毒、擬音、あかり:ヨーちゃんとルゥちゃんの終わらない夢 ( No.181 )
日時: 2012/08/01 20:09
名前: 十一日 ID:.jIYq5lo

 まったく、アイちゃんがいつ目を覚ますのかわからないものだから、ヨーちゃんもルゥちゃんも、荒れ果てた教室の中で、妖精たちと対峙するばかりである。いくら捕まえて握り潰しても、そこらへんをぶんぶんと飛んでいる妖精の量が減ることはない。
 その妖精というものは、ひどく醜くかった。姿は、毛のない鼠と言ってよろしい。その背にはまるで蝉のような羽が生えていて、美しさのかけらもない。握り潰せば、へんな液体が飛び散って、ヨーちゃんとルゥちゃんの綺麗な顔、そしてセーラー服を汚す。ふたりとも、いい加減にこの作業にはうんざりとしていた。
 まずはじめに悪態をついたのは、ルゥちゃんのほうだった。ルゥちゃんは口をとがらせ、ぶつぶつと文句を言い出す。
「ねえ、もう、やめようよ。意味ないよ、こんなの」
 そう言いながらも、ルゥちゃんはまた一匹妖精を捕まえた。手の中で妖精はバタバタと暴れたが、ルゥちゃんはそれを容赦なく握り潰す。液体がはねて、それから妖精の肉体は溶けるように消えていく。はじめは妖精退治に抵抗していたものの、いまでは躊躇することなど忘れてしまった。
「駄目だよ」とヨーちゃんが言う。「できる限りのことはしないと」
 ようするに、ヨーちゃんとルゥちゃんはアイちゃんの夢の中の住人で、その中での唯一の人間だった。アイちゃんというひとりの少女の夢の中にいるからには、なんとしてでもアイちゃんの幸せな夢を作り上げなければならないし、アイちゃんの夢を守らなければならない。だから、見るからに邪悪なこの妖精を、延々と退治し続けている。
 ルゥちゃんはつかれて、そのへんにあったボロボロの椅子に座り込んだ。すると、椅子はすぐに崩れる。グシャン! と大きな音がして、「きゃあっ」。ルゥちゃんは尻餅をついた。
 それを引き金としたように、ルゥちゃんは子供のようにわあわあと泣き出してしまった。
「もうやだよお、もうやだよお、おうちに帰りたいよお、こんなことしたくないよう、アイちゃんはいつになったら起きてくれるの、ここはアイちゃんの夢の中なんでしょう、アイちゃんはなにを考えているの」
「ルゥちゃん」
「帰りたいよー!」
「ルゥちゃん、しっかりして」お姉さんのヨーちゃんが、泣きじゃくるルゥちゃんを立ち上がらせて、そう言った。「帰りたいのは、わたしも一緒。でも、まずはここをどうにかしなきゃ。アイちゃんはねきっとつらいの。わたしたちよりもずっとつらいのよ」
 ヨーちゃんにそう言われるとルゥちゃんは納得したようで、腕で涙をごしごしと拭きながら黙って頷いた。
 すると、教室のスピーカーから、女の子の叫び声がする。ギイイイイ、とそれは反響した。あまりにも大きな音だったので、ヨーちゃんとルゥちゃんははっとして耳をふさぐ。妖精たちは、吸う酸素を失ったかのように喉をおさえもがき苦しみ、床にぽとぽとと落ちて、一気に消えた。
 スピーカーからの叫び声はとまらない。叫び声というよりはまるで雑音に近いもので、ヨーちゃんとルゥちゃんの鼓膜を破くような勢いだった。
 この叫び声は、きっとアイちゃんのものだ。そうふたりが思ったとき、スピーカーからの叫び声は止んで、教室のドアが開く音がする。だれか入ってきたのか。ならば、ドアのほうを見てみればよろしい。しかし、そこには誰もいない。
 ぺた、ぺた、と子供が歩いてくるような歩く音がして、それはやがて黒板の前で止まった。汚い黒板に、文字が浮かび上がっていく。

