シロハの辻褄 ( No.404 )
日時: 2014/02/16 22:46
名前: sakana◆092jpOU0d. ID:8EeX0XxQ

 わたしが目覚めた夜、キミは瞳をくり抜かれ生きていた。
 ぼくが寝付いた朝、キミは脳天を刺突され死んでいた。

 すべては《わたし》たちが生まれ落ちたその日から。

 ■

 双子ねぇ。
 妙に執拗な口調で、さぐりを入れるかのようにバイソンは訝しげな視線をハドウへやる。対してハドウは、口元へやってきた杯をコトリと分厚い木のテーブルへ置き、なんともないような顔でええ、と言った。
「そんな話、聞いてないわ」
「言ってませんでしたから」
「へぇ……それで、そっくりさんがいるのねぇ。でも何故、あなたはその子がここにいると知らなかったのかしら? 家族でしょう?」
「そりゃあ、家族といっても、ずいぶん前に出てきた家の、ですし。今更繋がりなんてありませんよ」
 残り少ない杯の中の酒を一気にあおり、そっくりさんという言葉を口の中で一度復唱した後、ハドウは席を立つ。バイソンはそんなハドウのを注視する様子も見せず、高揚した頬を冷やすかのように頭をテーブルへ落とし、そっとほおずりをした。この日、バイソンはそれ以上の詮索をせず、ハドウもまた、余計な一切を決して口にはしなかった。
 この世界に存在する五つ国のひとつ、バリトンミリア帝国の首都カガルデにある場末の酒場でのことである。
 ハドウ青年の同僚であり上司でもある、なんとも雄々しき名を持つバイソンに呼び出され、神妙な顔つきでもたらされたひとつの話題。それはハドウとそっくりな顔を持つ男の話だった。バイソンはそれを、はじめはハドウ自身と思い、武器屋になんの用があるのかと遠くから眺めていたそうだ。しかし声を掛ける前に、大通りの石畳を貴族か商人かの馬車が駆けたかと思えば、その姿を見失ったというわけらしい。そして一体何のようだったの? とバイソンは聞き、ハドウは自分ではありませんと答えた。
「武器屋なんて、めったに入るものじゃないでしょぉ? 騎士や兵士、仰々しい飾りを欲する貴族、あとは子が生まれたときに贈る護身用の懐剣を買い付けるときぐらいしか利用しないモンだし」
「顔は確認しましたか? この隻眼、とか。目を懲らして見れば、左右の違いに気づくでしょう」
「ああー、そこまでは見てなかったわぁ。ぱっと見ただけじゃ分かんないし。だって普通、そっくりさんなんてそこらへんほっつき回ってないでしょ」
「……まあ、そうですね」
「で、あなたじゃなかったら何なの。心当たりある?」
 そして冒頭だ。
 酒代として幾らかの金品を置いたハドウは財布を確認し、寒いなあと呟いた。実際に外は寒かった。酒場には大酒飲みの男がいつもたむろしているし、騒ぐ彼等を見てちびちび安酒を啜るだけでも、男共の熱気で十分暖まるのだ。少々不本意なことであると思うこともあるが。
 冷たい風が酒で火照った体を冷やす分にはちょうど良いのかもしれない。しかしハドウにとって、ボコボコと空いた心に好き勝手出入りする侵入者のようで、快いものではなかった。その隙間風に向かって宙で毒づく。そうして一気に冷えてしまった指先で、髪に覆われる左の窪みを触った。眼球は入っている。作り物の眼球だ。幼い頃、抉られた瞳。それをくり抜いたのは誰だったか。
「ーーそう、大体、あれは女だ」
 バイソンが見たという、ハドウそっくりの男。しかしハドウの覚えている《双子》の、もう片割れは女だった。それこそ、もう何年も前に離別した身内だった。
「……僕と間違われるほど、髪を短く切ったか。しかし、何のために」
 ハドウは肉屋だった。詳しく言えば肉屋飛脚、更に言えば肉だけではなく、手紙や荷物をもついでに扱っていた。しかしハドウ自身はが直接運ぶのではなく、頼まれた荷物の整理や支払われた金品の計算、また時には受付をするのが仕事だった。そして、護衛付きの信用できる商人や未だに主のいない身元のはっきりした黒騎士、その他同じく身元がはっきりし、腕の立つ者へ、その信書を書くのだ。兵士でもない隻眼の男が、人の信頼を得てようやく辿りついた仕事だった。しかし受付をしている最中、それが訪れる客へ知れたならば、一気にハドウの信頼は地に堕ちる。要するに怪しいのだ。その経歴に何があったのかと人は勘ぐる。それが決して良いものとは思わないだろう。病気であれ、事故であれ、いちいち吹聴する必要も気力もなく、そして事実を正しく知りたいという者もそうはいない。
 そうして彼女の話題。ハドウに扮装しているがために、彼女が一歩を踏み出す度に、この勝ち取った信頼をボロボロ蹴飛ばし崩していかないかと不安にもなるものだ。
「……ともかく、無駄な外出は控えるか」
 しばらくぶりの、血の繋がった身内である。己の前に現れたのにも何か意味があるのだろうとハドウは考える。それも、それほど良くない類いのものが。
 夜空に点々と輝く多々の星々。これから本格的に、厳格な寒さを催すであろう冬の訪れに、ハドウは思わず肩を抱いた。

