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[4993] 【2016年度】お題小説スレッド【お題「去る」作品投稿期間】
   
日時: 2016/01/12 23:57
名前: 企画運営委員 ID:7PNV346o



『お題小説スレッド』へようこそ。こちらはあるお題に沿って読みきり小説を書き、その作品をみんなで批評し合う場です。
 初心者も上級者も関係ありません。うまくなりたいとお思いの方であれば、だれでも自由に参加することができます。一生懸命執筆し、一生懸命批評して、小説の技術を高め合いましょう。
 皆様のご参加をお待ちしております。

――――――――――――――――――――

>>002 【ルール説明】:必ず熟読して下さい。(※内容、一言の箇所を訂正しました。ご確認ください)
>>003 【批評のポイント】:批評をする際のポイントをまとめたものです。
>>004 【イベントルール説明】:イベントに関するルールです。必ず熟読してください





▼お題:第32回のお題は「種」です。
 二月に種をまくのか? と思いましたが、調べてみるとじゃがいもは二月にまくそうですね。……さらに調べてみると一年中、なにかしらの種をまいてるみたいです。
 そんなことは置いといて。「種」というお題には「たね」以外にも色々な解釈があると思います。みなさんがどのような作品を投稿してくるのか、楽しみにしております。
※第30回の作品投稿期間は2月1日(土)からです


▼お題:第33回のお題は「姫」です。
 三月なので(笑)
 というのはよくわかりませんが(ひなまつりだから?)「ひめ」というのは可愛らしい語感ですよね。私は緑の黒髪をした和服姿が思い浮かびます。桃色が似合いますよね。桃色……やはりひなまつりでしょうか。それでは、みなさんの作品お待ちしております。
 
※第31回の作品投稿期間は3月1日(土)からです


▼お題:第34回のお題は「嘘」です。
 嘘でした。


▼お題:最終回のお題は「魔法」です。
 奮ってご参加ください。


▼お題:第36回のお題は「友情」です。
 ネタでした。


▼お題:第37回のお題は「音」です。
 奮ってご参加ください。



▼日程(第32回)

1月1日       :お題発表
2月1日〜15日   :作品投稿期間
2月16日〜28日  :批評提出期間


▼日程(第33回) 

2月1日     :お題発表
3月1日〜1月15日 :作品投稿期間
3月16日〜30日 :批評提出期間


▼日程(第35回) 

6月1日     :お題発表
6月1日〜7月31日 :作品投稿期間
8月1日〜   :批評提出期間



▼注意もしくは削除対象となるお書きこみ
・荒らし
・荒らしへの反応
・自分や他人の小説の宣伝
・雑談、チャット化
・ルールに反するもの
・管理人が不適切と判断したもの

――――――――――――――――――――

>目次 >>001


>第32回 お題『種』参加作品(敬称略)

>>404 sakana:シロハの辻褄
>>405 伊達サクット:赤い種、青い種

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▼リンク
小説講座/雑談所』(お礼や言い訳等はこちらへ)
旧お題小説スレッド』(前スレはこちらから)
ツイッター』(朔乱のアカウントです。お題の告知などをしています)

管理人:If 空人 朔乱  補佐:伊達サクット
メンテ

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Instant Flowers ( No.260 )
   
日時: 2013/01/01 09:42
名前: 匿名 ID:sTWHrblI

 Nさんはわたしの友人で、いつも手のひらに綺麗な花を携えている。
 きっと誰しもが道の途中で転んだりもするのだけど、Nさんはどうしてか笑っていて、そういう挫折だったり嫌悪感だったりを、地図なんか見なくても適当にやり過ごすことはできるのに、そんなことはやろうとはしなかった。わたしが一度だけ側溝で死んでしまった猫を助けようとして、泥だらけになったこともあった。Nさんは、何をやっているのと微笑んで、その手のひらに花を創り出した。幼心の少女たちには、そんな手品まがいの花びらにその一息を預けることに戸惑いはなかった。Nさんはお椀の形に作った手のひらから、ふわりと花を創り出す。どうしてどうしてなんて言葉は、いつの間にか喧噪に紛れてしまった。わたしたちはそんなことよりも、Nさんの笑顔がこうして、花びらと一緒にわたしたちを癒してくれることのほうがきっと、もっと大事だったのだ。即興的な花を創り出すNさんに、わたしたちはきっと、もっと時間を割いて、楽しげに笑うことができていた。
 Nさんは誰かが泣くと、ほらほら、と言って一目散に駆け寄り、すっと手のひらから花を差し出す。そうした所作は涙を笑顔に変えては来たけれど、大人になるにつれて、そんな行為は少しずつ揶揄されだした。わたしはNさんの友人だから、大人になってもその花が好きだったし、Nさんのことも好きだった。けれど多くの人たちは、Nさんのそれを手品だと嘲笑いだした。幼少から健やかに育った彼ら彼女らには当然のような反応だ。手のひらに花が咲くわけがない。それは手品だ、まやかしだ。テレビで同じことをやっていたのを見たぞ。お前は騙し続けていたんだ。Nさんはそんな言葉で枠を作られ、Nさんの周りにいた人たちは少しずつ自分たちの枠を作り出し、Nさんから離れて行った。それでもNさんは寂しく微笑むのだった。
 仕方がないわ、手品なんだから。
 手品なの?
 手品じゃないわよ。
 じゃあどうして、手品だって言うの?
 皆が手品って言うんだから、手品って言うしかないでしょう。



   *



 高校生になると、Nさんは手のひらで花を創らなくなった
 わたしたちはいつも行動を共にするほど仲良しではあったけど、厳密なところ仲良しではなかった。わたしはNさんの家に行ったこともなかったし、中学時代にNさんが突然聴き出した音楽の趣味や、授業の合間にカバー付きで読んでいる本の題名だって知らなかった。そんな空虚な部分を埋めるために、建前みたいに、その本はなに? とでも口から問うてみるけれど、Nさんは、面白い本よとだけ答える。同じように、何を聴いてるの? とイヤホン越しに問うと、心地の良い音楽よとだけ答えた。わたしはその度に、そっかとぽつり返した。ぽつりぽつりは小さな力しかないのだから、壁を壊す言葉を持てたらいいのだけど、Nさんのためになることを考えると、そして同時にわたしのことを考えると、ぽつりぽつりと零す言葉でもいいのだと言い訳をした。
 Nさんへの悪口を言っている人がいて、その時Nさんを見ると、必ずイヤホンをしていた。わたしはその時、自分に確かに息づいていた彼女への信頼みたいなものが、一秒間で作り上げたガラス細工みたいに脆いことを知ってしまった。わたしの耳や瞳は、Nさんの逃げ道にはならなかったのだ。Nさんにとっての、何かへの捌け口にはならなかった。Nさんはあんな風に言われようのない汚い言葉を受け入れることができないから、逃げ道として音楽を耳に当てたのだ。読書の間取りにその穏やかな空間を宛がったのだ。あんたの言葉なんて聞こえていないわ、だって読書をしているのだもの、音楽を聴いているのだもの。そんな言葉が言われてなくとも、あの唇から耳元で呟かれた感触が背筋を冷やりと撫でる。彼女の世界を創った本は、きっとわたしが見たことも聴いたこともないような作家の本で、彼女の世界を取り巻く音色は、きっとわたしが浸ったことのない音像を奏でる知らない誰かの歌声なのだろう。
 きっとわたしが今のNさんで、Nさんがわたしだったら。誰かの冷やかな瞳に耐える背中や表情を視界に入れたら、きっとすぐに手のひらで花びらを作って、笑って、と笑ってくれるのに。



   *



 Nさんとわたしは仲が良かったけれど、仲は良くなかった。いつも一緒にいるよね、幼馴染? という言葉はよく耳に入ってくる。どうしようかとNさんに言ったら、幼馴染でいいと思うと答えをくれた。だから、幼馴染だよといろいろな人には教えておく。そうすると、だったらどうしてさん付けで呼ぶのかい、と返ってくるから、それもまたNさんにどうしようかと問うことになる。記憶は何かしらの質量を伴って頭の中に積み重なっていたから、Nさんの顔を見つめながらそういう重なりを繰って反芻する。一体わたしはどうしてこうも、Nさんに他人行儀な呼び方を持って友好と成しているのだろう。どこからどこまでを使って、わたしはNさんをNさんと呼称するに値する時間を歩み始めたのか。幼い頃――Nさんが、手のひらで即興に花を創り出した時のような、あの優しく溌剌としたNさんがいた頃を思い出す。けれど、どうしてNさんのことをNさんと呼び始めたのかについての有力な情報は思い出せなかった。あたしが呼んでいるのではないのだからそんなことを訊かれても。Nさんはそう言う。だったら試しに下の名前で呼んでみることにしていい? わたしがそう提案してみると、Nさんは酷く動揺した。慣れないことはするべきじゃないわ。Nさんが動揺する時は、何かしらの動きが見える。読書中なら、本を支える指先が動く。わたしはNさんがとても微笑ましい。わたしはNさんの名前を呼ぶ。Nさんではなく、下の名前を呼んでみる。するとNさんは、やめて、と冷徹な唇で言い放った。
 どうしたの、Nさん。
 二度と名前では呼ばないで。
 嫌だった? ごめん。
 いつも通りに呼んで。
 Nさんは、イヤホンを付ける。わたしは、そっか、と笑った。いつまでも、いつも、そうだったけど、わたしは笑うべき場面で笑わない人を見てきて、笑わない場面で笑ってきたんだなって思った。



   *



 Nさんとわたしは大学生になって、別々の大学に進んだ。Nさんはわたしなんかよりずっと頭が良くて、それはそれは難しいところに進んでしまった。同じ大学に行こうとは思わないの? と訊かれることもあった。するとNさんが口を開きかけて、そしてわたしがそれを抑えるように、そんなに仲良しじゃないよ、と笑った。Nさんはいつも、わたしを逃げ口にしなかった。陶器のような白さの向こう側に透けていた言葉や表情に、気付いているのに気付かないふりをするわたしもきっと、道端の泥水みたいにぬかるんで、まどろみに逃げさえすればそれで勝ちだと笑う陽気な国の住人だったのだ。別にそちら側にいたかったわけじゃないけど、きっとわたしなら駄目なんだろうなって、わたしがわたしを卑下するから、そんな扉が勝手に開いてしまっただけなんだと思う。Nさんの視線はわたしには向かないから、わたしだってその視線を明後日に向けるしかない。受身形の派閥だったら、許されるなんて教えはどこにも書いてないのに、そんな指示を誰かから教えてもらったみたいだ。争いは、争いを望まないほうが許してもらえる。いつだって怒号を買うのは、望む側だって知っている。だから、Nさんと仲良しだなんてことを甘んじて受け止めることはしない。そんなことはない。仲良しなんかじゃない。そう言っておけば、予防線は小さく小さくとでも厚みを増してくれるから。
 Nさんとは一緒に勉強もしたし、帰りも一緒だったし、同じ塾にも通ったし、一次試験も一緒に行った。Nさんの横顔は綺麗だった。電車を待つ黒髪が煌びやかな光沢を細やかに纏って、どうしてNさんがわたしの傍にいるのか悩ましく感じた。わたしがきっと、恐ろしいほどに矮小で弱かったからかもしれない。Nさんは、今でこそ華奢で優麗な微笑みをくれる人だけれど、幼い頃は違った。力強い指先が、力強い花弁をくれた。泣き出す瞼を細々く開けた時、そこにはNさんがいて、笑って、と笑う。手のひらで創り出したあの花を、Nさんは何の躊躇いもなく、わたしを笑わせるために、笑顔にするために創り出してくれた。わたしだけではない。泣き出す人、悲しむ人。道端に転がった塵のような些細な出来事に目を見張らすような、ずっと下を向いて俯く人々の側面に、ただ照らし出すことを考える指先の光を与えた。けれどNさんは、いつの間にかもう、花を創り出さなくなった。
 Nさん、もう花は創れないの?
 卒業式の日に、わたしは問うた。
 創らなくても、いいでしょう。
 Nさんはそれだけ言うと、わたしと別れた。それからは、まったくNさんと話すことはなかった。大学に通い出すと、きっとNさんのことも忙しさに潰れて忘れていくのだろうと思った。そう思っていたのだけど、意外にも、ふとしたところで思い出すことがあった。笑っている時に、笑っていたことを思い出すのだった。どことなく孕んでしまったのは仮面まがいの笑みだった。宿したくなくても宿さなくてはならないものは、夕方にガラスコップを引っ提げたあの淀みのない空気に浸っている。レポート作業に溜息が出て、少しだけ闇の中に紛れてしまおうと沈みそうなベッドに身を投げる時、どうしてるかなと考える。Nさんはいつの間にか遠い存在になってしまったけれど、頭の中ではすぐそこで、こちらを見つめている肖像画みたいな姿形で居座っていた。ふんわりと浮かぶその姿を、この齢まで見つめてきたのに、どうして笑っていないのだろう。数々の時間たちが、それこそ重なり続ける存在だとしたら、その一つぐらいは笑みを零していたって許されるのに。



