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[4993] 【2016年度】お題小説スレッド【お題「去る」作品投稿期間】
   
日時: 2016/01/12 23:57
名前: 企画運営委員 ID:7PNV346o



『お題小説スレッド』へようこそ。こちらはあるお題に沿って読みきり小説を書き、その作品をみんなで批評し合う場です。
 初心者も上級者も関係ありません。うまくなりたいとお思いの方であれば、だれでも自由に参加することができます。一生懸命執筆し、一生懸命批評して、小説の技術を高め合いましょう。
 皆様のご参加をお待ちしております。

――――――――――――――――――――

>>002 【ルール説明】:必ず熟読して下さい。(※内容、一言の箇所を訂正しました。ご確認ください)
>>003 【批評のポイント】:批評をする際のポイントをまとめたものです。
>>004 【イベントルール説明】:イベントに関するルールです。必ず熟読してください





▼お題:第32回のお題は「種」です。
 二月に種をまくのか? と思いましたが、調べてみるとじゃがいもは二月にまくそうですね。……さらに調べてみると一年中、なにかしらの種をまいてるみたいです。
 そんなことは置いといて。「種」というお題には「たね」以外にも色々な解釈があると思います。みなさんがどのような作品を投稿してくるのか、楽しみにしております。
※第30回の作品投稿期間は2月1日(土)からです


▼お題:第33回のお題は「姫」です。
 三月なので(笑)
 というのはよくわかりませんが(ひなまつりだから?)「ひめ」というのは可愛らしい語感ですよね。私は緑の黒髪をした和服姿が思い浮かびます。桃色が似合いますよね。桃色……やはりひなまつりでしょうか。それでは、みなさんの作品お待ちしております。
 
※第31回の作品投稿期間は3月1日(土)からです


▼お題:第34回のお題は「嘘」です。
 嘘でした。


▼お題:最終回のお題は「魔法」です。
 奮ってご参加ください。


▼お題:第36回のお題は「友情」です。
 ネタでした。


▼お題:第37回のお題は「音」です。
 奮ってご参加ください。



▼日程(第32回)

1月1日       :お題発表
2月1日〜15日   :作品投稿期間
2月16日〜28日  :批評提出期間


▼日程(第33回) 

2月1日     :お題発表
3月1日〜1月15日 :作品投稿期間
3月16日〜30日 :批評提出期間


▼日程(第35回) 

6月1日     :お題発表
6月1日〜7月31日 :作品投稿期間
8月1日〜   :批評提出期間



▼注意もしくは削除対象となるお書きこみ
・荒らし
・荒らしへの反応
・自分や他人の小説の宣伝
・雑談、チャット化
・ルールに反するもの
・管理人が不適切と判断したもの

――――――――――――――――――――

>目次 >>001


>第32回 お題『種』参加作品(敬称略)

>>404 sakana:シロハの辻褄
>>405 伊達サクット:赤い種、青い種

================================================================================

▼リンク
小説講座/雑談所』(お礼や言い訳等はこちらへ)
旧お題小説スレッド』(前スレはこちらから)
ツイッター』(朔乱のアカウントです。お題の告知などをしています)

管理人:If 空人 朔乱  補佐:伊達サクット
メンテ

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さらば、愛しき日々よ。 ( No.100 )
   
日時: 2013/05/03 01:17
名前: 某駐在 ID:4TsHtBAs

 そこは鈍い光で満たされた白が広がっていた。
 ここはどこだ。ここには建物や人影がないどころか、大地も青空もない。あるはずの音も、温度も、空気すら感じられない。まるで買ったばかりのデッサンのなかに迷い込んだようだ、と思ってしまうのも、あながち大げさではない。それほどまでに見事な空虚だった。
 状況を把握するべく辺りを見渡そうとしたが、まるで見えない糸で縛られたように動かない。人を呼ぼうとしたが、口が開かない。どうやら僕は本当にとんでもない場所に迷い込んでしまったようだ。溜息を零したくなった。――そもそも、呼吸が出来ているのかすら怪しかったが。
 仕方ない。なかば諦めて、ふかく意識を落とす。じりじりと脳を焼け付くような痛みのあと、視界に粒子の星が弾けた。
――リンッ。
 鈴のような涼やかな音のあとに、おびただしいほどの情報が流れ込んでくるのが分かる。
 それによると、どうやら僕はいま東京の大病院の一室にいるようだ。日本に来るために乗った旅客機のエンジンが渡り鳥を吸い込み、墜落事故を起こしたのだ。生存者は四百二十名中わずか七十人強で、その何割かが重傷者らしい。ちなみに僕もそのうちの一人に組みこまれている。墜落の衝撃で後頭部とけい隋を強打した僕は、全身麻痺に五感の喪失という重傷を負った。そこまで来たらいっそ殺してほしかった、と考えてしまうのは失礼なことだろうか。だが五感を失った僕は、まるで生きた屍だ。この空虚な世界でなにもできないまま、のこり六十年にもおよぶ生をただ垂れ流し続けるしかない。しかもだれかに生かされる形で、だ。ならさっさと死んだ方が、何倍もマシだろう。たとえ彼女はそれを望まなかったとしても。
 ああ、嫌なことを思い出した。溜息のひとつもつけないのが窮屈で仕方ない。夢物語でしばしば描かれた白の世界はフローラルの香がとても気持ちいい世界だった。透き通った黄金色のガラスの光が万華鏡のように反射しあって、生きたまま天国にいるような夢心地にさせるのだ。ああ、そういえば。そんな世界に一度行ってみたいとか、あいつは言っていなかったか。きっとたまに光のアーチが出来たり、色合いや明暗が変わるに違いない。とか言って、色素の薄い茶髪をひらひらと揺らしていたような気がする。
 彼女はいまごろ怒っているのだろうか。散々会うのを拒否した、その果ての事故だから当然だろう。そう考えるだけで、じくじくと胸が痛い。もういい。もうやめてしまおう。どうせ今更じたばたしたってどうにもならない。このまま空虚の世界をただよい続けよう。
 そう決めて僕は、意識をまどろみへと落とした。
 だが、皮肉なことに見たのは彼女の夢だった。



『……ねえ、一生のおねがい! 本当にさせてよう!』
 今年で十六歳になる彼女は、わずかに口を尖らせて拗ねてみせた。癖のない黒髪が夕日で艶やかに光る。ふっくらと柔らかな唇に、黒ボタンのようなまん丸の瞳。愛嬌のある彼女はしばしば天使に例えられていたが、なるほど。それも合点がいくな。と思いながら彼女――美穂を見た。
『昨晩もまったく同じことを言われた。……英語の勉強で』
『う、そうだけど……細かいことはいいじゃない。とにかくさせてさせてー!』
『駄目だ。ってか、そんなにやりたいなら、鏡相手にすればいいだろう』
『そ、それは……ちょっとやだな。なんだか、嘘臭いし……』
『我侭な奴だな』
『怜治にだけは言われたくない!! 我侭ナルシスト!!』
 ムカツクー! と美穂が声を荒げる。突然喋りだした彼女に、驚いた仲間たちが一斉にこちらを振り向いたが、その傍にいる僕に気づくとますます困惑の色を濃くした。
 僕は気づかなかったフリをして、美穂と会話を続ける。
『……してもらうつもりはない。そもそも僕には必要ないし、そんな下らないことで騒ぐのは美穂くらいだろ』
 『そうだけど』と、美穂がまた唇を尖らせる。『でも、怜治がいなくなったら凄く寂しいし、だから元気が出るおまじないをしたいんだ。怜治だって施設を出たら、寂しいんじゃない? そういうときにこんなおまじないがあったら、すごく嬉しくなると思うんだけど』
『下らないな』
 どうしてそんな信憑性のないものが流行るのか、理解できない。まだ食いさがろうとする美穂を、僕は害虫を払うように手を振った。こんなことも日常茶飯事だ。
『もう。そんなことだから友達ができないんだよ!』
『生憎、そんなものに時間を割くほど僕は暇ではないので。むしろ好都合だ』
「こんの……天邪鬼!」
 軽く怒った美穂がベンチから立ち上がって、叫んだ。途端にまわりの人が振り返る。しかし、よほど僕が気に入らないのか、普段は聡いはずの彼女がそれに気づいていない。
「だいたいから、どうしてあんたって子はこうも無神経なの? 普通、女の子から言われたらもっと嬉しそうに……」
「おい、落ち着け」
「落ち着いているわよ!」
「いや。落ち着いてないだろ。声に出てるぞ」
「それがどうしたって……あ」
 すぐに彼女は口を覆う。だが、もう遅い。黒い影は彼女のすぐ傍まで迫っていた。
「ねえ、二人とも」それは同じ施設の友達だった。「二人でずっと見つめあったと思ったらいきなり叫んだり……まさか、無言で会話でも出来るの?」
 途端に体が硬直するのが分かった。人当たりのいい美穂は「そんなわけないないよ」とおどけてみせる。
「え……でも、美穂。さっきから怜治の顔をみて笑ってたし……」
「あ、ごめんね。私たち、小声で話してたんだよ。なんか怜治が風邪で軽く喉を痛めたみたいで」
「え、そうな、の? ごめん」
「お前がやたら声がでかすぎるんだ」
「う、うるさいわね。怜治が怒鳴らせるからいけないんでしょ!」
「ちょっとしたことでもカッとなるのは貴方の短所だと思うのですが。美穂さん?」
 わざと眉間を潜めて、美穂を睨む。美穂は苦々しげに唇を噛むと『覚えてなさい』と僕にだけ聞こえる声で言った。それがおかしかったらしくクスクスと友達は笑ったが、同じグループの子供たちに呼ばれると「じゃあね!」と言い残して去っていった。それを見守ったあと、にこやかに手を振る美穂を睨む。
『マホウを使ってるあいだは笑ったり喋ったりしないって約束しただろ。こっちの声は、ラインを引いた人たちにしか聞こえないんだから』
『ごめん、なんかやっちゃった……』
 あはは、と後頭部を掻く彼女に、苦笑する。
『僕がイギリスに行っても、マホウは使ったら駄目だぞ。僕たちは本来の形に戻るべきだ』
『うん』
『あと、無闇に僕以外にラインを繋ぐなよ。下手に強くなると、なにが起こるか分からないからな。僕に意識をトスするのもこれきりだ』
『……え、じゃあ私、どうすればいいの!?』
『手紙があるだろ』
 呆れ眼で言うと、「そ、そんなあ〜」と彼女は困り果てた。すぐに何人かがこちらを振り向いたので、僕は咄嗟に美穂の脛を思い切り蹴りあげた。
『……い、痛い』
『いっそ痛覚が麻痺するくらい全力で踏んで上げましょうか、美穂さん?』
『ごごごご、ごめん! ごめんってば! だから許して!』
 『プリーズフォアギブミー!』と叫ぶ美穂に、本当に泣きたくなった。
 同じ日に同じ施設に入った縁からか、神様の気紛れか。僕たちは特別な能力を持っていた。『意識』を共有するマホウ。それにはラインを引く必要があるが、これは相手の身体に接触すればいいだけなので苦ではない。また本人の意思で解除できる。
 そのマホウのため、僕たちは誰よりもお互いを把握できた。知識や経験はもちろんのこと、美穂の現在位置から価値観まで知らないことはない。僕は美穂を身体の一部だと思っているし、美穂も同じように感じているのを知っている。僕そのものが携帯電話みたいだ、なんて考えたら美穂に笑われた。
 まあ、それも今日までの話だが。
「ねえ、怜治。先生がみんなを呼んでいるみたいだよ。そろそろ行こう」
 考え込んでいたら、ふいに美穂が僕の腕を掴んできた。咄嗟のことに対応できず、足が縺れて派手に膝を打ちつけてしまう。慌てて膝を見ると、切れて血が滲んでいた。「おい!」と僕は美穂を睨む。美穂もわずかに焦った顔でごめんと謝り、ふたたび手を握りなおした。そのとき、スッと足の痛みが消えた。
――え?
 膝を見る。怪我がない。すると子供一人が声を上げた。
「あ、美穂。膝に怪我してるよ!」
「ホントだー。痛そうー」
 おもわず息が詰まった。美穂もビックリしたらしく、僕と自分の膝を交互に見比べている。
「みほ」僕は知らず名前を呼んだ。「いつ、ひざをきったんだ?」
「知らない。覚えてない!」
 青ざめた顔で美穂は首を振っていた。本当に嘘をついていないようで、余計に恐ろしかった。誰かがもぐもぐと口を動かしていたが、なにを言っているのかさっぱり分からない。大丈夫、今から消毒しましょうね、なんて言っていた気がするけど僕の頭にはろくに残っていなかった。ただ痛々しいほどの真っ赤な傷と青ざめた美穂の顔だけが、それから十年経っても忘れられなかった。