 休日には、まだほど遠い。
 昨日訪れたばかりの休みでは、夕方になるまで部屋に籠もり、寝だめをしていた。夜には上司のバイソンに呼び出され、酒盛りをした。そうして、また朝が訪れる。
 ともかく毎日が忙しいのだ。肉の仕入れはバイソンが朝一にやっている。ついでに首都カガルデ内向けの配達もバイソンが担当責任者である。そしてハドウは首都カガルデ以外の国内向けの信書をせっせと書き、その宅配物の整理をする。他にも雇われている者は多々おり、中々騒がしい職場であった。
 対して雇い主はたいそう年を食ったじいさんである。年寄りの性か、朝は早く、しかしのんびりと茶を飲んでいる。常々バイソンは言う。助平じいさんではなく良かったわ。そんなことやあんなことをしなくても、時が来れば私に店を譲ってくれるっていう話ですからね。ハドウは思う。いくら端麗な容姿をしていても、手と足と口が、次々と繰り出されるバイソンにそんなことをする者は、命知らずかただの馬鹿でしかいないだろうと。
 そしてこの日、ハドウが他の同僚から受付の交代を申しつけられ、しばらくしたときのことである。
 人の話し声や足音が絶えず、誰もが忙しく行き交いする大通りの一角。
 通りに向けられて開かれた窓口。案内をも兼ねている場所であった。机の上に散乱した郵便物とにらめっこしていたハドウの目の前に一通の手紙が置かれる。通りからだ。客が来たのかとハドウが口を開きながら顔を上げ、
「受付はあちら……」
 と、最後まで言い終わらない内に相手の顔を確認するなり、言葉を留めた。
 相手も自ら出した封筒に手を掛けたまま、その場に佇む。フードを被った女だった。しかし髪は黒く短く、男であるハドウとほぼ同じような長さだと確認でき、その右目は蒼く、左目は黒い。
「…………」
「…………」
 にらみ合うかのように見つめ合った後、痺れを切らし口を開いたのはハドウだった。己に用があるのかと怪訝に思いながらも、貧乏揺すりのように笑う膝を押さえつけながらの言葉だった。痺れを切らした理由として背後から茶々を入れる同僚や、首都内向けの郵便物ならこっちに持っておいで、と催促するバイソンの存在は大きい。
「受付はあちらの女性のところです」
「意外に、顔が広いんだ」
「は?」
 久しぶりの、兄妹の再会に訝しむような固い声色で対応する。何を考え男の格好をしているのかハドウには理解できなかったが、声色は女性のそれだった。
「顔を出して歩いていたら、ハドウの居場所、直ぐに知れたよ。今日はお休みなんですか、肉屋の仕事はどうしましたかって街行く人が、ね」
「……郵便物の受付はあちらです」
「話がある。その手紙を読んだ後、適当に捨てろ」
「郵便物の受付はあちらです」
「……大切な話だ。それでその後」
 声のトーンを下げ、そっと彼女は告げた。それに顔色を変えることなく機械的に「郵便物の受付はあちらです」と言ったものだから、彼女は釈然としない、という風に眉を下げ、バイソンの元へ握りつぶした手紙を持っていった。
 彼女が視界からいなくなった後、身体に入っていた力を緩めほっと一息ついたところで、再び背後で荷物の仕分けをする同僚に囃し立てられる。
「顔は見えなかったけどさ、いまの誰? 女の子だろ。かわいー声だったよな!」
「ああ、ああ! おまえ、バイソンさん以外まったく女気がないかと思えば、ちゃっかり確保してるじゃねーか! 紹介しろよな、おい! ……あ、でも、だからってバイソンさんをわざわざ紹介するのだけはゴメンだぜ……アイテッ!」
「誰はごめんだって?」
 いつの間にか、背後に立っていたバイソンに同僚等は頭に怒りの鉄拳をもらい、突拍子のない声を上げた。いままで受付やってたのに、何でこっちに急に来るんスかー! と涙目で訴える同僚の言葉で、バイソンははたと目を瞬かせる。
「そうそう、さっきの子が持ってきた手紙だけれど。これ、あなた宛てだったわ」
「あ。ありがとうございます」
 受け取った手紙を懐へ入れれば、
「いま読まないの?」
 と、バイソンは首をかしげた。
「いまは仕事中ですので」
「お堅いねぇ。ちょっとぐらいいいのに」
「いいえ。帰って読みます」
 はっきりと告げたハドウに、同僚は「おもしろくねぇーな」と呟き、バイソンは「なら、仕事頑張ってもらわないとね」と笑顔を浮かべた。
「そういえばさ、さっきなんて言われたの? こっそり耳打ちされたみたいだけど……まさか、いやらしい話?」
 いやねぇ、と頬に手を当てながらバイソンは問うた。いやいやと言うわりには、自分からその話題を持ち出すバイソンだった。からかわれている自覚のあるハドウは曖昧に笑い返し、先ほどの言葉を脳裏に浮かべる。