   *



 夏休みの帰省中、一人で街を歩いていると、Nさんに会った。住宅街の側溝の横で死んでいた猫を、しゃがみ込んで撫でていた。細い指先が、茶色い毛並みに埋もれている。何をやってるのNさん。わたしは立ち止まり、思わず声を掛けた。Nさんは指を止めることもないまま首だけこちらに向け、あんたか、久しぶり、とだけ言って、もう一度猫へと視線を落とした。そして猫から手を離すと、手をお椀の形を作るようにして、ふわりと花を創り出した。その花を猫の上に置いて、行こうかとわたしに言った。わたしたちは近くの喫茶店に入った。
 どうしてNさんが? お盆休みに帰ってきたら悪いの? それはそうだけど……でも、偶然だね。そうね、元気にしてた? うん。Nさんは? あたしは、まあ見ての通り。見ての通りって……どこも変わってないね。そうそう変わるものでもないのよ、きっと。Nさんはお茶を飲んで、窓の外を見た。
 花、創れるんだね。
 わたしは、あまり深刻にならないように、連続する応酬にすっと差し込むような形で、あるべきないべきの判断もつかない、まるで暗黙のように一文字を刻んだあの事実について、静かに問うてみた。するとNさんは、窓の外へと向けていた視線を一瞬だけ、本当に一瞬だけわたしにくれると、もう一度外へとそれを戻して、わたしと同じように、できるだけ重苦しい空気に触れないような口遣いで穏やかな返答をくれる。
 別に、創れなくなったわけじゃない。ただ、創っていなかっただけ。
 どうして創らなくなったの? 
 誰も彼も、泣かなくなったでしょう。
 Nさんは頬杖を突く。わたしにはその伏せがちな視線を寄こす隙間なんてなくて、長いまつげが陽光に光の粒を帯びているようだった。しばらくは何も言わない時間が続いて、わたしは手元にあったおしぼりを広げては畳み、その四隅の湿り気が少しずつ乾いていくのを秒刻みに瞳に押しつけてみる。それほどに停滞した温度差が、こちらと向こうにささやかな境界を編み出している。
 Nさん、大学どう? 楽しい? 
 何の気なしに問うと、Nさんは笑う。
 楽しくないわよ。
 Nさんに楽しいものなんてあるのだろうか。Nさんが楽しそうにしているところを、わたしは見たことがない。見たことがあったら、きっとすぐに記憶の糸を手繰って引っ張り出せるくらい、すぐ手元に置いていくと思うからだ。けれど、Nさんの笑顔で検索をかけた海に潜ると、どうしても息が詰まってすぐに痛みが胸に繰る。Nさんは笑う。そんな笑顔なら、きっとNさんの全てで、いつだって笑っている。けれど、心の底からの笑顔なんていうのは、Nさんのすぐ傍に居座っているその笑い方とは違うものだから。
 あんたは楽しい?
 楽しくはないよ。
 どうして?
 そっくりそのまま、Nさんに返すよ。
 それは困るわ。
 Nさんは笑った。



   *



 そういえば幼馴染だったから、Nさんと一緒に歩いていると、この場所は――なんていう、ちょっとした記憶が熱を帯びることがあった。お盆休みで住宅街はぽつりぽつりと人の往来があって、街の方へ出れば、いろんな家族が小さな幸せをその肌からこちらへ主張とはまた違った趣に光を当てている。Nさんは家に帰らなくてもいいの、と問うと、結局のところ暇だからあんな風に道を歩いていたのよ、と言った。あの猫の傍に置かれた花は、きっと今頃、額に汗を与える煩わしい熱風が空へと還してしまったに違いない。けれどきっとNさんは、あの花を猫の元へ置き去ったことを、その胸に小さく刻み込んでいることだろう。あの猫とわたし、どう違うのかもわからない。Nさんは、手のひらで花を創り出すことをやめてしまった。誰も彼も、泣かなくなったからだ。けれどわたしは、それで別に納得したわけじゃなかった。泣かなくなったって、そんなの当たり前だったから。
 小学校に行くと、当然だけど夏休みで人はいなかった。中学校に行くと、やはり誰もいなかった。高校に行くと夏休みの補習をやっていて、生徒も先生もたくさんいた。来客用のスリッパを履いて、校舎の中を歩いた。Nさんは無言だった。わたしも無言だった。けれど、こちらへ行こうとか、四階に上がってみよう、という行動の行方には、その足音だけが合図には十分で、わたしたちは横並びだったというのに、その行く先は寸分も乱すことはなかった。
 四階に上がって、一番端の窓を開けた。Nさんは縁に手をついて、風に髪をさらすことを受け入れる。わたしはその隣に立って、窓の銀色の枠に手を置いて、同じように風を感じた。その窓からは校庭が見えて、いくつかの部活動が練習しているようだった。山吹色の砂埃はわたしの視力では捉えきれないけれど、きっとあの足元に重なった影たちの口元に、けほけほと吐かれる煩わしい吐息が聞こえているのだろうなと思った。炎天の真下でその四肢をせっせと動かす後輩たちの姿だって、それこそ心は動くはずがない。
 どうして皆、泣かないのかしらね。
 Nさんが突然、そんなことを口走る。
 泣かないのなら、笑わせられないじゃないの。
 Nさんは、自分の手のひらを見た。
 笑わせたかったの?
 わたしは言う。いつもそうだった。わたしは、本当に訊きたいことなんて、回りくどい息遣いでしか問うことはできない。Nさんの顔も見ることはできない。無理して笑ってあげることもできない。できないだらけの圧迫が、雷みたいに頭を叩く衝撃にはもう慣れた。その度にNさんのことを考えることも、そうして生まれる自分への嫌悪感も、もう慣れた。慣れることは、きっと沈んでいくことだから、慣れたくはなかったけれど。今でもわたしの瞳が、眩しげにあの穏やかな生徒たちの声高々な運動にしか落とせないのは、いつの間にか、Nさんのことが怖くなったからかもしれなかった。
 どうせ笑ってはくれないんでしょう。
 そんなことはないよ。
 こんなことなら、大人になんてならなかったら良かった。
 どうして? 
 子どものままだったら、あんたも笑ったでしょう。 
 Nさんは、何が言いたいの?
 もし手のひらで花なんか創れなかったらって言ってるのよ。
 そんな話、今はしてないよ。
 してるわよ。あんたが、してないだけよ。
 わたしが泣けば、それでいいの?
 Nさんがこっちを見た。わたしは、わたしの話題になったから、少しだけ腹が立っていた。諦観も挫折も、何もかもを丸めこむNさんの瞳が嫌いだ。わたしのような誰かがきちんと寄り添っていたつもりだったのに、それを見て見ぬふりをしたNさんが嫌いだ。もうNさんは、背景に佇む誰かの悪口に悩ましく思うことなんてない。イヤホンと流麗な音楽にその耳を傾ける必要もない。恐ろしく美しい文学と、楽しく滑稽な幻想譚にその瞳と脳裏を一切預ける必要だってない。今もNさんは、その耳に何もつけていないし、その瞳にはわたしを映してくれている。それなのに、どうしてそんなことをわたしに言えるのだろうか。大人だとか子どもだとか、そんな線引きがいつの間にかNさんの心に茨の棘を突き立て、その傷を永劫に残してしまったのだろうか。わからない。わからないのは、Nさんが語らないからだ。逃げ続けたからだ。わたしだって逃げた。何も言わないで、笑った。そうすることが、きっと誰にとっても心地のいい温度だってわかっていたからだ。
 あんたは今、泣いていないじゃない。
 どうして泣いていなきゃ、笑ってはいけないの。
 そんなのは、嘘だ。あたしが気付いていないとでも思ったの。
 Nさんだって、いつも嘘をついていたくせに。
 あたしがどんな気持ちだったのか、あんたにはわからない。
 Nさんは怒鳴ると、わたしを置いてその場を立ち去っていった。
 開けっ放しにした窓からは、さっきまでは涼しげな風が陰影と一緒に吹いていたはずなのに、今ではなんだか暑苦しくて、煩わしくなっていた。居た堪れない心臓が、冷えたナイフでそっと撫でられた気分になって、わたしはその場にしゃがみ込んだ。高揚した思考を諌めるのに必死になって、暑かったはずなのに、ぞっとした怪奇が胸を締め付け始めて、恐ろしくて、Nさんの顔が瞼の内側で浮遊し始めると、これからに憂いて、小さな震えが指先にやってくるのだった。



   *



 岐路に立つ頃になると、茜色が空を浸して染まり、白かった雲が小さな濁りを持って流れ始めていた。とんぼが飛んでいるのも見えて、夏休みらしさを少しだけ忘れかけた。空を見上げてばかりいたら、いつの間にか街中の交差点にやってきていて、人ごみに紛れてしまっていた。いつまでも空虚にしていた耳が意識を取り戻すと、悲鳴が聞こえて、その叫びの中にあった単語たちを組み合わせてやっと人ごみの理由を解した。
 波をかき分けると、交差点の真ん中で男の子が血を流して倒れていて、すぐ横にへこんだ車があった。眼鏡の男の人が酷い顔で汗を垂らしながら電話をかけていて、いろんな人が騒いでいた。わたしは男の子の隣にNさんが立っているのを見つけると、すぐに駆け寄ってNさんの名前を呼んだ。
 Nさん、何してるの。
 わたしが彼女の肩に手を置くと、Nさんは何も言わないで、手のひらで花を創った。ふわりと咲いたその花を、男の子の手に握らせた。近くにいた大人たちが、何をやってるんだとわたしたちを怒鳴った。それと同時に救急車がやってきて、男の子は運ばれていった。わたしはNさんを無理やり引っ張ってその場を離れたけれど、Nさんの瞳は、その花を掴んだまま動かない男の子の手をいつまでも映していた。



   *



 どうしてあんなことしたの?
 だって、可哀相だったから。
 わたしはNさんの手を引いて、街を歩いた。わたしの左手とNさんの右手。今度は隣ではなくて、わたしがNさんより数歩前を歩いて、Nさんはわたしについてくるような歩み。わたしはもう怒ってはいなかったけれど、Nさんのことを理解しきれない自分が情けなくて、寧ろそっちのほうがきっと腹立たしく思うべきだったのかもしれないと思った。街灯と月明かりが、人家の窓から漏れる光と鮮やかに調和し始める。
 今まで花をあげた人たちにも、可哀相だって思っていたの?
 わたしは自分の左手に重なったNさんの指の感触を確かめながら、それでも少しだけ意地を張って、空を見上げながら呟くように言葉を零す。
 そうじゃないけど、でも、悲しいでしょ。笑えないなんて。
 Nさんはわたしの手を振り払った。振り向いて、Nさんと真向に対峙する。Nさんは、わたしを睨んでいた。
 あんたは、何が欲しかったの。
 Nさん。
 あたしは、何をすればよかったの。
 違うよ。Nさんは、悪いことなんて何もしてないんだよ。
 けれどこの花は、誰の目にとっても気持ちの悪いものでしかないわ。
 Nさんは、手のひらで花を創り出した。お椀の形のように隣り合わせに揃えた手のひらの真ん中で、綺麗な色を宿した花びら。幼い頃なら、誰だって彼女の花に見惚れた。どうやったの、すごいね、綺麗だね、Nさんすごいね。数多の賛辞が、Nさんの耳元に、そしてその花の上に舞い降りていた。彼女の手のひらにすっとした光が差し込めば、それが反射して少しずつ綺麗になって、周りの人も笑顔になった。泣いている人も、怪我した人も、汚れた人も、誰もが笑顔になって、嬉しそうにその花を受け入れてくれていた。けれど、わたしたちは大人になりすぎた。誰もが大人になりすぎて、そんな花も、きっと誰もが受け入れなくなった。氷の息吹が降りかかったら、どれだけ強い茎があっても、植え咲かる植物はその首を垂れて弱弱しく死にゆくしかなかった。
 Nさんは、いつも勝手だね。
 わたしは言った。
 死にゆくのだと決めたのは、Nさんだ。
 Nさんは本当に、自分勝手なのだ。
 だから言ってやるのだ。
 わたしはいつも、いつでも、その花を見たいと思ってたよ。
 Nさんは一瞬驚いたような顔をして、ようやくふっと頬を緩ませて笑った。笑った笑ったって、わたしたちは笑ったことばかりにあんまりにも注意しすぎて、何がどうあるべきかを先送りにしてしまっていた。記憶を繰ってもわからない言葉や笑顔なら、新しいものを積み重ねればいいって気付くのには、少しだけ時間が掛かってしまったのだ。それは怒りでも苛立ちでもあるけど、きっとNさんの言葉が久しぶりに聴けたからだと思った。耳に教えてくれる暖かなものなんて、言葉だけならいくらでも言えるけれど、同じようにその場しのぎの微笑みなんていくらでも与えて与えられて、そんな何回目を繰り返しても辿り着けないものに縋りつくには、語り合うだけでも充分だった。
 あんた、物好きね。
 Nさんだから、っていうのもあると思うけど。
 そういうところが、よ。
 Nさんは肩をすくめると、ゆっくりとわたしに歩み寄り、花をくれた。
 久しぶりに、あげる。
 どうして?
 どうしても。
 理由になってないよ。
 それでもいいのよ。あんたが見たいって言ったんでしょ。
 Nさんは無理やり花を押しつける。
 掌握すれば潰れてしまう。風に流せば飛んでしまう。そんな軽々しくて、質量のないものだったけれど、そんな甘い香りと見てくれは、いつだって誰かを癒してきたのだ。それを嘲笑ういつかの冷たさも、それを切り刻む言葉の刃も、Nさんは今でも忘れてはいない。苦しめた事実が消え去っていくのなら、あの幸せも消えてはいかないし、都合のいい思い出だけが微かに温もりを持っているなんて奇跡はないから。
 それでもわたしは、いつだって言ってあげようと思う。
 あなたの手のひらが創り出す、その花を見たいんだって。
 わたしとNさんは少しだけ話をしてから別れた。仲良しだったけれど、仲良しではなかった。幼馴染だったけれど、幼馴染ではなかった。そんな齟齬たちはひっそり息を潜めてしまって、わたしたちは夜の星空に同じ視線を向けて、同じように笑った。Nさんはこれからも、誰かの元へ花を届ける。それがどんなに欺瞞的で、恐ろしいほどに奇怪でも。Nさんはきっと、わたしのところへ逃げてくれるのだ。Nさんはきっと、誰かの元へと駆け寄って、祈りのような儚い花びらを、笑われてしまうような小さな息吹を、あの手のひらに灯すのだ。
 笑って、と笑いながら。
 今にも死にそうなあの生命たちが、そうした夜に、今でも囁く。涙を流すにしても、悲しむにしても、そんな誰かにいつかは花のような笑顔を。微かな笑顔の傍にいられた瞬きを。わたしはNさんのあの笑顔や瞳が、創造される花たちが、それでも確かに息をしていることを、今でも幸福に思えていられる。だからわたしが泥だらけになったって、そのすぐ傍には、安らかな幸福が咲き乱れているのだ。