「……行けないんだから仕方ないだろ……ああ、ああ……じゃあ、切るぞ。……分かってる。来月にはかならず……」
 プツッと音を立てて携帯電話を閉じ、革張りのソファに身を沈める。相変わらず喧しい幼馴染である。それを煩わしく、懐かしく思いながら、オフィスを明るく照らす月を見た。
 あれから、十年か。
 眼を閉じると、いまでもあの日の夕焼けが色鮮やかによみがえる。マホウが共有できるのは、知識や経験だけではなかった。縁が深まれば対象の怪我や体質、精神的外傷(トラウマ)まで、なんでも有りだった。 しかも同系統同士だとその効力は数倍になり、オーナーですらコントロール不能になることも知った。
 幼いながらにそのことを知った僕たちは二度と事故を繰り返さぬよう、徹底的に接触を避けた。会話はもちろん電話とメールで、プライベートで会こともせず、必要なときは代理を立てた。幸いにも僕の引き取り先はイギリスだったので、気軽に会いにゆくことはできなかった。
 美穂はしつこく会いたいと言ってきかなかったが、「冗談だろう」と僕は笑い飛ばして相手にしなかった。次に触れたらなにが起こるか分からないのに。もはやこれは共有じゃない、融合だ。
「……本当になんなんだろうな」
 知らず、嘲笑した。きっとこの世界を創った神様は、気紛れでハプニングをこよなく愛する重度の刺激中毒者に違いない。そうでなければこんなマホウに何の意味があるのだろう。
 ましてこれは美穂だけじゃない。ラインさえ引けば、友人だろうと、赤の他人だろうと関係なく相手の意識を乗っ取ることができる。歴史を変えることも、自身が神になることも、このマホウを使えば不可能ではないのだ。
「……あーあ」
 深く重い溜息が零れた。理由は、自分でもよく分からない。ただやりきれぬ想いがジクジクと胸に痛かった。



 ふつりと意識が戻る。とはいえ、変わらぬ白の世界は夢を見ているときのような色鮮やかさなど微塵もない。どちらが夢なのか分からなくなりそうだ。
――あれは、子供のころの記憶か。途中からロンドンの事務所で美穂と電話したときに飛んだが。
 まさか美穂も、あれが最後の会話になるとは思わなかっただろう。日本にいる彼女は幸福に満ち溢れていて、聴いているこっち恥ずかしくなるほどだ。それだけ、彼女は日本で幸せだったのだ。
 そのことを知るたびに、嬉しかった。――マホウのショックからか最初の数年間、彼女はろくに笑うことすらできなかった。それなのに僕は事故の罪悪感と馴れない英国への移住からくる疲労で、ろくに声もかけてやれなかった。彼女は自分に厳しい人だから、弱音を吐くこともできず、それが緩やかに彼女を壊していっているようだった。そのうち僕は電話をかけないほうが良いのでは、と思うようになり、受話器を取るのが億劫になった。居留守を使い、彼女の希望を無視したことも、一度や二度ではない。
 だから彼女が僕の望みどおり、順風満帆にしあわせを享受しているのが嬉しくてならなかった。たとえそこに僕が居なかったとしても。







――おじさん、おじさん。
 遠くで誰かが僕を呼んでいる。重いまぶたを上げると、コックピットの白い壁と幾列も並んだ青い座席が見えた。窓の外はほのかに明るく、ちらほらと起きている人も見られた。どうやら寝てしまっていたようだ。長い夢をみていた気がするが――よく覚えていない。あれはなんだったのだろう。
「よかった、起きた」
 ふと隣から声が聞こえた。日本人らしき少年が、にこにこと笑っている。
「ねえ、おじさん。ポップコーンを食べない? カードゲームしようよ」
「やらない」
 即答だ。付き合っている時間はない。
「えー、やろうよー。僕ヒマなんだよー」
「家族がいるだろう。早くもどれ」
「何言ってるの、おじさん。僕の席はここで、家族はいないよ。最初にここに座ったときにそう話したじゃない」
「そうだったか?」
「うん」
 しっかりと首を振る少年に、そういえばそうだったと思い出す。頭が鈍っているのだろうか。
「……名前は?」「ここに乗ったときに教えたじゃん」「僕は無駄なことは覚えない主義なもので」「もー!! 斉藤結城だよ!!」「……そう」「どうしたの?」「いや、なんでもない。それより、僕は何時間くらい寝ていた?」「三時間くらい」「お前は起きていたのか」「ううん、寝てたよ。ついさっき起きたんだ」「へえ、日本まではあと何時間だ?」「もう着くって。だからおじさんを起こしたんだよ!」「そうか、ありがとう」「おじさん、大丈夫?」「なぜ?」「なんだか顔色が悪いから……嫌な夢でもみたんじゃないかなと」「それはない。悪い夢ではなかった」「本当に?」「ああ」……。
 テンポの良い会話が続く。五分ほどの話し合いの途中、結城は「ねえ、おじさんはどうして日本に行くの?」と聴いてきた。
「どうして?」
 どうしてだろう。たしか美穂と日本で会う約束をして、それから――
 ハッと息を飲む。テーブルに置いた新聞の日付欄を見る。『May.28,2014』――あの墜落事故のあった日だ。まさか、ここは日本行きの旅客機の中か!
「お、おじさん? どうしたの?」
 不安そうに僕を見上げる少年の手を握り、僕は立ち上がる。
「いや。大した問題ではない。だが、手は離すな」
 たしか機関室は先頭だったか。急げば二分とかからない距離だ。
「ちょっと、おじさん! 落ち着きなよ!」
「いいから、黙――」
 ゴウンッという爆発音のあと、機体が激しく揺れた。後を追いかけるように動揺した人たちがざわめき始める。
「お、おい、あれを見ろ!」
 男の声につられて窓外を見ると、手前のエンジンから黒い煙が吹き出ていた。――バードストライクだ。
 機体がわずかに揺れる。人の悲鳴が聞こえる。青ざめ、混乱している。スチュワーデスの「落ち着いてください。大丈夫です」という叫びが、ギリギリでみんなの心を繋いでいる。――だがこれはほんのわずかな時間だ。実際に体験した僕は、これから起こる未来を知っている。
 三分後、ギリギリで右翼を支えていたもう一つのエンジンもバードストライクを起こし、旅客機は完全にバランスを失う。生存確率はほぼゼロパーセント。そんな絶望的な状況のなか、機長は高度が低いことと海のなかの不時着にわずかな希望を見つつ操縦桿を最後まで握り続けた。そして自身と三百五十名の命を犠牲にして、七十名を救うのだ。
 そのなかに結城が入っているかどうか、僕は知らない。機体がバランスを崩したときに空中へ投げ出されたかもしれないし、混乱した乗客によって引き離されてしまったのかもしれない。マホウには縁が深くかかわる。座席が隣だった程度の縁では、数センチの距離だけでラインは簡単に切れてしまう。
 だからこそ。
「手を離すな。絶対に家族のもとへ帰してやるから」
 少しでも離れないように、結城の小さな身体を胸の奥へと押し込む。苦しいだろうに、怖いだろうに、結城は文句一つ言わない。じっと息を潜めて、すべてが終わるのを待っている。我慢強い子だ。
「おじさん」
 ふと結城が微笑む。目尻に小粒の涙をためて。「神様に祈ろう」
「……いや、神には祈らない。僕の知る神は、気紛れでハプニングが大好きで人の気持ちをまったく考えない刺激中毒者だから」
 今までどんなに苦しいことがあっても、神にだけは祈らなかった。たとえ異端者として冷たい視線を浴びたとしても、頭を下げるよりずっといい。だから神には祈らない。たとえそれが死の間際だったとしても。
 じゃあ、だれに祈る? ブッタか? キリストか? 聞いたこともない宗教の神か? 日本で僕を待つ美穂か? 僕を置いていった両親か? ああ、どれも役に立たない。誰も信じられない。
「どうせなら、僕に祈れ。僕がお前の神だ」
「えええ!?」
「この場にいない奴よりずっと頼りになるだろ? 少なくともクッションくらいにはなるはずだ」
「そ、それじゃあ、おじさんはだれに祈るの?」
「僕は僕自身に祈る」
 マホウがどこまで通じるか、僕には分からない。しかし僕にだってできるはずだ、この子を守ることくらい。いや、この場の乗客を一人でも多く救うことができるはずなんだ。
「みんなで家に帰れろう」
 大丈夫。きっと、上手くいく。
 そう願って、僕はふかく眼を閉じる。――遠くで、二つ目のエンジンが爆発する音が聞こえた。




