。
 それは「死んだおかげ」であるとか「殺されてよかった」ということではない。もう、二度と戻らない。悔やまなくてはいけない。悲しまなくてはいけない。けれど、永遠に悲しいままではない。その事実を、力に変えなくてはいけない。ウィルは思った。もう死んだ者は生き返らないのであれば、何とかして、その「死」を、大切なものにするのだ。前に進むために。どうしようもないことを、どうしようもないと嘆いてばかりではなく、意味のあった死にする。それが、死んでしまった者が、確かに生きていたという証だからだ。
「――――俺は、アリサのために生きる」
 アリサの気持ちに添うこと。
 アリサがこころよい気持ちで生きられるようになること。
 それこそが、ウィルの生きる目的であった。
 それを成し遂げることが、ターナーの死を意味のあることにすることだと思った。
「きれいごとだ」
「ありがとう。褒め言葉として、受け取るよ」
 ウィルは剣の構えを解くと、風魔法を、パーシヴァルの足元に放った。
 赤い絨毯が捩れ切り刻まれ、爆発するようにパーシヴァルを包む。
 パーシヴァルが火球を放ってそれを振り払うと、ウィルの姿は消えていた。
「小娘の方に行ったか。まあいい。あとでいつでも殺せる」
 






 ヒストリカは燃え上がる街を駆けていた。悪魔型の姿が遠方に見えるのを、時折確認しながら、そして、逃げ遅れた人々を助けながら、アリサとハルカが移動していったと思われる方向へ移動する。転がっていた剣を護身用に持ち、時折現れたキャットヘッドやドッグヘッドを薙ぎ払った。「腕は鈍ったが、あの程度なら造作もないな」ヒストリカは首を鳴らし、街を走る。
 瓦礫の倒壊が激しい区画があり、ひときわ強い悪魔型の歩いた形跡を感じる。その中に、まだ炎が微かに地面に居座っている場所があった。ヒストリカはその瓦礫の裏に回る。そこに、ぼろぼろのまま横たわったメリアを発見した。
「メリア」
 呼びかける。
 返事がない。
「メリア!」
「……うっ……くぅ、っ……」
 ヒストリカはメリアの傍に寄り添う。
 軽く肩を叩いて、耳元で声を掛ける。
 呼吸はあった。ただ、随分と辛そうだった。
「大丈夫か」
「あなた、は」
「私はヒストリカ。知らないとは思うが、そうだな、アリサの先生だ」
「お姉ちゃんの」
「……アリサにやられたのか」
「……行かなきゃ」
 アリサの名前を出すと、思い出したように目を見開き、体を起こそうとする。しかし、当然よろめき、倒れてしまいそうになった。「おい」ヒストリカはそれを抱き締めるようにして受け止めた。――軽い。ヒストリカは驚く。メリアの身体は、まるで中身などない風船のように、ふわりとしていた。触ったら割れてしまいそうな、手を放したら浮き上がってしまいそうな、そんな軽さ。ヒストリカが抱き留めても、メリアは動き出そうとする。
「馬鹿、その身体で何ができるというんだ」
「お姉ちゃんを、殺すの」
「アリサを? なぜ」
「ハイブリッドだから」
 ――『私は、ハイブリッドを殺します』。
 ヒストリカの脳裏に、数年前のアリサの声が甦った。
 ひっそりと暮らしていた自分の元へやってきた、鋭い目をした少女。
 真っ先に、ハイブリッドを殺すことを目標にしていると語り、ヒストリカに剣と魔法の指南を求めた。あのときと、今のメリアが完全に重なっていた。声も、瞳も。そして、ぼろぼろになっても、どんなに苦しくても、ハイブリッドを殺すという執念に飲まれていることも。そのためには何の犠牲も厭わないところまで。なぜそこまで? なんてことは、絶対に訊かなかった。それが当たり前だからだ。アリサはあのとき、兄を失っていた。全てを失ってどん底にいた。
 今、この子も同じなのだ。
 メリアの額の切り傷から、つうっと伝うように血が流れる。
 メリアの目に入り、片目を閉じ、手でこする。
「……メリア」
 ヒストリカはその手を止めて、代わりに、自分の指で優しく血を拭った。
「メリア、落ち着け」
「邪魔」
「その傷では、戦うことすら無理だ」
「それでも――」
 メリアは、ヒストリカを振りほどき、駆け出そうとした。
 しかし、傷だらけの身体では、走る事すらままならなかった。
 一歩、その一歩だけを踏み出して、その場に倒れるように崩れ落ちる。
 それでも。
 再び立ち上がろうとする。
「負けたくない」
 ヒストリカはその姿を、見つめていることしかできなかった。
 凄まじい精神だった。その傷では戦うことはできない。治癒魔法を使えばどうとでもなるが、それ以上に、魔力と気力は削られているはずである。もし、アリサにやられたのであれば、ハイブリッドの強靭な魔法と渡り合ったことになる。その重さは計り知れない。体にも大きな負荷が掛かっているはずである。それなのに、再び戦いに赴こうというのか。
 アリサ。
 ヒストリカは目を閉じる。
 遠くでいななきが聴こえる。
 風の音が。
 炎の音が。
 ヒストリカは思い出す。
 アリサは、確かに、復讐に駆られていた。その瞳に漆黒を宿して、ハイブリッドのことだけを想い続けてきた。ヒストリカは確かに、彼女に己の技術の全てを叩き込んだ。剣と魔法。自分は怪我でもう戦えはしなかったが、知識と経験だけは幸いにしてあり、それらをアリサに伝えることはできた。だが、アリサの心の闇だけは、自分には拭えなかった。あの娘が復讐を遂げたとき、どうなるのか。アリサの未来は、破滅的だった。復讐を肯定する、否定する――というレベルの話ではなく、アリサが閉じ込められているどん底から、どうにかして救えないか。ヒストリカはそれだけを考え、五年間を過ごしたのだ。
 けれど。
 自分ではアリサは救えなかった。
 そのことは、強く自分に傷として残っている。
 だから、ウィルフレッドに託した。
 もう、アリサを救えるのは、ウィルしかいないのだ。
 なら。
 メリアも、自分にはどうしようもないのではないか?
 ヒストリカは考えた。
 一瞬、躊躇した。
 けれど。
「負けたくない――っ……」
 メリアは、ゆっくり、ゆっくりと立ち上がり、足を引きずりながら。
 歩いていこうとする。
 折れた腕をかばいながら。
 時折、苦しそうに嗚咽を吐いても。
 進もうとする。
 ヒストリカは駆け出して。
 メリアを後ろから抱きしめた。
「メリア」
「離して」
「すまない」
「離してよっ」
「私がお前を、望むところに連れていく」
「…………」
 メリアは目を見開いた。いきなり現れた女に、唐突にそのような言葉を吐かれるとは思わなかっただろう。ヒストリカは想った。いきなりこんな言葉を言われても、不可解だと思う。自分が言う立場にあるとも思わない。ヒストリカは目を細める。メリアの身体は、抱きしめると、本当に軽く、薄く、脆い。この娘が今まで受けてきた傷は計り知れない。失ったもの、消えていったもの、それらを想えば、ここで止めることや、ここで言葉を掛けることすら烏滸がましいのかもしれない。だが、ヒストリカは知っていた。
 今、メリアは、あのときのアリサと同じだった。
 救ってやるとか、そんなこと、あのとき考えたのか?
 いや、考えなかった。
 ただ、見ていられなかった。
 放っておけば、必ず後悔する。
 この子の未来までを守るとか、救い出すとかではなく。
 今、目の前にいるこの瞬間。
 この子の痛みを、少しでも取り除いてやらなくては。
 同情だろうか?
 メリアの人格に対して、とても失礼だろうか?
 けれど、ヒストリカの胸は痛くて痛くてたまらなかったのだ。
「……よく似ているよ」
「誰と」
「昔のアリサと」
「一緒にしないで、ください」
 ヒストリカは笑った。
 この強気な感じ。
 そっくりだ。
 ヒストリカは、メリアのひざ裏に腕を入れて持ち上げ、横抱きにした。
「メリア。いいか。その執念では、アリサには勝てない。誰にも勝てやしない」
「あなたに何がわかる」
「わかるさ。私はあのアリサを育てたのだから」
「…………」
「メリア、お前の相手はアリサじゃないよ」
「……」
「今、アリサは闇に囚われている。でもね、私は信じているんだ。『あのアリサは』負ける」
「…………」
「アリサは負けると、信じている」
 救い出せなかったとて、もう見捨てたわけもなかった。
 闇に囚われたアリサは、必ず負ける。
 ウィルの手か。
 あるいは、自分自身によって。
 そして本当のアリサは、必ず勝つ。
「メリア。お前も、そのまま戦い続ければ――必ず負ける。そういう風にできているんだ。だから、大切なものを忘れてはいけない。復讐に囚われてはいけない。私は、アリサの心の拠り所になれなかった。アリサがあんな風になってしまう前の、ブレーキにはなれなかった。でも、その役目はウィルがしてくれる」
 メリアは、ヒストリカの瞳を見つめた。
 美しい瞳だった。
「メリア。お前に、そういう人はいるか? 弟がいるんだろう? 一緒にいたくはないか」
「……ハヴェン」
「そういう名前だったか。確か、囚われているんだったな。助けたくないか」
「…………」
「……こんな生易しい言葉では、お前が今まで越えてきた痛みを拭うことはできないことはわかっている。けれど自分を追い詰めすぎないでくれ。『それだけでは勝てない』。いいか。目的の相手を倒せるかどうか、という話じゃないよ。メリア、お前の歩んでいく未来は、絶対にひとりでは辿り着けない。私は、メリアの心の拠り所を見つけるための、手伝いがしたいんだ」
「よりどころ、……」
「お前には、これだけは譲れない存在って、あるか?」
 ヒストリカはメリアを抱いたまま、歩き出す。 
 前を向いたまま。
「ハヴェン……」
 メリアの手が、ヒストリカの服の裾を強く掴んだ。
「それが答えだな」
 ヒストリカは、瓦礫の道を歩いた。
 ゆっくりと。
 戦いを避けながら。
 ヒストリカが気付いたとき、メリアはヒストリカの服の袖を強く握り締めたまま、すうすう、と寝息を立てていた。きちんと聞いていてくれただろうか。私の言葉を。想いを。もし届かなかったとしても、それはそれで構わない。それは、言葉で伝えなくてはいけないものでもない。言葉はきっかけに過ぎなくて、それは少しずつ、少しずつわかっていくものだと思う。ヒストリカはメリアを見つめる。この子、いくつだろう。それでも、ずっと幼い。可愛い寝顔だ。アリサによく似ている。アリサも、あんなに殺気立っていたけれど、とても可愛いらしい寝顔をしていた。常に意識の上で復讐を考えていたから、余計に、だ。
 この子の未来が、明るいものになりますように。
 ヒストリカは、学院へ向かった。
 そこに、メリアの弟、ハヴェンがいる。







