ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[742] 雨、降る日のバスケ
   
日時: 2013/11/14 00:09
名前: 創魔 ID:eNpJlsL6

なぜバスケをやるのかと聞かれた。

なぜバスケが強いのかと聞かれた。

 バスケよりも好きなことがあるから、それを忘れるためにバスケを始めた。

逃げるために始めたバスケから、僕は逃げられなくなった。


>>1-  登場人物一覧
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

Re: 雨、降る日のバスケ ( No.20 )
   
日時: 2013/11/23 20:04
名前: 創魔 ID:Sv3zlLbU

練習が終わったら、高天原山のふもとにある空き地に集合と言われた。
練習はいつもより30分早く終わり、汗を流したら『肉』と『野菜』を持ってダッシュしろとのこと。
わけがわからず、そもそも空き地なんてどこにあるのかもわからず、全員が道に迷った。
ようやくの思いで全員が集合したとき、そこに広げられた光景に目を丸くした。

「…ンすか、コレ?」
「何って、え…お前ガキの頃キャンプとかしたことないの」

 憐れむような眼差しで聴き替えさえ、清水は「そうじゃなくて!」と突っ込んだ。
何が始まるのかと思い駆けつけてみれば、そこには網と、炭火と、調味料が並んでいた。
全員が急いで買いだしてきた袋を下げているのを見てニッと笑うと、トングで肩を叩いた。

「光琳バスケ部の未来を担う先輩と、ピカピカの新入生と、美少女マネージャーと、ピカピカの俺。
…で、懇親会。やっぱこういうのやんないと、仲間!って感じしないよな。てか腹減ったし」

「腹減ってんのは練習してた俺らだ!!ッ…つか、こういうのって普通監督おごらね!?」
「あぁ、器具と調味料はおごってやるよ。あと飲み物」
「…うわー…、こんなことならもっと肉持ってくんだった…、しめじとネギしか持ってきてねー…」
「お前…、それ完全に鍋の具材だろ」

まったく予想の斜め上を行く結果だったので、2年と1年はお互いに持ってきたものを確認し合う。
小林はしめじ、ネギ。志田は人参、キュウリ、ナス、豚肉。キャプテンはなぜか『特製・鍋奉行スープ』。
鳴海はそこそこウィンナーや鶏肉を持ってきてはいたが、あとは大量の乾燥わかめの袋。
他の2年生も、袋の中身を出すがバーベキューに仕えそうなものはあまりなかった。

「藍堂、お前は?」
「…野菜と肉っつーから、ポテチとジャーキー…」
「お前、… 普段のメシの栄養バランス大丈夫か…?」
「マネジ!お前は何持ってきた、…こうなったらお前の具材だけが頼りだ!」

そう言われて、渚は思わず自分の袋を隠そうとした。しかし、清水にひったくられる。
ガサガサと引っ張り出してみれば、渚は頬を赤くしながら清水を睨み付けた。

「な…、なによ!あたしだってバーベキューなんて聞いてないわよ!
…と、とりあえずエナジードリンクと、プロテインと。…あと肉の代わりに、乾燥干し肉」

「アメリカ軍じゃねーか!!」
「んだお前らー。もっとまともなもん、持ってきてるやついねーのか。肉焼けねーよ」
「あんたが一言付け足してくれてれば、もっとまともなもん持ってきてたよ!」

 地面に溢れた食品は、どれもこれも火の上で網焼きにすると原型が危うくなりそうなものばかりだ。
調味料がいくらあってもこれは調理しきれない。藍堂は頭をかいて、「…闇鍋がいいんじゃね」と物騒なことを言いだす。
ベースがキャプテンの鍋奉行スープ。そこにぜんぶぶち込めば何とかなるだろうという、今後の活動に影響が出そうな行事だった。

「…一回、買い出しに戻るか」
「日暮れちまうよ。…つか、監督行き当たりばったり過ぎ」
「そうか?闇鍋でも案外いけるんじゃね。…ほら、干し肉とかも水吸って肉に戻るかも」
「そんなダシ抜けきった昆布みてーな肉、バーベキューで食いたくねーよ!!」