「……ナルシスト」
「うるさい」
 空虚からクスクスと軽やかに笑う女性の声が聞こえる。それに重ねるように、僕も笑う。夢から醒めたとき、真っ白な空虚には一人の女性が立っていた。
「さっきの子、斉藤結城君だっけ? 彼ならほとんど無事だよ。いまは怜治と同じ病院で、休んでる」
「怪我とか? 両親とは、無事に会えたか?」
「大丈夫。擦り傷があちこちにあるけど、大したことないから明日にでも帰れるんじゃないかな。ご両親にもその日のうちにあえたよ。よかったね」
「……ああ、よかった」
 思っていた以上に彼のことが気がかりだったらしく、分かった途端にホッと安堵の溜息が漏れた。それを見た彼女がわずかに笑う。
「十年ぶりだね、怜治」
「ああ、十年ぶりだな。美穂」
 美穂は記憶のなかの少女とは違い、身長も伸びて、顔立ちも大人びていた。声もずっと透き通っていて、柔らかい。数年で女性はここまで変わるものだろうか。
 美穂も同じ気持ちなのか、まじまじと僕を観察すると感嘆の声を漏らした。
「やっぱり怜治、綺麗だなあ……あっちじゃ、モテモテだったんじゃない?」
「まさか。僕の職業はお前も知ってるだろう? そんな奇特な奴、居なかったよ」
「本気で好きになったら気にならないよ、そんなこと。うわあ……なんか一番耀いていた数年間が見られなくて、すごくショック! やっぱり無理してでもイギリスの大学に行けばよかったなあ」
「高校のとき、僕に英語を教えて貰っていたのはどこのどいつだ?」
 「そ、そうだけど」と美穂が苦々しげに唇を尖らせる。相変わらずの彼女に苦笑した。
「私ね、あのとき実は君の近くにいたんだ。君が落ちた海のすぐ近くの海岸に」
「あそこに居たのか。空港からはだいぶ距離があったはずなのに」
「うん。なんとなく、嫌な予感がして。だから私は、あのときなにがあったのか、よく知っている。あのあと君が『なにしたのか』も。……きっと頭を打った衝撃でまだ思い出せないんでしょ。興味ない?」
「……全然」
 僕は首を横に振る。だが、最初から意見など聴くつもりがないのか、「まあ、そう言わずに」と言って勝手に語り始めた。
「墜落するまでの数分間。君は旅客機そのものとラインを結ぶことで、機長といっしょにバランスの崩れた旅客機を操縦した。焼け石に水程度だったけどね。なにせ、右翼のエンジンはほとんど壊れていて、翼だけでバランスをとっているような状態だったのだから。……案の定、機体は強い衝撃を受けた。君はそれを自分へ向けることで機内の火災と分裂を抑え、七十名もの命を救った」
 僕はなにも応えない。それをどう取ったのか、美穂の白い顔がわずかにほころぶ。
「普通なら有りえない話だよ。受信器官をもたない無機質とリンクするなんて……でも、実際に君は病院のベットとリンクして自分の状態を把握している。ここまで使いこなせる人は地球でも君だけじゃないかな。このことを超心理学者が知ったら、涙を滝のように流して君の爪の先まで解剖するんだろうね」
「それで? 僕に栄光あるケンブリッジ大学の恩師のために、解剖同意書に判子でも押せっていうのか?」
「君はそっちのほうが嬉しいのだろうけど……私としては、やっぱり却下」
 だろうな、と僕は胸中で相槌を打つ。
 研究者の僕と違い、美穂はどこにでもいる一般人だ。人の為になると分かっていても、抵抗があるのだろう。そもそも美穂に決定権はないのだが――
「君があのときに下した決断を私は攻めない。そもそもマホウがなければこうして話すことすらできなかったんだから、君の判断には感謝するべきなんだと思う」
「何が言いたい?」
 小さく溜息をついた。遠まわしに伝えようとするなんて、美穂らしくない。
「ねえ、怜治。私と一つになろうよ。マホウを使えば、きっと私たちは肉体を共有できるはずだよ」
 彼女の声が空虚に静かに響いた。
 やっぱりな、と思った。美穂の瞳は力強い、覚悟を決めてここまで来たのだろう。けれど、素直に受け止めることはできない。それは美穂のためにならないからだ。
「僕の答えは、ノーだ」
 「どうして?」と彼女は即座に聴き返す。薄々僕の答えは分かっていたのか、動揺している様子はない。
「あそこはお前が帰るべき場所であって、僕の場所じゃないから。僕は望んだ場所以外、帰りたくないんだ」
「私、怜治が望むならイギリスに行ってもいいよ。身体が欲しいならあげる。研究したいならいくらでも使っていいよ」
「……それにもうあそこは僕の居場所じゃない。事故に遭った時点で、僕の居場所はここになったんだ」
 色なんてろくに存在しない空虚の世界。おそらく永遠に終わらない孤独。だが、後悔はしない。僕は限られた一瞬一瞬のなかで、常に全力で生きてきたのだから。その結果、あんな絶望的な状況の果てで彼女にまた会えた。
 これ以上、幸福なことはない。
「マホウの研究、できなくなっちゃうよ?」
「必要ない。どちらにしても、この時代の技術には限界があった。それより神に聴いたほうが早い」
「研究所の人たちにもなにか言いたくない?」
「彼らはマホウの力を使っていた僕なんかよりずっと優秀だ。それにどうせすぐに僕の穴は埋まる」
「好きな子とかいたんじゃない? プロポーズできないよー?」
「生憎マッドサイエンティストなもので。そんな奇特な人は居ませんでした」
「……そっか」
 「わーすごく残念だよーうー。私、君にあえるの楽しみにしてたのにー」と美穂がなげやりに笑った。しかし笑顔が硬いことに、彼女は気づいているだろうか。知らないふりをしよう。気づかずにいよう。そして暖かく送り出そう。
 美穂が前へ歩いてゆけるように。僕がもう過去にとらわれないように。
 「じゃあ、私。そろそろ行くね」そう言って彼女がおもむろに彼方へ向く。「そろそろ朝だから、看護師さんが朝の巡回に来ちゃう」
 ああ、もうそんな時間なのか。知らぬまに狂ってしまった体内時計に苦笑する。
「ああ、さっさと行け」
「元気で……っていうのも、変だけど。逢えてよかった」
「ああ、僕もだ」
 その言葉にひとつうなずくと、そのまままっすぐに歩き出した。みるみると彼女が小さくなってゆく。きらりと果てが耀く。光の中に青色の扉が見える。雲が見える。そこは生者の世界へと繋がっていた。
「美穂」願うように、請うように。僕は呟く「お前はだれよりも長く生きろ」
 生きて、生きて、生き続けろ。
 何年でも、何十年でも。お前のまわりのみんなが呆れるくらい、長く。
 泣いて、笑って、怒って、楽しんで。
 そして、幸せになってくれ。
 それが僕の唯一にして最大の願いだ。
「大好きだよ、美穂」
 溢れるかぎりの想いをこめて、彼女の背中に願った。きっと、この言葉は届かない。届かなくてもいい。面と向かって告げるのは気恥ずかしいし、そうなることで美穂の足を鈍るようなことにはなりたくない。
 だからこれが最初で最後だと、硬く口を閉ざした。
 そのとき、急に美穂がこちらを振り向いた。どうしたのだろう。こっちに戻ってくる。
「なんだ? 言い忘れでもあったのか」
 施設の古い友達辺りは伝言していそうだな。そう思っていたら、彼女は勢いそのままに僕に美穂が飛びついた。避けきれなかった僕の首に美穂の白い腕が絡みつく。ふんわりと唇に触れ、その甘さと柔らかさにしばらく我を忘れた。
 「おまじない!」そして彼女はとても暖かな声で笑った。「いままで守ってくれて、本当にありがとう。私もず――――っと大好きだよ!」
 その言葉を最後に彼女は腕を解くと、また青空へと走っていった。
 二度と振り返ることなく。
――ねえ、キスさせてよ!
――寂しいときにこんなおまじないがあったら、すごく嬉しくなると思うんだけど。
 あの夕暮れの日、美穂は熟れた林檎のように顔を真っ赤にしてそう言った。
 本当だ。美穂、お前は凄い。きっと世界最高の魔法使いだ。お前がかけていったキスの魔法は、根底にあった孤独感や罪悪感をすべて拭ってしまった。
 遥か遠い未来、どんなに苦しいことがあったとしても、僕は生きてゆける。たとえ同じ世界には居なかったとしても、数十年の孤独が待っていたとしても、安心してゆける。
 本当にありがとう、美穂。
 そう言って、僕は永い眠りにつくべくゆるりと意識を落とした。



 死ぬのは、とても簡単なことだった。リンクしているベッドのどれかの傷を僕の心臓にあてればいい。
 だが、僕は白の空虚に残り、淡い生に浸りつづけた。あれから様々なことが起こった。
 結城が無事に退院したこと。数年たって、青年になったこと。ほかにもあの飛行機事故をきっかけに、たくさんの人が知り合ったこと。なかには結婚した人たちまで居たこと。――そして美穂が結婚したこと。相手は同じ会社の同僚で、共に息災であること。先日、子供が生まれたこと。娘だったこと。
 美穂は約束通り、幸せに生き続けていたのだ。そのことを知り、僕はようやく笑った。
 そろそろ、逝こう。さっきからだれかが僕を呼んでいて、そろそろ怒ってしまいそうだから。一歩、一歩、前へと踏み出してゆく。やがて黄金色のガラスの光で溢れた世界へと出た。その向こうから駆けてくる彼女たちはいったいだれなんだろう。ゆるりと手を伸ばす。甘いフローラルの香が、僕を暖かく迎えてくれた。


メンテ
世界の魔法の三カ条 ( No.101 )
   
日時: 2012/03/14 16:31
名前: どーなつ◆GxLXiW30Go ID:NXdb/eR6

 「うーん……今日も成果は無し、か」
 そんなつまらぬ独り事に相槌を打ってくれる人など最初から居る筈が無いのに、ここの所私はこうやって一人で呟く事が多くなってきていた。
 湿気が籠もり埃が充満するこの部屋に、好んで訪れようとする者は居なかった。もし居るとすれば、カビやダニくらいのものだった。
此処の特徴といえば、天井に届くぐらいの本棚がずらりと並び、それらに囲まれるように、部屋の中心に巨大な壷が置いてある事くらいである。
この壷を相手に、私は先週から一人でああでもないこうでもないと苦悩しているのだった。

 事の始まりは、こうだった。
「貴女になら、依頼出来ると思って来たんです! お願いします!」
私が経営している魔法事務所――所謂何でも屋だ――に彼が訪れたのは、丁度先週頃の事だった。
 六月というのは、私たちのような魔女にとっては一年間で最も憂鬱な時期と決まっていた。
何故なら、ろくでもない仕事(家のカビ取りだの、穴の開いた屋根の修繕だの)が増え、おまけに魔女が使役している猫が嫌う梅雨の時期にあたるからだ。
当然仕事のペースは遅くなるし、モチベーションはだだ下がり。しかしそんな事も言ってられないので、私はいつもの様にお気に入りの週間雑誌を読みながら店番をしていた。

 そんな所に、顔を真っ青にして目を白黒させながら、息も絶え絶えという感じの男がドアを壊さんばかりの勢いで店に入ってきたので、私はびっくりして思わず護衛の体制を取ってしまった。
その後彼が客だと気付いて、慌てて杖をしまった私の姿は彼の目にしっかりと滑稽な姿で映ったことだろう。あの時の事を思い出すと、私は恥ずかしさのあまり顔から火が出んばかりの思いになる。

 彼は店に入ってくるなり、何やら魔法薬のレシピらしい紙を薄汚れた上着のポケットから取り出し、どんとカウンターに置いた。
そして、驚いた事に、いきなり彼は土下座をしたのだ!
「馬鹿な願いだとは百も承知です。しかし、人の命……私の娘の命が懸かっているのです。リリスは昔から病弱で、病院に行くお金も尽きてしまいました。どうか、どうかこの魔法薬を作ってはもらえないでしょうか」
私はレシピを見る間も無く、彼に顔を上げてもらうように頼んだ。
 彼はかなりの長身で、そのわりには頼り無い体付きだった。長細い顔で、頬もこけ、目は落ち窪み、鈍く光る金属のようだった。
彼は私が黙ったままなのを見て、すかさず名前を名乗った。「ポール・エインスワーズと申します」低く自信無さげな声が、静かな事務所に響いた。
「分かりました。喜んで引き受けましょう。娘さんの命が懸かっているんですってね、それなら早く作らなっくちゃあね」
 そう言って、私は彼が持ってきたレシピに目を通した。都合の良い事に、私の一番の得意分野は魔法薬学だ。きっとエインスワーズ氏もその噂を聞いて此処に来たのだろう、と予測がついた。
 「『名称・強制滋養増強剤。材料・マンドレイクの根っこ、雄牛の腸、乾燥させた曼荼羅の花一輪、月長石50グラム、エメラルド一カラット分。効果・服用した者の体を一時的に完全に健康な状態に戻す。効果の続く期限は約一日。また、期限が過ぎると服用者は死亡する』……」と、ここまで読んだ所で、私は多くの違和感を覚えていた。
「ちょっと、これは違法魔法薬ですよ!? 貴方、『魔法および魔法薬における三カ条』を知らないんですか? それ以前に、何故こんな危ないレシピを、貴方が……」
疑問を一気に吐き出した後、私は項垂れた。厄介な客を店に入れてしまった……長年店をやってきた中で、こんな事は初めてだったので、私はいささか焦っていた。
ゆっくりと顔を上げた先には、深刻そうな表情を浮かべたエインスワーズ氏が居た。どうやら、彼は何が何でも私にこの薬を作らせようとしているな、と私は思った。

 「魔法および魔法薬における三カ条」。魔女や、魔法をちょっぴりかじっている人ならば誰もが知っている、魔法世界の常識ともいえるものだ。
一、それぞれ魔法の種類ごとの認定証の無い者がその魔法を使用してはならない。二、魔法薬の材料は必ず国の認定した市場で購入すること。三、人を死に至らせる事の出来る魔法および魔法薬は総じて禁ずるものとする。そして、これらの法を破った者には厳しい罰が与えられる。
 エインスワーズ氏の持ってきたレシピはこれらの中の二つに違反している。効果は元より、材料の中では、通常の市場では絶対に入らないような物がある。つまり、世界の掟を破っているという事なのだ。

 「でも、これしか娘の命は救えないと言われたんです! 罰なら喜んで受けますとも!」
「誰にレシピを貰ったのです?」これ以上、この男に関わりたくないと思っていたが、ここまで話を聞いたのだから、と私は仕方無しに事情を尋ねる事にした。
「そこの酒場で出会った、魔法使いを名乗る男です。あっ、酒場と言っても酒は一切飲んでませんよ。第一お金も無いし、そこには情報集めの為に来ていたので――ええと、その男は真っ黒のローブを羽織ってました。背は私よりも随分低かったです。後、左足を引き摺っていました」
視線を左上に動かしながら、彼は答えた。やはり、まだ掟を破ったという実感が無いのか、暢気なように見えた。
「しかし、おかしな話ですね。その男は、何故貴方のような魔術の素人に、こんなレシピを渡したのか……」
「あぁ、それは簡単です。町には魔女の営んでいる店が幾つもあるから、そこで頼めば作ってくれる、と言われました。私、必死だったもので、そこの酒場から一番近い貴女の店に駆け込んだのです」
「なるほど。エインスワーズさん、残念な話ですが……この薬を作る事は不可能です」
それを告げるのはとても心苦しかったのだが、私はそう言ってレシピをエインスワーズ氏の方に差し出した。予想通り、彼は唇を噛み締め俯いていた。
「掟破りなのもあれですが。まず第一に、材料を手に入れるのが非常に困難なのです。それに、レシピに書いてあるような製法は私もやった試しが無く、相当高度な技術を持った魔法使いで無ければ作る事が出来ないのです」
 私の言っている事は本当だった。マンドレイクの根っこは麻薬の部類に入るとも言われる程危険なものだし、曼荼羅の花など伝説上のものではないか、という説が出る程貴重であった。
少なくとも私の様な、平凡な魔女には手の付けられない代物だ。
「材料なら任せて下さい。男の連絡先こそ分かりませんが、実は少しだけ入手ルートを教えてもらったんです。では、またすぐ持ってきますからね」
私は深い溜息をついた。――駄目だ、彼は何も私の話を聞いていないようだ、と。おまけにレシピもカウンターに置きっぱなしになっていた。しとしと降る雨が、私の憂鬱な気持ちを助長させた。

