出会い、宝物、始まり:シーラカンス・エレジー ( No.192 )
日時: 2012/08/15 23:52
名前: アリス ID:r2ieknV.

 

 悠久の前を歩める者たちに、ただ確信の別れを。





 樹海の奥に小さな、それでも深そうな池があって、そこにシーラカンスが泳いでいた。
 その姿はテレビでしか見たことがなかったのに、水面の向こう側に見えるその形を見た時、すぐにその名前が思い浮かんだ。こんな樹海の中の、小さな池にシーラカンス。不恰好で締りのない両者の結びつきに戸惑ったが、疲れていたこともあり、池のすぐ横にある乾いた岩に座ってその姿を眺めることにした。
 生きている化石、深海魚。そんなシーラカンスにとっては狭すぎるのかほとんど泳ぐことはなく、水中を動きもなく漂ってばかりのようだった。それとも、元来シーラカンスは泳ぐことのない魚で、水中に漂うだけの魚なのだろうか。そういった知識のない私にはよくわからない。そもそもなぜこんなところにいるのだろうか。私は膝の上に頬杖を突き、それを見つめながら思考した。それでも答えは見つからず、風を受け入れる木々の囁きや、鳥の鳴き声が右から左へと流れていくのを体中で感じるばかりであった。
「そんなに見つめられると恥ずかしいのですが」
 突然そんな声が聞こえ、私は頬杖をほどき辺りを見回した。誰だろう。随分近くで聞こえた気がするのに、周りには誰もいない。私を囲っているのは、見渡す限りの木の連鎖と唸る土と剥き出しの根、突き出した岩だけである。真昼のホラーだろうか。樹海といえばそういうことになるのだろう。真昼とはいえ薄暗く、普段触れることのない木肌の連結、重なり合う葉の織り成す緑の幕のような天井は禍々しく怪しいのである。声のする姿がないのだから、姿のない人の声。樹海であるのだから、それもありうるのかもしれない。
「こっちです、こっち」
 しかし再び声がして、今度は辺りに気を回していたからかはっきりと方向が掴めた。池である。すなわち、このシーラカンスの方向から聞こえたような気がしたのだった。私はシーラカンスに目を向ける。先ほどは側面をこちらに向けて悠々と浮かんでいたシーラカンスは向きを変え、表情のない顔をこちらに向けていた。尾ひれがふわりと揺れるのも見える。そして何より目に付く黒い瞳が、私をじっと見つめているようだった。
「……シーラカンス?」
「そうです。気付いてくれましたか」
 問いかけに、なんの躊躇もなく口を動かしたシーラカンス。声が耳元に響いた。混乱はしなかった。なぜシーラカンスが喋れるのか。水中にいるのになぜ私に声が届くのか。そんな疑問符は尽きて止まないが、その堂々たる態度に声を失くしてしまったのだ。ただ、私の足元の池にいる魚が喋った。そんな事実として処理されているような、受け入れがたいのに簡単に受け入れてしまう不思議な何かがあった。
「朝も早くからこんなところまで……何しに来たのです」
 シーラカンスはそう言った。少しだけ低い、成人男性のような声色をしていた。それでも無機質ではなく人間味があって、とても魚が発している声には思えない。しかし、シーラカンス――彼は自分の声だと肯定したのだ。言葉に迷ってばかりいたが、からくりの向こう側にある喋れるという事実だけを見ることにして、私はその質問に対応することにした。
「……実は、死体を探しに来たの」
「それはそれは。ちなみにどなたの?」
「友人……そう、友人の死体よ」