 Instant Flowers.
メンテ
粉雪ちりりん ( No.261 )
   
日時: 2012/12/31 23:37
名前: 匿名 ID:PEwhzVdQ

――もし、貴方の友達が犯罪者だったら、どうしますか?

 むかし、採用試験の際に問いかけられた質問。そのとき、私はどう答えたのか。数年経った今では、ほとんど忘れてしまった。
 ただ、優等生らしい教科書通りの答えだったような気がする。そのときの答えで、私の採用は決まったのだから。




 石油臭い煤けた工場区の奥深くで、陽菜は言いようのない焦燥を覚えていた。
 全身がひどく怠い。細かい針で内側から刺されたように肺が痛いし、頭も重かった。そういえば、昨日の晩からなにも食べていない。こんなことなら、あの売店で携帯食料でも買っておけばよかった。
 ぼんやりする意識に喝を入れて、携帯ポーチを確認する。電撃の呪印の刻まれた警棒、火炎から痺れ毒まで装填可能な魔法銃、緊急時に仲間たちに知らせる無線まで、必要なものは一通り揃っている。
「よし」
 準備万端だ。
 捜査開始――
「よし、じゃないだろ」
「あだ!」
 パコンって、音を立てて後頭部を叩かれた。
「氷室さん……」
 ほとんど痛くなかったけど、目眩で足元がふらついた。しまった、すぐに足に力を入れたが、彼――氷室にそんな去勢は通じない。空を漂う灰色のスモッグと同じ色の瞳で睨まれ、陽菜は言葉を失くした。
「あそこの出店でカツサンドを買ってきた、いっしょに食おうぜ?」
 相手を萎縮させてしまう瞳とは裏腹に、口調はとても穏やかだった。
 どうも差し入れらしい。
「けど、今は勤務時間ではありませんし……いまは食べたい気分じゃないんです」
「いいから食べなさい。これ以上、食べないようなら怒るよ?」
 直属の上司にそこまで言われたら、仕方ない。陽菜はひとつ頷くと、カツサンドの袋を受け取った。氷室に促されて、二人は近くのコンテナに座った。
 三十手前らしいこの男は、年齢相応の大人びた顔立ちをしており、眼差しは鋭い。ボサボサの黒髪で、肌はやや焼けている。若い頃は格闘技を習っていたらしく、大柄で身長も高い。
 陽菜ははっと我に返ると、すぐにカツサンドを頬張る。意外なほど衣はサクサクと歯ごたえがあり、揚げたてだとすぐに分かった。
「美味いだろ?」
 氷室がしてやったりと言わんばかりに笑った。まるで悪戯を仕掛けた子供みたいだ。
「悪くは……ないです」
 美味しいと素直に言えない自分が悲しい。それでも目の前の男はおかしそうにクスクスと笑い、そりゃどーもと朗らかな声で言った。
 そして、ふと真面目な顔をする。
「まだ、受け入れられないのか?」
「……由紀が犯人であることですか?」
 氷室は手の中のカツサンドを一気にほおばると、ああ、と小さく頷いた。
「先日の夜の八時頃。工場区にて、男性の悲鳴が上がった。不審に思った女性がその場に駆けつけると、工場のオーナーである安西が、あんたの親友である真田由紀によって刺されていた。由紀は咄嗟に無実を主張したため、とりあえず彼女を事件の重要参考人として強制連行した。ところが彼女は、警官から逃亡を図った。長い逃亡の末に、彼女はある大堀の川で足を滑らせて転落。そのまま、亡くなった」
 一通り、語り終えた氷室はそこでひとつため息をこぼした。
「凶器には由紀の右手の指紋が、順手の形で見つかっている。そして二人は不倫関係にあった。殺された場所は一本道で、由紀以外にドアを開けた奴はいない。出入り口には監視カメラがあったから間違いないな。よって彼女以外に犯人はいないと思うのだが……」
「……私は、由紀はそんなことをするような子じゃないと思います」
 陽菜はカツサンドをパクリと頬張りながら言った。
「証拠はありません。安西は由紀が逃亡する直前に死んでしまいましたし、由紀ももう居ません。だれも、彼女の無罪を証明できない。でも、だからといって私は……由紀が人を殺すような人間ではないと思うのです。不倫のことだって……」
 胸が、締め付けられるように痛い。
 就職後、由紀と会うことは減ったが、お互いに分かり合える親友だと思っていた。けど、新しい事実を聞かされて、それが否定できなくなりつつある。
「彼女がやったのでしょうか」
 由紀はだれもが羨むしっかり者で明るい性格をしていたが、脆いところもあった。
 中等部のころ陽菜と先輩が喧嘩したら、それを止めに入るのはかならず由紀の役割だった。彼女に人を殺すほどの根性はない。いや、そうであって欲しい。
「’CPS’は彼女が犯人だと言っている。あんたも知っていると思うが、CPSの年間での犯罪検挙率は九十パーセント以上。あれが彼女を犯人だと断言したら、もう覆しようがない」
「それは……」
 どうしようもない、CPSの推理は完璧だ。陽菜が知っている限りでは、CPSが推理を外したことは一度もない。
 逃げるように視線を逸らす陽菜。氷室も何も言わずに、ただ手の中のカツサンドを食べ続けていた。そのとき、ふと二人の腰ポケットの無線が鳴った。氷室は無線に出ようとする陽菜を静止し、無線に出る。しばらくの会話の後、彼は無線を切り、ため息をこぼした。
「……撤収だとよ」




 この国では、魔科学という文明が急激な発展を遂げていた。
 それは名前通り、魔法と科学を融合させたもの。なかでも今世紀最高の発明だと言われているのが、今から五十年前に導入された犯罪者探索システム。通称CPSだ。
 これは犯罪プロファイリングをベースに作られており、データを記入するだけで、その事件の加害者とその人物の現在位置が割り出されるようになっている。画期的なシステムだ。
 システムが導入された当初は、これに反発する人間も多かった。しかし、CPSが担当した最初の事件で、驚異的なスピードで犯罪者を突き止めてしまった。次も、次も、そのまた次も、当ててしまった。
 この事件はメディアでも広く取り上げられ、次第に世間はCPSを受け入れるようになった。今ではこの応用で、お見合い相手を探すシステムや、仕事を支援するシステム、ひとりひとりに似合うファッションデザインを探すシステムまで構築されており、魔科学は当たり前になりつつある。
「――重要参考人が死んでしまった以上、どうしようもないが。念のために、氷室と陽菜は真田由紀の事件の裏付け捜査を行ってくれ。終わったら報告書でまとめること」
 この部署の責任者は、いってらっしゃいと言った。願ったり叶ったりだと、ひとつ頷くと、渋い顔をしている氷室に気づいた。
「……嫌なら嫌だと言っていいんだぞ。俺一人でも十分だから」
 裏付け捜査のために車で移動中、氷室はまた渋い顔をした。よっぽど、陽菜をこの事件に関わらせたくないらしい。
「私は平気です」
「……その割に、いつもみたいな余裕がなさそうだけど。ほれ」
「あ!」
 そう言って差し出されたのは、今日提出しなくてはいけない書類だった。
 慌ててカバンからペンを取り出す。重要な書類で、ペン書きじゃないと受け取ってもらえないのだ。てっきり、カバンに入れたと思っていたのだけど――
「私ったらいつも氷室さんに助けてもらってばかりですね。いい加減に、自分のことは自分でできるようにならないと」
 恥ずかしさからついそんなこと口走った。けど、返事がない。
 ふと、隣を見ると氷室は車を自動操縦に切り替えて、カプセルのキーボードと向き合っていた。CPSの操作だろうか。陽菜もすぐさま、書類へと目を落とす。静かな車中に、キーボードのカタカタという音だけが響いた。
――やっぱり、由紀が安西を殺害したのだろうか。
 親友としては、由紀の犯行を認めたくない。けど、由紀には動機があった。
 安西は子供はいなかったが、既婚者だ。その上、業界内でも有名な高経営者で、企業内での信頼も厚い。年齢も由紀の倍はある。一方の由紀は中流階級に属するごく普通のキャリアウーマンだ。
 しかも、安西の奥さんは彼を心から愛していた。もとは良家のお嬢様で、育ちもいい。昼も夜も彼のために尽くし、その姿はまさに良妻賢母と呼べた。
 それなのに、どうして安西は浮気なんてしたのか。
 由紀はどうして、彼に惹かれたのか。
 少なくとも、陽菜のよく知る由紀はそんな女性ではなかった。ちょっと気が強いところはあったが、自分でも羨むくらい大人っぽくて、思慮深い女性だった。陽菜が警察になるとき、周囲は猛反対したが、唯一応援してくれたのが由紀だった。
 彼女がいなければいま、陽菜は警官ではなかったかもしれない。
「……あの、CPSの推理が間違っているということは……」
 現代では、警官はCPSの推理をベースに活動する。
 それはCPSのほうが警察よりずっと優秀だからだ。CPSが確立されたのはいまから五十年前。それ以降、CPSが’警察よりも’先に解決した事件は既に億に及ぶ。今では警察はCPSの推理の基に動く軍隊とほとんど変わらなくなってしまった。
 年間検挙率九十パーセント。残り十パーセントは、情報伝達ミスといったヒューマンエラーから来るトラブルだ。それだって何十年もむかしの話だ。
「ないな」
 案の定、氷室は即答した。
 彼はカプセルから顔を上げると、灰色の瞳で彼女を見た。
「もちろん、CPSは人の手によって作られたものだ。完璧じゃない。しかし、現段階においてCPSにはシステム上の穴は見つかっていない。ここら辺は陽菜もよく知っていると思うが、CPSがミスを犯すとしたらヒューマンエラー以外には考えられない」
「なら、ヒューマンエラーという可能性は……実際に、由紀はやってないと言ってますし」
 そう言うと、わずかに氷室は顔を曇らせた。
 短い付き合いだが、彼が考え込んでいるからだと分かった。
「たしかに、由紀は容疑を否認している。だが、ならば何故彼女は逃げたんだ? CPSには嘘発見機能も搭載されているし、強制送還された後に釈放されるケースも決して珍しくないぞ。システムはそこら辺においては限りなく平等だからな」
「もしかしたら、急ぎの用事があったのかも……」
「それはちょっと考えにくいな。お前から聞くかぎり、真田由紀は思慮深くて、温厚な女性だ。警官の目を振り切って逃げようとはしない」
 たしかに。由紀が逃亡するのは、ちょっとおかしい。
 とすると、その直前になにかあったとしか考えられないのだが、それは一体なんなのか。
「……もしかしたら、安西さんが死んだのが原因かも」
 安西さんの容態が悪化し、亡くなったのは夜の十時だ。
 由紀に知らせが入ったのは、それから三十分後。車の無線で、だ。もしかしたら、彼女は逃亡しようとしたのではなくて、安西さんのところへ行こうとしたのではないか。
「たしかに、安西の死亡の知らせを聞いて駆けつけようとした。とも考えられる。二人が不倫関係にあったなら、安西の葬儀の式には参加できないだろうし、せめて病院で死に顔だけでも……って気持ちも分からなくはない。だが、俺の直感で言わせてもらえば、たぶんそれはない」
「それは、どうしてですか?」
 コクリと、小さく首を傾げる。
「由紀は逃亡直前。かつてないほど、怒りを顕にしていたからだ」
「はあ」
 まるで見てきたかのような口ぶりだ。
「彼女は逃亡直前、冷静ではなかった。……彼女が向かった先はどこだと思うか?」
 そう言って彼は、カプセルの画面を切り替えた。そこにはこの辺の地図が載っている。
 たしか彼女が捕まったのはA町で、そこから一直線に警察署に向かっていた。逃亡を測ったのはその途中のC町だ。C町は安西さんが運ばれた病院から走って二十分といったところか。
「まっすぐ安西さんの病院に向かったと思いますが……」
「ああ、いままでの話の流れからしたらそうなる。だが、実際に彼女が向かったのは駅方面だ」
「駅ですか!?」
 駅は病院とは逆方向だ。
 まさか、駅から遠くへ逃げようとしたのだろうか。だが、由紀は逃亡直後はかつてないほど怒りを顕にしていたと言う。怒りながら全力逃亡――いやいや、それはそれでおかしい。
「もしや由紀は、どこかへ向かおうとしたのでしょうか?」
「まあ、あるいはそうかもしれないな。どこかに用事があったのか、それは安西の死にどう関与しているのか……CPSは激情からくる暴走、と推理しているし、これ以上は本人にしか分かりようがない」
 たしかに、あの駅にはバスやタクシーもある。
 そこから彼女の目的地を把握することは、ほとんど不可能だ。激情による行動、となると限定されてくるが、実は由紀が怒ることは滅多にない。これでは想像しようもない。
「……私の責任ですね。こんなことなら、もっと真面目に向き合っていればよかった」
「あんたの責任じゃない。目の前の人物が、数日後になにをしているかなんて想像もできない」
「いえ、でも事件の三日前。彼女は明らかに様子がおかしかったんです」
 事件の三日前、彼女は明らかに様子がおかしかった。ぼんやり遠くを見ていると思ったら、急に明るくなって。どうかしたのかと聞いても、決して口を開かなかったので、陽菜も無理に聞けなかった。けど、あのときもっと親身になって話を聞いていたら――少なくとも、由紀が殺人を犯さずに済んだのではないか。
「あのとき、もしも、なんて考えてたって未来は良くならない。過去を悔いるのは大切だ。そうしないと人間は何度も同じミスを繰り返しちまうし、後悔がないと成長しない。だが、終わってしまったことだけはどうしようもないんだ」
「けど……それでも、なにもできない自分が悔しいです」
 目頭が熱い。これ以上は氷室さんを困らせてしまうだろう。
 陽菜は氷室の顔を見ると、彼女なりに精一杯の笑顔を浮かべてすみません、と言った。氷室は渋い顔をしていたが、小さく頭を叩いた。
「やっぱり、帰るか?」
「いえ、大丈夫です!」
 ここで凹んでしまっては、警官の名折れである。そうはっきり言うと、氷室はおかしそうに笑った。
 そのあと裏付け捜査はつつがなく進み、氷室とは八時頃に別れた。別れ際、彼の顔は少し心配そうだった。