《ママ ママ ごめんなさい こわいよ ゆるしてよゆるしてよ》

 幼い子どもが書いたような、乱雑な字だった。ヨーちゃんとルゥちゃんは顔を見合わせる。「アイちゃん、アイちゃんなの」とヨーちゃんがきいてみても、教室の中はしんとしていて、ヨーちゃんとルゥちゃんの呼吸する音がきこえてくるほど。ヨーちゃんにたいする返事はないままに、黒板にはどんどん文字が浮かび上がる。

《ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいママごめんね》

 文字のほかに、絵が浮かび上がった。子どもがかいたような、女の子と女の人。ふたりは笑っていて、右端には太陽が浮かぶ。《ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい》文字は続く。ルゥちゃんはなんとなく気持ち悪くなって、手で口をおさえた。そうして、すぐに、胃にあったすべてのものを吐いてしまった。ヨーちゃんが、うずくまったルゥちゃんの背中をさする。
 ルゥちゃんを追い立てるように、更に黒板が悲鳴を上げた。爪で引っ掻くような、あの気味の悪い音がする。キュイイイイイイイイイイキュイイイイイイイイイイイと、それは鳴り続けた。

 キュイイイイイイイイイイキュイイイイイイイイイイイイイイイイイイキュイイイイイイイイイイイイイイイキュイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイキュイイイイイイイイイイイイイイイキュイイイイイキュ、イイイイイイイイイイイイイキュイイイイイイイイ、キュイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイキュイイイイイイイイイイイイ

 もう、ルゥちゃんは、泡を吐いてしまう。それで白目を剥いてそうしていたけれど、ヨーちゃんはそんなルゥちゃんをなだめるようにしながら、暢気な調子で口を開く。
「アイちゃんはねー、つらいんだよ」
 ルゥちゃんは、嗚咽をもらしながら我に返って、答える。「知ってるよ」

 キュイイイイイイイイイイキュイイイイイイイイイイイイ

「アイちゃんのお母さんねー、こわいひとなんだって」
「そうなの」

 キュイイイイイイイイイイイイ

「うん。このあいだルゥちゃんが寝ちゃったときに、アイちゃんの声がきこえてきて、そう言ってた。お母さんのことね、こわいって言ってた。だからねアイちゃんのお母さんこわいんだよ」
「それは、知らなかった」

 キュイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ

「ねえ、でも、幸せそうだね」

 音は止まった。

 なにが? と、ルゥちゃんが首をかしげると、ヨーちゃんは黒板を指差して笑った。「ほら、あの絵。アイちゃんがいて、お母さんが笑っていて、太陽は光ってるでしょ。お散歩しているみたい。幸せそう」
「アイちゃんは、お母さんと、お散歩したことあるのかな」
「わからない」
「アイちゃんは、お母さんのことが好きなのかな」
 ヨーちゃんはなにも答えなかった。
「ねえヨーちゃん。でもねアイちゃんはきっと今ほんとは幸せじゃないよ。だってあの黒板気持ち悪いでしょ。それに、ヨーちゃんもきいたでしょ、あのスピーカーからの声を」
 あの、人間として生きることをやめてしまったような、動物の金切声を。
「わたしアイちゃんに幸せになってほしい」
 口に泡をつけたままそう言って、ルゥちゃんは立ち上がる。
 それはわたしも。ヨーちゃんはそう言おうとしたけれど、その前にまず異変に気づく。こちらに向かって、なにか大きなものが歩いてくるような音がした。そう、ちょうど、巨人が歩いてくるような。ドシン、ドシン、とそれは続く。ヨーちゃんとそれからルゥちゃんは、割れた植木鉢がたくさん散らばっているベランダのほうに顔を向けた。
「あ、あれ」ヨーちゃんは向こう側を指差す。「アイちゃん!」
 ふたりとも、慌ててベランダに出て、ぎゅっと柵をつかんで向こうを見た。白い星がキラキラと輝く青いお昼の空の下、ずっとむこうに、ふたりの何倍も大きなアイちゃんがいて、そこで立ち止まっていた。ふたりと同じセーラー服を着ていて、横を向いている。
「アイちゃん、アイちゃん!」ルゥちゃんが叫んでアイちゃんのことを呼んだ。
 すると、ぼうっとした表情で、アイちゃんがこちらを向く。綺麗な髪が、やさしい風に揺れて、アイちゃんの小さな唇は蠢いた。「ルゥちゃん。ヨーちゃん」
 アイちゃんがこちらに気づいてくれたのが嬉しくて、ルゥちゃんの瞳からは勝手に涙が流れた。ぽろり、とそれはこぼれて、ルゥちゃんはまたアイちゃんの名前を呼ぶ。
「アイちゃん」
 アイちゃんは、数々のビルやおうちを踏んづけながら、こちらにゆっくりときた。アイちゃんの肌は真っ白だな、とヨーちゃんは思った。白い星、白い太陽の光に照らされたアイちゃんの肌は、ヨーちゃんとルゥちゃんの肌よりも白く、かよわい印象を受けた。
 やがてアイちゃんはベランダのほうにやってくる。そして膝をついて、ふたりと視線を合わせた。
「アイちゃんあのね」ルゥちゃんが早口でアイちゃんに話しかける。「アイちゃんわたしがんばったの。ヨーちゃんといっしょにがんばったよ。アイちゃんに幸せになってほしくてねそれでずっとがんばってた。それはヨーちゃんもおなじだよ、ね、ヨーちゃん」
 ヨーちゃんはうつむいたままなにも言わない。
 ルゥちゃんはアイちゃんを見上げた。まだこみあげてくる涙を強引にぬぐいつつも、
「だからねアイちゃんあのね心配しなくてもいいよ。もうきっと夢もこわくないよ。わたしたちがいるからだいじょうぶ。起きて、また寝るときも、こわい夢、きっと見ないよ」
 アイちゃんは黙っていた。そうして、ほんのすこし悲しそうな表情を見せて、アイちゃんはこちらに手を差し伸べた。
「ルゥちゃん、おいで。ヨーちゃんも」
 ルゥちゃんは柵を越えて、アイちゃんの掌の上に舞い降りた。アイちゃんの指は細く、長く、綺麗だった。しばらくして、ヨーちゃんもアイちゃんの掌で立つ。
 アイちゃんの瞳は、まるで死んじゃったみたい。まつ毛は長く、お人形のよう。でも中身にはきっと、わたしたちと同じで、おが屑がつまっているんだろうなあ。ぼんやりとルゥちゃんはそんなことを思った。
 そんなルゥちゃんの隣で、ヨーちゃんは泣き出した。ヨーちゃんが泣くことはいままで一度もなくて、ヨーちゃんはルゥちゃんのお姉さんだったのに、ヨーちゃんは声を上げて泣き出したのだ。ヨーちゃんはこれまで我慢し続けていたのだ。それで、アイちゃんの瞳に見つめられて、泣いてしまった。やっと、認めてもらえたような気がしたのだ。
「二人ともありがとう」
 アイちゃんがかすかに笑った。アイちゃんの吐息は春の風のようにやわらかくあたたかい。
 アイちゃんは、二人を乗せた手を顔の近くに寄せた。
「いままでごめんね。でも、わたし、もう大丈夫だよ」
 ヨーちゃんとルゥちゃんは顔を見合わせた。
 アイちゃんの手にすこし力がこもったのを足元で感じたとき、ふたりは強く手をつないだ。
「ごめんね。ありがとう。さようなら」
 アイちゃんはそう言って、ふたりを握りつぶした。



「ああ、アイちゃん、起きたのね! よかった。今、お医者様を呼んでくるから。そう、もう、大丈夫。もう、つらい思いをしなくてもいいのよ。あのお母さんのことは考えなくていいし、これからは、おばさんがアイちゃんのお世話をしますからね。ああまだ起き上がらないで。お腹の傷が痛むでしょうから。じっとしてて」
 目が覚めると、見知らぬ病室の中にいて、見知らぬおばさんがアイちゃんにせわしなく話しかけた。すぐにおばさんは出ていく。いや、しかし、あのおばさんはどこかで見たことがある。そうだ、おばあちゃんのお葬式のときに、見たことがあるかもしれない。あれは、お母さんのお姉さんだ。
 お母さんに刺されたお腹は、たしかにひどく傷んだ。アイちゃんは息をひとつはいて、ふと窓の外を見る。
 ずっと遠くにある建物の上にはヨーちゃんとルぅちゃんが立っていて、手を繋いでこちらを見ているのが、一瞬、確かに見えた。
 ふたりは、幸せそうに笑っていた。


〈了〉