 得体の知れないシーラカンスに、私がここにやってくる経緯を説明した。
 ある日のこと、友人に手紙を渡された。ラブレターかと思ったけどそれはありえないと思った。友人は「家に帰ってから読んで」と言っていて、私はそれほど考えずに了解した。友人と私は同じクラス、同じ部活という他の友人とはまた違った関係にあった。
 言われた通り家に帰って手紙を読むと、私のことが好きであるということ、苦しいから死ぬつもりであること、この手紙を渡した日の夜には樹海に行くということが書かれてあった。最後には、ただ虚しく一言、別れの言葉を添えて。電話にも出ず、メールも返さなかった。友人の家を訪れてみたが、まだ友人は帰っていなかった。もうすっかり日は暮れていたというのにだ。
「それで、ここまで来たということですか」
 私は頷いた。
「それほどまでに、大切な友人なのですね」
 シーラカンスの包み込むような口調に考え込む。なのですね。私の気持ちに理解を示しているような、物腰柔らかな応答。友人が大事だとは言っていない。しかし友人のために樹海に赴くなんて行動は、やはり友人を大事に思っているからこそとシーラカンスは感じたのだろう。そうなのかもしれない。だが友人というのは誰にとっても大切なものだろう。友人はそんな一般的な友人だ。大事といえば大事。しかしそれ以上のことなど何もない。シーラカンスは私のことなど何も理解していないのである。私は唇を舐めて、シーラカンスの言葉に耳を傾けた。
「私もそのような人に、何度も会いましたよ」
「やっぱり、長い間生きているから?」
「それはそうですよ。この池からずっと、ここを通っていく人、死んでいく人を見てきました。それは何十年も何百年も」
 それはすごい。さすがは生きている化石と言ったところか。しかし生きている化石というのは、存在した時代と現在生きている姿が変わらないものを指すものであって、シーラカンスが長寿だから、何千年も生きられるから生きている化石と呼ばれているわけでなかったはずだが。シーラカンスにも死期はあるのだ。だとすれば、そんなに長い間生きていると漏らしたこのシーラカンスは一体なんなのだろうか。
 しかしいい話を聞いた。この池で常に通りすがり死んでいく人たちを見たのであれば、もしかしたら友人の姿を見ているかもしれない。探す当てもなくふらふらと樹海を動くつもりであった私には有力な情報源となろう。そのことをシーラカンスに伝えると、特徴を教えて欲しいと言われた。最後に会った友人は制服だったがそれは学校で会話したからであり、樹海に行く際の服装まではわからなかった。それでもお洒落に疎かったはずだから、普段と同じだと一か八か予想する。
 髪の色。歩き方。瞳。顔の雰囲気。服装以外の部分での情報をシーラカンスに教えてみる。細部まで覚えている自分に驚いている私もいた。頭の中の白い空間に、振り返って微笑む友人の姿。それを克明に口に出して描写する。しかし記憶の齟齬、瞬間瞬間で頭の中の友人の姿が移り変わることもある。着ている服が変わる。髪の長さが変わる。微笑みが変わる。こちらを見つめる瞳が変わるのだった。そうだった。私はそれほどまでに友人の表情と、姿と、そして様々な時間とを一緒に過ごしてきたのだ。だからこそ、きっと頭の中に友人は住んでいて、その姿をシーラカンスに教えるためだとしても、その姿をすんなりと思い浮かべることも可能なのだ。
 ……しかし、その回想を長く続けるのも良くはない。
 私が友人に関する情報をほぼ全て言い終えると、シーラカンスは口を開閉しながら黙った。なだらかな曲線を描く口元から、泡が湧き立ち水面に顔を出す。池の水は青い。シーラカンスの色は灰色のような茶色のような、掴みどころのない色をしている。
 それから少しして、シーラカンスは言った。
「見ました。昨日の夜、そのすぐ横を通りすがって行きました」