 炭水化物は世界を救えると思う。
 どこでも育ち、病気にも強い。臭みもないし、単調な味は老若男女どころか、種族の壁すら越えてたくさんの動物たちに愛されている。どこぞのアホは海苔は地球を救えると言ったが、それはとてつもない誤解である。
 地球人は炭水化物をもっと愛するべきなのだ。いっそ、世界中の食料が炭水化物だけになればいい。食料は、米とパンとじゃがいもだけになればいい。
 肉とか卵とか牛乳とか、なぜ人間はあんな動物細胞の塊を愛せるのか――決して、幽霊が苦手なわけではないが、呪われるのはごめんだ。
「だからって、玄関先で倒れるまで働くのは間違っているわ!」
 ポカリと後頭部を叩かれる。私の頭は太鼓じゃない。
「倒れたんじゃないよう。あれは計画的気絶というストレス社会を渡り歩くための立派な戦略でして……」
「それをぶっ倒れるって言うんでしょ! まったく、ワーカーホリックなところもお父さんにそっくり」
 ため息混じりに、母さんがお皿を拭く。そう、実は陽菜のワーカーホリックなところとベジタリアンなところは、父親譲りなのだ。
 ついでに言うと、祖父も、曽祖父も、その更にご先祖様も、ワーカーホリックなベジタリアンらしい。私はそれでも食べるほうなのだが、父親に至ってはまる五日間、なにも食べなくても走り回れたそうだ。きっと仕事の書類を食べてたに違いない。
「それにしても、あの由紀ちゃんがねえ……滅多に怒る子じゃないし」
「いや、由紀は一度だけ怒ったことがあるよ。まだ由紀のことを名前でしか知らなかったころ」
 由紀と仲良くなったのは、夏の暑さを感じはじめた五月の日だ。
 他クラスと合同でやる中庭の掃除で偶然、仲良くなった。とはいっても、それは二週間きりのことで、その後は疎遠になっていた。次にあったのは、九月頃。図書館のど真ん中で、私の友達と先輩が言い争っていたときだ。
 内容までは覚えていないけど、部活のことだった気がする。そのとき怒りで我を忘れた先輩が投げた本が由紀の友達に当たったんだ。
 それで由紀が烈火のごとく怒って、先輩に殴りかかってきたのだ。(思えば、由紀はあのころから気が強かった)おかげで、なぜか私がぶたれてしまって――その日は、顔が真っ赤に腫れた。なのに、どうしてかその事件をきっかけに、彼女とまた話すようになったのだ。
 そのことを母さんに話すと、へえ、と感嘆の声を漏らした。
「不思議な縁ねえ、同じ人と二度も偶然に出会うなんて」
「うん。由紀とはいっしょにいても落ち着いていられた。何時間でも話せたし、急に黙り込んでもそれが由紀なら怖くなかった。だって、そのとき由紀がなにを考えているのか、なんとなく分かったから」
「以心伝心ってやつ?」
「そこまで大げさなことじゃないよー」
 母さんがからかうように言い、陽菜はわずかに笑った。けど、由紀と一緒にいた時間が一番楽しかった。
「でも、由紀はそういう子なんだ。自分のことならいくらでも耐えちゃうし、いつも相手の為を思って行動してる。由紀のそういうところ、いつも凄いと思ってた」
 逆立ちしたって適わない。ほかの人のために気遣えるところは、由紀の才能だろう。
 他人のために一生懸命になれて、他人のために怒れて。でも、だれよりも思慮深い。
「ねえ、陽菜」
 ふいに、母さんが口を開いた。
「お母さんには警官のこととか、CPSの凄さとか全然わからないけど……陽菜の思った通りにすればいいと思うわ。お母さんは、あなたの直感を信じてる」
 その言葉に、ぎょっとした。いったい、なにが言いたいのか。
 いや、本当は分かっている。ただ、否定することでそのさきに起こることが、怖かっただけだ。それを汲み取ってくれた母さんに、胸がじわりと熱くなる。ありがとう、と陽菜は小さく言った。





「……氷室さん、少しお話をしてもよろしいでしょうか?」
 裏付け捜査も終盤にかかった頃、署の休憩室で彼を呼び止めた。今日は調子がいいのか、彼は軽い調子でオッケーを出し、そのまま私たちは車に乗ることになった。車に乗った段階で事情を察したのか、氷室さんはなにも言わなかった。
 向かった先は、氷室さんといっしょにカツサンドを食べた例の工場区だった。
「例の事件のことか?」
「はい」
「やっぱり、納得できない?」
「はい」
 氷室さんの問いかけに、陽菜は小さく頷いた。
 由紀は犯罪を犯していない。CPSが過ちを犯したとは言わない。CPSはヴァーチャルワールドにおいて、限りなく平等だ。身分も、厭らしさも、世間の眼も、システムには存在しない。それこそが、CPSの最大の強みだ。
「……参考までに、話を聞いてもいいか?」
 氷室がふたたび提案する。願ったり叶ったりだ。はい、と陽菜は頷いた。
「まず……この事件において、私たちは三つの誤解をしてしまいました。一つは、安西殺害の凶器である包丁が順手の形で見つかっていること。一つは、場所が一本道であること。もう一つは、由紀の突発的な行動です。この三つが偶然にも重なってしまったから、私たちは由紀が犯罪者だと思ってしまいました」
 ああ、と氷室はひとつ頷いた。
 事件直後。悲鳴を聞いて駆けつけるまで、数分しか時間がかからなかった。そして目撃者は、逆手で凶器を持っている由紀と倒れている安西を見つけて、彼女が刺したのだと思ったのだ。
「けど、本当は由紀は、安西を刺そうとしたのではなくて、刺さっている包丁を抜こうとしたんです」
「待て。普通、倒れている人間から包丁をぬこうとしたら、普通は順手ではなく逆手になるんじゃないか?」
「いえ、氷室さん。実は、ひとつだけ由紀が順手で抜く状況があるんです。……安西がまだ意識があり、壁によりかかる形で立っていた場合です」
 へえ、と氷室が声を上げた。
「たぶん、由紀は安西と密会の約束をしていたのでしょう。だから、人通りの少ない一本道を選んだんです。ところが待ち合わせの場所に行くと、包丁に刺された安西の姿があった。それで、由紀は包丁を抜き、圧迫止血をするために彼をその場に倒させたのです」
「なるほどな。だが目撃者の話では、現場の一本道には由紀以外の人間はいなかったと言っている。安西が意識があったってことは、由紀が来たのは安西が刺された直後だ。なぜだれともすれ違わなかった?」
「ええと……実はこっちも割と簡単な話なんです。刺された場所は、狭い一本道でした。けど、一本道はイコール一方通行ではないんです。目撃者も警備員も、あの一本道を通った人間は一人しかいないと言いました。でも、ならどうして通ってないはずの安西が一本道で倒れていたのでしょうか」
「まさか、向こうの扉から入ってきたとか?」
「はい。犯人も安西も、向こうの扉から入ってきたんです。それが故意なのか、偶然なのかまでは分かりませんが」
「……けど、ちょっと待て。これまでの考えを纏めると……」
 そこで氷室は一度、口を閉ざした。
 陽菜もなにも言わずに俯いていた。そう、それこそが、三番目の誤解なのだ。
「もしかして、由紀は犯人を知っていたのか?」
「はい、たぶん」
 由紀は、事件直後に犯人を目撃していた。きっと、犯人と安西は口論かなにかをしていたのだろう。なにかの言葉が犯人の逆鱗に触れ、振りかざした凶器が安西の胸部に刺さったのだ。由紀はそれを見て悲鳴を上げたのだろう。
 ここは完全に憶測だけど、凶器が肺に達していたのだとしたら、安西は悲鳴も上げられなかったはずだ。それに図太い男の声は、鉄の壁では響きにくい。それより女性の鋭く甲高い悲鳴の方が轟いたはずだ。
 これは逆の場合でも言えるので、公式では言えないが――あの場に、三人いたという証拠にはなるはずだ。
「たぶん。……顔見知りだったと思います」
「顔見知り? どうしてだ?」
「由紀が安西が死んだ直後に、逃亡したからです。犯人の顔を見ていて、それが知り合いでなければ警察に任せるのが普通です。けど、由紀は警察が目を離した隙に逃亡した。それは、それだけ時間がなかったということです。たぶん、相手は国外に逃亡しようとしていたのでしょう。由紀はそのことを知っていた。だから、由紀は空港へ向かおうとしていたんです」
「だから駅へ向かったのか。終電に乗れば、空港には乗れるはずだ」
「はい。そして、その日のうちに国外に行っており、なおかつ由紀が知りそうな人は一人だけです」
「安西の奥さん、か」
「たぶん」
 コクリ、とひとつ頷く。
 現状で由紀以外で動機も証拠も揃っているのは、彼女だけだ。
「だがどうして彼女が高飛びするなんて知ってたんだ? 由紀が捕まってから警察に連行されるまでのあいだに、そのことを知る機会はなかったはずだ」
「たぶん、彼女の海外出張は前から決まっていたんだと思います。凶器に彼女の指紋がついていなかったのは、咄嗟に彼女が拭き取ったんでしょう。もしかしたら、安西さんに本気だとアピールするために、手袋を嵌めてたってことも考えられます」
「つまり真田由紀は、逃亡を図ろうとしたのではなくて、安西の奥さんを殺そうとしていたってことか。大切な人を殺された恨みを晴らすために」
 シン、と空気が静まる。
 氷室さんは長い沈黙のあと、小さくため息をこぼした。もしかしたらCPSが派手に外れたことを後悔しているのかもしれない。CPSが誤った推理をするとしたら、ヒューマンエラー以外に有り得ない。
 そして、今回の事件でCPSにデータを入力したのは、彼だった。
「だが陽菜。……すまんが、今すぐにそれを報告書に提出することはできない」
「え、どうしてですか!?」
 まだ捜査が終わってないなら、いくらでもやり直しができるはずだ。
 氷室にはその権限が十分にある。氷室は陽菜と違い、曽祖父の代からCPSの制作管理に勤めてきた。当然のように上層部からの覚えもいいし、氷室自身もかなりのキャリアを積んでいる。
 だが、その氷室が無理だ、と首を横に振った。
「CPSの年間犯罪検挙率が何パーセントか、前にも話したよな?」
「九十パーセントですよね?」
「ああ、だが、人間の誤解によってCPSの推理は簡単に外れてしまう。なのに、九十パーセントもの実績がある。それを、お前はおかしいとは思わないか?」
「……それは」
 おかしい。たしかにCPSは有能だが、今回の話を聞いていると、検挙率はせいぜい四十パーセントくらいだろう。
 どうして、そう思うのか。
「世の中にはな、なんでもシステムに任せて楽をしたい奴がいっぱいいるんだ。だから、CPSのミスを恐れてるんだよ。CPSが崩れたら、この国の根底が崩れちゃうからな」
「そんな。……じゃあ、いままでにも、同じような事件が?」
「もちろん、あった。……といっても、だからこそ、俺たちみたいなプロがCPSの修正を図る。そして最後はかならずCPSに華を持たせる。これがCPSを預かるものたちの暗黙の約束なんだ。お前も、上を目指しているなら理解しろ」
 氷室の灰色の瞳は、酷く寂しそうだった。
 たしかにその気持ちは分かる。CPSが崩れたら、これまで検挙した事件五十年分がひっくり返る。下手したら、政界にも深い影響を与えるだろう。けど、だからといって。
「私に由紀を見殺しにしろと?」
「ああ、今回の事件は世間ではスピード解決ってことになってる。捜査を担当したのは、ここの署長の息子さんだ。警察としても体裁を保ちたいんだ」
「でも、そんなの無理です!」
 由紀は大切な人にほとんど会えないまま、死んでしまった。
 なのに、犯人はまだ生きているのだ。このまま放っておくなんて、絶対にできない。そんなことをしたら、今度こそ由紀を裏切ったことになってしまう。
「……勝手にしろ」
 氷室が冷めた目で陽菜を睨みつける。
 そういえば、捜査の始まりから彼の顔は曇っていた。もしかしたら、氷室は陽菜が真相を暴くのをずっと恐れていたのだろうか。それでも、大切な部下を気遣って、今まで話を合わせてくれていたのだろうか。
「だが、そのときはそれ相応の処罰を覚悟するんだな」
 それは捨て台詞なのか、上司としてのアドヴァイスなのか、陽菜には分からない。
 けど、今だけは絶対に負けたくないと思った。