 メリアは眠りの中で想う。
 まだ、途絶えてはいない。
 戦いへの意志を。
 復讐の願いを。
 しかし、今、目の前にやってきた女――ヒストリカの言葉に、揺れているのは自分でもわかった。痛み。身体の重さ。アリサによってつけられた傷が、その揺らぎを生み出してしまったのか。勝てない。勝てない。なんで、勝てないの。あんなに痛かったのに。こんなにも、苦しいのに……――――そんな痛みだけが、そんな苦しみだけが胸を貫いていた。
 けれど。
 心の拠り所。
 そんなものは、考えたことがなかった。
 メリアは眠りの寸前に、ヒストリカの顔を見つめた。顎のライン。流れるように美しい金髪。そして、精悍な眼差し。濁りのない眼差し。このひとは、本気でそう言ったのだ。私の心の拠り所を見つめるための、手伝いがしたいと。心の拠り所って何? わからない。そんなものは、考えたこともない。何かに寄りかかること、何かの傍にいること。そして、それを温かいと思う気持ち。そういうものは、みんな失ってしまった。あの日に、皆が死んでいった日に。燃やし尽くされた日に。
 だけど。
 ヒストリカに抱かれたとき、それを温かいと思った。
 譲れないもの。
 自分にもしそんなものがあるとするなら。
 まだ、諦めたくない。
 その信念と。
 ハヴェンだ。
 ハヴェン……。
 私の弟。
 今まで一緒に生きていてくれた弟。
 その姿が、一瞬浮かんだ。
 これが、拠り所というものなのだろうか。
 ただ、今、とても会いたかった。

 
 


メンテ
Re: ハイブリッド・ブレイズ ( No.47 )
   
日時: 2018/09/09 14:10
名前: エシラ ID:kHxls0ms



「お姉ちゃん、待ってて……もう少し、だから」
 ヘヴスルティンク魔法学院の姿が見えてきた。すでに瓦礫と、倒されたクレイドールの粉塵によって、道は決して平坦ではなかったが、本来であれば、学院に直通する本通りを歩いているはずだった。ケイトリンは必死にクリスティンを運ぶ。幾度となくクレイドールに阻まれたが、クリスティンを背負いながらも、一瞬だけ指で雷を放つなどして、クレイドールを一網打尽にした。時折噛み付かれそうになれば、クリスティンをすぐ傍に寝かせてから、剣で断ち切った。遠方に見える影は、そもそもこちらにやってこないように、雷魔法の魔法射撃によって射抜いた。もうしばらくは襲われる危険はないだろう――そんな風に息を吐けるまでクレイドールを殺し、それから再びクリスティンを背負って、学院へ歩き出すのだった。
「…………お姉ちゃん、大丈夫?」
「……ケイトリン」
「お姉ちゃん?」
「あなたは、強くなったわね」
「――――」
 優しい声だった。
 ケイトリンは思わず立ち止まってしまいそうになった。けれどかろうじて、ここまでずっと歩き続けてきたその力が、ケイトリンの心に反して歩くことをやめないままで、ケイトリンは止まらなかった。けれど、そのたったひとことが、ケイトリンの心に、まるで水が染みていく紙のように、じわりじわりと広がっていくようだった。クリスティン――姉のこんなにも優しい声を、もしかしたら、ずっと久しぶりに聴いたのかもしれなかった。
「急に、どうしたの、お姉ちゃん」
 遠くで戦いの音が聞こえる。瓦礫の炸裂する音、クレイドールの嘶き。
 けれどそれらから切り離されたように、ここだけは姉妹の時間が流れていた。
「ケイトリン、今更こんなことを言っては、ずるいと思うでしょう。けれど、私を、もう少しだけ愛して」
「……何言ってるの」
「私を少しでも愛しているのなら、もう少し、我慢して、パーシヴァル様のところへ――」
 自分を背中から前に腕を回している姉の腕は、とても細かった。クリスティンはもしかすれば、とても冷たい女に受け止められるかもしれなかった。けれど、本当はもっと細く弱く、折れやすいのだ。だから――だから両親が死んだとき、パーシヴァルに縋った。パーシヴァルが私たちに与えるもので、その心を埋め合わせた。そうすることで平穏になり、以前よりもずっと表情が良くなった。一人で立てるようになった。だけど、本当は、とても放っておけない姉なのだ。見ていて痛々しくなるほどに。ケイトリンは泣きそうになった。
「お姉ちゃんの馬鹿」
「ケイトリン」
「私は今までもこれからも、ずっとお姉ちゃんを、愛してるよ」
 




 学院の本通りを越えて、ヘヴルスティンク魔法学院に到着する。正門から入ると、まるで宮殿のように大きな広間がある。ケイトリンは、息も絶え絶えに「やっと着いた……!」と声を上げる。パーシヴァルは確か、ハルカ・フレイザーの『やろうとしていること』――それが何かはケイトリンには知らされていない――の内では、ここに留まっているはず。パーシヴァルは、表向きでは「学院生と教員に指示をして、謎のクレイドールの襲撃に対して指揮を執っている」立場でなくてはいけないからだ。だから、きっと学院長室に――。そして、階段の方へ、再び姉を背負いながら歩き出そうとした、そのときだった。
「おお、クリスティンではないか――」
 頭上から声がした。
 その、声は。
「パーシヴァル様!」
 ケイトリンの背中から声が上がる。
 ――パーシヴァル。
 広間の階段、その上の吹き抜けからこちらを見下ろしていたのは、銀のローブに身を包み、また不敵な笑みを宿したパーシヴァルだった。クリスティンは思わず声を上げ、ケイトリンの背中から、ゆっくりと降りる素振りをする。抱えていたケイトリンは少しだけ不安な気持ちになりながらそれを離し、クリスティンを自由にした。クリスティンは影を引きずりながら、パーシヴァルを仰いだ。
「パーシヴァル様――――」
 クリスティンは、艶やかな声を上げる。
 声が響く。
 遠くで戦いの音が聞こえる。
 クリスティンの瞳は、パーシヴァルの姿を見初めた瞬間に、色づき始めた。
 だが。
「――――」
 パーシヴァルの瞳は。
 今もまだどす黒く濁っていた。
 ケイトリンは、クリスティンの後ろで。
 それに気付いた。
 お姉ちゃん。
 ケイトリンが手を伸ばそうとする間際。
 それより早く。
 クリスティンの胸が、斬撃によって切り裂かれた。