「あの…」

ふと、一人の少年の声が全員の注目を細々と集めた。その背中に背負っていたのは、何やら大きい布袋だ。
息を切らして「遅くなりました」と告げたアマ公は、その袋を重そうに背中から降ろして吐息をついた。
どさり、という音がやけに生々しく、次いでその袋の地面への横たわり方が、何が物騒なものを感じさせる。

「…アマ公、何だその荷物?」
「肉って言われたんですが、家になかったので獲ってきました…」
「…なにを?…え、ちょっと待って。取ってきたって何を?」

 アマ公が袋を開ける手前、「グロッキーなのがダメな人は、下がっててください」と念を押す。
袋の中から現れたのは、巨大なツノ。それから力の失せた首が、だらりと目の前に横たわって悲鳴が上がった。
背負ってきたのは、巨大なシカだった。血抜きされたのか、首に切り裂き痕がある。目はぎょろり、と虚ろに宙を見つめていた。

「いやぁあー!!なにそれ!!…いやあーー!!」
「おー、すげぇな1年くん。この鹿、どこでとってきたの」
「浦山です。…祖父の家から」

 そういえば、藍堂はいつかの早朝、のことだったな、と思い返した。
アマ公が猟師である祖父の家からおすそ分け称して、大量の動物の肉を持ち帰っていたこと。
袋から出てきたのは、シカ一頭、山鳩4羽、小型のイノシシ一頭、キジ一羽。どれも狩ったばかりのように血がついている。
しゃがみこんで生々しい動物の死骸をまじまじと見降ろし、藍堂は吐息をついた。見かけによらず、マジかと思う。

「こんだけありゃ、肉には困らねーな。でかした、1年!」
「…え…、それ…マジで食うの?」
「誰か、これ解体できますか」

「できるわけねーだろ!…え、つか解体ってなに。これバラすの!?この可愛いヤツをバラすの!?」
「いちいちうっさいわね。根性ない男は下がってな」
「よーし、俺がやろう」

アマ公が振り返ってそう言うと、監督がサバイバルナイフのようにデカい刃物を取り出した。
ぎょろりとした目が現れたときはドン引きしていたマネージャーも、今は興味津々に初めての動物を眺めていた。
それ以上近寄れないキャプテン、志田、小林、その他2年たちは、解体手順をどうするか悩む監督を凝視した。
「マジで!やめて!」「そんなグロッキーなとこ見せられたら、食欲どころじゃねぇよ!!」と発狂する。

「うん、まぁ…、なんとかなるだろ」
「あたし、こっちのキジの羽なんとかしてくるわ」
「おー、頼んだ」
「…嘘だろマネージャーッ…!!」
「…あんなたくましいマネージャー、俺未だかつて見たことない!」

震え上がる一同の前で、ザクザク始めた監督を見てさらに悲鳴が上がった。
アマ公はマネージャーを手伝いにふらりと姿を消し、藍堂はしげしげと獲物を眺めた。
イノシシの屈強な足を掴んで、持ち上げる。ふと、その頑丈な毛皮に目を奪われて、瞳を細めた。
イノシシの喉元に、何かが食らいついたような噛み傷があった。そこから血の抜けたような形跡がある。
そういえば、アマ公のじいさんが猟師で、その獲物だと聞いたからどこかに銃弾の跡があるかと思ったが。
どこを見ても、そんな致命傷の弾痕は見つからない。ただイノシシの喉には、鋭く深々と突き刺さった牙の跡があった。

「……。」




「じゃ、今後の光琳バスケ部の健闘を祈って!かんぱい!」
「かんぱーい!!」

合わさった紙コップの中身を、各自が飲み干す。目の前には、綺麗に解体し尽くされた肉が並んでいた。
こうなってしまえばただの食用の肉に違いなく、焼けばうまそうな具材に変わるから不思議だ。
肝からもも肉まで、すべての肉がそろっているから贅沢だ。清水は意を決して、箸で肉を掴んだ。

「なんかこう…、思いがけず食の教育みたいになっちまったな」
「あぁ…。なんかこう、すげぇ…命を頂いてますって感じがしてきた…、俺」
「バカヤロー、当たり前だろ!命に感謝しろ、現代っ子ども!食う時はしっかり崇めて食え!!」