「あなたを殺してやる」

 懐かしい声で、シロハはそう言った。

 ◇◇◇

 夕方になり、本日の営業も終了したところで、荷を預かる倉庫で空が暗くなるまで仕分けを始める。生ものの配達はお昼時までの受付で、既に信書も書き終わり、昼の作業にて既に配達者たちの手へ渡っている。そういえば、とハドウは懐から手紙を取り出し、仕分けを始める前の休憩でそれを読んだ。やはり何が書かれているか気になったのだ。
「…………」
 しかし読んだのはいいものの、ともかく言葉が見つからず、くしゃくしゃに丸め無造作にゴミ箱へ投げ入れた。
 無視を決め込もうというわけだった。殺してやると言われて、のこのこと指定の場所へ行くわけがない。手紙にはハドウという宛名と、場所のみが記載されているとても簡素なものだった。これだけならば、口頭で告げれば手っ取り早かったんじゃないかと思ったが、舌打ちをしながら頭を振る。何故己が効率の良い方法を敵に教えなければならないんだと、思い立ったからだった。
 外が暗くなると慌てふためき紙の束を抱え走り回る者と、仕事を押しつけられてはかなわんと帰ろうとする者の、両極端に別れるこの時間帯。ハドウは再び仕事場に、そして夜時間にシロハが現れてはたまらないと、帰るべく荷物を簡単に纏め外へ出る。要するに仕事を放棄しようというのだ。しかしその途中、バイソンと遭遇した。
「あ、帰るの?」
「…………はい、帰ります」
「えらく素直ね。もしかして私と会って観念したって感じ?」
「いえ、そういうわけでは」
「もっと素直になって良いのよー。私にも気分ってものがあってね。今日は見逃してあげるわ。私も野暮用で帰るところだし」
 そう告げ、とことこ軽やかな足取りで同じく軽やかに笑うバイソンに、ハドウは追いかけるかのように早足で外へ出た。今日もまた風がある。冬を導く冷たい風だ。背筋を一度振るわせ、ハドウは聞いた。
「どこへ行くんですか?」
「あら、それを聞くの? ええぇ……恥ずかしいこと言わせないでよ。このすけべえ」
「……あ、すみません。別にいいです」
「なによぉう」
 そうして二人は少しの間並んで歩いた後、十字路で左右に分かれた。