 ケイトリンには、その血飛沫さえ、ゆるやかに膝を折り、前のめりに倒れていく、その一瞬一瞬さえ、とてもスローに見えた。クリスティンはこちらを背にしていて、表情までは見えなかった。ケイトリンは立ち尽くした。頭が真っ白になり、言葉を失い、全身の血が一瞬で凍りついたようだった。大広間の色合いまで、その視界にとらえているもの全てが、真っ白に塗り潰されていくようで――そしてその中に、姉の身体から噴き出す鮮血が、あまりにも鮮明にケイトリンの内側に刻み込まれていった。静かに。しめやかに。クリスティンの身体は床に崩れ落ちる。
 広がりゆく血溜まり。
 動かない。
 動かない。
「ああああああああああああああああああ!」
 ケイトリンはクリスティンに駆け寄った。一歩を踏み出す、そのたった一歩が凄まじく長く感じるような、距離。ほつれる脚、呼吸が覚束ない、叫び声。しゃがみこんでクリスティンに触れる。倒れた彼女の顔にまで血だまりが広がり、長かった金髪が血に浸かる。ケイトリンは叫んだ。何をしたらいいのか、何をすればいいのか、何を言ったらいいのか、何もかもわからないまま。何度も何度も呼んだ。お姉ちゃん。お姉ちゃん――。
 何も答えない。
 静かに、口を閉ざしている。
「おねえちゃん」
 嫌だ。
 嫌だ。
「おねえ、ちゃん」
 ケイトリンの靴に、ローブに、手に、血が広がる。
 クリスティンの身体が冷たくなっていく。
 口元にあった呼吸が、遠くへ消えていく。
 どうして。
 こんな。
 項垂れるケイトリンの頭上から、声が掛かる。
「クリスティンはよくやった。本当によく使えた」
 笑い声混じりの言葉。
 ケイトリンは、ゆっくりと、声の主を見上げる。
 パーシヴァル。
 見下ろす、どす黒い瞳。
「だが、もう用済みだ。使えそうだから拾ってやったが、やることは終えた」
 ケイトリンの開けっ放した口が、少しずつ閉じていく。喉から何か、膨大な熱量が、震える痺れが、溢れてきそうになる。奥歯を噛み締めた。彼女の眼差しが少しずつ黒々しくなり、眉間にしわが寄っていく。眼差しが、睨みつける力強さに変わっていく。ケイトリンは腰の剣を抜き取り、片手で雷を地面に放った。瞬発的な魔法浮遊で空中へ浮き上がり、こちらを見下ろしていたパーシヴァルの元へ飛び上がる。
「パーシヴァル――――ッ! よくも――――」
 彼女の剣激がパーシヴァルの喉元を狙った。
「よくも、お姉ちゃんをっ――――!」
 しかし。
 あっけなくそれはパーシヴァルが瞬時に抜いた剣によって止められた。びくともしない剣。ケイトリンは次の瞬間、すぐにパーシヴァルの腹部を狙って雷を放つ。――が、それもまたパーシヴァルは素早い身のこなしで避けられた。そしてケイトリンの腕を掴むと、一度持ち上げ、まるで物を放り投げるように、再び階下へと叩きつけた。ケイトリンは肩から落下し、床に全身を強く殴打する。剣が手から離れ、滑って転がった。
「雑魚が。お前も姉と同じところに送ってやるわ!」
 パーシヴァルの声が響く。
 ケイトリンは倒れたまま、拳を握った。
 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 こんな、こんなことのために、私は姉を奪われたなんて。姉は、こんなひとのために生きていたなんて。両親を失って、ずっと私は姉の傍にいたのに、姉は心の拠りどころを、こんなひとに求めたなんて。最後の最後に姉を殺すような、何もかも無駄に還してしまうような、そして、それをけらけらと笑う奴に、姉の時間は、命は蝕まれていたなんて。こんなにも怒りが湧いているのに。動けない。動かない。勝てないなんて。
 アリサちゃん。
 あなたも、こんな、気持ちだったの。
 悔しさ。
 惨めさ。
 どうしても、負けたくない相手がいるのに。
 勝てない。
 唇を噛み締める。
 血の味がする。
 涙が止まらなくなる。
 負けたくない。
 でも、私は、あなたほど強くないんだよ。
 あなたなら、もしかしたら、何もかもを終わらせられたのかもしれない。パーシヴァルを狙い、元凶であるハイブリッドを狙い、そのために生きてきて、何のしがらみもなく自由だったあなた。私はあなたが眩しかった。両親を失って姉にしがみついた。姉のために、生きてきた。姉が間違った道を進んでいるのに、私はそれを裏切れず、反対できず、がむしゃらについていくことしかできなかった。でも、アリサちゃんは違ったのだ。自分と同じように大切な人を失っても、逃げなかった。それが復讐という道だとしても、心のままに、自分の思う通りに、心の従うままに生きていた。私のように、姉に嫌われたくないなんて、ただその一心で自分の想いから目を逸らした自分とは、何もかもが違う。
 アリサちゃんは、あんなにも気高かった。
 なんで、裏切ったんだろう。
 あんなにも美しい子を。
 私を、友達と言ってくれた子を。
 ケイトリンはゆっくりと立ち上がる。
 姉の倒れた姿が、目に映る。
「おねえちゃん――――」
 私は。
 こうならなきゃいいと、願っていたんだ。
 まだ、間に合う?
 『アリサが戻ってきた時に、ケイトリンちゃん、君がいてくれたらずっと嬉しいはずだ』――。
 ウィルの声が聞こえる。
 お姉ちゃん。
 私は、お姉ちゃんを、失いたくない。
 だから。
 お姉ちゃんを裏切る。
 私は嫌なんだ。
 自分の想いから目を逸らすのが。
 悲しかった。
 ずっと悲しかった。
 だから、ずっと嫌だったんだ。
 だから。
「戦うよ」
 ケイトリンはゆっくりと、身体を起こす。
 転がった剣を拾い、歩き出そうとしていたパーシヴァルを睨みつけた。重い腕。動かない身体を、必死に操ろうとする。崩れ落ちそうになる膝をどうにか立たせながら、剣の切っ先をパーシヴァルに向けた。肩で大きく息をする。唇から流れた血が、ケイトリンの顎から伝い、下へ落下した。パーシヴァルはそんなケイトリンの姿を見て「ほう」と感嘆の息を漏らした。
「なかなかしぶといな」
「――当たり前、です」
「姉の復讐か。アリサとかいう娘と同じことをするわけか」
「まだ、お姉ちゃんは死んでいない」
 かすかだが、きっと息はある。
 まだ、間に合う。
 アリサちゃん。
 私はあなたに許されようとは思わない。
 だけど。
 力を貸してよ。
「私も、あなたを、倒す」


 ――その、瞬間だった。
 パーシヴァルの立つ位置の右方の窓が、豪快な音を立てて炸裂する。パーシヴァルが振り向くより先に、そこから侵入してきた小さな体が、パーシヴァルの顔を、強靭に、殴り飛ばしたのだった。炎を纏った拳。その拳はパーシヴァルの顔に極めて強烈に入った。パーシヴァルは呻き声を上げると、大きく仰け反り、床に転がる。そして、彼を殴り飛ばした小さな体が、ゆるやかにその側へ降り立った。
「パーシヴァル、やっと、一撃だわ」
 すでにぼろぼろの身体だったが。
 瞳に、炎を宿す。
 精悍な眼差し。
 メリアだった。





「――――この、ガキが」
 パーシヴァルは殴られ倒れたところから、しかし優雅に立ち上がり、体勢を立て直す。銀のローブを翻しながら、剣を構えた。メリアもまた剣を構える。メリアの身体は見るからに正常ではなかった。何か、圧倒的な力によって叩きのめされた跡があった。先ほどの急襲も、かなり無理をしたのではないか。ケイトリンが一瞬、その佇まいを見ただけでそういったことがわかるほど、メリアも余裕ではないことが見て取れる。しかし、メリアの表情は決して気圧されておらず、むしろ奮い立ったような強さが宿っていた。
「不意打ちを食らったが、なんだその身体は? 指一本で砕けそうだな」
「早く、連れてきて」
「なんだと?」
 パーシヴァルが表情を歪める。
 メリアは、ケイトリンに、一瞬、本当に一瞬、目配せをした。
「――『連れてきて』『それまで、耐えるから』『私も、連れてくるから』」
 それは。
 ケイトリンに言っている、のか?
 もはや、わからない。姉のこと、アリサのこと。いろいろなことがケイトリンの中で渦巻いていた。だが、メリアの言葉は強くケイトリンの中に反響した。何の考えがないわけでもない。確かな考えに基づいてのこと。メリアが知っていて、けれど、ケイトリンに何かを――託している? ケイトリンでしか知らないこと? 連れてきて。誰を? この場で、ケイトリンでなければ連れてこられない、誰か? メリアが、連れてきてほしい、ひと。
「わかった――――」
 それはきっと、また別の希望だった。
 何か、この場の流れを変える者。
 祈るように、縋るように。
 ケイトリンは倒れている姉の姿を一瞥する。
 お姉ちゃん。
 お姉ちゃん……。
 涙が流れそうになる。
 でも。
 でも。
 立ち止まることは、できない。
 パーシヴァルとメリアが剣を交えはじめる。
 その最中、ケイトリンは駆けた。