監督の檄に、慌てて返事をして肉に食いつく。不思議と肉には何の臭みもなかった。
「タレってすげぇ!」と称賛しながら肉を頬張る仲間たちを見て、アマ公はくすりと笑った。
こういうのは、ひどく久しぶりな気がする。新しい仲間たちと囲む食事は、にぎやかでやかましくて楽しい。

「アマ公、テメ野菜食えよ」
「…すいません。ネギとかシイタケとかダメなんです」
「好き嫌いすんじゃねーよ!肉しか食ってねーじゃねーか、おらタマネギも食え!」
「一番ダメなやつです」

「ねぇ、キミ。1年のアマ公っていうのね」
「あ…、はい」

不意に、後ろからマネージャーに声を掛けられてアマ公は返事をした。
目の前にしてみるとやはり顔立ちは綺麗で、しかし姉御的な感じが伝わってくる。

「…マネージャーは、すごいですね。あんなふうに生身の鳥をさばける女性、初めて見ました…」
「初めてのことでビビっても、やんなきゃ始まんないことってあんのよ」
「……。」

その言葉にまた驚いて、改めてすごいと思う。彼女の隣で、ずっと様子を見守っていた。
途中で泣き出してしまうのではないかとハラハラしながら見ていたのに、彼女はなんとやり抜いた。
自分が手を出すまでもなくて、驚いたのだ。アマ公は微笑み、肉を口に入れた。

「…キミも、去年の大会では優勝にまで勝ち上がった、要注意プレイヤーなのよね…」
「え…」

「藍堂くんは、それまでもずっと要注意人物として、すべての中学が目を離さず、対策を練って警戒してきたわ…。
けどあなたは違う。それまで誰にも注目されず、ノーマークのまま突然光の中へ出てきて、周りを騒然とさせた。
誰にも止められない最強兵器を、いきなり試合に出されたようなもの。あなたみたいなルーキー、初めてだわ」

「……。」

帝中学は、弱かった。誰にも相手にされず、バスケにおいては有名どころではなかった。
なのにその年の全国の決勝で、いきなり清陵を下してトップに成りあがった。各校が騒然としたのは言うまでもない。
渚が身を乗り出してきたので、アマ公は食べる手を止めて彼女を凝視し、瞬きした。真剣な眼差しとぶつかった。

「僕は…、バスケが好きで、ただそれだけで帝中でやってきました。…仲間と一緒に」
「指導員は?誰からバスケ教わったわけ?」
「誰からも」

そう呟き返したアマ公に、渚はちょっと面食らった顔をした。
アマ公も、彼女の目を見つめ返して、真面目な眼差しでそう答え返した。

「…帝中学は、弱かったので。指導してくれる人も、マネージャーもいませんでした。
僕らは、ただバスケが好きだった…。バスケが好きだったから、強くなろうと思えば、強くなれたんだと思います…」

「…、なによそれ……。」


メンテ
Re: 雨、降る日のバスケ ( No.21 )
   
日時: 2013/11/25 12:21
名前: 創魔 ID:gBtzJEE2


正直、どっちが強いのか。それはずっと気になっていた。
身長も上。体力は同格。瞬発力や速さには負けるが、技術やセンスはどちらも比べても上は分からない。
試合に出れば藍堂の方が圧倒的に得点力があり、ディフェンスも単独オフェンスも上を行く。
しかしアマ公は、仲間にパスを出しているばかりで得点に繋がらず、しかしドライブやフェイクの腕は誰にも負けない。

そんな藍堂と、アマ公。どちらが強いのか、はっきりしないまま部活はずっと続いていた。
最初の1on1は藍堂の勝ちだった。しかし、その後は抜くこともあれば抜かれることもある。
正直、アマ公を相手にした時の勝負は、藍堂の予想外に動きが流れ、翻弄される。だから確信する。アマ公は強い。
強いのに…、その決定打といえる部分が欠落している。相手の方が絶対的に強いという確信が、欠ける。
何故だ…、とずっと考えていた。バスケだけに打ち込み、バスケだけに向かってきたと自称するアマ公。
なら、自分だってその強さをきっちり推し量れたっていいのに。わからない。アマ公の強さが…、わからない。