メンテ
Re: 【匿名祭開催中!】お題小説スレッド【十二月期お題「もしも」:作品投稿期間】 ( No.262 )
   
日時: 2012/12/31 23:23
名前: 匿名 ID:JTsSJLAk


  幽微グッドナイトメア

 かつて、贅の限りを尽くして作られたであろう部屋にそれはいた。朽ちた暖炉の前の生地の敗れた椅子に座り、優雅に脚を組む。扉に背を向けて座るそれのかぶるシルクハットが訪問者の目に映った。部屋には蜘蛛の巣は無数にあったが、それの主は一匹たりともいなかい。
 埃でくすんだ絨毯が訪問者の足の形にへこむと同時に、それは手を挙げた。
「やあ」
「…………」
「客は久しぶりだよ。だれも来なくなってしまったから」
 口上など無用といわんばかりに、訪問者は絨毯を蹴り一気に間合いをつめ椅子の背に剣をつきたてる。絨毯から舞い上がった埃が空中に広がる前に剣は椅子に座るそれを貫いていた。それが一瞬びくりと痙攣するが、何事もなかったかのようにゆっくりと、抵抗する椅子の生地を刃で切り裂きながら立ち上がった。
「痛いなあ」
「……化け物め」
 一歩飛び退き、思わず毒づいた訪問者の声は女のそれだ。
「ふふ……」
 それは重力などまるで感じさせない身軽さで跳びあがり、彼女の後ろをとった。遅れることなく振り返った女は、それの胸から飛び出た剣の切っ先を正確に蹴りつける。それは衝撃に数歩よろめき、着ていた礼服は暴れた剣によって乱された。
「こんなものは要らない。返すよ」
 追撃よりも早く、それは背に手をまわし突き立てられた剣を抜く。人では不可能な動きだ。ぞんざいな手つきで放り投げられた剣は、矢のような速度で女に迫った。反転し、背に衝突した剣は硬質な音をたててはじかれ、女はそのまま振り向きざまに背に隠されていた大斧を振るう。
 唸り声をあげて振るわれた大斧に、それは舌打ちをして後ろへと距離をとった。
「女の子がそんな怖いもの持ってちゃダメだよ」
 女は得物の間合いを生かして、部屋にある豪奢な調度品を叩き壊しながらそれに迫る。命中してもそれを殺すことができるかはわからないが、少なくとも動きを止めることはできるだろう。
「ははっ」
 それは唐突に、落ちていた瓶を蹴り上げる。それは女の頭を狙う矢へと変わり、彼女はすんでのところでそれをかわした。
「これはいい。矢ならいくらでもある」
 両断された机、大皿の欠片、引き裂かれた椅子、燭台。破壊された調度品は弾丸となり次々と女を襲った。そのすべてを避け、あるいは斧で捌く。それは遊戯に耽る童子のように笑っていた。
「ほらっ!」
「なっ……」
 蹴りだされた薪が斧の柄で叩かれ、その瞬間灰が炸裂する。視界が奪われ吸い込んでしまった灰に女は激しく咳き込んだ。
「終わりかい?」
「なめるな!」
 休みなく続く弾丸に、女は斧を投げつける。回転するそれは迫った調度品をすべて吹き飛ばしそれに迫った。
「うわあ」
 間延びした声をあげ、それは大仰な動作で斧を避けた。斧は暖炉の上に突き刺さり、衝撃で震える。
「残念でし……」
「はァ!」
 嘲うとしたそれの胸を、女が再び手にした剣が貫いた。

「……やられたなあ」
 見上げたそれの顔は、凝り固められた美のようだった。シルクハットの目元から覗く千々に乱れた髪は気だるげな目元を妖美に彩り、蛇のような舌がよく似合う薄い唇は息を吐くたびに脳を蕩かすような甘く濃い香りを振りまいている。あたかも人であるが如くまとった礼服の胸に剣を突き立てられても平然としていなければ、彼は人そのものに見えただろう。
 女は柄を握りなおし、さらに深々と剣を突き立てる。刃は新雪を踏み抜くように易々と体に埋まっていき、ついに彼の背後の壁に突き刺さった。
「ふ、はははは! 強い! 君は強いよ!」
「わたし、死に際に何かいう男は嫌いなの」
 大声で笑う彼に、女は眉をひそめた。間違えなく急所を貫いたはずなのに、口元に薄笑いを浮かべている。女は腰に差したナイフに手を伸ばし、彼の胸に突き立てる。しかし彼は意にも介した様子もなく笑っていた。
「やあ、手を止めてお聞きなよ」
 女は無視してナイフで彼の体をいたぶる。優雅な礼服があっという間に襤褸切れへと姿を変えた。
「君は強いさ。でも君みたいな美しくない女がそれほど強いことに、何の意味があるっていうんだい?」
 肉を抉る音に混じって彼のことばが女に届いた。女は怒涛のような攻撃をピタリとやめ、突き刺さった斧を抜いた。
「刃に映った君の顔を見たことがあるかい? 美しさを伴なわない強さなんて……」
「さよなら」
 話し続ける男の首を、斧が容赦なく刎ね飛ばした。
 ふっと一息はいて、女は大斧を背負う。
 胴体に背を向けて歩き出した女の正面に、くるくると空を舞った首が落ちた。シルクハットはどこかに落ちて、露になった赤い眼だけがなおもぬらりと輝いていた。
「邪魔よ」
 蹴り飛ばそうとした彼女の脚が触れる前に、頭はとけるように消える。
 女が舌打ちをして歩を進め、入ってきた扉の前に立った。そのときだった。

「終わったとおもっているかい?」
「っ!」
 女が背の大斧に手をかけるよりもはやく、彼の手がそれを投げ飛ばした。身の丈ほどもある斧は細腕からは考えられないほどの力で放られ、天井に突き刺さる。
「君は本当に強いね」
 即座にナイフで再び首を狙うも、上体をそらした彼にその刃は届かない。
「ぐっ……」
 同時に繰り出された蹴りを避けきれず、わき腹をかばった右腕がいやな音を立ててへし折れた。斧と同じように女は吹き飛ばされ、木製の壁に穴をあけて隣室まで転がった。
 立ち上がろうとするも視界がぐらつき、膝を突いてしまう。頭に手をやると、どろりと手に血がついた。
「惜しかったね」
「くそが……」
 何もない大部屋のようだった。捻じ曲がった視界に彼の姿が映る。
「ここは舞踏会で使われていた部屋だよ。もっとも僕はそんなことしたことないけどね……おっと」
 手にしていたナイフが投げつけられ、しかし彼はあっさりと刃を指でつまんで止めた。
「おとなしくしなよ。悪い子にはお仕置きだよ?」
 顎を蹴られて地面に打ち倒され、さらに頭を踏みつけられる。声が漏れそうになるも、歯をかみ締めてこらえた。
「耐えるなあ」
 踏みつけた足を抉るように動かすが、女はじっとこらえた。
「さっき、美しくないっていったとき、怒ってたよね? 自覚してたの?」
 顔を近づけ耳打ちする彼に、女は左腕を振るう。あっさりと掴み取られ、そのまま捻りあげられた。
「やっぱりそうかあ」
 うつぶせに転がされ、今度は背中を踏み抜かれた。息を切らせながらもぎろりとこちらを睨みつける女に、彼は微笑んだ。
「いいね。夢の世界にご招待」
 彼が指を鳴らしたとたん、女の意識は闇に閉ざされた。

  ■

 意識が戻った女はまず、武器を取り出そうとして自分の着ているものがいつものローブではなく質素な寝間着であるということに気づいた。腕もか細く繊細なものに変わっていて、座り込んでいた。あたりは目を閉じているようにさまざまな暗色が飛び交い、具体的な物質は存在しないかのように見える。

「やあ」
「おまえ!」
 女がぐちゃぐちゃにした礼服は完全に修復され、いまや埃一つほつれ一つなかった。シルクハットをとり、芝居がかった動きで一礼する。
「ああ、無駄なことはやめなよ」
 素手でも果敢に挑みかかろうとする女だったが、彼が指を鳴らしたとたん石で固められたように体が動かなくなった。
「なにをしたの! 服を返して! 元に戻して!」
「口もきけなくしてあげようか?」
 女は唇を噛んで黙り込む。彼は満足気にうなずいた。
「ここはね、僕の世界だよ」
 視線だけで殺そうとするように、女は目の前の男を睨みつける。彼はますますうれしそうに表情を崩した。

「ねえ、名前教えてよ」
「死ね」
「あはは。殺してみてよ」
「じゃあ解放してよ」
「お膳立てが必要なの?」
 苛立ちだけが募った。暖簾に腕押しだ。まず、必要なのは情報だ。女は作戦を変える。

「ここはどこ?」
「さっきも言ったけど、僕の世界」
「どういうこと? わかるようにいって」
「教えてくださいっていわないと教えない」
「死ね」
「……必死さが足りないなあ」
 彼は肩を竦めた。
 どうしようかなあ。と呟いて、どこからともなく杖を取り出す。衣装とあわせて、どこかの奇術師のようだった。くるくると何もない空間を歩き、女の顔を見る。

「似合う?」
「……」
「なんかいってよ」
「……」
「あーあ。もういいや。またね」
 体に力を込めなんとか動こうとする女を尻目に、彼は煙のように消えた。


 何もない空間で、疲労も眠気も、それどころか空腹すら感じないまま時間が過ぎた。いくらもがこうが呪縛は一切の動作を許さず、出来ることといえば口を開いて一人自分に話かけることくらいだ。

「負けるな。ぜったいにやつを倒すんだ」
「ぜったいに殺す。のほうがいいか……うん」
「とりあえず、いまは耐えるの」
 目を開いても閉じても変わらなかった空間に、ポンと空気が抜けるような音と共に彼が現れる。以前見たのと同じ服だ。