「パーシヴァル――」
 メリアは彼に剣を向けた。
 パーシヴァル・イグニファスタス。
 メリアたちを誘拐し、地下室に閉じ込め、非道な実験を繰り返した計画の首謀者。もちろん、その核心にいるのはハイブリッド――すなわち、ハルカ・フレイザーだが、メリアにとっては、ハルカ・フレイザーはどうでもよかった。彼は突然現れた黒幕でしかない。メリアにとって長く恨みつらみを募らせ、復讐心を滾らせた相手とは、紛れもなくパーシヴァルだった。パーシヴァルを殺すためにここまで生き延びたも同然。メリアは、大広間の階下で倒れているクリスティンを一瞥する。彼女もまた、メリアにとっては憎むべき相手であった。だが、あの状態ではもう倒す理由もない。そしてあのクリスティンの妹、ケイトリン。すでにメリアの言葉をきちんと受け止め、走ってくれたようだが、利害は一致している。ケイトリンも敵ではあったが、今、確実に同じ方向を向いていた。
 ハルカ・フレイザーは、あちらで勝手にやってくれればいい。
 こいつを殺すのだ。
 メリアは一歩を踏み出し、跳ねるようにパーシヴァルに距離を詰めた。腹部を狙って剣激を放つ。パーシヴァルは不敵な笑みを隠さないまま、それを剣の柄で防ぎ、手首を捻るようにして拳をメリアに叩き込もうとする。メリアは小さな体で俊敏に動き、上に跳ねるようにして躱しながら、パーシヴァルの頭上を飛び、首元を狙う。パーシヴァルはもちろん対応する。身体を右に捻って避けると、メリアの剣を手で鷲掴みにした。彼の手にはめられたグローブは、剣の刃すら一切の恐れなしに掴む。メリアは目を見開く。パーシヴァルは剣を掴み、メリアの身体ごと遠心力を使って遠くへ放り投げた。空中で体勢が崩れるメリア。それを狙って放たれるパーシヴァルの業火――を、メリアは自らもまた火球を放って対抗する。しかし、パーシヴァルの強力な炎に、メリアの火球が勝てるはずもない。パーシヴァルは、白い歯を見せて笑った。
 ――が、それは囮だった。メリアは火球を放つと、速やかに自分の足許の空中にもう一発小さな炎を噴射させ、魔法浮遊を行った。パーシヴァルの業火が身を隠してくれるギリギリのラインを滑空し、パーシヴァルの視界に入らないところを狙い移動する。自分の炎が消え、メリアの姿がないことに気付いたパーシヴァルは、不意に右方から剣の一撃が迫ってきていることに気付いた。際どいところをパーシヴァルもまた剣で防ぐ。だがメリアは、激突した剣と剣、その衝撃と圧力を支点に身体を回転させ、パーシヴァルの顔面を蹴り飛ばした――。
「ぐっ!」
 メリアの身体は、確かに――つい先ほど、アリサによって徹底的にやられた、はずだった。だが、そのギリギリの状況の中でも身体は、想いを乗せれば動くのだった。自分の過去は、もっともっと、辛かったはずだ。こんなことよりも、ずっとずっと重く、苦しく、壮絶だったはずだ。それを肯定するわけでも、乗り越えたと叫ぶわけでもない。だが、こんな程度では立ち上がった意味もない。自分の命を賭して、復讐を誓い、戦うことを選んだわけではない。身体は動く。メリアは、パーシヴァルが一瞬だけよろめいたのを好機とし、二度、三度目――と、その顔面に殴打をくらわせる。よけきれないパーシヴァル。いける。
「終わりよ、パーシヴァルッ!」
 そう叫び、剣で、パーシヴァルの首元を狙った。
 刃が。
 一閃。
 した。
 ――と思われた。
 メリアの首が、パーシヴァルの手に掴まれていた。
「調子に乗るなよ――」
 パーシヴァルはメリアの首をぐっと勢いよく持ち上げ、吊るすようにした。その勢いで剣を落とし、唸った。メリアはもがき、どうにか手でパーシヴァルの身体に炎を放とうとする。だが、それよりもずっと強い力で、パーシヴァルはメリアの首を締め上げた。グローブの締まっていく音。喉の奥、首の奥、圧迫感が広がっていく。メリアは自分の首を絞めるパーシヴァルの手を必死で掴み、解き放とうとする。だが、その力は強い。呼吸が押し殺されていく。
「っ、かはっ……」
「ハルカの目論見で生かしておいたが、お前らはもういらん」
「……ぐっ……」
「つまらん人生だったな。メリアよ」
 人生。
 つまらない、人生。
 メリアは、押し潰されそうな意識の中、思った。
 私の人生って、なんだった。どんな生き方をしてきたんだっけ。忘れてしまった。思い出そうとすれば、もしかしたら思い出すことができるのかもしれない。けれど、そうまでしなきゃいけないくらいなら、きっと必要のない記憶だったんだ。必要なときになれば、きっと思い出す。でも、もしかしたら、つまらない人生だったのかもしれない。何かと比べれば。当たり前のような日々と比べれば。でも、比べることに何の意味がある? 今、思い出せるのは、大事なこと。大事なこと。――私の人生が、つまらなかったかどうかは、これから、決めるんだ。そのために、こいつを殺すと決めた。復讐すると決めたんだ。そうすることが、私たちの未来を、生を、拓いていくことだったのだから。
「――――ま、だ」
「?」
「まだ、おわ、らない」
「なんだと?」
 メリアは、締められていく喉のまま、強く強く、叫んだ。
「ハヴェン――――――――――――っ!」
 その、次の瞬間だった。
 パーシヴァルはその気配に気づき、メリアの首を離すと。
 後ろを振り向いた。
 そこに。
 天窓の逆光によって陰った、ひとりの影。
 剣を振りかぶり。
 斬りかかる者。
「パーシヴァルッ――――!」
 その剣激に対応すべく。
 パーシヴァルはメリアを突き飛ばし、炎を放つ。
 だが。
 そのたった一瞬。
 たった一瞬に。
 ハヴェンの後ろから、ハヴェンを通過するように、パーシヴァルに向けて雷が放たれる。
 ケイトリンの魔法射撃。
 極めて細い、細い細い、針のような一撃。
 パーシヴァルに直撃し、彼は一瞬、動きを乱す。
 そして。
 放られたメリアとて、決してそれだけに終わらなかった。
 解き放たれ、しかし薄れそうだった意識の中で。
 左手の人差し指を、パーシヴァルに定め。
 放つ。
 炎――。
 雷と炎が、パーシヴァルを包み。
 その衝撃にたじろいだパーシヴァルを。
 ハヴェンの剣が、貫いた。





 パーシヴァルが、声のない悲鳴を上げ、膝を突く。ハヴェンに突き刺された剣。銀色のローブが赤黒く染まっていき、普段の余裕ある表情が苦渋に歪んだ。
「この……ガキッが……!」
「そのガキを甘く見たてめえが悪いんだよ」
「くそが……」
 怒声を張り上げるも、パーシヴァルは、大きく息を切らし、その場に倒れる。血が広がっていき、パーシヴァルは目を閉じる。言葉が失われ、その場が静かになる。パーシヴァルは、刃に倒れた。メリアの放った一撃もまた同時にパーシヴァルの身体に広がり、炎に包まれる。ハヴェンは一発、パーシヴァルの顔を蹴りあげた。反応はなく、身体が転がり仰向けになる。ハヴェンの剣は突き立ったかたちとなる。炎の中の黒い影は、動き出す気配もない。それはハヴェンたちの勝利を意味していた。ハヴェンは後ろを振り向くと、倒れているメリアの元へ駆け寄った。
「メリア」
「……ハヴェン」
「ぼろぼろじゃねえか。パーシヴァルとまともにやりあったのか?」
「ううん、これは――アリサお姉ちゃんにやられた」
「けっ、聞いたぜ。あいつハイブリッドになっちまったんだってな」
「聞いていたんだ」
「ああ、こいつからな」
 ハヴェンはゆっくりと後ろから追いついてきたケイトリンに目配せをする。
 メリアはケイトリンに笑いかけた。
「ありがとう。連れてきてくれて」
「ううん。私こそ、あなたの機転がなければ、きっとわからなかった」
 メリアにはそれしかなかった。メリアの告げた『連れてきて』――叫びは、ハヴェンを連れてくること。不意打ちを与え、パーシヴァルに一閃を食らわすものだったのだ。ケイトリンだけが、彼の居場所を知っていた。パーシヴァルに戦いを挑む間際に、クリスティンがパーシヴァルに斬られたのを見た。そのとき、ケイトリンはパーシヴァルに刃向うと予測したのだ。だからこそ、ケイトリンをハヴェンのところへ向かわすことができた。
「……だから、私も、呼んであげたよ」
「――?」
 そのときだった。
 城の大広間に入り込んでくる誰か。
「遅くなった。呼んで来たぞ――」
 そこには、ヒストリカとロヴィーサ、王国一の治癒魔法の使い手、ヘルヴィニア王・ヘルヴィスの姿があった。





 重傷のクリスティンにヘルヴィスが治療に向かう中、ハヴェンとメリアは、少し離れたところで、順番がやってくるのを待っていた。メリアは仰向けに寝転び、ハヴェンはその横に座っている。ボロボロだったメリアだが、命に別状はない。意識もはっきりしている。もしかしたら、あのアリサが、手加減をしたのかもしれない。余裕の表れだとしても、殺しはしなかった。――もしかしたら、希望はあるのかも。
 ハヴェンは「クリスティンのことは許さねえが、あのまま死なれちゃ、恨みも言えねえ」と、少し不満げながら、ヘルヴィスとヒストリカ、そしてケイトリンに囲まれているクリスティンを見ている。確かに、自分たちがあれほど憎しみをたぎらせた相手は、パーシヴァルたち――そこにクリスティンも含まれているはずだった。けれど、メリアはどこか穏やかな気持ちだった。
「……ハヴェン」
「どうした」
「身体、起こして」
「うん? 横になっていた方がいいんじゃねえか」
「いいから」
 ハヴェンはメリアを抱き上げるように、身体を起こす。メリアはそれから、ハヴェンの顔をじっと見つめ、ゆっくりと彼に抱きついた。ハヴェンは何も言わなかった。メリアは彼の肩に顔を当てて、静かにその温もりに埋まった。どうした? とハヴェンは尋ねる。メリアは何も言わなかった。
 ハヴェンと、作戦上の都合で離れたことはあったけれど、さっきまで、あんなにも二度と会えないことを嘆いたことはない。普段はそんなことは考えたことはなかったのに、ヒストリカの言葉や、魔法が使えないと知って思い出したのも、皆、ハヴェンのことだった。強気な生き方をして、ひとりでも大丈夫だと思えて突っ走ってきたけれど、本当は、このハヴェンというたったひとりの弟がいたから、自分はここまで生きてこられたのだ。
「ハヴェン、ありがとう……」
 ハヴェンは照れも笑いもしなかった。
「俺は逆に謝らなきゃいけないな」
「なにに?」
「見ろ、俺は無傷だ。だけどメリアはぼろぼろだ。俺は自分が恥ずかしい」
「……馬鹿だなあ、私は、ハヴェンが無傷であることが、今は一番嬉しいよ」
 心からそう思った。
 ヒストリカは、心の拠りどころだと言った。今までずっと、メリアは自分が与えられた痛みのために、殺されていった仲間のために、復讐を遂げるつもりでいた。誰の痛みも関係ない、紛れもなく自分たちのために。けれど本当は、弟のために戦ってきたのかもしれない。あるいは、弟と生きてきた過去に報いるために。弟と生きていく未来を勝ち取るために。――こうして再び隣り合って、その温もりを感じていると、そう思う。魔法は失われた。けれど、別にそれでもいい。戦わなくていいのなら。戦いが終わるのなら。穏やかに生きていけるのなら。
「ハヴェン、ずっと一緒に生きてくれて、ありがとう……」
 やはりハヴェンは照れなかった。
 だが、少しだけ笑った。
「何言ってんだ、メリア。俺はメリアの弟だぞ。傍にいるのは当然だろ?」