一番わからないのは…、もっと基礎的な部分。体力や、瞬発力はどこからきているのか。
毎日の練習で、パスやシュートの練習はみんなと同じだけやっている。たまに一人で練習しているときもある。
けど、それ以外は持ち前の才能だというのか。小柄で、藍堂には絶対に及ばない身体的なレベルの違いが、そこにあるはずなのに…。

「……。」

藍堂はわずかに瞳を細めると、体育館の大きな時計を見上げた。
夜8時。その日の部活が、終わろうとしていた。






早朝、4時。藍堂はじっと腕時計を見つめて、桟橋のたもとで霧の中を睨んでいた。
山がすぐ後ろにあり、普段の朝よりも底冷えする。ランニング用のジャージを着て、いつものイヤホンから流れる英語を聴き流す。
光琳高校がある街から、ずっと走ってくると川に出る。その河川敷に沿って走っていくと、この桟橋に突き当たる。
その桟橋の先は、街とは離れた農村のような雰囲気の広がる住宅街で、山と一体になっている。
その街と山の境界線で、藍堂はじっと腕組みをして佇んでいた。街の方を、じっと見据えて。

「……。」

やがて、藍堂は顔を上げて険しい顔で霧の中を見つめた。足音が、近づいてくる。
誰かが、桟橋へ向かって走ってくるのだ。それを測ったように藍堂が桟橋に寄りかかっていた背中を起こす。
遠くから、短い息切れの声とともに現れたのは、細身の少年。Tシャツに、チノパン。
白い息を吐きながら現れた少年は、ふと瞳を瞬かせて驚き、立ち止まった。
目をしばたかせて、ゆっくりとその歩調を緩めると、佇んでいる藍堂の前で息を整える。

「…、藍堂くん」
「…よぉ」
「なにしてるんですか…、こんな時間に、こんな場所で」
「……。」

藍堂はイヤホンを外すと、腕組みをしたまま答えない。アマ公も呼気を落ち着かせながら、じっと待った。
藍堂いつも走るのは、決まって朝5時から6時の間。時間は早いし、普通は河川敷までで桟橋には来ない。
しかし今日は、いつものルートから3キロも奥手にある、この人気のない桟橋まで来ていた。
呆気にとられているものの、じっと黙り込んでいるアマ公に痺れを切らして首筋を撫でて、白状した。

「…お前を待ってた」
「え…」
「ここ、通るんじゃないかと思って…。早めに来て待ってた」

前にランニングでアマ公と鉢合わせた時は、早朝の街だった。これから川沿いに出ようという時、獲物を担いだアマ公にあった。
なら、もっと早い時間。山の付近のアマ公のジイサンの家に繋がるこの桟橋に来れば、必ず来ると思っていた。
今は手ぶらのアマ公を見て、その汗のにじんだ格好を眺める。街の自宅からここまで、走ってきたのか。

「…僕に、用事ですか。あと3時間もすれば、朝練で会えるのに…」
「朝練じゃ遅ぇんだよ」
「一体どうしたんですか…、」

不審そうな眼差しを揺らして、アマ公が藍堂の顔を覗き込む。仲間良い2人とは決して言えない。
ライバルと呼ぶにはまだあまりに互いを無知で、同じ部活動のせいで敵とも呼べない。なのに仲間でもない。
そんな不思議な関係のせいで、藍堂はアマ公の本当の強さを測りかねている。その物体のない不気味さが、気持ち悪くて。
知ろうと思ったらこんなところに来ていた。藍堂は冷たい朝の空気の中で息を吐くと、ゆっくりと体を伸ばした。

「…お前、これから走るのか?」
「え…」
「…、ジイサンの家までオツカイか。それとも、お前もこれから基礎練すんのか」
「……。」

なぜか、アマ公は応えなかった。迷ったように藍堂の言葉に瞳を泳がせる。
家から来たのは確かだ。こんな時間に、こんなところまでわざわざ走ってくる理由は、どっちかしかない。
その返答を、じっと見守っているとアマ公は山を見つめた。それから、小さな声で返答した。頷きと共に。