 あれから四日程経った頃だろうか。その日は店の定休日で、女中が私の部屋に慌てた様子で入ってきた。
「メイシーさん、先ほどお手紙が届いて……エインスワーズというお方です。それと一緒に、この箱が届きました」
女中はテーブルに荷物を置くと、そそくさと部屋を後にした。箱はかなりの大きさがあって、テーブルにぎりぎり乗っかる程であった。
 まず最初に、私は手紙を開いた。
「『拝啓 ミス・メイシー様。このお手紙を読んでいる頃には、私はもう死期が近づいているのかもしれません。その代わり、先日渡したレシピの材料を揃える事が出来ました。後は作るだけです。どうかお願いします。それと、契約書も作りました。全ての罪は私が受ける、と。これがあれば大丈夫です。住所も書いておきますので、取りに来て下さい。私は動けそうにありませんので。娘をよろしくお願いします。 ポール・エインスワーズ』――嘘だわ!」
文字がだんだんとミミズがのたくった跡のようになっていたり、文法がおかしくなっていたりして随分読むのに時間が掛かったが、大まかな内容はこんなものだった。そして、私は彼の書いている事がまるで信じられなかった。
 この中に材料がみんなある、とでも言いたいかのように、その箱は偉そうに私の部屋に居座っていた。
幸い箱には鍵などかかっていなかったので、簡単に開ける事が出来た。その瞬間、私は目を見張った――驚いた事に、本当にあの薬の材料一式が揃っていた。
問題のマンドレイクの根っこや曼荼羅らしき花も、丁寧にそこに収められていた。どうやってこれらを集めたのか、その時の私には想像もつかなかった。

 それから、話は現在に至る。
ほんの気まぐれと、エインスワーズ氏の真剣さを買って、試しに薬を作ってみようと決意したのだ。
自分のやっている事がいかに危険な事か分かっていないのは自分の方かもしれないな、と私は自嘲気味に思った。
 あの後、もう一度彼から手紙が来たのも理由の一つだった。彼の娘が生まれつき重い病気にかかっていて、余命幾許も無い事。彼の妻も病弱で、二年前に死んでしまった事。そして、彼の娘が「今年の誕生日は元気でいた。死んでも構わない」と口にした事。
娘の衝撃的な発言を聞いた後、彼は何を思ったのだろうか。いや、何も思っていないのかもしれない。只一心に娘の願いを叶えてやりたいと考え、あらゆる場所を尋ね周り、あの薬の存在を知ったのだろう。
もしも薬が出来たとして、捕まっても悔いは無いなと思っていた。お客の願いを叶えるのが、魔法事務所として一番大切な事だと心に決めているからだった。
 「それにしても、変ねえ。いくら難しいと言っても、術式は確かに合ってる筈なのに」
何日も夜通しで、私は同じ術式を繰り返し試していた。この薬は、壷に材料を入れすり潰す所までは比較的簡単なのだが、材料を混ぜる為の術式が非常に難関だった。
レシピ通りに魔方陣を杖で描いても、材料は全く反応しない。時間や場所、その他諸々を変えてみても反応は無いまま、時間だけが過ぎていった。
このままぐずぐずしていたら、いつかエインスワーズ氏の娘は亡くなってしまうのではないだろうか? 私はそう考え、ついに行動を起こす事にした。

 エインスワーズ氏の家は、言うなれば「ボロ屋敷」だった。
古びたトタンの屋根に、蔦の絡まっている崩れかけの石壁。窓は、壁に粗く穴を空けて作ったものらしかった。
「すみません……わっ、酷い臭い」返事が一向に無かったので、私は勝手にすまないと思いながらドアを開けた。
その瞬間、生臭い臭いが埃と共にこちらへ吹き込んできた。すかさず手で鼻を摘むと、散乱した家具や本を掻き分けて、私は部屋の奥へと進んでいった。
「あ、メイシーさん……。ほら、リリスや。薬を作ってくれる魔女さんがいらっしゃったぞ」
エインスワーズ氏とその娘リリスは、どちらもベットに横たわっていた。青い顔をしたエインスワーズ氏は首をもたげると、奥のベットで眠っている娘を起こそうと、片腕を伸ばした。
 その時、私は大変な事に気付いてしまった。彼のもう片腕が無くなっていたのだ。腕の付け根であった所には、荒々しく包帯が巻かれていた。
彼は最初会った時よりも痩せ細り、今にも死にそうな様子だった。見ている私の方が痛々しい気持ちに苛まれる程に。
「こ、この腕は何でもありません。利き腕なので、字を書いたりするのが少し不自由になっただけで。でもその代わりに材料が手に入りました……薬、出来ましたか?」
「ちょっと待ってください。それは……腕を売る代わりに、あの材料を貰ったという事ですよね?」
「そう、そうです。金が無いと言ったら、それで代用してくれると言われたので。すみません、今娘を起こしますので……娘は五日ぶりに寝たもので……おい、リリスや」
「エインズワーズさん。この紙には、貴方が材料を貰った所の住所が書いてありますね。これさえあれば十分です。では」
 私は考えるよりも先に、家を抜け出て、その住所の下へと向かっていた。

 「あん? おばさんが何の用だね。見かけは裕福そうだし、冷やかしならお断りだよ」
「ベルギズの質屋」と看板の提げられた店を見つけると、私はすぐさま入っていった。
薄暗い雰囲気の漂う店には、柄の悪そうな禿げ頭の店主がカウンターに頬杖をつきながら座っていた。
「この店、只の質屋じゃあないわよね。人身売買が行われているようですが。先日、エインスワーズ氏の片腕を買って、偽物の魔法薬の材料を渡しましたよね?」
「ちっ。アンタ、素人の癖して闇商売に首を突っ込むとはいい度胸だな。ここで殺すのが惜しいくらいにねぇ」
やはり推理の通りだったな、と私は呟いた。左足を引き摺っている点といい、身長といいエインスワーズ氏から聞いた、魔法使いを名乗る男特徴とぴったり合っていた。つまり、これは全て店主が仕組んでいた事だったのだ。
エインスワーズ氏に、嘘の薬の情報を流して、法を破る程の薬でなければ娘は助けられないと言い、その後姿を変えてその薬の材料を渡す代わりに腕を寄越せと言いつける。
そして、娘を思うあまりに彼はその話に飛びつき、まんまと罠にはめられたのだった。腕は闇社会で高額で取引されるというから、きっと店主はそれを狙ったのであろう。

 店主は意地悪そうにせせら笑うと、ポケットから杖を抜いた。それを見て、私も反射的に杖を出し、戦闘態勢に入った。
「推理ごっこか。道理で最近の女は狡賢いわけだ」
 店主は素早く杖を振り、おぞましい声を上げながら呪いの魔法を繰り出した。
迫る。迫る。迫る――すんでの所で黒い閃光をかわすと、私は体勢を持ち直した。
 実はというと、私は攻撃魔法の認定書を取っていなかったのだった。「一、それぞれ魔法の種類ごとの認定証の無い者がその魔法を使用してはならない。」流石の私も、こんな事の為に法など破っていられない、と考えていた。
 「遅いぞ!」もう一発、店主の攻撃が飛んできた。さっきよりもスピードが増し、ビュンと音を立てて向かってくる。
咄嗟にそれをしゃがんで避けると、閃光は床に当たり、焼け焦げを残して消えていった。「くそ!」店主は地団太を踏んだ。
 店主の攻撃から逃げている内に、ある一つの魔法が私の頭に浮かんだ。――これなら、攻撃魔法でなくとも相手を倒せれるかもしれない。一筋の光が差してきた。
「防御魔法『ムーロ』!」杖でゆっくりと魔方陣を描くと、小さな光の壁が私の前に現れた。
「ふん、そんな物無いのと一緒だな!」店主は私を一頻り嘲笑した後に、同じように黒い閃光を杖から繰り出した。
当然の如く、それは光の壁に当たる。すると、それは面白い位に巨大な閃光になって、店主の元へ跳ね返っていった。
「防御魔法を極めた先には、反撃魔法があるのをご存知でなくて?」
私が杖をエプロンのポケットにしまうと同じタイミングで、哀れな店主はばったりと倒れ、床に突っ伏した。

 「メイシーさん。貴方にはいつも助けてもらっていますよ。しっかし、今回は直接悪党を倒すとは!」
私の横で豪快に笑っているのは、この町を担当する警部補のマージマル氏だ。
「いえいえ。私はただ防御魔法を張っただけです。あの店主が無知で、同じ魔法を何発も繰り出すような輩で無ければ、今頃私がやられていましたわ」
これで、また元の平凡な日常に戻るのだな、と私は晴れ晴れしいような、退屈なような気持ちになった。
 でも、後一つだけやり残している事があるのだ。
「――それと、エインスワーズ氏という方に伝えておいてもらえませんか? 『今度は三カ条を破らない魔法薬を作っておきます』って……」


おわり
メンテ
たまご ( No.102 )
   
日時: 2012/03/15 21:14
名前: 朔乱◆dQO3LlCLQE ID:ncET9xII

 瓶が傾く。中の液体がコップへと注がれる。コップからは湯気が出てくる。湯気が出てくるのはこの液体が温かいからだ。温かいものからは湯気が出てくる。そんなことは今までの経験からわかっている。問題は、液体が一時間前も湯気を出していたということだ。
 普通、ものは火に通さないと温かくならない。電子レンジやオーブンなんかでも温かくすることができる。給湯器なんかもあるが、あれはガスを使っているらしい。つまり、給湯器は火を使っているということだ。そして、温かいものはすぐに冷めてしまう。僕の温かい飲み物も、飲み頃が来たと思えばすぐに冷めてしまう。それが普通だ。温かいものはすぐに冷めてしまう。これは、世界中の全てのものにあてはめることができるだろう。しかし、この瓶に入っている液体は違う。冷めない。ずっと温かい。この瓶に入っている液体は、僕の提唱した理論に反する。こいつの謎を解明することが今現在、僕がするべきことだと思う。
 まず、瓶に入っている液体が何なのかを考えよう。この液体は、瓶に入る前はどこにあるのか。それは前日の調査で明らかになっている。液体は瓶に入る前、ヤカンに入っている。その前は蛇口の中だ。蛇口に入っているのはただの水だということは明らかにされている。しかし蛇口というものも、中々不思議なものだ。永遠に水が出続ける。尽きることがない。しかし、この謎はいずれは明らかにするとしよう。今明かすべきなのは瓶の謎だ。今まで瓶の水の出所を確認するため、あえて水が辿る道を逆方向に進んできたが、今度は水が辿る順番通りに進むことにする。蛇口からヤカンに注がれた水は火に通される。つまりは温められるということだ。そして温められた水、一般的に言うお湯のことだが、お湯は瓶へと注がれる。当然、このお湯はただ水を温めたもののだ。すぐに冷めてしまう。それがこの瓶に入れた途端、冷めない液体へと変化してしまう! 
 ここまで状況を整理してみて、僕はあることに気がついた。それは蛇口から出る液体は水で、ヤカンで温められた液体も水。瓶に注がれる液体も水ということだ。何度も容器は変わっているのに、水という液体は他の液体には変化していない。ここで一つの仮定が生まれてくる。「液体はどんな状態でも等しく水である」この仮説が正しければ、瓶から出てくる液体も水である。丁度この仮説を裏付けるように、ヤカンで温められた直後の水も、瓶に入っていた液体も、同じ使われ方をしている。
 こうなると、瓶に入っている液体を調べる必要はなくなる。瓶に入っている液体はただの水で、水は簡単に冷めてしまう。水が冷めない原因は瓶にあるということになる。そして、瓶を調べるのはかなり難しい。瓶に入っている液体は何度も移動していたため、瓶に触れずに調べることができた。しかし、今回ばかりはそうはいかない。僕は直接瓶を調べる必要がある。
 さて、瓶を直接調べるにあたって、どのような障害を乗り越えなくてはいけないのかを考えることにする。
 まず、はじめに考えなくてはいけないのが、瓶のある場所だ。今、瓶は食卓の上に置かれている。食卓とは、僕の体の三倍はある巨大な建築物だ。ここに上がるためには、一度イスを経由しなければならない。しかし、イスも僕の体の倍はある。不可能なことではないが、かなり疲れてしまう。食卓に上がれるのは、一日に一回が限度だろう。
 そして、もう一つの障害はセキュリティの高さだ。僕が食卓へ上がることをママは許さない。そして、僕が瓶に近づくこともママは許さない。
 つまり、瓶を調べるには、ママに見つからないように食卓の上へと登らないといけない。そして、食卓は巨大で登るにはかなりの時間がかかり、その上一日に一回しかできない。これは綿密な作戦を練る必要がある。