「私とメリアで突入する際、ちょうど、クリスティンが斬られるのを見た」
 ヘルヴィスの手のひらが、仰向けに寝かされたクリスティンの傷にかざされ、白い光が傷を癒していく最中、ヒストリカはぽつりと語った。ケイトリンは祈るように両手を組み、その様子をじっと見つめている。ロヴィーサは、いつでもクレイドールなどの急襲に応戦できるよう、ひとりだけ立ち、腰の剣に手を添えていた。しかし、その場にいる誰もがクリスティンの回復に視線を向けていることに変わりはなかった。
「メリアが私に、ヘルヴィスを呼んでくるように言ったんだ」
「――そう、だったんですか」
「しかし、パーシヴァル……」
 ヒストリカは、少し離れたところで、倒れているパーシヴァルを見た。今もまだゆるやかに燃える炎に包まれ、倒れたままあっけなくその最期を迎えていく男。ヒストリカにとっては学生時代からの知っている学院の頂点に立つ者だった。非道な計画をハルカと共に行い、メリアたちを苦しめた男。一連の事件の首謀者に当たる人間。その最後が、計画を進めるために駒として利用していたケイトリンの一撃と、ハヴェンの一撃、そしてメリアの炎に焼かれているとは、皮肉な最期だった。ヒストリカは、クリスティンを見る。彼女とは学生時代に友人ではあったが、少しずつパーシヴァルに入れ込んでいくところを間近見ていた。だからこそ、もしかしたら、再び手を取りあえるかもしれないと思える瞬間がやってきたことは、喜ばしいことだった。
 ヘルヴィスの治癒の光が、クリスティンの血を払っていく。綺麗な顔に張り付いている傷や煤、汚れや血が、光によって浄化されるように剥がれ落ち、散っていく。そしえ、まるで眠っているかのような姿まで治癒することができた。ヘルヴィスは治癒を辞める。クリスティンは目を閉じたまま、すうすうと静かに寝息を立てていた。
「もう、大丈夫だ……」
「お姉ちゃんは、生きて、いるんですか」
「ああ。今は、何か――吹っ切れたように眠っているみたいだけどね」
「お姉ちゃん…………」
 ケイトリンは、大粒の涙を流して泣き始めた。嗚咽を漏らして、咳をして、ヘルヴィスにお礼を言おうとしながらも出来ず、大声で泣き始めた。クリスティンは生きていて、今、静かに眠っている。ケイトリンはクリスティンの顔を見つめながら、何度も何度も「お姉ちゃん」と呼んだ。ヘルヴィスとヒストリカ、ロヴィーサは、静かに目を合わせ、人息を吐いた。この姉妹は確かに、一連の事件に与していたが、それはパーシヴァルの意志があまりにも通り過ぎていた。そうなるように、パーシヴァルは一切を支配下に置いたのだ。罪は償わなくてはならないかもしれないが、責められない。ヘルヴィスは笑った。彼はゆっくりと立ち上がると、ロヴィーサと共にメリアの元へ歩いていく。メリアの傷を治すためだった。
 ヒストリカは、ケイトリンを見つめた。
「クリスティンは、きっとしばらく目覚めないだろう」
「…………」
「だが、生きている。ケイトリン、お前も、クリスティンも」
「……――はい……はい……っ」
 ヒストリカはゆっくりと手を伸ばし、ケイトリンの涙を拭った。温かな涙。いろいろなものが決壊した涙だった。このクリスティンが斬られたときも、もしかしたら涙が流れていたのかもしれない。けれど今ここにあるのは、そんなものとは全然違う種類の涙。安堵、喜び。ヒストリカはケイトリンの傍にいて、彼女がじっとクリスティンを見つめている、その横顔を見ていた。ケイトリンの涙をとても喜ばしいものに思った。何かいい方向に動き出していくような、そんな予感があった。少なくともこの姉妹は、きっと……。
 ヒストリカは立ち上がる。
 正面の大扉に近づき、外を見た。騎士団の尽力か、一般の魔法使いたちの頑張りか、空を舞うクレイドールの数は減ってきている。遠くに見える悪魔型の荒れ狂う姿だけが、このヘルヴィニアの目に見える脅威だった。――だが、今はどこにいるかわからない、ハルカ・フレイザー。彼の動向だけが、気がかりだ。アリサを使い、この世界を破滅へと導くということだが、悪魔型の動きだけでは、まだ彼の計画は序の口もいいところだ。
 どうなるのだろう。
 この世界は。
 私たちは。
「アリサ……ウィル……」
 ヒストリカは、愛おしい自分の弟子たちを想った。
 それでも。
 きっと。
 あの二人なら。
 あの二人ならきっと……――。



 
メンテ
Re: ハイブリッド・ブレイズ ( No.48 )
   
日時: 2018/10/04 23:16
名前: エシラ ID:D2C4FPQ6

 死んだ。
 皆、死んでいく。
 私の心の内側で渦巻く、黒い炎。居心地の良さも何も感じない。生ぬるい風。
 思い出すのは、ハルカの顔だった。
 ハルカは、私の全てだったのだ。
 本当の小さな頃、両親が死んだ。ついさっきまで、つい昨日まで、当たり前のようにいてくれた父と母が死んだ。二度と会えない。その意味が解らないほどに子どもだった私は、次の日も、その次の日も、毎日毎日、誰構わず「お母さんは?」「お父さんは?」と尋ねて回った。誰もが私を悲しい目で見た。切なげな目で。同情の目で、憐れみの目で。少しずつ、少しずつ私にもわかった。両親はどこかへ行った。もう二度と会えないところへ。私にそのことを強く刻み込んだのは、ハルカだった。もう、お父さんとお母さんには会えないんだよ――。私は大声で泣いた。その日から、私にはハルカしかいなかった。ハルカがいてくれることが、私にとって生きることだった。
 ハルカは優しかった。途轍もなく優秀で、魔法だって誰よりも上手だった。誠実で、努力家で、何においても決して手を抜いたりしない。常に周りを見て、率先して動き、その精悍な眼差しはいつだって私の憧れだった。ハルカが自分の兄であることが誇らしかったし、そんなハルカの妹であることが、私にはずっと誇りだったのだ。
 だから。
 だから、あの運命の日。
『死亡した試験生の名前は、ハルカ・フレイザー』……。
 きっとあのとき、何もかもが、捻じ曲がったんだ。
 それからずっと泣いて、泣いて泣いて、何度も泣いて、叫んで、ハルカの名前を何度も呼んで――ひたすら、涙を流して。それから、学院を潰して、ハイブリッドを殺すと誓うようになって。けれど、あのとき、私は終わっていたんだ。ハルカが私の全てだった。そんなハルカが死んだのだから、あのとき、私は一度死んだのだ。今の私は、生ける屍。偶然生き永らえただけの、馬鹿な娘だ。ハルカが生きていたとしても、私は死んだ。死んだままだ。誰にも勝てなかったのも、何の意味もなかったのも、操られていたのも、全部、死んでいたから。私の命に意味はない。誰かの縋ったとして、誰かの手を取ったとして、それすら全て、虚構だ。私は、もう、死んだのだから。
 明滅する誰かの顔。
 思い出せない。
 思い出したく、ない。
 ×××……。
 男の子の顔が見える。
 私の手を、ずっと引いてくれた誰かの顔が。
 でも、そんなの。
 どうせ最後に。
 壊れるんでしょう。





 私は緩やかに身体を起こした。
 パーシヴァルの一撃を思いきりくらってしまい、学院長室のガラス窓を突き破って、外へ放り出されたらしい。地面に落下する寸前に、水魔法で炎を消したが、一瞬だけ気を失っていたようだ。身体に目立った外傷はない。――だが、なぜ、あのパーシヴァルの炎などという弱いものを受けてしまったのだろう。彼は弱い。今の私にとってみれば、パーシヴァルなど瞬殺できる。それなのに、なぜ。私は汚れた手のひらを見つめた。
 ゆっくりと立ち上がり、空を見る。
 クレイドールの群れ。
 それなのに、吸い込まれそうなほど青い空。
 その向こうに、黒煙と、悪魔型らしき巨大な足音。
 人間の声。
 悲しみ、叫び、痛み。
 いろいろなものが、私の精神に聴こえる。
 壊れてしまえばいい。
 どうせ、意味なんてない。
 どうせ壊れるのだから。
 何もかも、炎に。
 パーシヴァルにやられっぱなしでは、それこそ癪に障る。
 今度こそ、殺しに――…………。
 そうして歩き出そうとする。
 その、瞬間だった。
「アリサッ――!」
 私の名前を呼ぶ声が、後ろから聴こえる。
 とても、馴染んだ声。私はすぐには振り返る事が出来なかった。そのとき、全ての音が消えた気がした。戦いの音、喧騒、叫び、威勢、崩壊。それらが立ち消え、私の名前を呼んだその声の残滓が、耳に残り、波紋を広げた。身体に響き渡り、居座ろうとする。――確かにそれは、馴染んだ声。居心地の良かった声。
 けれど、今は。
 不快だ。
 私は、ゆっくりと振り返った。
 そうだ。
 忘れていた。
 記憶から削ぎ落とされていた。
 自分から、封印したのかもしれない。
 名前すら。
 顔すら。
 もう、きっと私には必要ないから。
 だから。
 私は、彼と対峙する。
「ウィル…………」
 私の手を引いてくれた人。
 ここまで、ずっと傍にいてくれた人。
 ウィルフレッド・ライツヴィルだった。