「…そうであるとも言えるし、そうじゃないとも言えます」
「どっちでもいいや…、俺も付き合せてくんね」
「えっ…?」
「お前の基礎練。どんなことやってんのか興味あんだ…」

顔を合わせることなく桟橋を渡りながら、藍堂はそう言ってぐっと伸びをした。
いつも人をはるか上から見下ろして、下手糞だ相手になんねぇ、などと豪語している藍堂が、そう言った。
強いからこその、人を馬鹿にしたような態度で、多くの選手や、仲間や、敵の心を折ってきた。
その藍堂が、素直に他人の練習風景が見たいという。そのとき、アマ公は束の間、彼のバスケに対するひたむきさを感じた。
藍堂が振り返り、立ち尽くしたアマ公の顔を伺って変な顔をする。呆れたような、面倒臭そうな顔。

「…なんだ、駄目なのか。俺がいちゃ、邪魔か」
「……。」

アマ公は、一瞬の藍堂の意外な一面に驚いたそのすぐ後、今度は密かに考えあぐねている様子だった。
基礎練一つに、何をそんなに見られたくないものがあるのか。瞳を逸らして、物憂げにうつむいていた。
困っていたり、動揺したりではない。じっと、ただ深慮深げに視線を下げている。藍堂は舌打ちする。
邪魔に思われるくらいならこっちから願い下げだし、無理してまで押し入る気はない。

「おい。駄目なら駄目ってはっきり言え。待ちくたびれんだよ」
「いえ、いいです。…その代り、藍堂くんもちょっと付き合ってもらえませんか」
「あ?」

アマ公が、言葉を言い終わると共に桟橋を渡り始めたので、藍堂も大人しくそれに従った。
自宅は遠くないが、桟橋を渡って山の近くに立ち入るのは初めてだった。緑が豊かで、街より空気が澄んでいる。
自分の前を、ただ黙々と歩いて行く少年を見つめて、藍堂は眉をひそめる。不思議な少年だった。
まるでこの山のように静寂で、無色で、寡黙。だが、山がその裏側に人間に推し量れない大きな生命力を持っているのと一緒だ。
物静かで、これといって個性の何一つない。逆に、なにひとつ個性の掴めない、掴み処のない存在感。
山が放つ静寂なプレッシャーと、この少年の放つ異様な何かは、とても似ている気がした。

「ここです」

アマ公が立ち止ったのは、なにもない住宅と住宅の間に通る、十字路だった。
一気に田舎の匂いが広がり、まだ早朝と言うことで人気が一切ない。霧で道の向こうがかすんでいた。
辺りを見回しても特にこれと言ったものはなく、その平凡な空間に藍堂は眉をひそめる。

「…ここで何するってんだよ?」

「…僕がやろうと思っていたことを、今日はキミに譲ります。ただちょっとキツいので…。
体を壊すと思ったら、すぐにやめて戻ってきてください。それから、道に迷いそうになっても同じです。
ここへ戻ってきてください…。僕は、この辺を軽くランニングしているので。5時になったらここに集合です」

「だから、なにやらせるってんだよ。…なんもねぇぞ、ここ」

自分に譲る、とはどういう意味なのか。訳が分からずに眉間に皺を寄せて睨んでいると、ふとアマ公が振り返った。
目の前にある4つ角の、垣根と垣根にはさまれた細い道。向こうには柵があって、ずっと一本道が続いていた。
その道を指さしたので、藍堂は瞳を細めてその先を見た。人からは簡単には見えないような、死角になる道だった。

「…この道の先。山の入口の社の下に、犬が一匹待っています」
「犬…?」
「その犬を追いかけてください。それだけです」
「犬を追いかけるって…、どこの犬だ?」
「ウチの犬です。…逃げられても、諦めず追いかけてください。藍堂くんなら、余裕で捕まえられると思います」

「…ん、だそれ」

呆れてものも言えずにいると、アマ公はただそれだけを告げて藍堂の反応を見守っている。
どっか自分ちの畑をダッシュとか、バスケのボールの練習とか、そういうものを想像していたので落胆する。
藍堂が乱暴に頭をかくと、吐息をついてアマ公を見下ろした。結局、不思議過ぎてよくわからねぇ…。