「やあ」
「……」
「前は言いそびれちゃってけど、ここは僕が作った、僕の空間だよ。分かりやすくいうと、僕の夢の中に君がいるんだ」
「わかりにくいわ」
「つまり、ここのものは君以外全部僕の思い通りってこと」
「そう」
「ねえ、今日は帽子を変えてみたんだけど、どう?」
「……」
 彼の指先を目で追うと、変わらないと思っていたシルクハットは、たしかにピアノの鍵盤のようにところどころ白地が混じっていた。

「無視? でもちゃんと見てくれたよね。ありがとう」
「礼をいうくらいなら解放して」
「人になにか頼むときはなんていうの?」
「死ね」
「残念。じゃあね」
 再びポンという音と共に彼の姿は消えた。


 時間の感覚がない。指標となるものがないと、時の流れは永遠なんだということを強く自覚させる。二度目の登場から、彼はなかなか姿を見せなかった。自分のことが少しずつ思い出せなくなりそうな、すべてが消えてなくなってしまいそうな不安から、女は独り言が増えた。

「わたしはどうしてこうしてるんだっけ?」
「わたしは、あいつに捕らえられているの」
「どうしてあいつに捕らえられているの?」
「わからないけど、あいつのようなものを倒すのが仕事だった。つまり、魔物とかそういった類のことだけど」
「どうして今の仕事をしているんだっけ?」
「手っ取り早く稼げるから」
「そう。じゃあ帰ったらどうしたい?」
「……どうしようか」
「…………」

「家族はいたっけ?」
「いたわ。両親と妹。みんな死んじゃったけど」
「そうだったね」
「妹が死んだから、旅に出て、その先でこんな魔物に出会っちゃうなんてついてない」
「お墓までいって、妹に文句いわないとね」
「そうだね……」
「たまにはこういうのもいいわ」
「自分を見つめなおせるもの」

「武器は?」
「斧と剣と、ナイフがあったけど、今は丸腰」
「そういえば、あいつはどうして死ななかったんだろう」
「普段は首を取れば死ぬのに」
「なにが違うんだろう」

「どのくらいたったかしら?」
「さあ? たくさんじゃない?」
「どのくらいたくさん?」
「わからないわ」
「そう……」


「やあ」
「来たのね」
 彼が現れた。女は視線をあげて彼の見つめた。目が覚めるような紅色だ。礼服は以前と変わらない。自分がまだ彼の礼服を記憶していたことに、女はほっとした。
 彼は目の前まできた。地面のないこの場所で、どうして立っていられるか、女にはわからなかった。

「どうして?」
「うん?」
「わたしをここに留めて、どうしたいの?」
「ああ」
 そのことか。と彼は手袋を嵌めた手を叩いた。
「魔物って、どういうものか知ってる?」
「悪意の集合体でしょ」
「うん、そうだね。もしくは未練でもいいかもしれない」
「……あなたの未練って?」
「お。僕に興味出てきた? 僕はね、下流貴族に生まれて、下流貴族に恋をして。でもほら、僕ってかっこいいでしょ? だから上流貴族の娘に目をつけられちゃって無理やり政略結婚。それでも好きだった子と隠れて会ってたら、彼女首をくくっちゃってさ。その後すぐに僕も病死」
 昨日の晩御飯のメニューでも話すかのように、彼はいつもの軽い調子でいった。

「そう」
「うん、そうなんだよ」
「質問の答えに、なってないわ」
「あ、そうだったね。ごめんごめん。君はね、美しくないでしょ。僕って正確には僕と、僕の好きだった子の未練からできてるからさ、美しくない君に興味があるんだよね」
「ほかに、わたしみたいな子は来なかったの?」
「うん。ここにくるのは男ばっかりだったからね」
「そう……」
 彼はうれしそうにステップを踏んだ。女は特に意識するわけでもなく、その動きを目で追った。
「君はどうして僕のところに来たの?」
「仕事よ」
「じゃあ、どうしてこの仕事をしているの?」
「お金が欲しかったの」
「なんで?」
「妹もね、貴族にもらわれていったの。だから、貴族から買い取ろうとおもってたの」
「ふうん。過去形? あきらめたの?」
「わたしがお金をためるよりはやく、妹が死んだの」
「そっか」
 そうなんだ。なるほどね。彼はいくつか呟いてから、来たときと同じように唐突に消えた。


「話し込んでしまった」
「きっと自分に質問したせいね」
「これからはそういうの、やめなきゃ」
「……やめなきゃ」
「でもそうすると、どうやって話たらいいのかしら」
「どうしよう」
「わからない」
「…………」
「…………」
「…………」

「……もう、いや」

  ■

 ポンと音をたてて、彼が現れた。

「ねえ」
「うん?」
 彼がなにか言う前に、女は顔をあげないまま呼びかけた。
「もしかして今のわたしって、あなたの好きだった子の姿をしてるの?」
「そだよ。見てみる?」
 女はこくりとうなずいた。女の体はもうすでに自由に動かすことができたが、あまりにも長く過ぎた時間はそのことを意識させることすら許さなかった。

「ほら」
 女の視線の先に、目の前にいるはずの彼と、そして女とは比べ物にならないほど華奢で、どこにでもいそうな少女の姿が浮かび上がった。彼女と彼は手を取り合い、優雅に踊る。
「彼女は僕と会うたび複雑な表情だったよ。つりあわないってね。僕の結婚も祝福してくれた」
「どこが好きだったの?」
「さあ。逆に質問するけど、君は妹さんのどこが好きだったの?」
「さあ」
 しばらく二人は口を閉じた。

「美しかったなら」
 唐突に彼がいった。
「美しかったなら、彼女は僕とつりあった。つりあっていれば、命を絶つこともなかったんだ」
 彼は両手をかかげ堂々と闊歩しながら、歌うように朗々といった。普段の軽薄さが嘘のように。女は思わず魅入られる。
「そして君も、美しければ自分が貴族に召し取られたのに。そうおもっているんだろう?」
「……ええ」
 くるりと回転し、女の目線までしゃがみこむ。素直な返事がこぼれ出た。
「ほら、僕たち似てた」
 うれしそうに、本当にうれしそうに彼はいった。まるで少年のように純粋に。

「そうね」
 女もそれに同意した。特に意識することもなく足を崩した。
「そうかもしれない」
 女は自分に聞かせるように反芻する。

「でも」
「うん」
 しばらくぶりに、考えて話したかもしれない。女はおもった。
「ここでいることはなんにもならないわ」
「二人でいるだけで、しあわせになれるって、そうおもわない?」
「うん。ごめんなさい。わたしそうはおもわない」
「……彼女も、そういってた。二人で隠れて会うなんて、しあわせになれないって」
「そうなの」
 彼はすっかり少年のようだった。なにもわからないように、女の言葉に首をかしげ頭をひねる。目を白黒させたまま、彼はいった。

「じゃあ、さよならしようか」
「うん。さようなら」
「さようなら」
 女の意識が、ぷつりと途絶える。

  ■

「やあ、目が覚めた?」
「ええ」
 女が身を起こすと、彼が声をかけた。見下ろした腕はもう夢で見た華奢なものではなく、鍛え上げられた武人のそれだった。指を曲げ伸ばしする。折られた右腕がジクジクと痛む。。
「怪我、治したけどまだ痛みはあるとおもう」
「そう」
 ほら。と彼が天井に突き刺さっていたはずの斧を彼女に手渡した。彼の姿は、夢で見たときのように完璧なものだ。ずしりとした重みに安堵を覚える。
「どうもありがとう。でも、わたしがあなたを殺すとは考えないの?」
「君には殺されないよ」
「どうして?」
 看破されていたことはとくに悔しいとも感じなかった。しかし理由は気になる。
「だって、僕の夢に入れたってことは、そういうことなんだよ」
「あなたの話って、わからないことばっかりね」
「君も魔物になってみればわかるさ」
 肩をすくめた女に、彼は大きな声で笑った。彼女もつられて笑みをこぼした。

「そうかもしれない。でもわたし、もう魔物にはならないわ」
「もうってことは、やっぱりなりかけてたんだね」
「そうね。そうだとおもう」
「そうだよ。君は僕の世界に入ってきたんだから」
 女のからだと同じ形にあいた壁の穴を通り抜け、彼がいた部屋にはいる。埃が舞い上がり、そして彼女によってめちゃくちゃに叩き壊されゴミになった調度品が目に入った。
「ねえ」
 部屋の扉の前にたち、振り返らないで背後に立つ彼に聞いた。
「なんだい?」
「出してくれてよかったの?」
「ああ、うん。なんでだろうね。すごく満足なんだ」
「そうなの」
「うん」
「じゃあ、さよならだね」
「うん、さようなら」
 女は部屋を出て歩く。

 きっと、私は私を助けたんだよ。

 廊下の突き当たりで、女は知らない少女の声を聞いた。振り返ると、開いたままの扉がある。そこにはもう、だれもいなかった。
メンテ
放課後図書室 ( No.263 )
   
日時: 2012/12/31 23:44
名前: 匿名 ID:2pqSZmwc

 けだるい授業を終え後者の清掃をし、時刻は午後三時半。学校でのいつもと変わらない一日が終わる。
 私はごく普通の女子高生だ。腰までの黒髪、少し青がかった黒い瞳を持つ。成績は常に中の上あたり。教師にも特に注目されていない。
 だけど、私には人と一つだけ違うところがある。それは、

「一緒に帰ろう!」
「うん!」

 周りのクラスメイトは、皆誰かと一緒に部活へ行ったり駅まで一緒に帰ったりしている。……ただ一人、私だけを除いては。
 私は男らしいしゃべり方で近寄りがたい雰囲気だからだろうな……。クラスメイトの女子が言っていたのを聞いたし。――名前と容姿は可愛いのに、あのしゃべり方はちょっとねえ……。言っていた言葉を思い出し、溜め息をつく。しょうがないだろ、小さい頃からこのしゃべり方なんだから……。
 帰るか。そう呟いて、私はスクールバックを肩に担いだ。そういや、図書室で借りた本をまだ返していなかったな。もう読み終わったから返しに行くか。私はもう人がいなくなった廊下を歩きだした。


 木でできた、温かい印象がある図書室の扉を押すと、どこか無機質な白の壁と天井が目に飛び込んできた。しかし無機質な印象のある白の立方体の底には、薄い緑色が一面に広がっている。無機質な白と温かみのある緑が混じった部屋はなんだか不思議な世界に来たかのようだった。私の学校の図書室は壁に本棚――二、三メートルはあり、あと数十センチで天井に届きそうだ――が付いており、長方形のテーブルが六つ、その左側に小さい本棚――百三十センチくらい――が四つ並んでいるという構造だった。
 周りを見渡すと人一人いなかった。いつも本の手続きをしてくれる先生も見当たらない。用事か何かでいないのだろう。私はカウンターに本を置き――先生がいないときはカウンターに置いておくと手続きをしてくれるからだ――そのままUターンし、扉を引く。本当は返してからまた借りようと思っていたが……仕方がないか。また今度にしよう。

「ごめんね! 今手続きするから!」

 その声に振り返ると、一冊の本を大事そうに抱えた男子がカウンターに走って行くところだった。その男子は少し茶色がかった黒髪に、緑がかった黒い瞳をしていた。よく言えば優男、悪く言えば少し頼りなさそうだ。

「あ……ありがとう」

 私はカウンターまで引き返すと、本の手続きが終わるのを待った。小さい本棚の陰に隠れていて分からなかったのか……。突然声を掛けられたからびっくりした……。

「読書に夢中になっちゃって、君が入ってきたのに気付かなかったんだ。僕、図書委員なのにねー」

 本の手続きをしながら、男子が話しかけてきた。その表情は少しだけ困ったような笑顔。初対面にしては話し方が妙に馴れ馴れしいな。もしかしたらどこかで会ったのを忘れているだけかもしれない。私はそう思って彼に話しかける。

「私たち、どこかで会ったことあるのか?」

 彼はハッとした表情をすると、すみませんと謝った。彼の表情に一瞬だけ影が落ちた気がした。……私の気のせいだろうか。

「手続き終わりました。お待たせしてごめんなさい」

 私が考えていると、彼が本を手渡してきた。彼の表情を見ると笑顔に戻っていた。でも普通の人がする笑顔とは少し違う、ほんの少し寂しげな、笑顔に。どうやら本の手続きが終わったらしい。後で先ほどの話し方について聞いてみよう。私はそう思い、本を戻すために窓際の本棚に向かった。作者別になっている段から借りていた本の作者名を見つける。肩に担いでいたスクールバックを机に置き、私はそこに本を戻そうとした。だが、

「届かない……だと!?」

 私の身長は女子高生にしては低め――百四十三センチ――だった。借りた時は手が届く高さだったんだ。だが今は右の壁紙にお知らせが張ってある。どうやら新しい本が入ったため中を整理したらしい。私が戻そうとしている本はシリーズもので、番号順に並ぶようにしまおうと思っている。ちゃんと番号順に並んでいないとなんだかむずむずするからだ。