 翌日、武器を持たない一般市民が殺されたというニュースが街中の大通りを駆けめぐり、ハドウの夜は終わりを告げる。
 場所は、シロハに指定された噴水広場だった。

 ◇◇◇

 数年ぶりに再会したシロハへ、のこのこ会いに行っていたならば、あそこに転がっていた骸は己だったのだろうか。寝癖を直すこともせず、着替えたハドウはベッドに腰掛け、少しだけ時間を潰す。どこどこのだれだれさんが、どういう風にどこで殺された。注意喚起のために、治安維持の者に端た金で雇われた少年が声を上げ街を駆け回ったがために知れた話だった。
 流石に、昨日のシロハとの態度は唐突な再会であったためか、誰に対するのと同じように接せていたと自負している。ただ少し、封じていた恐ろしい思い出が甦るかのようで強がっていたに過ぎない。
 というのも。
「……思い出した」
 思い出した。そう。刻みつけられた恐怖を思い出したのだ。シロハと共に暮らしていた子供時代の己のこと。記憶があやふやになり、考えれば考えるほど矛盾に満ちていた改竄が、彼女と再会したこといより、その《事実》を小綺麗に甦らせ、すべてが繋がったのだ。
 思い出した。この左目は。
「シロハに……やられたんだ」
 そしてもうひとり。
「だから、体が逃げたがった。僕はシロハと対面して、どうしても逃げたい衝動に駆られた」
 今朝発見された死体は、シロハが殺したのだろうか。きっと、そうに違いない。現れる震えを誤魔化すかのように、大きく背伸びをし、部屋の中をぐるぐると動き回った。同時に炊事場へ寄り固いパンを頬張り、がりがりと囓る。未だに閉じられたカーテンから朝日が漏れ、それを恋しいと思う気持ちもあったのだが、結局この日は開けることはなかった。
「……よし、逃げよう」
 綿密な計画もない、ただ漠然とした構想だ。手っ取り早く荷物を纏め、既にシロハへ知られている職場には行かず……。
「バイソンさん、しばらくお休みを頂きたいです」
「あら、どうして?」
 ハドウは少々頭の固い青年だった。職場には顔を出さず逃げようと決心した矢先のことである。自らそこへ訪れ、忙しく駆け回るバイソンを捜し当てた。しかしバイソンは忙しさに身を委ねることもなく、のんびりとそう問うた。ハドウの決心のようなものを知る者があったならば、馬鹿! と一喝されるような行動である。
「……ええと」
「見つけた」
 ハドウは少々頭の固い馬鹿であった。通りから丸見えである、窓口の近く。昨日と同様にフードで顔を隠すシロハに声を掛けられ、背筋を凍らせた。どうしようもない馬鹿だった。
「どうして昨日、来なかったんだ」
「あらハドウくん、もしかして彼女と約束をしていたのにほったらかしにして、あまつさえ逃げようとしているの? みっともないわぁ」
「ハドウ、話があると言っただろう。ここで言って良いならいま言うよ。その女性にも用があることだし」
「だっ駄目です! はい、行きましょう! 話を聞きます行きましょう!」
 流石に親しく秘かに敬愛しているバイソンを巻き込めないと判断し、ハドウは喉から迫り上がる恐怖を腹の奥へ押し込めた。バイソンの手前、思わずシロハへ向かって丁寧に行こうと申し出たのは良いものの、がちがちと過去の出来事に歯が鳴り、そして過去の痛みに左目が疼く。
 そして二人は外へ出た。ハドウがびくびくとしながらシロハへ背を向け、先導するのだ。朝の時間帯。行き交う人の波に巻き込まれ、シロハがどこかへ消えてしまえばいいのに、と思うが実に現実は無情である。ついでにその恐怖の対象を呪ってみるのだが、どう願っても綺麗さっぱり消え去ってしまうことなどないため、胸に詰まった鬱憤を息と共に少しずつ吐きだした。ぴったりとハドウのすぐ後ろにつき、ついてくるシロハ。数時間早く生まれただけだという兄の背を追いかける、幼いときのシロハを思い出すようで、微笑ましくなるが、直ぐさまその後の恐怖体験を思い出し、冷や汗をかく。手先やふくらはぎから下は冷え冷えとしている。しかし、いきなり懐剣やその他の刃をハドウの背へ振り上げることはなかった。話をしたいとシロハは言った。それがハドウを殺すことよりも、最優先されることなのだろうと考える。
 人の間をすり抜け、住宅街へ訪れる。狭い路地へ入り、シロハの背を袋小路へ向けさせた。いざとなったら唯一の懐剣で太刀打ちするか、さっさと逃げようと計画を立てる。ひどくずさんな計画だと、ハドウも薄々感じている。空は青々とし、暗い路地裏でシロハと二人きりのハドウは、なんだか己から嫌なことに首を突っ込んでいっているような気がしてくるのだった。他に人影はない。
「話して良い?」
「……噴水広場を指定したのは、何故だったんだ」
「なぜって……そんなこと言われても」
 首をかしげるシロハへ、呼びかける。
「シロハ、髪をそこまで短く切って、僕へ扮装して、なにが目的なんだ。今頃、僕の前へ現れて」
 ぷるぷると震える膝を拳で押さえつけるように、ハドウはシロハへ問うた。シロハは端的に、
「仕事」
 と一言呟き、
「シナウス。それからわたしの名はシナウス」
 念を押すかのようにハドウへ詰め寄った。
 しかしその言葉を聞いたハドウは、明らかに動揺した風に口を開閉させ、その顔は一瞬にして青ざめた。
「ま、さか……やっぱり、シナウスを殺したのは」
「その話はいま、どうでも良いんだ。その関連でハドウを殺そうとも考えたけれど、わたしは仕事を最優先にするからどうでも良いんだよ」
 うんうんとひとり納得し頷くシロハに、ハドウは眩暈を覚えた。わけが分からないのだ。ともかく、現在、己に危害を加えるつもりはないのだと知るのだが、それはそれ。これはこれ。恐いものは恐い。
「……噴水広場の殺人も…………おまえ、なのか」
「はぁ? 違うよ。あれはわたし目撃したけれど」
「……は?」
「それから、さっきの女の人とこの前話したけれどね」
 次から次へと繰り出される、関連性のあるようでない話題に、今度は頭痛を覚える。混乱しているのだ。
「……バイソンさんと? 話したって一体、いつ」
「わたしが武器屋に寄ったとき。わたし傭兵になったんだ。その武器の調達よ」
 おまえ、傭兵だったのか。そう小さくひとりごちり、例え殺されそうになり反撃しても、勝ち目はないじゃないかとぼんやり考えた。続いてハドウは働かない頭で言葉を紡ぐ。
「……バイソンさん、通りの向かいから僕そっくりのおまえを見かけたと、言っていた」
「嘘ついてるんだろ。大体わたし、その時はフード被ってたし遠目で見て判断できるはずがないのに」
「…………」
 簡単にそう言い切ってしまうシロハは意図してか無意識なのか、ハドウの信じているものを片っ端から壊していく。いまも、昔も。そして、
「協力して欲しい。だからわたしはこうしてハドウの姿を映し、この街へ現れた」
「……いやだと、言ったら」
「わたしの雇い主の前へ引き摺り出す。そこで事情を話せるのであればどうぞ御勝手に」
「……きみの、雇い主というのは?」
「マイルダラ伯爵」
「協力しましょう」
 ハドウは頭の固いものの、権力には逆らう仕方を知らない馬鹿だった。
 そしてシロハもまた、言いかけた言葉を遮られれば、何を喋っていたのか忘れて次の話題を繰り出す馬鹿だった。
 お陰でハドウにとっての謎は増え、シロハにとっての手間は省かれる。