「つまり、何か。脱走したお前んちの犬を、ひっ捕まえて返しゃいーんだな…」
「そんなところです」
「…朝練つか、ただの雑用じゃねーか…。バスケと関係あんだろーな…」
「関係は、ないかもしれません…。でも、たぶん終わって帰ってきたころには、藍堂くんの謎はいくつかは解けてる気がします」
「んだソレ…。ッチ…、覚えてろよテメェ」

ここまで追っかけてきたお詫びとでもいうか、藍堂は要望を受け入れて細道へ向かった。
歩いているうちになんだか疑り深くなって、一度元来た方角を振り返る。そこにはアマ公が立っていた。
吐息をついて前を向いた後、ふと気になってもう一度振り返るとそこからアマ公の姿は消えていた。

バスケと関係はないかもしれない。でも終わる頃には、自分の中の謎は解けている…。
基礎体力と何の関係があるのか。まさか犬と毎朝追っかけっこして、それで鍛えてますとでもいう気か。
だとしたら相当舐めてる。てか、舐められてるな…。自分も大概と思いながら、気が付くと鳥居の前に来ていた。
うっそうと茂った森に、思わず圧倒される。古い石造りの鳥居。すぐそばには苔むした地蔵の祠が祭ってある。
神隠しでも起こりそうな雰囲気の中、入口を見上げるとそこから果てしない階段が、うねるように山の中へ消えていた。
その階段の脇にそびえる大岩があった。瞳を細めると、その大岩の下に一匹の犬が座っていた。

「…お前か、鳥居の下の犬ってのは」

犬は、警戒するでも、喜んで尻尾を振るでもなくそこに横たわっていた。
見れば、大きな犬だった。大型犬どころではない。体高は90cmほど。大きさは1.6mくらいある。
大きなブラシ状の尾は長く、体は白、黒、茶の目立つ灰色斑の毛でおおわれていて、大きな耳がかすかに動いた。
目が、金色の網膜の中に黒い月のように小さく打たれていて、藍堂を見据えていた。野性の目だ。狐か何かのような。

しばらく呆然とその『犬』を見つめていたが、やがて犬が腰を上げたその速さと言ったらなかった。
まったく重さを感じさせない様子で立ち上がると、その足の長さからさらに大きさに戸惑う。
わずかにこちらの様子を伺うように、頭を下げて上目にこちらを見る。その動作はまるで『オオカミ』を思わせた。
天然の苔を踏みしめた、その足の大きさに驚く。藍堂の広げた手のひらほどもある、大きな前足。
腰を上げたその動物が、階段を一っ飛びに超えていったのを見て藍堂は我に返った。『アレ』を山から、引き摺り下ろすのだ。

「待てッ…、てめぇ!!」

藍堂は、鳥居をくぐり山に立ち入った。そのときはまだ、捕まえることしか頭になかった。
山がいかに過酷で、人間の身体能力が通用しない場所かと言うことを、藍堂は認識していなかったのだ。
ゆっくりと空が白み、日の光が金色に山を包み込む時間になるまで。藍堂が再び鳥居に姿を現すことはなかった。
メンテ
Re: 雨、降る日のバスケ ( No.22 )
   
日時: 2013/11/25 13:23
名前: 創魔 ID:gBtzJEE2


 朝7:20になっても、藍堂は部活に現れなかった。部員も不審がる中、今日は来ないのではないかとさえ言われる。
藍堂は基礎練には形だけ参加するが、その他のチームとのパスとか、シュートの練習とか、そういう物には一切出ない。
先輩の手前とあって毎日しぶしぶ時間通りには姿を現していたのに、今日ばかりは違っていた。
練習が始まって20分後のことだった。ガシャリ、と重く扉の開く音がして振り返れば、藍堂がいた。

「おっせーぞぉ」
「なーにやってたんだよ。腹痛?それとも朝の抜きどころに迷ってた?」

からかい口調でそういう志田と小林に舌を打つも、藍堂の顔色は果てしなく悪い。
それどころか足腰がガタガタで、立っているのもやっとの様子で体育館に入ってきたかと思うと、
教科書もそこそこにしか入っていない鞄を重そうにおろして、壁際にぶつかるように崩れ落ちて、そのまま座り込んだ。