 友人は学校の制服を着ていたそうだった。
 しかし、私の学校の制服は黒い。夜の闇と比べれば明るいにしても、蛍光色に少しも踏み込まない見渡す限りの陰りの中で、黒い制服の人間など見つけ辛いにちがいない。友人の死に方はどのようなものだったのだろうか。樹海は自殺の名所と聞くが、実際どのような死に方をするのだろう。わからない。木に縄をくくっての首吊りか。それとも、薬だろうか。わからない。しかし、なるべく綺麗であって欲しいとは思った。その姿を私が見た時どう思うのかわからない。それでも、凄惨な姿など見たくはないのだ。それは私のためであり、友人のためでもある。
「確かに、このすぐ傍を通っていったの」
 私は問うた。私の座り込んでいる岩の後ろは確かに人が通りやすく、岩も根も大人しく平坦に伏している。ここを通って奥へ行くことは容易いだろう。そもそも私がこの池を見つけたのはその通りやすい道を進んできたからである。友人も――いや、ここへ死に訪れた多くの人たちもこの道を歩んだのかもしれない。
「はい。あなたのご友人は、確かにそこを通って行きましたよ」
「そう……参考になったわ。私はこれから奥へ行く。教えてくれてありがとう」
 随分長く居座ってしまった。なぜこんなところにシーラカンスがいるか。確かにそれは気になるが、今はどうでもいい。最初から全部探す気でいたのだ。ここを通りすがったという情報が聞けたのはよかった。ただそれだけである。不可思議であっても、ここでいつまでも立ち止まったままシーラカンスと話を続ける理由にはならない。私はお礼を言って息を吐き、そのまま再び探索を始めるつもりで立ち上がった。
「なぜ行くのですか」
 冷えた言葉だった。砂のついた後ろを払うための指が止まる。
「ただのご友人のために、わざわざここまで来られ、死んでいるとしても探すのはなぜです」
「……」
 それは痛い質問だった。背中を氷で撫でられたような、気持ちの悪い寒気。
 シーラカンスとの会話で、私の頭の中で何度も『わからない』を使った。全てを有耶無耶にしておけば、曖昧にしておけば――次の段階へ進むために必要なものさえ揃っていればそれでもいいと思っていたのに。シーラカンスがなぜここにいるか、なぜ生きているのか、なぜ喋れるのか。それらは全て、私が友人を見つけるという段階のために必要なものではないのだ。それと同じだ。私がなぜ友人を探したいか、なぜ友人程度のためにここまでやってきたか。そんなものはどうでもいいのだ。
 しかし動揺しているのは私だ。確かに動揺してしまった。理由など考えるべきではないのに。
 考えては駄目だ。
 冷静になれ、冷徹になれ。
「……友人なのだから、探したいと思うのは当然でしょう。馬鹿な魚ね」
「そんなことを問うているのではないのです」
 たかが友人に。友人と称すべき相手に。
 その程度の存在に、わざわざ尽くして樹海まで来るか。
 それだけを問うているのだろう。
 私はシーラカンスを見下ろした。変わらない表情。当然だ。ただの魚だ。しかしその表情が、さっきよりも詰め寄るように不気味に思えてくる。瞳に色はない。人間ではないのだ。人間の瞳のように、瞬間瞬間で心を映すものではないというのに。平坦な表情がなおさら私の心に迫ってくるのだった。それが嫌で、そっと目を逸らす私。樹海に転がっている適当な岩肌に目を無理やり押し当て、言葉を紡いだ。否定しなければ。否定しなければならない。
「……見つけてあげたいと思ったのよ」
「たかが、友人を」
 その差し迫った言葉は、どういう意味があるのだ。
 私はシーラカンスの言葉を拒絶するように、一切を黙らせるように強い口調で言い返す。
「たかが友人でも、大切であればそれでいいじゃない」
「それはもう、友人ではないのではありませんか」
 シーラカンスに目を向けた。
 違う。
 友人でいい。
 そのままでいいのだ。
 友人以上である必要などない。
 友人であればいいのだ。
 そう言おうとして口を開いたのに、言葉が出なくて、口を開け閉めして、息を吸い、奥歯を噛み締めた。
「私は見てきましたよ」
 やめて。
「見ました。何人も何人も。死に急ぐ人を」
 もう言わないで。
 それ以上の言葉を止めて。
「そして、その人を追い、恋しい人の死を追ってここにやってくる人を」
「やめてよ。もう、やめて」
 意識させないで。
 もう、意識させないで欲しい。
 友人でいいのだ。
 『友人』でいい。
 どこにでもいるような、私が今まで繋いできた友情の一つでいいのに。それならば、冷静になって探していられたのだ。ずっと言い聞かせなければ。友人だと言い聞かさなければ歩けなかった。友人という関係なのだ。それであれば、友人であれば、私は苦しく想う必要などない。友人の死に無頓着であっていい。友人の死を受け入れなくても、友人の死に悲しまなくてもいい。だって友人なのだから。たかが友人なのだから。数ある友人の一人が死んだ。それならば、涙を流さずとも生きていけるのに。
 恋しい人だと、意識しなければ。
 意識さえしなければ……。
「好きだったのでしょう」
 それでも、シーラカンスの言葉は続いた。
「恋し、愛していたのではないですか」
 もう、言わないで。
 恋を知れば、想いを知れば、歩みは止まってしまう。
 言い聞かせたのだ。
 自分の言葉も、自分の心の中も、シーラカンスとの会話も……全部全部、『友人』と称すれば逃げられると思ったのに。自分の気持ちに嘘を吐けば、探すためにふらっと家を出た時も、探している最中も、全て冷静でいられたのに。友人だ。友人だ! そう呼ぶことは、逃げることであったとしても自分を保つことだ。友人であれば、その死に泣き叫ぶ理由なんてなくなるんだ。私の心の奥の奥、くすぶったように疼く気持ちは無視しなきゃ駄目だったんだ。そうでなければ、きっと私は壊れていたんだ。
 手紙に添えられた『好きだった』という文字面に心が躍ったのは誰だ。その瞬間に唇が震えて、紙をなぞる指や声も一緒に宙に舞った様な開放感に襲われたのは誰だ。
 そして、死ぬという文字に、一瞬で叩きつけられたのは誰だ。
 手紙を落として、崩れ落ちて、まるまる数時間ショックで固まり続けたのは。
「っ……」
 友人の……あいつの顔が浮かぶ。
 そのために、ここまでやってきたのは……私だというのに。
 心を偽って、心の底に沈めてきたのに。
 嘘を吐き続けられなかった。
 偽れなかった。
 結局私は――。