 ◇◇◇

 協力する、そうは言っても、具体的に何をすればいいのかさっぱり知り得ないハドウだった。
 しっかりと、この件が終わるまでハドウの命は狙いませんという言質を取り、ハドウは仕事場へ戻る。しばらくの間は安心だと息を吐く。しかし本当にシロハに命を狙われているのか、ハドウは実感が湧かない。一方的に、己がシロハを怖がっているだけじゃないのかとも思えたのだ。それほどシロハの態度は淡々としている。しかし彼女が冗談をいう理由もなく、ただただ頭を悩ます。またシロハには、普段通り過ごしていればいいと言われていた。
 しかし慣れない生活への指定にぎくしゃくと妙な力が入っていたらしく、見かねたバイソンが仕事の効率がひどく悪いハドウへとうとう声を掛けた。
「もう今日は帰って良いわ。あっ、なんなら今夜、ぐいぐいってあれ、奢ってあげようか?」
「……バイソンさんが飲みたいだけじゃないんですか」
「いいじゃない。いいじゃない! 元気でるわよ」
「そうですかね」
「なぁに疲れ切った顔して! 仕事は私の方がたくさん切り盛りしてるのよ。ほらしゃきっとしなさい。夜、いつもの酒場で待ってるわよ」
 ばんばんと豪快に背を叩かれ、思わず咽せる。結局ハドウはバイソンの言葉に甘え、帰ることにしたのだった。同僚等がずりーずりーとコールをしていたが、雇い主のじいさんはぽかぽかとした窓際の日向でお昼寝をしていたため、罪悪感がちくちくと胸をつつく中、これ幸いと外へ出た。日が高い内にとぼとぼと歩く職場からの帰路、力一杯ハドウの背へとぶつかる者がおり、思わずよろけた。
 振り返ってみれば、それはシロハだった。今日もまた灰色の外套を身に纏い、フードをかぶった姿である。
「…………」
「あとで」
 呆然とシロハを見やるハドウの視線に気づいたのか、さっとそれだけを告げ、なにやら男をひとり組み伏せている。反射的に後ずさりし、ハドウは男が下にする石畳へ目をやりぎょっとした。
 血溜まりができている。それも無理矢理引き回されたような跡や、男がもがき抵抗した時に石畳に引っかけ爪の剥がれた手先から溢れる血。男は倒れこんだときに、誤って自身に突き刺してしまったと思われるナイフが、シロハと男の連動する動きの末、転がる。男の呻き声が頭の中で響くようだ。気持ちの悪い。気持ちの悪い、思わず口元を覆い、更に後ずさりした後、いつのまにか辺りを取り囲むギャラリーへとぶつかった。
 しばらく動けずその場にいれば、シロハに押さえつけられていた男は駆け付けた治安維持の騎士等に引き渡され、連れていかれる。シロハは他の者より仰々しい鎧に着飾る騎士と話をしており、その手に金を握らせたのをハドウは見逃さなかった。
 気がつけば、ハドウは駆けだした。あまりのことに、逃げ出したのだ。
 血は嫌いだ。あの赤は嫌いだ。
 とても痛い思いをしたときに、目を覆ってもなお、一番よく見た色なのだ。
 そしてまた、いつも世の中を仕切るのは金だ。金がなければ、男を捕らえたシロハもまた、権力者たちにとっての人々は言葉を交わす価値もない虫けら同然なのだ。
 世界の汚さを垣間見たようで、ハドウは動悸で痛む胸を押さえ、結局駆け込んだ場所は職場だった。無意識に慣れている、かつたくさん人のいる場所を選択していたのだ。しかし震える己がたいそうみっともなく、惨めになり、誰もいない暗い倉庫の隅で頭を抱え縮こまる。
 そうして隅でがたがた震えるハドウを発見したのは、夕方の荷物整理に訪れたバイソンだった。
 ハドウの肩を抱き、宥めるように酒場へと向かう。ハドウの知らない酒場だった。いつもなら財布と相談し、何もかもが安い店へ出入りするハドウであったが、その余裕もない。
 それこそ寂れたという言葉が相応しい、がらんとした酒場だった。室内は程良く暗く、客の姿はない。唯一、厨房でがちゃがちゃと音を立てる人の気配がするのみである。
「私がね、疲れたときにたまに寄るところよ。人がいないから、こんな時なんかにいいでしょ?」
「……そうですね、すみません……ほんとうにすみませっ……」
 込み上げてくる熱に目元を覆った。恐ろしかった、とても恐ろしかった。過去の事態として、先ほどまで頭の中を占めていた出来事を放棄した上の、安堵を得たがための生理現象だった。
 それにバイソンはぽんぽんとハドウの背を叩き、いつの間にか運ばれてきた酒を勧める。
「いつもはやっすいエールばっかりでしょ? たまには高いものぐいっていきなさいよ。私の奢りよ」
「……すみません」
 鼻水を垂らし、ちびちびと酒をすすれば、バイソンの手が添えられ杯を大きく傾けられる。思わず大量に流れ込むそれを飲み込んだ。驚き、顔を上げバイソンへ視線をやれば、にっこりと笑顔を崩さず、
「ぐいぐい」
 と手を上下させ、飲めと指示した。
「あ、どうも……」
 その味が好きで定期的に酒を飲みに行くハドウであったが、いつも寒々しい財布や明日の体調の事ばかり考え、少量ずつ摂取する。しかしこの時ばかりは、言われたとおりに半分になった液体を一気に飲んでみたりして、ついでにバイソンにおだてられたため、ちょっとだけいい気になった。
「それで、一体どうしたの?」
 ぐぴぐぴと豪快に酒を飲んでは、ハドウの背をさする。さすられた背は気持ちが良いような悪いようなで、己のことなのにさっぱり分からず、なんだか吐きたいような気分に襲われた。しかしぐっと喉仏を上下させ堪え、何も考えずに口を開いた。
「……ひとが、血を流して……誰かに襲われてなのかはよく、分からないんですけれど……」
 そう、分からない。シロハは傭兵だと言った。なら治安維持の騎士等に連れていかれたあの男は悪人で、シロハは正しいことをしたのかもしれない。けれど、ただ恐ろしい。シロハがその場にいなければ、それほどの感情は抱かなかっただろうに、とハドウはふと思った。
「死んだの?」
 直接的なその問いに、ハドウは分からない。そう言おうとバイソンへ視線を向けたが、無理に作った笑顔と共に涙がこぼれる。
「……あ、すみませ」
 バイソンはそれを、是と受け取った。頬を高揚させながら笑顔を浮かべ、ハドウの背を力強くさする。
「良いのよ。つらかったでしょう。家族だったんですから」
 何も頼んでもいないというのに、厨房からがちゃがちゃという金属音がこだまする。それが頭の中でわんわん響くようで、ハドウは固い椅子腰掛けている己の姿勢を崩し、手で目元を覆った。
「それでシナウスさん、死んだのね」
「シナ、ウス……」
 バイソンは確かに、シナウスの名を出した。
 その為に思い出されることは多々ある。大好きだった姉の死を悼むよう、そっと目を伏せる。
 しかし彼女は疾うに死んでいる。
 何年も前に。
 三つ子の、もう片割れは疾うに殺されたのだ。