 ☆

 丸一日考えた作戦はこうだ。作戦を実行するのは平日の昼食後。休日はパパがいるため、セキュリティは上がってしまう。そして、床とイスと食卓は丁度良く段々になっていないといけない。つまり、イスが引かれたままになりやすいご飯後がいいのだ。朝食後でもいいのだが、眠いから昼食後にする。次にママの気をそらす作戦だが、これは食卓から離れた場所で、漏らすか吐くかをすればいいだろう。僕の後始末をしなければならないことを考えると、吐くほうがいい。食事後なら容易いことだ。そう考えると、脱衣所で吐くのがいい。洗面器や風呂場の水を使用するだろうから、キッチンには来ない。それに、濡れる前提の設計になっているはずだから、シミとかは残らないだろう。、迷惑はほとんどかからない。これで作戦は完璧だ。早速、今日決行しよう。

――頑張った。
 今、ママは脱衣所にいる。イスは引かれたままだ。計画通り。緊張で手足が震える。しかし、気付かれないよう静かに登らなくてはいけない。ゆっくりと、物音を立てないよう慎重に手をイスついていく。日ごろの筋トレの成果を見せるときだ。上半身のほとんどがイスに乗っかった。そろそろ足をかけられるはずだ。足を伸ばす。そのとき、重心が動いた。耐えられず手がすべり、つうっと鳴る。やばいやばい、かなり響いたぞ。しかし、気付かれた気配はしない。大丈夫みたいだ。なんとかイスに乗ることはできた。いわゆる四合目到着だ。本番はこれから。
 イスは掴むところや手をつける場所がたくさんあるが、食卓はそうはいかない。己の握力と腕力、若き手の吸着力に頼るしかないのだ。緊張とさっきの恐怖心から少し湿ったこの手は、最良の状態と言える。さぁ、新たなる世界へ、未知なる発見への第一歩を!
 ……イスとあまり変わらなかった。さっきのイスを登った経験を活かせば、さほど難しくもなかった。わりとすんなりと登れたことに拍子抜けしているが、今回の目的は食卓を登ることではない。例の瓶を調べることだ。瓶はもう目の前、ついにその謎が明かされるときがくる……

 ☆

 さて、結果から言うことにしよう。瓶の謎はわからなかった。今、僕は自宅にいない。瓶は僕が思っているほど軽くはなかった。瓶を持とうとしたがかなわず、瓶は倒れ液体は僕の全身に降り注いだ。熱かった。かなり熱かった。
 ただ、わかったこともある。瓶の中にある水は熱いということだ。今まで瓶に入ってる水は、人体に害のない温かい水だと思っていた。しかしそれは間違いで、瓶に入っていた水は温かいよりもさらに熱を持った熱いものだとわかった。熱いという概念を知れたことは、かなりの収穫だ。
 今、僕は病院にいる。物音に気がついたママがすぐに救急車を呼んで、ここに運ばれた。幸い大した火傷ではなく、すぐにママとも会えた。ママは僕を見るなり、抱きしめてくれる。僕はいつも感じているママの優しい匂いと温もりに包まれる。
 ん、温もり? 温もりということは……温かい? そういえば、ママはいつも温かい。あの瓶なんかよりもずっとずっと長い間冷めていない。これは大変だ。こぼれてきたらひとたまりもない。危ない危ない。死ぬところだった。近づかないようにしよう。

 ☆

 その日を境に、突然自分を拒絶した息子のことを母親は理解できず、親子の溝はどんどん深くなっていった。そして息子のほうは「温かいものはすぐに冷める」という持論の正しさをさらに裏付けることができ、満足していた。
 
メンテ
ウェザー ( No.103 )
   
日時: 2012/03/15 23:56
名前: sakana◆092jpOU0d. ID:2rpb94Ok

 0-1

「えーんえーんなのです。ちーちゃんは泣いているのです」
 妹は涙に咽ぶ。
《いつも》を回想すると、妹は隠れるようにひっそりと泣いていたはずだった。自らが人に掛ける負担を少しでも軽くしようと日々気を遣って過ごしていたあの子。そんな彼女が周りを顧みることもせず、大粒の涙を惜しむことなく流している。
「おれは泣いてなんかいない」
「泣いているのです。泣いているのです、悲しいって言えなくて、苦しんでいるのです」
 嗚咽が混じる声。鼻を啜り、顔は涙で他人に見せられるものじゃない。そんな自らの恥を晒しながらも、妹の行動は手で目を覆うだけに留まる。
「なら、どうしてお前が泣く必要がある」
「ちーちゃんの代わりです。みがわりなのです。ちーちゃんは泣かないから、泣けないから、わたしが泣くのです。泣くことに、したのです」


 1-1

「卯田小太郎」
 唐突に。何の前触れもなく、俺の席を占領していた藤村は誰かの名前を口にした。聞き覚えのあるような、それでいて真新しいような不思議な気分を覚える。
「だれ?」
「二組のヤツ」
 その返答に、ふうんと相づちを打ったが、藤村が何を言いたいのか少しも分からなかった。重ねて問う。
「そいつがどうかしたのか?」
「死んだんだって」
「は? ……もう一度」
「だから、いまそいつ学校に来てないらしいんだけど、その理由はそいつが死んだからっていう噂があるってことだ!」
 藤村は俺の机の上で力強く手を鳴らし、椅子の上では胡座をかくという強行に出たまま我が物顔でふんぞり返っている。この授業の合間の休み時間も残り二分を切っているのだから、いい加減自分の席に戻って欲しいのだが。
 とりあえず話を切り上げようと、「何でそいつの話をするんだ」と質問に答えるように促す。が、彼はそれに耳も貸さない。ただ独り言のように好き勝手に話を進める。
「さらに、噂によれば出るらしい。そう、出るって! 誰某が事故にあったとか、死んでしまったとか、やっぱりそういったことも珍しいけどそれ以上に……やばいよな、素晴らしすぎるよな! 幽霊はオカルトだよ、オ、カ、ル、ト! だからさ、実物がいたのかってことの確認がてらに、今日の昼休み二組に行こうぜー」
 ちょいと待て。出るって何だ、出るって。
 ある男子生徒の幽霊が学校にでるという噂を口にした藤村に、引き攣った笑みだけを返す。
 そして藤村は、俺の返事を待つこともせずに言いたいことだけを吐いて会話を切り上げるのだ。口笛を吹いているあたり、かなり上機嫌であるらしい。話を切り上げさせる、という点では、俺が望んだ展開なんだが……何だか釈然としない。
 藤村が俺の席を立ったとき、既にチャイムが鳴り始めていた。慌てて自分の席に戻っていく彼の後ろ姿に目をやり、いい気味だ、と当てつけに笑ってやった。


 0-2

 血の繋がっていない妹だった。
 だからこそ、妹はおれによく懐いたのかもしれない。
「ちーちゃん、ちーちゃん」と小鳥のように何度も口走り、おれの後ろをついて回る。振り返ると、そこにはいつも妹の笑顔があった。
 太陽の光を反射する彼女の髪は、金色にきらきらと輝いていた。目を細め、色を含めた全てがまぶしいと純粋にそう思う。

 それが、いつからだっただろう。たったひとりの、妹の表情が海の色一色に染め上げられてしまったのは。

「ちーちゃん」とおれを呼び、身代わりになるあの子――(――ただ、物悲しい)
「ちーちゃん」とおれを呼び、泣くあの子――(――ただ、うれしい)
「ちーちゃん」とおれを呼び、幸せなあの子――(――だから何も言えない)

 泣くあの子に、手を差し延ばすことのできない自分がもどかしい。


 1-2

「んじゃ、早く行こうぜー」
 四時間目終了のチャイムが鳴り、昼休みを過ごすために誰かが動き出すよりも早く、藤村は立ち上がった。
 頭で腕を組み、上機嫌で歩き出す藤村。その後ろを慌てて追いかける。まだ人通りの少ない廊下。この六組から二組へと向かう途中、いくつもの教室の窓を目まぐるしく通り過ぎる。同じ光景は目に痛い。なんだって、教室はすべて同じ造りなんだと文句を言いたい。
「おーい、上早。ウワサいるかー?」
 一年二組、と掲げられたプレート。それを見上げ、二組に来たのだと意味のない確認をした。ただ、そのときにはすでに藤村によって二組の扉は開かれており、藤村は近くに佇んでいた男子生徒に声を掛けていた。俺は彼の背後に佇んだまま銅像のごとく動かない。だって二組に知り合いいねーもん、と心の中でぶつくさ言い訳をする。
「あっ! 藤村きゅん、わざわざ久美に会うために来てくれたのー? うわあ、うれしい! 久美は泣いて喜ぶよ!」
 藤村に人を尋ねられた男子生徒は、正確にその者を呼んでくれたらしい。
透き通るような声を上げ、廊下に佇む藤村に勢いよく駆け寄る女子生徒がいた。ぴょんぴょんと飛び跳ねる姿はどこかウサギのようだ。
 俺の思い違いじゃなければ、この女子生徒は藤村が教室を覗いた時からぎらぎらと目を光らせていたように思う。
「あれれー? もしかして藤村きゅんのお友達? へえー、藤村きゅん。中学のときと違って女の子のお友達を作らなくなったんだね、えらいえらい」
 腕を組み、うんうんと頷く彼女に藤村は「こら」と静止の声を上げる。
「ひとが女侍らせていたような物言いをするんじゃねえよ。それにお前に会いに来たのだってほら、……お前の情報網を頼ってきたんだよ。だから、ちげーって。会いに来たんじゃ……ない、のか?」
 会いに来た、その文句が正しいのかそうじゃないのか。自分が何を思って彼女のところまで来たのか、その概念自体危うくなってきたらしい。語尾には絶対クエスチョンマークがついてる。
「うふふー、盛大な告白ありがとう! でも二年前から久美は藤村きゅんの彼女だよー!」
「……え? マジか」
 ちょ、おまっ彼女いたのかよ。
 俺は驚き藤村を睨みつける。が、そのとき視界に入った藤村はすでに白目を剥いていた。俺の驚きの度合いよりも、よっぽどショックが大きかったらしい。
 そして我に返った藤村は、俺の発する不穏な空気を感じ取ったのか、慌てて本来の目的を口にした。
「その話はあとだ。あと! 今日お前に会いに……来たのはな、噂に関することは何でも知ってる学年一の情報網にある噂の確認をするためなんだ」
「ふうーん、へえーん、ほおーん。それでこの上早久美(うわさくみ)さまを頼ってきたのね!」
 にまにまと、盛大に顔を崩しながら彼女は藤村の腕を取る。
「藤村きゅんのことだから、最近話題になっている幽霊のことでも聞きに来たんでしょ? なら話は早いわ」

「図書室まで、行くわよー」

 腹が減っているんだが、とは言えない雰囲気だった。


 0-3

 目を閉じると、脳裏に浮かぶ妹の姿がある。

「ちーちゃん、この世界に魔法なんてないのですか?」
 否定的な言葉を発したのは、眉の端を垂れさせ、何とも頼りなさげな表情をした妹だった。
「前にも、おかあさんに違うって言われたのだけど、実はすっかり忘れていて」
 そして思い出したように、その《魔法》をいつまで信じていただの、いつから信じられなくなっただの、果てにはその存在意味をおれに聞くのだ。
「……魔法、か」
「のですよ……」
 妹になんと返答をしようかと考えながら、おれと同様の目線の先。リビングのテーブルにつき、地につかない足をぶらぶらと遊ばせる妹の様子を伺う。
 学校から帰ってきてしばらくの時間が経っているというのに、妹はまだ赤いランドセルを背負っていた。
 それに妹の目には涙がうっすらと滲んでいるようにも思える。
 ……学校で、何か言われたのか。ただそうぼんやりと認識し、未だにまとまっていない考えを口にする。
「この頃、魔法少女が流行っているだろう」
 すん、と妹は反応する。
「テレビでよくやっている魔法少女の番組、あれは戦いだ」
 すん、と訝しむ感情をあらわにした妹は反応する。
「魔法を戦いの手段として、《魔法》を使っている」
 すん、と納得がいかないようするで妹は反応する。
「あと……この頃じゃなくても、本とかでよくファンタジーな物語があるだろう」
 すん、と英国の某魔法学校に通う少年を妹は想像する。
「舞台は大体が、今より昔のヨーロッパ……外国で、これも戦い」
 すん、と妹は想像する。
「魔法を戦いの手段、日常生活を補うものとして、《魔法》を使っている」
 すん、と日常に溢れかえる魔法を妹は想像する。
「こんなものはもちろんない。存在しない。どこを探しても、夢や物語にしか登場しない空想でしかない」
 そう言い切ったとき、妹から何やら沈滞とした雰囲気が漂ってくる。おそらくおれまでもが、魔法を否定したのだと、そう思ったのだろう。しかし出した結論は、魔法がこの世に存在しないというものではない。妹にこれ以上の失望をさせないようにと、慌てて言葉を紡ぐ。
「……そう、魔法の杖。ほらこの前《欲しくてサンタさんに頼んだことがあるのです》って言っていた、一振りすれば何でも願いが叶う魔法の杖」
「それも、ファンタジーな物語に出てくるものじゃなく。それだけの、単体。現代から孤立するようにぽつりと存在する魔法の杖」
「あれは、戦いが身近にあって必要に急を要されたわけでもないし、普段の何の変哲もない繰り返しをより単純化させるものでもない」
「ただの《願い》だ」
「願いを叶え、不思議を巻き起こす。決して悪用されない、子どもの内だけの、ただ純粋な――」