「どうしようか……」

 背伸びをしたらなんとか手が届くだろうか。分からない。ふぅと肺にたまった空気を吐きだして、息をのむ。やってみなければ、分からない。私は思いきり背伸びをして、手を伸ばす。あと数センチのところで、腕が下がってしまう。何度やっても結果は同じだった。こんなところで身長が低いことが裏目に出るとは……。あとちょっとなんだ。ジャンプすれば届くに違いない。私は思いきり跳ぼうと膝を曲げ、そして――

「ちょ、ちょっと待って! 貸して!」

 跳ぼうとしていたところに、先ほどの男子が私の手から本を取った。彼は本を番号順になるように戻すと「君が危なげに戻そうとしていたから」と言い、私が借りていた文庫本の続きの番号が書いてある本を手に取った。

「あっ……」

 本を戻してから借りようと思っていた本だ。思わず声が漏れる。その声に気がついたのか、彼はこちらを向きそれを借りるかどうかを問いかけた。私がこくりとうなずくと、彼は手続きをしにカウンターへと向かう。少しして、手続きが終わったことを知らせるかのように彼が手招きをした。
 私は本を受け取りにカウンターへと向かった。本を代わりに戻してくれるなんて、しかもその続きの本まで取ってくれるなんて。お礼を言わなければ。

「あの……その……」

 彼が私を見上げてくる。先ほどと変わらない、ほんの少し寂しげな笑顔。なんだか変に緊張してしまう。目を逸らしかけた。駄目だ、きちんとお礼を言わなければ。大丈夫。愛想よくありがとうと言えばいい。たった一言だけだ。お礼を言うのに何を緊張しているんだ、私は。大丈夫だ、きちんと言おう。……よし、言える。

「さっ、さっきは本を戻してくれて、あっ……ありがとう。あと、その本も……すっ、すまなかったな」

 ……やってしまった。なんでこんなに男らしくなってしまうんだ。大体なんだ、すまなかったなって。そこは普通、ごめんなさいだろう! 自分の言動が恥ずかしい。そう落ち込んでいると、彼が小さく呟いた。

「……名前」
「……は?」

 思わず聞き返した。だって、私に名前を聞こうとする人は居なかったからだ。私の学校はクラス替えがなく、入学してから一年がたつ。休み時間は本を読み、移動時間は教科書などを抱えて移動する。私はいつも一人だった。

「名前とクラス、教えてくれないかな……君、同じ学年でしょ?」
「……人に聞くときは、まず名乗ってからじゃないのか?」

 まただ。人と話すことに慣れていないあまり、こんな話し方になってしまう。本当に、なんでいつもこうなるんだ。私は馬鹿か……。彼は私の言い方に驚きもせず、笑顔を崩さずに言った。

「そうだった、ごめんね。僕は二年一組、一ノ瀬紫苑。君は?」
「わ、私は……二年三組、こ……九重エリカだ」

 よろしくと少し照れくさそうに言いながら、手続きが終わった本を差し出す。私もよろしくと返し、本を受け取った。
 机に置いていたスクールバックに本を入れ、携帯を取り出して時間を確認した。柴犬の待ち受け画像の右上に時間が表示される。四時半。思ったより時間がたっているのに驚く。もうそんな時間なのか。帰らなければ。私はスクールバックを肩に担ぐと、扉に向かって歩き出した。

「もう帰るの?」
「……バスが来る時間だからな」

 そう言ってカウンターを振り返る。彼は少し寂しそうに笑いながら、じゃあねと手を振った。声を出さずに手を小さく振り返す。なんだか照れ臭かった。扉を開け、それが閉じる瞬間に、小さな声でじゃあねと声に出してみる。なんだか私らしくない。恥ずかしいな。それが彼と出会った最初の日だった。


 それからは図書室で会うたび――ほぼ毎日――彼と話をした。大抵は本の話。私の好きな本は剣や魔法が出てくるファンタジーな話が多く、彼の好きな本は推理物や日常物の話が多かった。彼に自分が一番好きだという本を薦められ、どうしてその話が好きなのかを聞いてみたことがある。この作者の心理描写がとても好きで、主人公の気持ちがよく伝わってくるからと目を細めて微笑みながら言った。私はその表情を綺麗だなと思い、その本を受け取る。その本を読み終わった後、私は胸にぽっかりと穴があいたような、何とも言えない寂しさに襲われた。主人公が彼女と別れることは必然的だったとはいえ、私はあんなふうに誰かと別れることは嫌だなと思ってしまう。今はまだいないけど、私も大切な人ができるだろうかと空を見上げた。流れ星が一つ、空を滑り落ちるのが見えた。大切な人が、できますように。そう頭の中で願いながら、私は目を閉じた。
 翌日、図書室に行くと彼はそこにいなかった。胸がほんの少しだけ苦しい。……帰ろう。Uターンして、昇降口に。それからバス停へと急ぐ。バス停の方を見るともうバスが到着しており、急いで乗り込んだ。
なぜだろう。まだ、彼と会ってから二ヶ月ほどしかたっていない。それなのに。なんで、いないだけで寂しいと思ってしまうんだ。なんでこんなに会いたいと思うんだろう。そういえば、最近彼と目を合わせるだけで心臓がドキドキするな……。この現象はなんだ? ま、まさか……不整脈か!? 確かに彼と会ってからあまり運動をしていないし、本を読む時間も今まで以上に増えた気がする。そうだ、そうに違いない。大体、友達もいない私が他人を好きになる訳がないんだ。
 そう考えているうちに、バスが私の家の近くに止まった。もう着いたのか。私はバスを降り、家へと歩く。どこかで鳴いているのか、蝉の声が聞こえる。もうすぐ夏休みか。
家に着き、自分の部屋に向かう。ベッドに思いきり飛びこんだ。彼に借りた本のページをパラパラとめくってみる。今日は金曜日だから本を返すのは来週になるな。私は彼のことをどう思っているんだろう。自分のことが分からなくなる。私はそっと溜め息をついた。


 月曜日の放課後。私はいつものように図書室へと向かった。扉を開け、きょろきょろと辺りを見回す。彼の姿は見当たらない。しばらく待ってみようかな。かばんを置くために机へと向かった。机に向かう間にも辺りを見回してみたが、やはり彼の姿はなかった。机にかばんを置く直前、誰かに肩を叩かれた。

「うわっ! だ、誰だ!?」

 思わずそう叫び、振り返る。そこには、

「びっくりした?」
「あ……」

 楽しそうに笑う彼がそこにいた。なんだか懐かしく感じる。たった三日間、会っていなかっただけなのに。
 驚いたと返し、本を渡す。彼は両手で受け取った。

「面白かった?」
「……なんだか切ない気持ちになった。あんなふうに誰かと別れるのは嫌だと思った」
「……そっか。僕も初めて読んだ時、そんな気持ちになったよ。それから、僕にも大切な人ができるかなって思ったんだ」

 彼も同じような感想を持っていることに驚いた。胸が熱くなる。私を見て、彼はなんだか戸惑ったような表情を浮かべ、口を開いた。

「あ、あのさ……」
「な、なんだ?」

 なんとなく緊張して言葉を返すが、彼はそれっきり黙ってしまう。なんだろうと思いながら待っていると、彼は何かを決意したかのように目を閉じうなずいた。

「僕、本のことになると熱くなっちゃって、本のことについて語れる人がいなかったんだ。だけど、君と出会って、いろんな話を聞いているうちに……もっと君のことを知りたいって思えてきたんだ。だ、だから……よかったら僕と、つ……付き合ってくれない、かな……」

 ……理解が追い付かず、ポカンと彼を見つめる。彼は顔を真っ赤にしながら、私を見つめていた。今彼が言った言葉の意味がよく分からず、彼に問いかけてみる。

「今、なんて……?」

 その言葉に彼は一瞬だけ肩を震わせたが、ほんの少しだけ泣きそうな顔で言葉を紡いだ。

「好きです」

 今、理解した。
 嘘だろ? 彼が、私のことを? なんで? どうして?
 顔がかあっと熱くなる。おそらく、私も彼と同じような顔になっているのだろう。
 どうする? どう答える? どう言えばいい?

「し、しばらく考えさせてくれないか……?」

 そう言うとかばんを掴んで、図書室を走って出た。待ってという彼の声が聞こえたが、私は聞こえないふりをした。


 そのまま家に帰り、自分のベッドに横になりながら、どうしようかと考えた。なんで、彼は私のことを好きって言ってくれたんだろう。私は男っぽい話し方だし、背も低いから迷惑をかけてしまうだろう。なのに、どうして? それに好きだと言われても、自分がこれからどうしたいのかが分からない。自分が彼のことをどう思っているのか分からない。
 彼と話していると、なんだか胸があたたかくなり、とても楽しい気分になる。彼と会えないこの三日間は胸にぽっかりと穴が開いたように感じ、すごく寂しかった。最近、彼と目を合わせると胸が高鳴る。以前、私はこのことを不整脈だと思っていた。でも彼に好きだと言われて、なんとなくだけどこれが好きっていうことなのかなとぼんやりと思った。
 これからは私も変わらなければいけないな。
 もっと素直にならなければ。
 ……よし、決めた。
 私の返事は。


 翌日、校長から一ノ瀬紫苑が事故に遭い亡くなったことを告げられた。学校の帰りにトラックにはねられたらしい。
 その日の授業は一切耳に入ってこなかった。
 放課後、図書室の扉を開けた。彼はそこにはいなかった。当たり前だ。彼はもういないんだ。
 あの時、私が帰らなければ。彼は事故に遭わなかったはずだ。私のせいだ。
 まだ、返事を言ってない。よろしくお願いしますって……彼に伝えていない。嫌だ、嫌だよ……。
 もし、過去を変えられたら――
 私は――
メンテ
ゲーム・クィーン ( No.264 )
   
日時: 2013/01/01 00:57
名前: 匿名 ID:zCukUF4M

 ダルガは流しの勝負師だった。
 この大陸で愛好されているボードゲーム『ミラーフィールド』で勝負しながら、町から町へと渡り歩いて生活していた。
 最初は、二十枚か三十枚の金貨を賭けての勝負であった。しかし、彼は腕が上がるにつれて、次第に高レートの勝負に没頭するようになっていき、今では裏の世界で命を賭けた勝負をするにまで至った。
 様々なものを勝負で得て、相手の命を奪った。また同時に、多くの大切なものをゲームによって失った。
 まだ若くして、すでにミラーフィールドで彼に勝てる者は誰もいなくなっていた。
 そんな中、とある町で命を賭けた勝負に勝ったとき、相手が負け惜しみにこう口走った。
「お前がどんなに強くても、クィーンには勝てん」
 ダルガを嘲笑した敗北者は、地元のギャング達の手によって、彼の眼前で殺された。
「その、クィーンって奴はどこに?」
 問いに対して、ギャングの親分は言った。
「隣国、マイル王国の首都にいる。だが若造、クィーンにゃ深入りしねえ方が身のためだ」
 親分はそう言って、金貨が千枚入ったバッグをダルガに放った。
 勝負の帰りに、ダルガはその足で武器屋に行った。磨き抜かれた鋼鉄の剣、そして小洒落た旅装を新調し、マイルまでの旅費を七枚財布に突っ込む。
 武器屋を出た正面には川が流れていた。残った金貨九百八十枚を、バッグごと川に捨て、ダルガはマイルへと旅立った。

 旅路の途中、ダルガは十数名の男達に囲まれた。
「よくもウチの組の看板に泥塗ってくれたな」
 先程の街で勝負に負けたギャングの腹いせだった。お互いの組から凄腕の打ち手を出してのミラーフィールドなのに、負けて報復に出るとは下衆な連中だ。
「金貨は武器屋の前の川に捨てた。負けた金が惜しかったら、川の底さらって取り返すことだな」
「しゃらくせえ!」
 チンピラ達が剣を構えて一斉に斬りかかってきた。ダルガは何のためらいもなく抜刀し、彼らと剣を合わせる。
 一合、二合、チンピラの肩口を袈裟斬りにし、背後から斬りかかってくる輩を振り返り様に斬りつける。
 ダルガの予想以上の手練れぶりに敵が若干躊躇した。彼はその隙を見逃さず、旅装の裏側から二本ナイフを取り出し、遠方のチンピラに投げつけた。
 ナイフは見事チンピラの額をえぐった。男二人の身体がどおっと草原に横たわる音が響いた。
 残ったチンピラ達は、各々捨て台詞を吐き捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 買ったばかりの剣なのに、これでは血で切れ味が鈍る。ダルガは不機嫌になって顔をしかめ、剣を鞘にしまい、死体に刺さったナイフを回収した。