 ◇◇◇

 翌日、何時間もの睡眠を取れず、まだ外が暗い内にハドウは職場へ向かった。普段商人や農民たちは、朝市の時間にならなければ、市壁と首都カガルデの境界を仕切る門をくぐってこないのだが、何やらばたばたと多くの人が走り回っている姿を見受けられた。元々このカガルデに住む人々だろう。ハドウはまだ醒めない酔いの中で、がんがんと鳴る頭を抑え、肉屋へ向かった。ハドウの雇い主であるじいさんだけがのんびりコーヒーを飲んでおり、目が合うなりハドウもそれを勧められた。
「……あ。ありがとうございます」
「む」
 うむ、と言ったのだろう。消えたうの音を気にすることなく、椅子を出し、コーヒーに口を付けつつ窓口を開けた。大体開業時間というものは決まっていないのだ。利益が出るように、最低この時間までに店や窓口を開ける、というのだけが唯一決まっている。だから職場に着いたものは、雇い主のじいさんがいさえすれば、時間にならずとも勝手に仕事を始めて良かったのだ。そうしてまだ誰もが家で朝食を食べる時間帯、北風ばかりが吹く大通りに客の足取りはない。ただやはり、幾分かの男の姿が視界に映る。
 二日酔いと闘いながらものんびりと、試しにミルクを垂らしたコーヒーを飲みながら、こんな時間が続けばなあと、ハドウは思う。己の体温で暖められつつある椅子。その暖かさを人肌に例えて少しだけ背ですり寄る。ほとんど睡眠をとっていなかったがために、とろんとする目蓋はこじ開けようという気力と戦い、勝敗が決まらないまま、そうしてたゆたう。
 意識が遠のき、首がかっくんとなったところでハドウは目を醒まし、時間を確認した。
「まだバイソンさんは来てないようですね」
「む」
 信書の用意をしながら空っぽになったコップを端に除け、いつも訪れる時間になったが一向に姿を見せないバイソンを少しだけ心配する。そうして席を立ち、表へ行こうと外への扉を開いたところで、ぶつかりそうになった人影に気づき笑顔で挨拶をした。
「あ、バイソンさん。おはようございます」
「あ、あなた……あなたの所為でッ!」
 わなわなと震えるバイソンに襟首掴まれ、ハドウの喉はぐえと鳴り、ただ目を白黒させるばかりだ。
「ば、バイソンさ」
「だまらっしゃい! あなたには人質になってもらうわ」
「うぐ」
 頭を執拗に揺らされ、もみくちゃにされる。思わず嘔吐物がすぐそこまで迫り上がってくる。いつもと様子の異なるバイソンは乱暴にハドウを扱い、とうてい顔なじみの行動とは思えず、つい雇い主のじいさんは大丈夫なのだろうかと心配をする。しかし背後の様子を窺う余裕もなく、第一に他人を心配している暇などもなく、渾身の力で掴まれたまま外へ放り投げられる。バイソンはひどく切羽詰まった様子で、襟首を掴んだハドウを連れ去る。目が回り平衡感覚を失ったハドウはされるがまま、無抵抗で外を引き回され、なにやらバイソンが早朝から外を駆ける不審な男共と知り合いだったと知った。しかも彼等は街の一般人というのに大層立派な剣を腰に差していた。
「……いったい、なにがどうして」
「あなたの所為で失敗したのよ! だまらっしゃい!」
 バイソンと会話を交わす男達は剣を掲げ、ばたばたと反対方向へ駆けて行く。ハドウがその尋常ではない事態について問えば、ぴしゃりと頬を叩かれ怒鳴られる。そうして今度は荒々しく首を腕で引っかけられるよう引き回された。流石のバイソンも息切れで呼吸が荒くなり、とうとう路地へ入ったところで首への締め付けが緩まり、解放される。
「げぇっ、げぇっえっえ」
「……ハドウ、あなたね、シナウスが死んだっていったじゃない。私たちの仲間が上手く彼女を殺せたって、いったじゃない……」
「っえ」
「だから私は、あなたを連れていったあの酒場の仲間に教えたのよ。私たちを引っ捕らえようとしている、傭兵シナウスは死んだ。例の計画は今夜決行だって」
「げえっえっえ……仲、間……?」
 壁に向かって、たいしたものが入っていない胃の中身をぶちまけていると、バイソンは座り込み、憔悴した様子でそれでも苛立ったように髪をかき上げる。
「そうよ仲間。あの酒場はこのバリトンミリア帝国の打倒シャッシャ王という目的を掲げる者たちが集るための場所だったのよ……。あなたの所為で、練りに練った計画も辺りを引っかき回すための行動もすべて無に返った! 仲間は捕まり、あの場所は炙り出され……もう、みんな死ぬしかないのよ……あなたの、アンタの所為で!」
「そう。ハドウの手柄だ」
 とそこで別の女の声が響き、乱入者を目にするべく、二人は袋小路となったその場所の、唯一の通路へ視線をやった。彼女を見上げる。しかしバイソンは、警戒するように壁を背に起ち上がり、目を細め相手を確認する。彼女は日の元から建物の影へと姿を移し、二人から数歩離れたところで歩みを止めた。
「……シロハ」
 呆然とハドウが言葉を漏らせば、バイソンは驚愕した表情をハドウへ向け、叫び声を上げる。
「シナウス、彼女が傭兵シナウスよ! 死んだって、あなたが言ったのよ! シロハって誰のことを言ってるの!」
「そう。わたしはシナウス」
「馬鹿言うな。おまえはシロハだ。……偽名のつもり、か?」
「……まあ、不本意ながらそれを利用したんだ」
「どういう、ことよ」
 己が蚊帳の外にあると思っているのだろうか。どこか悔しげに顔を歪めながら、バイソンは視界にハドウとシロハを映す。
「数日ぶりですね、バイソンさん。あなたはわたしに話しかけた。あなたが例の企みをするひとりと知っていながら、わたしはあなたと話した。そこであなたを捕らえなかったのは、誘き出した他の仲間をも一網打尽にするつもりだったからだ。わたしもあなたも、第一の目的として武器の調達をすべくあの武器屋で出会い、そして初めてあなたは《傭兵シナウス》の姿と性別を知ったんだ。そのハドウとそっくりな容姿のわたしを。次にハドウへ聞くだろう。血縁関係者なのかと」
「ハドウは答える。己等は兄妹だと。せいぜい双子、といった答えをね。そうわたしは予想する。しかしあなたにハドウは本当のことを言わなかった。いまもまだ、言えないんだろう?」