――魔法(ふしぎ)。

 魔法の杖、それ一つに絞っても思うところはいくらでも出てくる。
 それも、覚えたばかりの言葉を使い、知ったかぶりをしていきながら口にした自らの考え。どこからそれが破綻していたかなんて、覚えていない。
 いま、明確に想起できるのは、ひとつも妹の様子を顧みることもせずに、捲し立てたことだけ。
 その後に妹はおれの答えを聞いて失望したのかそうじゃないのか、どんなやり取りをしたのか、思い出せない。色あせた記憶の綻びとなり、疾うに消えてしまっている。
 ただ、少しだけ。ほんの少しだけ、未練とまではいかない程度に心残りだと思う。


 1-3

 藤村の「お前のクラスに卯田小太郎はいるのか」という問いに、上早久美は「いないわよ」と答える。
 藤村の「お前のクラスのいたのか」という問いに、上早久美は「初めから久美のクラスにはいないわよ」と答える。
 藤村の「噂とどまり……?」という何とも気弱な問いに、上早久美は「それだったら今図書室に向かってないよー」と笑った。

「ちょっと訳アリで、久美のクラスじゃこの話できないの。わざわざ場所移動してもらって、藤村きゅんごめんねっ!」
 ぺろっ、と舌を出し自分の頭をぐーで小突く。
 そんな藤村が知りたい情報を一つも手に入れられないまま、俺たちは閑散とした図書室に足を踏み入れた。
 入り口からは本棚の側面ばかりが見え、初めに認識できる景色は本じゃないらしい。四月に一度踏み入れた限りの図書室は、やはり見慣れない。この本棚の背の高さ、数より、人がいたとしてもどこに誰がいるかなんてちっとも分からないような部屋だった。俺はその雰囲気に圧倒される。
「聞いた話によれば、例の幽霊はこの図書室に出るらしいの!」
 上早久美はその声に歓喜を孕ませる。誰もいないと思われるこの図書室に、異様に響く声だった。

 にまにまと、再び笑顔を浮かべ、上早久美は藤村の腕に絡みつく。そして俺に一瞥した後、ここから真正面の場所に位置する窓へと視線を向け――「さくら」と。ただそれだけを発した。
 その言葉に反応して、俺と藤村も同じように図書室の奥に視線をやる。しかし、縁どられた窓の奥で揺らめく桜の枝はこの季節に相応しい姿をしているだけだった。
この学校に入学して早三か月。窓の向こうで枝を伸ばす七月の桜の木。もちろん花などついているはずもない。
 少なくとも俺にとって、葉を生やした桜の木を「さくら」と呼ぶことには抵抗があった。


 藤村のように、それほど幽霊騒動に興味があるわけではないから、と。上早久美の話を聞き流しながら、ふとある本棚に視線をやると、動くものに意識を取られた。目が釘付けとなり、どうしようもない欲求に駆られる。
 よし、と心の中で意気込み藤村に声を掛ける。
「本を返そうと思うから先に帰ってて」
 ちらちらと、金色が映る。
「本? でもお前、何も持ってないけど」
「あ、間違えた。本借りるから先に帰っててくれないか?」
 藤村は、訝しげな様子で俺を窺いながらも「分かった」と言って上早久美と共に図書室の扉を開けた。
 ちらちらと、俺の方を見ているヤツなんか知らない。
 そうして俺は、廊下から見える彼等の背が点になったのを見届けたのち、カウンターから三つ離れた本棚の裏をそっと覗きこんだ。ちなみに入り口から見える本棚は、カウンターから離れた二つ目の裏と三つ目の表だ。
「……ひと?」
 そこにいたのは一人の女子生徒だった。
 濃紺のセーラー服が浮き立つ色白の肌。すらりとした首筋。目に映る金色は、窓からあふれでる日差しにより、一段と輝いている。
 物音一つしない図書室に佇む、黄色の斜光を浴びた女子生徒。
 ただ、きれいだと思った。人を惹き付ける魅力が、彼女として存在全てに凝縮されているのだと思った。
 思わず声を上げる。
 そうすれば、彼女は大きく肩を揺らし、何か恐ろしいものを目撃したような表情で振り返った。


 0-4

「ちーちゃん」
 今思い返すと、妹は決しておれを兄と呼ぶことはなかった。
「ちーちゃんっ」
 眩く、まだあどけない顔に溢れんばかりの笑み。こぼれ落ちてゆくそれを、しっかりと目に焼き付けながら「どうしたんだ」とやさしく、聞いた。
「ちーちゃんはチョコ、食べれるのですか?」
 バレンタインデーが近いのですよ、と呟いた妹の表情は、ただそのときだけ。おれの答えが気が気ではないと、僅かに不安を孕んでいたように感じる。
「……甘いものは、好きだ」
「本当ですか! 良かったのです。こんど、今度っ、チョコレート作るので、良かったら受け取ってください」
 そしてその先を想像したのか、いっそう楽しげな表情を露わにする。
 図書室のバーコードのついた真新しいレシピ本。妹は力一杯それを、抱きしめていた。

 ほとんど表情が動かないと言われるおれだが。妹には、せめて妹だけにはやさしく。そう接することをいつも頭の隅に置いていた。
 彼女に好かれていたらいい。
 それも、ただ懐かれていたのではなく、愛されていたら。おれはどんなに幸せだろうか。
 もしかしたら。一つの過程としておれが妹を愛していた、それだけの話だったのかもしれない。


 1-4

「こっ、これは違いますよ! 決してわたしが本を読もうと手に取っているわけではないのです! そうなのです、そうなのです。ただ、本が……この《図書室に棲み着くには》という、わたしの願望に沿った本が落ちていたのでただ拾っただけなのです! けして、決してっ、わたしにやましい考えなどっ! ……ううう、そんな目で見ないでください。違うのです、違うのです。わたしは図書館出入りを禁止された生徒じゃありません。違うのですよ、です……ごめんなさい! 嘘です、嘘でした、白状しますからっ! わたしが出入り禁止にされた生徒ですよーっ! だって、だって、しょうがないのです、涙が勝手に出てくるものですから。本の上にぼたぼたと落ちてしまうのはしょうがないのですー……。閲覧禁止にしなくたって、いいじゃ、ないですか」

 図書室で見つけたその印象深い女子生徒。俺はそんな彼女の前でどう振る舞うのか、そう考えることに躍起になっていた。
 だが残念なことに、彼女は挙動不審だった。そのため、夢心地だった気分は一瞬にして現実に引き戻された。
 こそこそと、本棚の隙間から貸出カウンターを除く女子学生。胸には一冊の本が抱かれており。《図書館に棲み着くには》なんていう、小説なのか随筆なのかはたまた別のジャンルなのか、何とも言えぬ不思議なタイトルの本を手にしていた。
 それに、俺を何か恐ろしいものと重ねてしまったのだろうか。振り向いた彼女の顔には、恐怖といっても過言ではない表情が張り付いていた。目が合う俺。何も聞いていないのに、あたふたと言い訳を述べ始める彼女。そして彼女は、よく理解しがたい言い訳の中で、最後には拗ねてしまった。
「……ええと、それでどちら様なのですか?」
 眉よりも少し上の辺りで切りそろえられた前髪。後ろは肩に到達するぐらいの長さで、驚くべきことに色は金だ。染めたようなくすみは見受けられないため、生まれながらに持っている色なのだろうと予測する。
「今日は天気がいいですね」
「……えと」
 彼女は困ったように笑い、背後に位置する窓へと視線を向けた。
 図書室には、彼女と俺しかおらず閑散としている。そして俺の目線の先に、彼女の背後に、窓は存在しているのだが、そこから見える空模様は見間違えようもない曇りであった。
 しまった、と内心焦りつつ見かけだけでも平常心を保とうと言葉を次ぐ。
「……お、俺はっ! 曇りが一番好きだし、だからっ。晴れじゃなくて、曇りを一般に言う《良い天気》にしたらいいと思う!」
「…………そうですね」
 言動がまともじゃない、という第一印象を獲得。……全然うれしくないや。


「思う存分、学校の図書室で本が読みたいという願望を叶えるために図書委員になりましたが……まさか先生方から出入りを禁止されるとは思いもしませんでした」
 その女子生徒は桜と名乗った。そして「実はですね」と今までの経緯を述べ始めるのだ。
「初めは、理由があったのですが。今ではもうそんなことお構いなしに涙が出てくるのです」
 何でも泣き癖があるため、図書室の出入りを禁止されたそうだ。
「あっ、でも。ストレスがーとか、そんな重大なことじゃないのです。ただ、気持ちの問題なのでいつでも改善できる……はずです。だから、わたしがこのままでいいと思っているからなのでしょうね。泣いてしまうのは」
 けれども今の彼女から、そんな様子は少しも見受けられないと思った。
「そして、辺りを何度も何度も確かめて、ようやく誰にも目撃されずにここへ辿り着いたのです。ですが、一つだけ。重大なことを一つ忘れていたのです」
 さくら、と口の中で復唱すれば、「敬称はいらないのです」と彼女は言った。
「この学校の図書室の貸し出しは、本のバーコードと生徒手帳のデータ読み込んで行うものだったのです。このままわたしが本を借りれば、先生方に《立ち入り禁止にしたはずの生徒が現れた!》とばれてしまいます」
 どうして泣くんだ、と理由を尋ねれば、「大好きな人がいるのです」と彼女は表情を歪めた。
「なのでお願いです。今日初めて出会った人にお願いするのは忍びないのですが、生徒手帳を貸していただけませんか! ……クラスメイトの方たちはわたしの髪の色に驚いているようで、まだ打ち解けた人はいませんし、頼める人がいないのです」
 彼はもういないのか、と過去を確認すれば、「やはりそんな噂が広まっているのですね」と悲しそうに笑った。
「ええと、わたしが調査した結果から推測するに……。明日の放課後は、図書委員さえここにはいないはずです。加野さんが良ければ、の話なのですが……」
 どんな本が好きなんだ、と興味を示せば、「ふぁんたじー、です!」と姿とは見合わない舌足らずで答えた。
「これ以上のご迷惑はかけないので」
 ファンタジーはあまり読まないなあ、と呟けば、「魔法の概念は子どもの頃に夢見たものが一番自由で、一番、いちばん、素敵だと思うのです」と笑顔をいっそう輝かせる。
「だから。また会って、くれませんか?」


 0-5
 
「――アナタ、本当になんなの! 気味が悪いわ、あの人に愛された人によく似て、本当に気味が悪い!  あの人が見ていた人はもう死んだのに、なんでアナタは死ななかったの? 何故、なぜ、共にいなくならなかったの! アナタがいるから、あの人は私だけを見てくれない! それに気持ち悪いのよ、その顔、その表情、その姿、ぜんぶ、もう全部! あの人が愛してしまった汚物に似ているわ! あの人、今でもあんなのの写真を大事に仕舞っているの、私に語るの、うるさい、煩わしい、そうよ、私の目の前からいなくなってちょうだい! ぜんぶ、その全部がアナタがいるからっ、だから、あの人は安心して何もかも忘れることができないのよ! 何が息子よ、実の子よ。血が繋がっているから何だって言うのよ、知らないわ、しらないわよ、そんなこと! これもそれも全てアンタが生まれてきたせいよ! そう言われたくないなら、アイツと一緒に死んでおけばっ――」
 