「アリサ……無事だったか」
 ウィルは安堵の声を漏らした。そうだ。パーシヴァルの火球を思いきり受け止めてしまったのは、その寸前に、彼が学院長室へやってきて、私の名前を叫んだからだった。おそらく私は、ウォルを特別視している。ケイトリンと手紙をやりとりしたように、きっと『以前の私』にとっては、誰よりも大切な人だっただろう。だから、名前を呼ばれて反応してしまった。だが冷静になれば、それほどのことでもない。『以前の私』はもういない。
 だからウィルは。
 もう、特別なんかじゃない。
「敵の心配をしているの」
「敵じゃないだろ? アリサはアリサだ」
「馬鹿なことを。私はもう、アリサじゃないわ」
「じゃあ誰だよ」
「わからない。私が何者かなんて、どうでもいいでしょう」
 私は空を見上げた。空を舞い踊るクレイドール。遠くに見える幾つもの煙、灰、粉の竜巻。悪魔のいななき。戦いの音色だった。それらとは断絶されたところに、二人はいる。あまりにも静か。この男はもう、特別じゃない。かすかに残っている記憶と、少しだけ間違えかけた想い。それらはすべて、どこか心の内に残っているようで、しかしそれらはとても無機質な映像のようだった。私はそれらを、自分のことのように取り出すことができない。
「もしかしたら今、誰かが、死んだのかもしれない」
「……アリサ」
「それらも全部、私が引き起こしたのよ」
 私は、ハイブリッドだ。何もかもの渦の中心。ハルカが作り出した糸に手繰り寄せられ、何もかもを悟った。この私は、このために生まれたのだ。何もかもが殺され、失われ、墜ちていく様を見届けるために。私には、それだけしかない。それだけ、たったそれだけのために呼吸が続いていることの、無為さ。この男は、そんな無為な私を、アリサとまだ呼ぶのだろうか? どうして、そんな無意味なことをするのだろう。
「アリサ……俺は、お前に謝らなくてはいけない」
「…………」
「俺が事件の推理を語った晩、お前を――たったひとりにさせてしまったことだ」
 憶えている。この男から、私の兄であるハルカ・フレイザーが、自作自演によって死を演出し、今も生き永らえ、全ての計画を弄したこと。私はそれを信じられず、信じ切れず、逃げ出した。私のためを想って語ったこの男の言葉を、初めて信用せず、疑い、飛び出したのだ。そして、パーシヴァルに負け、ハルカと再会した。
「俺は、お前を一人にするべきじゃなかった」
 彼は切なげな顔をする。
「絶対に、傍にいてやらなくてはいけなかったんだ」
 ウィルフレッド・ライツヴィル。
 私は、今、その瞳に何も思わない。
 しかし。
 この男がいたから、私はまだ生きているのだろう。
 この男がいなければ、きっとずっと昔に、折れていたのかもしれない。
 それでも。
 もはやそれは、過去の話だ。
「あなたが、気に病む必要はない」
 私は切り捨てるように言う。
「もう、傍にいてもらわなくてもいい。それは、過去の私。もう私は、あなたの知っているアリサじゃない」
「だけど今、俺の名前を呼んだだろう」
 しかし今度は、
 彼は、私の言葉に、柔らかく、目を細めるのだった。
「ウィルって呼んだ。その呼び方、間違いなくアリサだ。俺の知っているアリサだよ」
 この状況で、なぜそんな笑い方ができる。
 私はハイブリッドだ。この世界に災厄をもたらすために生まれた魔法使いなのだ。その気になれば彼なんて瞬時に殺すことができる。今、ヘルヴィニアを闊歩するクレイドールも全て、私という存在が生み出したのだ。人間にとって、この世界にとって、私は脅威そのものだというのに、なぜ、それを前にして笑うことができる? 
 私は自分の手に炎を纏わせた。
 黒い炎。
「けれど、あなたの知っている私は、あなたを攻撃したりしないでしょう」
「そうかもしれない」
「殺すわよ」
 同じだった。今の私の目には、パーシヴァルと同じように、彼の動きが予測できる。彼の佇まい、足の位置、手の位置、それら全てで彼がどのように動くかが想像できた。それを思えば、一気に距離を詰めて炎を叩き込むことも造作ない。あるいは剣で叩き切ることも簡単だ。――それは彼とて分かっているはず。それなのに。
「殺してみろよ」
 ウィルは剣を構えた。
 その微笑みは何だ。
「――――死んで」
 私は呟き、一歩を踏み出すと、地面を蹴り、瞬時に彼に近づいた。炎を手のひらに溜め込み、撃ち放とうとする。――しかし、彼は素早かった。私が動き出すのとほぼ同時に地面に風魔法を放ち、その反動を持って空中に浮遊していた。私は右手を空に向け、人差し指を立てる。魔法射撃。まるで光線のような炎を空を飛ぶ彼に撃ち放つ。彼も負けじと、空中で風魔法を連発し、私の炎を躱した。――彼の風魔法を抑制されている。余分なものがない。空中浮遊をするのに必要なだけの風を確実に、丁寧に丁寧に練り上げ、弾き飛ばしている。魔法射撃も、際どいどころで、しかし徹底的に避けられてしまう。私は炎を地面に撃ちこみ、同じように空中に浮遊した。一気に彼に詰め寄り、彼の肩口に向かって剣を抜き打ちする。彼もまた、剣を腰から抜き、私の剣を防いだ。
 ここだ。私は、自分の剣と彼の剣が衝突した位置を支柱にして身体を捩り、彼の顔に右足の蹴りをくらわせようとする。彼はそれを身をかがんで躱し、私に風球を撃ち放つ。もちろんそれも計算済みだった。剣を持たない側の手で横方向へ小さく炎を噴射し、その勢いで移動する。彼の背後を取る。振り向きざま。完璧なタイミングだった。私は片手に瞬時に火球を練り上げ、彼の背中に撃ち放った――――。
 はず。
 だった。
「!?」
 私の身体が落下する。
 火球が、私の手から離れなかった。
 火球を彼の背中に解き放った、はずなのに。
 私は地面にすっと降り立つ。
 彼もまた、私と少しだけ距離を置いて、地面に着地した。
「どうしたんだ」
「――――――」
 今、魔法を撃つことができなかった。
 魔法に失敗した?
 そんなことが、あるの?
 ハイブリッドである、この私に?
「今、俺を、殺せただろ」
 ウィルは私に言った。
 癪に障る。
「……少し、しくじっただけよ」
「そうか。本気で来い」
「挑発しているの」
「いや、俺は、お前と戦ってみたいだけだ」
「私と?」
「ああ」
「死にたい、ということ?」
「違う。俺は生きたい」
「だったら、どうして」
 今の私は、ハイブリッドだ。ハルカと力を二分して生まれた存在とはいえ、伝承にも語られる最強の魔法使いなのだ。その片割れと、戦いたい? どうして? 私には理解できなかった。彼の何もかもが。腹立たしい、苛立たしい。それ以上に、目を逸らしたい。現れた瞬間に、彼は私にとって不快だった。何か、私の存在を揺らがすような。心を打ち崩そうとする異分子。自分にとって脅威にしかならない存在。さっきから、理解の及ばないことばかりを言う。私は、最強の魔法使いの片割れ。それなのに、どうして、戦いたいなどと。
「お前を救うために、戦いからは避けられないと思った」
「……私を救う?」
「ああ。別に、お前と戦いたいというのは、自殺しに来たわけじゃない。俺は生きるんだ」
「馬鹿な。生きたいのなら、逃げたらいいのに」
「逃げるわけにはいかない」
 彼は剣を下げ、私を指差した。
「お前と生きたいんだ、アリサ」
「――――――――」
「だから、俺は本気だ。お前と戦うことで、お前を救う」
 私の心臓が、脈を打つ。
 誠実な眼差し。
 吸いこまれるような。
 美しい瞳。
 真っ直ぐすぎる視線。
「私、と」
「そうだ。俺はお前に、生きていてほしい」
 胸が痛む。
 頭痛がする。
 生きる?
 生きるって何?
 こんな、虚ろな世界で。
 生きていたって、何の意味もないと。
 証明されたくせに。
 絶望しかない。
 無意味な命。
 どうせ滅びていくのに。
 どうして。
「うるさい!」
 私は叫んだ。
 彼に向かって火球を撃ち放つ。撃って撃って、何度も何度も撃ち放った。彼はそれを横方向へ全力疾走することで躱す。――彼は、殺さないと駄目だ。私を乱す者。私の心を撃ち砕こうとする。私にとって邪魔なんだ。私は彼を追いかけた。絶対逃がさない。彼は後ろ手に、こちらに魔法を放つ。竜巻が私の元へ鋭い針のようにやってくる。だが、手加減していることが見え見えだった。そんなことで、私に勝てると思うのか。
 私は高出力で地面に炎を撃った。
 勢いよく地面から飛び立ち、彼に瞬時に迫る。
 剣を抜き、彼の首を狙って。
 一閃。
 躊躇なく。
 やった。
 ――はずなのに。
「どうして」
 私の剣は、彼の首の寸前で停止した。
 どうして。
 どうして。
 どうして。
 今、私。
「アリサ」
「――」
 彼が私を呼ぶ。
 違う。
 こんなことは、有り得ない。
 私は、次いで彼に炎を撃とうとした。
 彼の腹部に手のひらを押し当て、零距離で、炎を撃ち放ち、爆発させようとした。
 それなのに。
 魔法は出ない。
 使えなくなった?
 違う。
 寸前まで当たり前に使えた。
 私は後ろに飛んで、ウィルと距離を取る。
 風が吹く。
「どうした」
「…………」
「殺してみろよ」
 ウィルは剣を鞘に収めた。
 彼は自分の両腕を広げ、胸を開放する。
 無防備に。
「ほら」
「……舐めないで」
 私は自分の手のひらを、彼に向けた。
 火炎放射。
 いつも通り、やれる。
 造作もない。
 基本中の基本。
 それなのに。
 心臓が高鳴る。
 汗が吹き出し、額から流れ、鼻に伝う。
 手のひらが震えた。
 彼の身体に、心臓にかざしたはずの手のひらが、大きく揺れる。
 どうして?
 どうして、こんな。
 震えが止まらない。
 頭が痛む。
 眩暈がする。
 胸の奥に、刃物が入っているかのように痛い。
 痛くて、溜まらない。
 彼を殺そうとすると、痛い。
 私は頭を押さえた。
「どうして、殺せないの……こんな、こんなことが……」
「アリサ、お前は、それでもアリサだ」
「何を、知ったような、口を」
「だから、今までずっと一緒に過ごしてきた俺を、殺せるわけがない。アリサはそんなにひどい奴じゃない」
「うるさいッ!」
「アリサは優しかった、ずっと」
「黙れ! 黙れ、黙れ!」
 私はむやみやたらに、闇雲に魔法を放った。
 巨大な火球が彼の元へ放たれる。
 だが。
 彼は一歩も動かなかった。
 私の火球は自然と外れ、彼のずっと向こう側で爆発する。
 爆風が彼の髪を振り乱すが、それでも。
 ウィルは、私を見ている。
 動じない。
「アリサ」
 私の名前を、呼ぶな。
 甦ってくる。
 私の中に。
 私は頭を押さえて、膝を突き、うずくまった。
 ウィル。ウィルフレッド・ライツヴィル。私がハルカを失ったとき、彼は――ずっとずっと、傍にいた。何も言わなかった。慰めも、励ましも。ただ、私の日常を支えるためだけに一生懸命になった。泣き疲れた日に、ベッドまで運んでくれた。温かな飲み物を出してくれた。何も言わず、笑ってくれた。そして、私の意志を全て尊重した。涙が枯れた頃に、立ち上がって、復讐を誓った日。それに力を添えてくれた。あの日、ハルカがいなくなったと知った日。私は生まれ変わった。そして、それからの私の生に、ウィルは必ずいた。そして、そのひとつひとつ、全部全部、彼は笑っていて。私は彼の導きによって、ここまで、やってきて。――今、ここにいる。
 そんなこと、本当はどうでもいい。
 今の私には、どうでもいいんだ。
 それなのに。
 明滅する。
 身体の内側から、何かが叫ぶ。
「うっ……あ…………」
「アリサ!」
 彼が私に駆け寄る。
 私の背中に手を添えて、顔を覗きこもうとする。
 どうして。
 こんなときまで、優しいの。
 あなたは。
「…………ウィル」
「アリサ?」
「…………私は、あなたが」
 そのとき、痛みに耐えかねた体が。
 私の意識を途絶えさせた。