 シロハは顎でハドウを指し、その言葉にハドウは目を伏せる。バイソンはただシロハを見つめ、動かない。
「ハドウと双子の兄妹であるシナウス。それが正体だとあなたは知る。そしてあなたたちは、己等へ向けられるその目を逸らそうと、昨日噴水広場で人を殺したんだ。だいたい、傭兵シナウスから身内であるハドウへ送られ、そうして無造作に捨てられた手紙を読み、兄妹のよしみでその場所を訪れるであろうハドウへその罪を被せようとしたってところだろう。しかしハドウは訪れなかった。わたしに例の恐怖心が残っているのであれば、わたしの元へ、それも夜に訪れるはずがないんだよ。そして噴水広場人を殺したのは良いものの、仲間内から犯人を出すわけにはいかず、ただただ無様に逃亡したというわけね」
「そうして最悪ハドウが死んでしまっても構わないと、昨日ハドウを仲間に襲わせた。わたしを誘き出すためかしら。ハドウを人質にでもするつもりだったのか? ともかくあの場ではあなたの仲間以外負傷者はおらず、騒動は食い止められた。そして捕縛したひとり。治安維持の者に頼んで、彼を王城の地下へ連れていってもらったわ」
 淡々とそう告げるシロハに、バイソンはかたかたと小刻みに身体を震わせた。
「……あ、あなた……なんて、ひどい、ことを」
「それを、あなたが言う? それぞれの死や死に方に重みがあるとでも言うのか。わたしはそんなもの、知らないよ」
 知らない、知らないんだ、知らないのよ。シロハは誰かに聞かせるわけでもなく、口の中でぶつぶつ呟き、バイソンへ一歩近づいた。
「そしてあなたたちは、ハドウを襲えと指示した場所に訪れなかった。己等の目でそれを確認しなかったのが敗因だ。あなたたちは己の力を過信し、そしてあなたはハドウの言動を、一から十まで信用してしまった。彼自身になんらかの欠陥があるとも知らず」
 バイソンからそっと送られた視線にも、ハドウは答えない。誰もに隠していたことがここへ来て、親愛するものの命に関わることになったのだ。しかしハドウはどちらの味方をするわけでもなく、ただ成り行きを見守ることしかできない。
「ハドウは元々三つ子だった。上からシナウス、ハドウ、そしてわたしシロハ」
 その言葉を聞き、今度ははっとした表情でバイソンはしっかりとハドウを見やった。シナウスは死んだ。頭が固く、妙に誠実なハドウがそれを否定しなかったのは、過去の事実として存在したことだったからだと思い至ったのだ。
「わたしはね、シナウスになりたかった。でもいまはシナウス。というのも疾うに」
「ーーシロハがシナウスを、殺した」
「から。ハドウの左目もついでにもらってね」
 己の黒い左目付近を指で軽く叩き、シロハは外套の下に隠し持つ剣を引き抜き構える。これ以上のネタ晴らしは終わりだと、そう告げているのだ。
「こっ、来ないで! この人が! ハドウがどうなってもいいかしらね!」
 シロハのその行動にバイソンは怯え、油断していたハドウの頭を渾身の力で石畳に叩きつけ、馬乗りになった後も上から押さえつける。ハドウの首筋に短剣を突き付けての脅しであった。
「バイソンさ……」
「だま、だぁまらっしゃいッ! じゃあ何! 私は、顔が割れていなくて、女だから油断させれるはずだからって…………王の友人とかいうっ、マイルダラ伯爵に雇われた傭兵シナウスが今回私たちの壊滅を企むって情報も……まさか、全部……ぜんぶっ……どう、して」
 そう叫ぶと、バイソンはぽろぽろと涙をこぼし、ぐぅうという呻き声と共に歯を食いしばった。
「危険な芽はいまの内に詰んでおこうというお達しだ。いままで見逃されていたのを可哀想に」
 一歩、また一歩とシロハはバイソンに近づき、しかしバイソンはこれ以上の涙を堪えるかのように、俯いたまま動かない。ハドウへ突き付けたナイフの手も、込める力を弱めてはいないものの、ついに横へ引かれることはなかった。
 頬を石畳に押しつけられているハドウの頭上で血飛沫が舞った。込められる力は一気にゼロへ代わり、刃が石畳を打つ軽い音が響き、続いてバイソンの身体がぐしゃりと叩きつけられる。ハドウは動けず、振り向けなかった。ただ地面に伏したまま、目先だけでシロハを見上げる。
「……シロハ」
「あなたに協力してもらうことはもうないんだ。本当はバイソンさんの前であなたと接触するだけで事は済んでいた。あとは」
 滴る血をハドウの背でいったん拭きとり、軽々とそれを振り上げる。
「なぜ僕を」
「あなたはバイソンの手に掛かり死んだと、上には報告しましょう。それで終わりだ」
「……シロハ、なぜ僕を殺す」
「シナウスにわたしはなりたかった。けれど、もういいんだ。でもこれからを考えたらすることがなくて。だから頑張って考えたよ。ああ、わたしたちはあの時に身体を引き裂かれ、疾うに決別してしまったんだねって。これほど不幸なことはないだろう? 軌道修正しなくちゃいけないわ。かつて不運によって種は三つに分かち、いまようやく、それがひとつになるってわけ」
「種……? それは僕たちのことを言っているのか。同日に生まれた僕達は元はひとつだったと、そう」
 ハドウは諦めたように顔を下げ、再び石畳へ頬を付ける。
「…………だったという根拠はどこにもない。ならない、そうして他を殺し回って、壊して……ひとつになるわけがない。欠けたものは欠けたままだ」
 ハドウは目の数を数えながら、もう何を言っても無駄だと、いままで抱いていた恐怖心は諦めによって溜息と共に出て行った。最も身近だったバイソンを殺され、例えシロハの気が変わり己が生き残ったとしても、あの日常は戻らない。
 それに、すでにシロハはシナウスである。そしてシロハはハドウでもある。彼女は明言していないものの、シロハの口調はひとりと考えるとちぐはぐで、しかしそれを三人だと捉えれば理にかなう。もうシロハはひとつになったつもりなのだ。
 ハドウの言葉で何か考えるかのようにシロハは動きを止め、一時後ある提案をハドウへ返す。いまにも泣き出してしまいそうな声色で、絞り出した弱々しい反論はシロハへ届いたのか。