 新しく、母となった絹子さん。
 彼女は終日、涙に暮れるような人だった。仕事が忙しくて父が帰らないとき「きっと捨てられてしまったんだわ」と言って泣いた。父が母の話をして別室に行った後「わたしを見てはくれないんだわ」と呟いて泣いた。決して人がいない場所で、孤独となったときには泣かない人だった。誰かの同情が欲しくて、それでいて愛情が欲しくて、咽せ叫び、そうして身近にいる《愛されるため》の対象外に手を出す人だった。
 父が今でも亡くなった母を愛しているのだと感じ、義母はおれへと憎しみをぶつける。
 頬をぶたれ、物を投げつけられ、家を閉め出される。それでも諦めずにそこにいれば、暴言の嵐が降り注ぐ。
 おれは何も言わなかった。それは、ただ必死に堪えていただけ。けれども不思議と、理不尽な物事による怒りが爆発することさえなかった。義母を憎むことができなかったからか。小学生でありながら、自分の気持ちを表すことを苦手とした自分。彼女に対する同情により、堪えることで必死に彼女を哀れんでいたのかもしれない。

 そして一つ下の妹は、そういう日には決まって泣いていた。
 電気の消えた部屋の隅で、一人細々と目を赤く染め上げる。


 1-5

 教室に戻った俺は、藤村を探してきょろきょろと辺りを見回した。そして視界の端に捉えた藤村。心なしか、二組の上早久美のような、にまにまとした笑みを浮かべているように思える。
「な、何か目ぼしいことでもあったのか」
 普段とはまた違った様子の藤村の尻込みしながら問えば、うふふーなんて女々しい笑い声を上げた。
 こ、こいつ……完全に上早久美に侵されてやがる。
 俺は顔を引きつらせながらも、そういえば、と一つ話題を上げる。
「あの後な、誰も居ないと思ってたけど、図書室で女の子と会った」
 決していやらしいことなど考えてないぞ、と察してもらうために顔を引き締める。そして「金髪で小柄の」と付け加えたとき、藤村は顔を強張らせた。
「……その子だよ」
「なにが?」
 ぴっ、と腕を伸ばしその先端を俺へ向ける。
「あの後ウワサに聞いたんだけど、例の卯田小太郎。その人、一つ上の学年だった」
 だから二組にはいないって、ウワサは執拗に笑ってたんだな、と藤村は苦笑する。
 そして、どこか独り言のように続けるのだ。
「まさかウワサも図書室に本人がいたとは思ってないだろうな。本人の前で話すことを回避するためにあそこまで行ったって言ってたし」
 一旦ここで言葉を切り、藤村は一呼吸する。
「ウワサが図書室で口にした《さくら》」
「卯田小太郎の妹が《さくら》。一年二組の卯田桜だとさ」


 0-6

 真っ黒。そして同様に広がる真っ白な世界。
「色が、ない」
 セピア、モノクロ、黄色、赤色、青色、移り変わる世界は目まぐるしく色を変える。映る景色だって、それは、見慣れたもののはずだ。
 毎日桜と通っていた学校の図書室。木の匂いが鼻孔をくすぐる。日差しは暖かくて明るい。けれどもそれらを認識できたのもひとときだけ。
 次の瞬間、その場に立っていられないほどの眩暈を感じ、しっかりと目を閉じた。
 そして視覚から手に入れた情報を整理するのだが、その中から、今おれを取り巻く世界がおかしい理由を知る。
「おれは、死んだのか」
 変化を感じる。うねりを感じる。大きく作用する力を感じる。
 時は絶えず動いていて、今身を置く世界もまた目まぐるしく変動していくのだということ。
 それを言葉にすることも、体で表すこともできない。ただ、周りの世界が崩されては構築され、裂けては融合し、それらの目まぐるしい繰り返しを感じていくことしかできないのだ。
 いわゆる傍観者。けれどもここから手を差し伸べることだけは、否定されている。
「すべては変わりゆく、ということなのか」
 ならば、妹の。あの子の世界も変わらないといけない。
 いなくなったおれの代わりなどしてはいけない。
 どうやって伝えればいいのか、ゆっくりと考えを巡らせるが、頻繁に訪れるノイズは思考を鈍らせる。
 小難しいことを考える暇はない。だから、ここに。残ることだけを強く望もう。
「まほう、か。そんなものがあったら……いや、あるんだ。あるから、おれはここにいるし、しばらくと留まれる」
 そう考えよう、と心の中に前提を設置した。

 だが、あの子の世界の変化を望むといっても。次第に単調化されていったやり取りを壊し、おれが新たに何かを作っても結果は変わらない。だれか、おれ以外の誰かに、託せるような人はいないのか。
「……きっかけが欲しい」
 すでに言葉を紡ぐのだってどこか億劫で、ここに残るということを身が拒絶しようとしている。
 瞼は開けない。今そのシャッターを開ければ、それだけで、この世界に飲み込まれて終わり。そんな気がする。
「変化、か」
 ひとつだけの心残り。それを消し去るため――……。

 この場所が学校の図書室だという確証を得て、おれは動かない。
 時間はそうない。
 それでも目を閉じ、次々と訪れる望まない変化に耐え忍ぶ。人を待つ。ただあの子を想って。ただただ変化を望んで。


 1-6

「本当に悪かったな、変なの連れてきて」
「変なのって何だ、まさか俺のことか!?」
 翌日の放課後、俺は図書室を訪れた。それは昨日会った桜との約束からだったのだが、何故か藤村を同行。
 本の貸し借りを終えた桜は、丁寧に生徒手帳を渡してくれた。その後に少し話をした。主に普段の学校生活についての質問のし合い。「友達は、どうやったらできるのですかか!」と割と本気で聞かれた。
 藤村は桜の兄のことを話題に出したがっていたが、流石に噂の幽霊の妹だと、本人を前にして言うことはなかった。
 けれども今は、桜に対して謝罪の気持ちでいっぱいだ。
 桜ごめん、本当にすまん。人を連れてきたことは後悔してるから、涙目になら…………泣かないでください。
 この状況から察するに、どうやら桜は人見知りをするらしい。昨日俺と話したときはそんな風ではなかったけど、と思うところはあるが、そのときの彼女の状態によるのだろうと判断した。

 桜の言った通り、この時間帯。図書室に俺たち以外に人影は見あたらなかった。
 そして目的を済ませた桜と藤村が、図書室の扉に手を掛けたとき。
「あ、先に帰ってて」
 デジャブ。しかし人物は違う。
「なんでだ?」
「なんでも」
 そう言って小さく頷けば、はいはい、と藤村は扉の奥に消えた。角を曲がったのだろう。
「あ、えと。加野さん、何かあるのですか?」
「ちょっとだけ」
 曖昧に笑って、早く行けと促す。
 この図書室で一人になった、そう思い息を吐いた。
「あの子のこと、どう思う」
「はっ?」
 空気を求めて咽せた。その際、声が裏返ったとかきっと気のせいだ。
 人の声がし、慌てて振り向けば。そこには見慣れない男子生徒が立っていた。
 上靴や上着についている校章から、一つ上の学年だと知れた。
「い、いつから……」
 二人を帰らせたのは、ただ本当に図書室に人がいないのか確認するためだった。
 それも、この男子生徒がいるとかそういったことではなく。図書の先生や委員の生徒がいるかどうか、明確な人物は特定されていた。
 桜の言うことを疑うわけではないが、彼女の性格はかなり抜けている。
 だというのに、図書室にいつ人がいて、いついないなど。調べられるはずもないのだと思ったのだ。
――本当は桜の図書利用は黙認されていて、どこかに先生が隠れて見ているんじゃないのだろうか。
 そう思っただけなのだ。

 だというのに。
「あの子のこと、どう思う」
 同じ質問。
 ニット帽を目元まで深く被り、何を考えているか分からない真剣な表情を纏う彼。
「……えっと」
「好きなのか」
「いや、いきなり言われても」
 え、なにこれ。俺、ライバルか何かだと思われてるのか?
 思わぬ人の登場により、俺はあたふたと言葉を濁らせる。
「おれはどうやら桜を愛しているらしい」
 だから変化を求める、と彼は変わらない表情のまま口にする。

「頼むよ」


 0-7
 
 父が再婚相手として連れてきた義母。その連れ子が桜だった。

 初めておれが彼等と対面したのは、ある一流レストランの最上階。父は仕事柄、こういった場所を仕事でよく利用していたそうだ。スーツを着こなし、父はまるで毎日通っているかのように優雅に佇む。その隣で、おれは被っていたニット帽をずらし、視界を広げた。取ることはしない。特に何かがない限り、身につけていたものだから、外したことによって生じる違和感をこんなところで味わいたくなかった。
 いくらか時間が経ち、隣りにいた父が動く気配を感じた。片手を挙げ声を上げる父。その視線を辿り、おれは少しだけ頭を下げた。
 景色を決して遮らない、ガラスを通して映る街の光。それをも自らを飾り立てるように上手く立ち回り、ただ嬉しそうに笑っていた義母を覚えている。胸元が開いた赤いドレスを身につけ、それを上品だと思うこともみっともないと思うこともなかった。ただ、きれいな人だと思った。
 そして次に、そんな義母の背後からひょっこりと顔だけを出し、恥ずかしそうに俯いている少女を見つける。地毛なのだろう。惜しげもなく、そのきらきらと輝く金色の髪を晒す少女。緊張した表情で、おれと父をちらちらと窺う。前もって父から話を聞いていたにも関わらず、彼女が妹になるのだと、この場で初めて兄という立場についての悩みを感じ、ある種の目眩を感じた。
 そうして少女は義母の赤いドレスをよりいっそう強く握りしめ、意を結したように顔を上げた。もごもごと、何らかの単語を繰り返して呟いた直後のことだった。「小太郎さん、これから、これからよろしくお願いします」とおれの名前と挨拶とを小さな声で――それでも彼女の精一杯であろう声で――叫んだ。


 1-7

「見たことはありませんが、感じたことはあるのです」
「なにが?」
 唐突に、桜は口を開いた。
 今日もまた、本の貸し借りをしたいという桜に付き合い、図書室で過ごすひとときのことだった。
「ちーちゃ……先日亡くなった兄の話です」
 藤村さんが、わたしの兄についての噂に興味を持っていることには気づいていました、と彼女は言う。
 俺は図書館に備えてある椅子に腰掛け、目の前で本を開いている桜を無言で眺めるだけだった。
 そして、兄とは血が繋がっていません。と経緯を静かに語り始める。
「わたしは、兄が。ちーちゃんが母に嫌われていることを、邪魔者に思われていることを知っていたのです」
「けれども、何も出来なかった。ちーちゃんも、母もどちらも大好きで。その大好きな人が、大好きな人に虐げられることを見ていることしかできなかった」
「非力な自分が嫌いだった。母にも、兄にもなにもしてやれないのに、それで笑っていることしかできない。でも、兄に関して言うと。母に虐げられている現状を知っていたのに、泣いてやることしかできなくて、もう結局は……事故だと片付けられ、学校側には生徒に公表しないようにと通知され……。おそらく母が原因だと思うのですが、わたしもちーちゃんの最期を知りません。だから、もう忘れたくないのです――」
 そう言った桜の瞳からは、透明な涙が溢れんばかりとなっていた。
 それに俺は声を掛けることはできない。所詮、気休めの言葉にもならないのだ。
「ここで、この図書室で。兄が側にいるような、そんな気がするときがあるのです」

「桜は兄のこと、好きだった?」
「――はい、好きでした。ただ、あの背中をずっと追いかけることをしたかった」
 彼女は力強く答え、それだけに目を輝かせた。


 0-8
 
「桜ちゃん。そんな他人行儀な呼び方をしなくても良いんだよ」
 小太郎さん、とおれの名前を呼び、その後顔をりんごのように真っ赤にさせた少女。その顔にはまだあどけなさが残っていて、今この場所にいるのも、学校帰りだったのだと予想できた。少女の背に光る一つのランドセル。身につけているものは制服であるため、正装には変わりない。
「あ、良い機会だから絹子さんにも紹介するよ。実際に会うのは初めてだよね。この子は息子の卯田小太郎。そうだね……《ちーちゃん》なんていうあだ名が馴染みやすいかもしれないね。小太郎の《こ》は小さいの《こ》。だから、ちいさい、にちなんでの《ちー》。……少なくとも亡くなった小太郎の母親は、そう呼んでいたよ。小太郎が生まれる前から、そう呼んでやるんだ! と意気込んでいたんだ。名前と違うあだ名を呼びたがる人だったからね」
 少女は何度も何度も口をもごもごと動かした。心なしか、《ちーちゃん》と形取っているようにも思える。そして義母に視線をやると、次の瞬間「あ、この人いやだ」と咄嗟にそれだけを感じた。父は口にした亡き母の話題。その際にも義母の表情はどこか苦々しく、母の存在自体を目の敵にしているような、そんな敵意を感じ取ったのだ。
「うん。じゃあ顔合わせも終わったことだし、そろそろ食事を始めようか」
 真っ白なテーブルクロスが映える、窓際の一角。チェアーを手慣れた手つきで引き、父が一番初めに座った。
 そしておれ、絹子さん、桜の順で席に着くのだ。
「ということで、今日から僕たちは家族です。改めてよろしくお願いします、絹子さん。桜ちゃん」
 テーブルの上に催したグラス。そこに水を注ぎ父は笑った。