「やっぱり、たえられなかったね」
 ウィルは、気を失ったアリサゆっくりと寝かせた。
 そのとき。
 声が響く。
 ウィルは眉間にしわを寄せた。
 ゆっくりと立ち上がり、剣を抜いた。
「――――会いたかったぜ、お兄さん」
「……こんにちは、ウィルフレッド・ライツヴィル」
 ウィルは彼と対峙する。
 黒の佇まい。
 不敵な笑み。
 死んだ瞳。
 漆黒の髪。
 ハルカ・フレイザー。

 


 
メンテ
Re: ハイブリッド・ブレイズ ( No.49 )
   
日時: 2019/03/24 16:37
名前: エシラ ID:anQXhEgY

 遠く激震する戦いの音、強大な足音、強靭な唸り声に悲鳴。それらが遠く遠くに、少しずつ霞みがかっていく。ウィルが立っている場所が、世界の境界とは少しだけ外れた位置に移動したかのような感触に陥る。それが何を示すのかはわからない。しかし、確実に目の前の――――ハルカ・フレイザーという存在そのものに対する認識がもたらしたものであろう。何か特別な能力が世界を覆ったのではなく、ウィルの中で、今、目の前の存在と相対しているということだけに、全神経が集中していたのだ。ウィルはまだ、剣を構えなかった。
 ハルカ・フレイザーは笑っていた。
 ウィルは気絶したアリサに目配せをする。
 安らかさとは程遠い、意識の断絶の内側で未だに痛みを感じているかのような、眉を寄せた表情。その無意識の奥で何を考えているのか、何を見ているのか。ウィルはアリサの頬を人差し指で軽く撫でた。この表情が、ただの安らかな眠りだった頃は、アリサにとって、いったいどれくらい前のことになるのだろう。五年、いや、もっと前から? アリサには血が通っている。あんなに赤茶に眩しかった髪は、今は黒に染まってしまっていた。それでも。温もりはあった。まだ、アリサは人間だった。ウィルは奥歯を噛み締めると、眠っているアリサから目を逸らした。
 そして。
 ハルカ・フレイザーと向き合う。
「ウィルフレッド」
 彼は途轍もなく穏やかに言った。穏やか過ぎて恐ろしいくらいだった。悪の権化。かつて王様とヒストリカから教わった、殺人鬼の伝承。人間を滅するため、世界を制圧するため、遺伝子も何も関係なくこの世に生まれ落ちる絶対の存在――ハイブリッド。その一端を担う存在として、裏で総てを操り、アリサを操り、何もかもを騙し、こうしてヘルヴィニアを戦に叩き込んだ張本人。そのはずなのに、彼の言葉はあまりにも艶めかしく、しかし平坦で、同時に『受け入れやすすぎる』穏やかさに満ちていた。心の隙に入り込んでくるような柔らかさ。ウィルは身構えた。
「ありがとう」
 ――だが、生まれた言葉は意外な言葉だった。
 ウィルは怪訝な顔をする。
「……ありがとう、だと?」
「うん。ぼくはね、どうやったらアリサを絶望に叩き落とすことができるのか、それだけを考えていたんだ。生まれた瞬間に、後に生まれてくる妹に、ハイブリッドの力を半分奪われてしまったと悟ったその瞬間から、ずっと。そのために、父と母を殺した。そして、僕も殺したんだ」
 本当に何の抑揚もなく話す。しかし、感情がないわけでもない。人間としての『基本形』に忠実。ウィルはアリサと一緒にいたことのハルカを知らないが、伝え聞いた限りでは、もっと優しく、誠実で、精悍なものだと感じていた。もちろん、今の目の前のハルカも、優しげで、誠実そうだ――――だが、決定的に違う。
「でも、それだけでいいのか、と思っていた。まだ足りないかもしれないと」
「――――それが、俺」
「そう。もちろん、君をぼくたちの仲間にできたら、一番よかった。君もぼくの駒になって、アリサを最後に裏切らせたら、それが一番、切り札になり得たのかもしれない。でも、そうはできなかった」
「ふん。あんたの駒なんか、俺はごめんだ」
「わかっている。だからよかった。裏切りの役目はケイトリンに任せて、君は、むしろ逆にアリサにとって真っ当な仲間として頑張ってくれた。君が、ずっとずっとアリサと一緒にいてくれたから、アリサに迷いが生まれたんだ」
「……迷い」
「アリサはひとりでよかった」
 ハルカはウィルを真っ直ぐに見つめた。
 その瞳。
 ぞっとするほどに恐ろしい瞳。
 黒々しい宇宙。
 吸いこまれる。
 その美しさの中に。
 言葉まで混じる。
 罵倒。
 扇情。
 突き刺すような。
 しかし、それすら。
「アリサがずっとひとりぼっちであったなら、アリサはこんな目に合わずに済んだ」
 ウィルは絶句する。
 ハルカの声そのものが、ウィルを包もうとする。何かが実際にウィルを包んだわけでもない、近くにいるわけでもない。しかし、ウィルは立っていることすら難しくなるほどに、その言葉に、追いやられる。無機質さの中にある不透明感。見えない何かの重苦しさ。それらが矢のように突き刺す。重く、鈍く。あんなにも平坦な言葉遣いだというのに。心が折れそうになった。残響する。脳を食い荒らそうとする。ハルカの声ひとつひとつに意志があり、ウィルを追いかけまわす。
「おまえのせいだ、ウィル」
 ウィルは唇を噛んだ。
 響く、脳に、骨に、胸に。
 おまえのせいだおまえのせいだおまえのせいだ。
 ここは、学院の広場。
 それなのに。
 深い沼に叩き落とされたような感覚さえする。
 冷たく、足のつかない。
 深い。
「黙れ」
 ウィルは、剣で空中を横に一閃した。
 鋭い音が響く。
「俺を惑わそうとしたって、そうはいかない」
「惑わすつもりはないさ。本当のことを言っている」
「それが嘘じゃないか」
「嘘なものか。ウィル――――君と出会ってしまったために、アリサはずっと苦しくなった。アリサが歩んだ道が、ずっと残酷で苦しいものになってしまっていたんだよ。君が、アリサの『心の拠りどころになってしまった』がために」
「俺を追い詰めたい、でまかせだ」
「アリサは孤独に、ひとりぼっちで復讐に進むべきだった。今のアリサは、いろいろなものに挟まれて、苦しくて苦しくて仕方がないだろう。見なよ、そこで苦しんでいるアリサを。そうしたのは、全部君だよ、ウィル」
 もし、俺がアリサと出会わなければ――。
 ウィルは想像した。
 どうなっていただろう。
 父親を失った日。父が帰ってこない、あのとき、アリサに出会った。あのとき、自分とアリサの運命は交わった。あの日、出会わなければ。もし、ほんの少し、たった一時間だけでも自分の時間がずれていたら、アリサと出会うことはなかったかもしれない。そうなったら、いったいどうなっていただろう。アリサは延々に学院の門の前でハルカを待ち続けたかもしれない。そして帰ってこないまま、捜し歩いたのかもしれない。ターナーの手紙も知らないまま。その先のアリサの未来はウィルには想像できない。何らかの手掛かりを掴んで、勝手に「ハイブリッド」という存在を復讐の相手だと定め、力を付けるのかもしれない。 けれど、そんなものは全て仮定だ。
 ウィルはアリサと出会った。