「じゃ、唯一になるの」
 届かなかったのか。

 ■

 わたしはわたしになりたかった。

 わたしはかあさんに愛されたかった。
 わたしはハドウが好きだった。
 わたしはシナウスに憧れた。
 わたしはかあさんに愛されたかった。
 わたしはハドウが好きだった。
 わたしはシナウスと同じになりたかった。
 わたしはかあさんに愛されたかった。
 わたしはハドウの瞳が欲しかった。
 わたしはシナウスに成り代わりたかった。

 わたしは《わたし》になりたかった。


 生まれた時に贈られた唯一の懐剣。バリトンミリア帝国では生まれた子に剣を与える風習がある。新しいものをこしらえるまでの護身用であったのと同時に、それにはお守りと同等の価値がある。鮮やかな細工にはひとつひとつ意味が込められ、そのほとんどは子の健やかな成長を願って付けられる装飾であった。まだ子供であったシロハからすればそれは途轍もなく素敵な宝物であると等しくして、巨大な凶器であるとも自覚していた。そして母の大きな愛情の形であるとも、思っていた。
 母はいつも伏せっている。時折出入りする愛人を構って、シナウスやハドウを構って、シロハには笑いかけることすらしない。シロハは知らない。知らない。何もかも。出入りする者や姉弟内での取り決めを、姉に知らされず知らなかったのだ。
 ああ、にくい。
 ついにそう思った《わたし》であったが、実際のところ、何が憎かったのかは覚えていない。
 母の想い人は商人であった。珍しいーー《わたし》はありふれているものですらすべてが珍しものと思えていたけれどーーものを数多く母へ持ってきていたのを、《わたし》は覚えている。ただその価値を知るよしもなく、母からもらった宝物は懐に隠し通し、代わりにそれを使った。護身用にと、世界にひとつしかない形のそれを、商人が母のタンスへ入れているのを知っていたのだ。
 それを持ち出し、《わたし》はまずハドウの瞳をくり抜いた。シナウスのお古はいらない。ハドウの両目はいらない。片方もらえば、あとはなんとかなるような気がしたのだ。ハドウが痛みで暴れ起きる。しかし奪い取るのは容易い。そうしてぐったりとしたハドウを尻目に、彼の異様な声に驚き目を醒ますシナウスを。
《わたし》は刺した。体当たりされ、もつれる身体を捻り、ちょうど目の前に合った頭へと、それを深く刺し込んだのだ。根本までは刺さらなかった。けれど懸命に押している途中でシナウスの声は聞こえなくなった。大丈夫。大丈夫。慣れない感覚にそれをやっとの思い出引き抜き、離れた場所からシナウスへ視線をやると、ぴくりとも動かない彼女に満足した。
 ハドウはまだ生きている。しかし左目を抑える手の間から血が絶えず流れ落ち……ああ、もう、いいか。そう思った。どうでも良いと思った。死んでもいいや。好きだったけれど。もう、いいや。いまなっては、総てがもう、どうなっても良いのよ。なぜ辻褄を合わせないといけないのかしら。
 ああ、にくい。

 蝋燭の火で浮き出る、いつも通りの土色の顔。
 床に伏せる母の姿を振り返り、目に焼き付ける。

 しかし母は。
《わたし》とシナウスの見分けが、ついていたのかしら。