 新しい家庭。そこに幸せはなかった。続かなかったわけではなく、元から存在しなかったのだ。

 妹はいつも呆然とその様子を見ていた。初めは奥の部屋で、次にはおれたちのいるこの部屋の端で、最後には義母の服の裾を掴んで。とても悲しそうな顔をしておれと母を見比べるのだ。
 そのとき、桜はまだ小学生。
 年月が経ち、おれは中学の三年へと学年が上がり、妹が中学の二年になったとき。桜は泣きはじめた。
 おれが苦しんでいるのだと、そう言った。泣いているのだとも、悲しんでいるのだとも言い、桜がそれらすべてを受け持つことを望んだ。
 だから、かもしれない。
 心を揺さぶれ、妹に声を掛けることもできなかった。
 様々な想いが巡り会い、どんな言葉がこの場合適しているかなど、正常に考えることもできなかったのだ。


 1-8
 
「えーんえーんなのです、ちーちゃんは泣いているのです」
 涙を堪えることをやめたらしい。
 咽びなく彼女を見つけてしまった。
 
 人知れず図書室の一角で、桜が泣いていた。周りを顧みることもせず、大粒の涙を惜しむことなく流している。
 授業が終わり、部活はなく、今日の日課が終わり、暇だと思った。図書室に行けば、人目を忍んで図書室に侵入することを常に目標とする桜に会えるかもしれない、そう思ってのここまできたのだ。
 そして、目撃した光景。
 一つの本棚に向かったまま、地面に座り込み涙を拭うあの子。
 泣くことによって起こる困難に妨害されながらも、言葉だけはしっかりと紡ぐ。それだけの強さを持っていながら、何故と思う。
 本棚に挟まれたその場所に差し込む夕日は、それでもあの子に降り注ぐことはない。ただ、もう半分のカーテンに隠されるところに位置するあの子は、そんな暖かな光を気にする様子もなかった。
「おれは泣いてなんかいない」
 はた、と唐突に表れたその声の主を求めて視線を漂わせれば、あの子の背後に男子生徒が佇んでいた。いま気づいた。気配なんて、ちっとも感じなかった。あの子に声を掛けるためだけに、突如現れたようにしか思えなかったのだ。
 辛うじてその人が男子生徒だということは分かるが、逆行で顔は見えない。
「泣いているのです。泣いているのです、悲しいって言えなくて、苦しんでいるのです」
 嗚咽が混じる声。鼻を啜り、顔は涙でぐしゃぐしゃだ。けれども、そうやって縋るように泣いているあの子がどこか愛らしい。
「なら、どうして桜が泣く必要がある」
 男子生徒の掛けるその言葉は、まるでお決まりのセリフをなぞるように、もはや温度を持っていない。
「ちーちゃんの代わりです。身代わりなのです。ちーちゃんは泣かないから、泣けないから、わたしが泣くのです。――泣くことに、したのです」
 えぐ、えぐっ、と懸命に呼吸をしながら、それでもあの子は言葉を紡ぐ。まるでそれだけが彼らの唯一のつながりであり、それを絆を断ち切られることだけを恐れて。
「そうか」
 その男子生徒はあの子の言葉を聞いて、それだけを漏らした。そしてこの図書室を包むのはあの子の嗚咽だけ。俺はこの雰囲気に圧倒され動けないし、あの男子生徒もまた何かすることもせんず、今は佇ずむだけだった。あの子を慰めることもしない。ただ見ている。愛おしそうに見守ることだけに徹底する。

 ふいに、カーテンが揺れ。半分だけ開いた窓から風が流れ込んだ。その風は時間だった。あの二人の間で止まった時間。それを突き動かすための衝動。
 男子生徒は視線を上げた。今まで地面に散った本へ向けられていたものを、前へ動かしたのだ。そして彼の目に映ったものはおそらく未来。自らのそれが望めなくとも、人の未来は祈ることができるのだと、繰り返し行われたやり取りの。わずかな変化で察知した。
「――そうだ。もう、泣かなくて良いんだ」
「桜は泣かなくて良い」
「だってもうおれはいない。桜の気の済むまでといえば、それは永遠と続いてしまう」
「それに桜はおれに依存しなくても、たくさんの物事を感じることができるだろう」
「桜は泣かなくていい」
「だから、おれのためにもう泣くな」
 その言葉にはっとしたのはあの子だけではなかった。そのいくつかのセリフから耳にする声色は、先日聞いたものと同じだと気付く。学年を表す上履きの色。それから一つ年上なのだと分かる。目元が隠れそうなほど深くかぶっているニット帽。それはいつか見た、表情の変わらない先輩のもので――。
「じゃあ、笑うのです。ちーちゃんの分まで笑うのです」
「いや、それも……泣くよりは良い、けど」
「ちーちゃんはちーちゃんなのです。わたしはちーちゃんをひたらす想い続けることをしたいのです。そこにちーちゃんの意図は介入させてあげないのだから」
 そういってあの子は、赤く泣きはらした目で大きく笑った。ただ、彼女の目の前には大きな本棚。背後にいる彼を直接目にしようと身動ぎさえしない。
「忘れられれば、それが一番良いはずだ」
「それだけは嫌なのです。いくらつらい目にあっても、それはわたしの望むところなのです」
 その返答に彼は小さく苦笑し、その場から一直線上に位置する図書館の入り口へと目を移し――。
「あ、」
 彼もまた、全ての幸せを胸に抱き十分に満足したような微笑みを浮かべた。ただそれは、俺に向けられゆっくりと。それでいてはっきりと、口は文章を形取る。

(たのむよ、いもうとを)

「……俺の精一杯を、尽くさせていただきます」
 はたして、彼は消えた。元からそこにいたことが幻だったんじゃないだろうかと思えるほどの清々しさだった。
 そうしてあの子に視線を戻すと。あの子は――桜――は、未だに笑顔を作っている状態だった。自分の背後にいた、彼女の兄がもういなくなったことには気づいていたかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。それでも俺は桜の兄、卯田小太郎とのひとときを無に帰すために声を掛ける。彼が望んだ、変化。それは無から始まる。
 一歩踏み出し、本棚を視界に入れる。一歩踏み出し、桜だけを目に映す。一歩踏み出し、そして――
「――魔法の」
 あ、出だしから間違えた。

 桜は突如登場した俺の存在に目を丸くするが、次の瞬間彼女ははにかむ。そしてかつて見た夢を語るのだ。
「魔法ですか。確かに魔法って、不思議なことを起こすきっかけなので同じ事だと、思うこともあるのです。ほら、むかし夢見た魔法少女。魔法使い。魔法の杖。どこれもこれも、子どものときに知ったのは、小難しい概念ななんてなくて、それでいてただ純粋に願いを叶えるだけのもの。あのときに夢見た不思議とは、すこしだけ離れたものになったのです」
「けれども魔法の杖、あれだけは。あれだけは、いまも同じ。手に持ち一振りすれば、事が思うとおりに進み願いが叶う」
 そして桜は「小さいときにちーちゃんが言ってたのです」と思い出を噛みしめるのだ。
「ですからわたし、もしかしたら魔法の杖を持っていたのかもしれない。今はもう、無くしてしまったのだけれど」

「魔法は不思議。だからこそ、魔法という言葉を不思議の類義語として使ったら駄目なのですよ」
 いたずらに失敗した子供を叱るように、笑いながらそう言った。


 0-9

 あのときおれは、絹子さんがぶちまけた酒瓶の中身を被り、一瞬の眩暈を感じた。
 鼻を奥をつくアルコールの刺激。濡れた上半身。おぼつか無くなる足元。
 全ては刹那。現実でさえないのかもしれない。
 浮遊感を感じ、自分の体が投げ出されているのだという諦め。
 そのとき上げた、絹子さんの金切り声を聞いても、何を言っているのか分からないし。第一に理解できたとしても、その考えがどこから湧いているのだとか、おれと関係のないことだとしか思わなかったに違いない。
 ただ、桜が。おれの代わりに、と。泣く桜の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
 さくら、さくら、さくら。頼むから、もう――。
(なかないで、くれ)


 1-9

 恋だの愛だの、俺はそういったことに敏感なわけではない。
 考えようとしてもどこか心がむずかゆく、気づけば他のことを考えている。いわゆる照れからの逃げ。そのため、その類の感情を誇らしげに語ることはできない。
 けれどもこれは。これだけは。
 ある兄妹の、淡い恋の終結だったんじゃないかと、そう思う。
メンテ
路地裏のトルバドール ( No.104 )
   
日時: 2012/03/16 21:41
名前: アリス ID:e87Slv02

 



 泣くぐらいなら、私の歌を聴いてよ。
 違う、違うの。
 暗がりの路地裏。夕刻。雑踏。そんな音たちはゆっくりと向こうに消えていくのに。
 彼女の声は私の脳裏に大きく反響した。穏やかで繊細、それでいて芯のある綺麗な声の女性だった。  
 私は涙を服の袖でゴシゴシと拭き、鼻をすすりながら頷いた。
 自分でも何に頷いてるのかわからなかったけれど、でも、彼女の声に応答したかったのだ。
 それでも涙は止まらない。

 ありがとね。
 ぼやけた視界で、彼女は微笑んだ。



 彼女は小さな椅子に座り、足を組んで、ギターを弾いていた。
 そして私は、路地裏の泥に塗れた地面に膝をつき、わんわん泣いていた。
 何に泣いてるのかもわからなかった。もうわからないことだらけだった。
 頭が沸騰するみたいに熱くて、涙と鼻水が止まらなくて。
 嗚咽だって出るし、咳だって止まらない。
 喘ぐように息をするので精一杯。 
 声だって、張り裂けそうなほどの大声で。
 私は泣くのだった。
 悲しい。
 何が悲しいかわからないのに。
 悲しい。
 恋人が死んだ? 家族が死んだ? 誰かに裏切られた?
 どれが正解でも間違いでもどうでもいいと思えるほどに、憔悴しきった体と心が、ただ叫びを上げて泣き続けることだけを欲していた。
 お腹がすいたら何かを食べる、喉が渇いたら何かを飲む。
 その延長のように、私は今、泣きたいから泣いていた。
 頭で考えることなど何も無い。
 滲んでぼやけているのは視界だけではなく、頭の中、私の気持ち――普段は形ある全てのものが、今確かに、形を無くしているのだった。
 なのに。
 なのに私の目の前に座っている女性は、ただ静かに音楽を奏でていた。
 ギターを爪弾く音が、私を抱くように響く。
 それらは皆、きちんとした形があって。
 私に直接触れてくる。



 聴きたくなんか無かった。
 やめて。
 もうやめてよ。
 聴きたくなんか無いよ、あなたの歌なんか。
 だって、痛いよ。
 あなたの歌、私をどんどん泣かせるの。
 私に何か起こって、きっと街に繰り出したんだ。
 雑踏の中にいれば、人ごみに紛れていれば、私の悲しみも、海に飲まれていくペットボトルみたいにどこかへ消えていくんじゃないかって。
 そう思って、夕方の褐色に足を委ねたんだ。
 なのに、私は路地裏に迷い込んだ。
 そうしなきゃ、いけない気もして。
 だから、路地裏に来た。 
 雑居ビルの隙間。 
 だけどそれなりに広い暗がり。頭上からは夕焼けの色が注がれている。
 私はそこに、ゆっくりと歩みを進めてた。
 そして、あなたがいた。
 歌っていたのだ。ギターとともに。
 椅子に座って、こんな路地裏で、歌っていたのだ。
 その声が私の涙腺を溶かして、その音色が私の喉を奮わせた。
 

「泣くぐらいなら、私の歌を聴いてよ」


 違う、違うの。
 あなたはわかってない。
 わかってないよ。
 あなたの。
 あなたの歌が、私を泣かせてるんだよ。


 聴きたくないなんて嘘。
 やめてなんて嘘。
 痛いのは、優しい痛み。
 この涙は、あなたの優しさ。


 だから、やめないで。
 やめないで、歌い続けて。
 私も泣くの、やめないから。
 だから、私を泣かせ続けて。


「ありがとね」

 
 私はただ、路地裏で歌うあなたに、そう言うために、泣くことをやめない。

 
 
メンテ

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