 それは、ターナー・ライツヴィル――父親がハルカに悟られぬように出した手紙がもたらした出会い。それはハルカには予想しえなかったことのはずだ。だがハルカは、自分の計画を軌道修正し、ターナーの手紙すら計画のうちにした。ひとりぼっちで生きていくはずだったアリサを、もっと苦しめるために、ウィルをその役目に陥れたのだ。
 ハルカは、指をぱちんと鳴らした。硬いものを細長い錐のようなものでひっかく、甲高い不快な音を立てながら、ハルカの手の内で黒い炎が湧き上がった。邪悪な炎。燃え盛る色合いの中に光が見えない。一滴の赤もない。完全無欠な黒。だが確かにそれは燃え盛る炎だった。嘆きの色。明滅する瞬きすらない。濁りのない絶望だった。ハルカはそれを火球として膨らませ、ウィルに向かって解き放つ。凄まじい勢いで放たれる熱気に、ウィルは気圧され、一瞬行動が遅れた。地面を蹴り出して魔法浮遊をするも、ローブの端をもぎ取られ、熱流の風にバランスを崩す。――――その刹那に、ハルカは空中に投げ出されているウィルに近づくと、腕に炎を纏わせ、ウィルの腕を掴もうとした。殴るのではなく、燃やし尽くそうとする意志だった。ウィルは瞬発力のある風を一瞬だけ噴射して体勢を立て直すと、ハルカの首の側面を狙って剣を振るう。だが、ハルカは手のひらに作った炎でそれを受け止めるのだった。炎そのものが質量を持ち、剣の一撃を受け止めるなど――ウィルは唖然とする。ハルカは剣先から炎を伝わせ、邪悪な炎がウィルの手元まで瞬時に忍び寄った。
 冷たい。
 冷たい炎。
 ウィルは咄嗟に剣から手を離してしまう。そのあまりの冷たさに背筋まで凍った。そのとき、ハルカと目が合う。微笑み。ハルカは微笑んでいた。ハルカはウィルの首を掴んだ。「ぐっ!?」そのまま二人は落下し、ウィルは地面に叩きつけられる。ハルカはウィルの上に跨り、彼の首をじわりと閉めた。ハルカの手のひらはぞっとするほど冷たかった。
「っ……ぐっ……」
「ウィル、この世界はどうなると思う」
「……なん、だと?」
「この炎が覆う世界を、想像してごらん。燃え盛る炎は消えない。熱が何もかもを包み、逃れられない。海も大地も皆、焦げる。人々は嘆き悲しむ」
 ハルカの生み出した炎が、この世界を覆う。その冷酷さ、あまりにも冷たい炎が世界に大きな打撃を与える場面を――そこに青空は当然ない。あるのは、暗く昏い、地平線。延々に、永遠に。これほどまでに冷たい炎が、いったいどんな温もりを生むというのだろう。この炎は、天に輝く日の星さえも凍らせるような気がした。ぞっとするのではなく、何かが忍び寄るような冷やかさ。ウィルはハルカの手を解こうと、彼の手を掴み、力を込めた。
「ウィル、君はここで死んだ方がいいと、そう思わない?」
「…………」
「冷たい未来。この炎に凍りつかされる未来など、愛想が尽きたりしないの」
「…………」
「もう諦めても、いいと思うけどなあ」
 諦める?
 諦めるだと?
 何を?
 世界を?
 未来を?


「――――――――ぐっ、……う…………」


 そのとき。
 誰かの、苦痛に蠢く声がした。
 首を絞められながら、ウィルは耳を澄ませた。
 苦しみ。
 嘆き。
 悲しみ。
 アリサ……。
 横目で、気絶しているアリサを見た。
 地面に倒れたまま、長い黒の髪を乱したまま、昏睡している。
 黒髪。
 あの赤茶色の髪が、絶望に染まった色。
 そんな風に、いろいろな色が、黒く染まるのだろう。
 このハルカ・フレイザーの望む世界は。
 ウィルは歯を食いしばった。
「諦めるわけねえだろ」
「……ウィル」
「俺はな、ハルカ。お前を一発ぶん殴らないと、気が済まねえんだよ」



 

 私はそのとき、闇の中にいた。
 黒い、遠くまで光のない空間。
 自分の身体の感覚がない。
 微かに目を開いていて、黒々しい世界を見つめている、視覚だけが確か。
 私は、確かにここに立っている。
 そうして。
 目の前に、黒い髪の女が現れた。学院のローブを身につけ、目の色のない女。この場所を満たす黒色がそのまま瞳に色に宿ったかのような、黒。溢れ出る瘴気。ぼうっと浮遊感のある佇まい。そんな女が私を見つめている。女は口元に微かな笑みを宿して、私に問うた。「アリサ、どう、気分は?」――女の声は遠くまで響いた。
「何も感じられない。あなたは、誰」
「私は、あなた。『ハイブリッド』として生まれ落ち、しかし、あなたの心の内側で隠れていなければいけなかった、殺人者の魂。あなたが今日まで十五年間、ずっと忘れていた、生まれてきた意味」
 女は、まるで私に抱きつきなさいと言うように、両手のひらを左右に広げて見せた。私、は、アリサ――少しずつ思い出してくる。私の名前は、アリサ。アリサ・フレイザー、だった。彼女の声は私によく馴染んだ。自分の手のひらをそっと持ち上げてみる。そこには確かに手があった。傷だらけの指。曲げ伸ばしたらきちんとその通りに動く指。暗闇の中でもまだ見える自分の身体。何も感じられないと言った、自分の声も、どことなく聴こえる。
「私は、殺人者として生まれてきたのね」
「そうよ。あなたは、人間を殺戮するために、生まれ落ちた」
「……そう、ね」
 私は笑った。笑うことができた。
「もう、それでいいわ。なんだか、疲れた」
「じゃあ、明け渡してくれない?」
 黒い女が、ゆっくりと私に迫った。
 そして、私の頬にそっと手を添える。まるで冷たい器のような、氷のような肌触り。冷たい。生気の感じない、指。女は私の頬を撫でると、ゆっくりと指先をずらして、私の唇に触れた。上唇と下唇を、彼女は人差し指で丹念になぞった。何かをいつくしむように、愛おしく思うように。私は何も言えない。そうして迫った彼女の顔面。黒い瞳。彼女は私で、私は彼女だから、背丈も何もかもが同じだった。こうして顔を寄せ合うと、目線があまりにも近すぎて、驚く。何もかもが鏡、なのだ。
 彼女はそう言った。
 明け渡して、くれない?
 私は彼女と見つめあう。
「何を?」
「あなたの、全てを」
「何度言えばわかるの。私は、すでに明け渡している。何もかもを。だから『あんな風に』なったでしょう。ハルカに、そしてあなたに、心も身体も許した。私の炎は黒く染まり、髪も染まり、言葉も染まった。殺戮に何の躊躇もないわ。好きにしてくれていい。私はもう、どうでもいいの」
「嘘を吐かないで」
 彼女は囁くように言う。
「じゃあ、なぜあなたは『ここにいる』?」
「…………」
「心も身体も明け渡したなら、ここにあなたがいるはずがない。私しかいないはず。なぜこの、精神の内側の世界に、私とあなたがいる? 答えは簡単。あなたはまだ、私に何もかもを許していない。まだ、未練がある。生きたがっている。殺戮など、どうでもいいなどとは思っていない。何かをまだ見つめ続けたいと、そう願っている」

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