 私は膝を突いて、声を上げて泣いた。
 愛しい人の名前を読んで、みっともなく泣いた。
 
 





「さよなら、シーラカンス」
 私は数歩だけ歩いて、シーラカンスに振り返った。
 この魚がなぜここにいるのか、なんとなくわかった気がした。あいつもシーラカンスと話をしていたら、歩みを止めて私の元へ帰ってきたのかもしれない。そんな風に思った。
 なぜあいつが死を選ぼうとしたのか、わからない。本人に聞かなければわからないだろうし、推測ばかりでは答えに行き着くことはありえない。しかし、その本人はすでに死んでいるかもしれないのだ。今はすでに死体と化し、この樹海のどこか暗がりで静かに倒れているのか。それとも首を吊り、微かな風に縄を震わせながら揺れているのか。どちらにしても、私は大声を上げて泣くのだろう。それは『友人』の死ではなく、気付くのが――いや、気付いていたのに認めなかった、拒絶し続けた『恋しい人』の死だから。
「何処へ行くのです?」
「もちろん、好きな人のところにね」
「……さようなら」
「ありがとう、長生きしなさいよ」
 シーラカンスは悟ったのだろう。
 私があいつの死体を見つけた時、どのような選択を取るのか。
 それが、ある意味で望まれない選択でも。
 それでも、私はそれでいいんだと思う。
 私が、そうしたかったんだから。
 それが、心の奥で望んでいた想いだったから。





 そして、私の前を歩む者たちに、安らかな眠りの歌を。


 


(了)