 マイル王国の裏街道にあるエメラルド・バーにクィーンはいた。
 表向きはバーで働くメイド姿のウエイトレス。しかし、裏の顔は全ての相手を敗北の底に叩き落とす冷酷なミラーフィールドの女王。
 実は、一週間前にも彼はこの店を訪れ、クィーンと勝負した。
 バーのカウンターで真正面から勝負を挑んだら、一回銀貨三枚と言われた。ダルガが勝った。特段、何かの賭けての勝負ではなかった。
 彼女に勝って悟った。完全に手を抜かれている。遊ばれている。ダルガは道化を演じさせられたのだった。
「おお、凄げえじゃねえか兄さん。ユリーナに勝つなんて」
 客のオヤジがはやし立てた。
「お客さん強いですね」
 ユリーナと呼ばれたゲームの女王は、屈託ない笑みを投げかけた。
「兄ちゃん、次は俺だ」
「何言ってんだ、次は俺だっつーの」
 バーの客達がこぞって銀貨三枚を取り出し、ユリーナに勝負を挑む。
「もう。みんな、順番ですよ」
 ユリーナは嬉しそうに笑顔を浮かべ、カウンター越しに客との勝負に応じた。
 ダルガはグラスに残ったカクテルを一気に飲み干し、席を立った。そして、他の客との勝負を始めたユリーナを通り過ぎ、奥の厨房でカクテルを作っているマスターに視線を向けた。
「どうすればクィーンとしての彼女と勝負できる?」
 ダルガはカウンターに身を乗り出し、卓に片肘を付いた。
「クィーンなんて知りませんよ。でも、もし仮にクィーンが存在するとしたら、その方法に辿りつくことすらできない人とは勝負しないでしょうね。お客さん」
 ダルガはきつく歯を食いしばった後、ニヤリと口元を歪めた。
「マスター。気に入ったよこの店。また来る」
 そう言って代金を払い店を出た。そして、彼の心にはユリーナの残影が強く焼き付いた。なんとしてでも女王としてのユリーナを見てみたかった。

 それから一週間、ダルガはマイル王国で裏勝負に没頭した。勝って勝って勝ちまくった。勝って手に入れた金を全部放出して、それでもまた勝ちまくった。そして、とうとうクィーンと戦える方法を知り得たのだ。
 ダルガは再びエメラルド・バーの戸を開いた。そして、バッグ一杯に詰まった金貨をカウンターに叩きつける。
「カクテル『ミラーフィールド』を一杯」
「かしこまりました。マスター」
 ユリーナはにっこりとほほ笑んで、奥の厨房にいるマスターからシェーカーを受け取った。そして、棚に置いてあるボトルをいくつか取り出し、酒を混ぜ始めた。
 慣れた手つきでシェーカーを振る様子を、ダルガはじっと見つめていた。あのとき手を抜かれた勝負。ダルガはあの勝負の盤面を一手一手全て正確に記憶していた。だが幾度逡巡を重ねても、女王のヴェールは取り払えなかった。
 ユリーナの白く長い指で、グラスは差し出された。カウンターにそっと置かれたグラスに、鏡のように、水晶のように青白く透き通ったカクテルが音もなく注がれた。
「お待たせしました。『ミラーフィールド』です」
 ダルガは静かにミラーフィールドを口に運んだ。喉に走る涼感。腹の中に火照る酒の熱気を体内に感じながら、ダルガの意識は急速に遠のいていった。

 気がついたとき、ダルガはとある狭い部屋で椅子に座っていた。
 椅子の前にはテーブルがあり、ミラーフィールドの盤だけが置かれている。部屋の壁・天井・床は全て鏡張りのように透き通っていた。そして、透明な外壁の向こう側は、上下左右全てがまばゆいばかりの星空で満たされていた。
 その空間にダルガは心を奪われ、同時に恐怖感を覚えた。そして視線を正面に戻す。いつの間にか、向かい側にユリーナは、いや、女王は座していた。
「こ、ここは? あんたは一体何者なんだ?」
 ダルガはうろたえながらユリーナに語りかけた。
 ユリーナは妖艶に口角を釣り上げた。先ほどバーで見せていた接客スマイルの面影は毛ほどもない、冷酷で嗜虐的な笑顔だった。恐怖で背筋が凍りつくほどに美しい。
「あなたが来ることは遥か前から分かってたの」
「分かっていたって、何で?」
 ユリーナは視線を落とし、くすくすと肩を揺らした。
「あなた以上に私はあなたとの勝負に焦がれていた。私と対等に打てる可能性を持ったあなたと」
「どういうことだ? 説明しろ」
 声が上ずって、語気が荒れているのが自分でも分かる。相手に呑まれていることを認めざるを得ない。
「こうやって向かい合ったからには、余計な言葉はいらないわ。ここはあなたと私の二人っきりの世界。誰の邪魔も入らない。さあ、思う存分最高のミラーフィールドを楽しみましょう」
「それは、賭けての勝負か?」
 ダルガはなぜ今更そんなことを言うのか自分でも分からなかったが、少し考えてすぐその理由に思い当たった。彼は臆していた。元より命をベットにする覚悟で女王との謁見に臨んだはずであった。だが、彼の中のためらいの心が、かくも情けない事前確認の言葉を口走らせてしまった。
「何も賭けないミラーフィールドに価値があるかしら? どのみち、ここまで来たらもう絶対に逃がさないわ」
 一蹴する女王。
 ダルガはこめかみを伝う冷や汗をぬぐい、旅装の懐から小さな四角いケースを取り出した。
 開かれた蓋には、金色に光を放つ指輪が入っていた。
「この王国で勝ち取った金をつぎ込んで作った。世界に一つだけのリングだ。もし俺が勝ったら、俺と添い遂げてくれ。この前、カウンター越しにあんたを見て、あんたとゲームをして、惚れちまったんだ」
 ダルガは正直な気持ちを、不格好にぶつけた。
 告白を受けてなお、ユリーナはまだあの冷酷な笑みを保ち続けていた。
「もし、私が勝ったら、私のお願いを何でも聞いてもらうわ」
 それを聞いて、ダルガは目を見開いた。
「お願いって何だ?」
「さあ、何かしらね」
「こっちは結婚っていう具体的な報酬を提示してるんだ。そんな、負けたら何でも願いを聞くなんて抽象的な報酬、こっちのと釣り合ってない」
「ダルガ。あなた自分の立場が分かってないんじゃないの? あくまであなたは挑戦者。あなたにそこまで知る資格なんてないわ。ミラーフィールドにおいては私が絶対。私は絶対に負けない。文句があるなら勝ってみれば?」
 ユリーナは不敵に笑い、ダルガの目をえぐるように見つめた。
「上等だ。始めよう」
「お先にどうぞ」
 四方を星空に囲まれた不思議な部屋で、勝負は始まった。

「まだ?」
「こんな、こんな馬鹿な」
 駒を手に取ったダルガの指が震える。顔中に冷や汗が吹き出す。頭の中は対照的に煮詰まり熱せられ、沸騰寸前だ。
 強い。あまりにも強すぎる。なぜだ。今のダルガに勝てる者など、大陸中にどこにもいなかったはずだった。なのに、それなのに。女王はダルガをまるで赤子扱いだった。掌で踊らされているこの感覚。
 このような、ダルガとそう歳も変わらない、もしかすると彼よりも年下かもしれない女に手も足も出ない。
 そして、ダルガの力の及ばなさは、女王の前では粗相に値した。そして、彼との勝負を待ち侘びていた女王の期待を裏切った。
「俺が、俺が負けるなんて」
 震える指から駒が滑り落ち、盤面を打った。乾いた音が室内に響き、勝負は終わった。
 そして、ダルガは女王を失望させた報いを受けなければならなかった。
「私の勝ちね」
 ユリーナは退屈そうに吐き捨て、机に突っ伏すダルガを見下ろした。彼は失意に打ちのめされていた。
「俺の負けだ。何を望む?」
 ダルガは力なく頭を上げた。ユリーナを直視する勇気は沸かなかった。
「私はすぐに次の勝負が控えているの。でも、次の相手はあなたより何倍も強い相手。多分私じゃ勝てない」
 ユリーナは暗く沈んだ表情で、視線を落とした。
「あんたに勝てる奴がいるとは思えない」
「私も負けるつもりはない。けど、もし私が負けたら、そのときはその剣で相手を斬って」
「えっ?」
 ダルガは思わず声を上げた。何を言ってるんだこの女は。
「分かるでしょ? 私はクィーン。誰にも負けはしない。私は私より強い者を認めたくないの」
 ダルガがその発言に対して反応できずにいると、すっと彼女は立ち上がり、彼の側に寄った。
 そして、ダルガの腰の鞘に手を伝わせた。
「私にはミラーフィールドしかないけど、あなたには剣の腕がある。あなたはクィーンがクィーンであり続けるために、ナイトとして剣を振るう」
「何それっぽく言ってんだよ! そんなの結局負けたらブチギレて相手を殺すだけじゃねーか!」
 ダルガはユリーナの圧倒的なゲームの腕とは相反した器の小ささに強い失望を覚えた。自分はこんな下らない女を手に入れようと躍起になっていたのか。
「負けたら何でもお願いを聞いてくれると言ったはずよ?」
 しかし、勝負は勝負だ。負けた者は勝負前の取り決めに従ってこその勝負である。
「分かった」
 ダルガは了承した。負けたときのリスクは受け入れなければならない。たとえ自分が死ぬことになったとしてもだ。
「次の相手はもう来るわ。もうすぐそこまで来ている」
 ユリーナがまた妖しげに笑った。
 ややあって、空間の外壁のとある一ヶ所が切り取られるようにして扉が出現した。
 そこから出てきたのは、青い髪を持った旅装姿の旅人風の男。鋭い切れ長の目を持ち、口の周りには若干の無精ひげを散らした――ダルガその人だ!
「これは俺だ!」
 危うく口から心臓が飛び出すところだった。眼前のダルガは、まるで魂を抜かれたかのように無表情で、ユリーナが外した椅子に座りこんだ。
「そこ、いいかしら?」
 ユリーナに促され席を立つ。ダルガは両者の中央に立ち、右のユリーナ、左のもう一人のダルガ、そして眼下の盤面を見遣った。
「これは、もしもの世界のあなた。もしあなたが剣を嗜まず、ミラーフィールドのみに人生を捧げていたら」
「俺がミラーフィールドのみに」
 よく見ると、もう一人の自分は腰に鞘を提げていなかった。
「あなたは勝負に負けて悪あがきする連中を自分の力で排除するために、剣の腕も磨いていた。そしてその腕は大陸でも有数。でも分かるでしょ、自分の人生の時間を色々な分野に振り分けるには限界がある。もしあなたが剣の技をあれほどまでに昇華できる時間を全てミラーフィールドに費やしていたら? 私の目の前にいるあなたは、そんなあなた」
 ユリーナはそう言いながら、盤に始まりの一手を投じた。すでに勝負は始まっている。まるで幻影のように、もう一人のダルガは力なく駒を動かした。
「クィーン。何者なんだ。あんた一体、何者なんだ!」

 星空で彩られた床に鮮血の溜まりができる。
 横たわるダルガの死体。剣の刀身から血がぽたぽたと滴り落ちる。ダルガはもう一人のダルガを斬った。
 テーブルの上には、女王の敗北を示す盤面が形作られていた。
「ありがとう」
 ユリーナは盤に目を落としたままぽつりと言った。
「約束だからな」
 ダルガは剣をひと振りして血を払い、静かに鞘へと納めた。自分を殺すというのはあまり気分のいいものではなかった。
「これで私より強い者はいなくなった。私はクィーンであり続ける」
「ユリーナ」
 彼女の名前より先、何も言葉を続けられない。
「ダルガ。ずっとあなたのことを待ってたわ。私は、私より強いあなたを認めない。私より強いあなたを殺してくれる、弱いあなたを愛してるの。私を倒し得る、私より強いはずのあなた。私より強くて弱いあなたはもう永遠に私のもの」
「永遠?」
「だって私が望むのはあなたと私の永遠だから」
「永遠なんてあるはずがない」
 ダルガは一笑にふした。彼女の内から押し寄せる狂気を正面から受けとめることを拒むために。
「どうして? あなたも私もとっくに死んじゃってるのよ? あのカクテルを飲んだときから」
 ユリーナは椅子から腰を上げた。立ちつくすダルガの腰に白い腕を回してくる。
「俺はあんたに勝つことができたんだ。もし自分の全てをミラーフィールドに投げ打っていたら。それが確認できてよかった」
 ダルガは何かを諦めたように、頬をほころばした。
「さあ、永久に、永久に打ち続けましょう。永久に」
 以前、とある場所で知り合ったギャングの親分が言った、クィーンに深入りするなという言葉を思い出した。不思議と後悔の念はなかった。
 女王が勝ったら、お願いを何でも聞く。勝負前の取り決めだ。
「望みとあらば。クィーン」

 この時の失われた空間でどれほどの時が経ったのだろうか。もう思い出せない。
 何かこの空間で変化があったとすれば、駒を手に取る女王の薬指に黄金の指輪がはめられているということだけである。
メンテ

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