「死ぬ…、も…限界。…今日は、も…一歩も動けねぇ…。つか、学校来れた俺すげえ…」
「おいおい、どーしたんだよお前!?」
「ていうか、なんか頭とか手足ドロだらけじゃね!?頭に葉っぱついてっし、すり傷だらけだし」

わいわいと集まってきた1年が、その怪我だらけドロだらけの体を見て驚いた顔をした。
先輩たちも集まってきて、そのあまりの死人ぶりに頭をかく。体力だけは宇宙並みの藍堂が、へばっている。
低く呪詛を吐くような台詞を聴いて、アマ公が吐息をついた。清水が眉をひそめて、藍堂の傍にしゃがみ込んだ。

「…冗談抜きに、お前…足が痙攣起こしてるぞ。おい!渚、冷却スプレー持ってきて」
「どーしたの、藍堂くん。ケモノ道でも通ってきたみたいな格好して」
「っせぇ…、道が混んでたッスよ…」
「どんな道だよ」

使いすぎの足の筋肉を一気に冷やして、渚がスプレーを軽く振った。
小林と志田が、顔を見合わせて苦笑いする。全国最強のエースの、思いがけずへばった姿に驚いたのだ。
陰で、ボールを腕に抱えたまま、どこか浮かない顔をしているアマ公を見て、藍堂は眉間に皺を寄せる。
すまなそうな、申し訳ないような顔をしているそれが気に入らなかった。そっぽを向き、口調を大きく悪態をつく。

「…ひさびさに朝練で本気出したら、思いのほか訛ってた。やっぱ普通の朝練じゃ、俺には足りねー」
「おー!お前、なんかスッゲートレーニングでもして来たのか!?」
「…シャトルラン260回が笑えてくる」
「マジ!…つかお前のその記録なに!?」
「自主トレするのはいいが無理をするな。…体力付く前に体壊すぞ」

心配そうに言ってくる清水を見上げると、その隣にいた渚が屈みこんできて藍堂の足に触れた。
まだわずかに痙攣を起こしている足を見て、次の瞬間持ち上げたかと思うと、ぐっとの体重をかけて伸ばした。
そのまま手早く靴を脱がされたかと思うと、足の裏にタオルを当てて肘ではさみ、手のひらで伸ばされて悲鳴を上げた。

「いだだだだ!!…ッきなり何すんっだよ!!」
「バカ。一応、運動後のストレッチしただろうけど、こんなんじゃ足りない。ハードな自主トレし過ぎ!」
「はぁ!?」
「渚は整体師の娘で、ストレッチやテーピングならプロ同然だ。体の疲れも手に取るようにわかる」
「アマ公、部室から氷持ってきて。あと志田、バケツも。氷水に足突っ込んで、一気に冷やすしかない」
「あ…、はい」

言われて、体育館から出て行った姿を藍堂が見送る。周りの先輩たちは「やっぱエースの練習はすげーな」と
買い被っているが、彼女は違っていた。藍堂の足にかかった負荷、腰への負担、足裏の疲労。
すべてを見抜いて、藍堂が不味い状態だということを察知していた。足の痙攣は、汗と共に止まらない。

「…はぁ。もうすぐ授業だけど、…仕方ないか。あんた、1限休みね。
足冷やしたら、すぐ保健室行って、ベッド借りて横になること。あたしがマッサージしてあげる」

「あ…?いらねーよ、こんなもんくらいで…」

「ッセェヨ!!物分り悪ぃーガキだな!!あと2時間もしたら、筋肉ぜんぶ固まって動けなくなるっつってんだよ!!
立てなくなるくらいの筋肉痛になる前に、テメェの症状自覚して『お願いします』くらいの陳情して黙ってされてろ!!」

「ッ…、へ!?」
「あと足の裏!ぜんぶテーピングするから、志田ありったけ持って来い!あとバヤシ、コイツに肩貸して教室に送ってやれ!」

「ハッ…、ハイィッ!!」


急変したマネージャーの怒号に、1年全員が凍りついた。
「あーぁ…」とうなだれている2年と、血の気の失せている清水が立ちすくんでいる。
爪の先まで硬直した小林の肩を、鳴海が叩いて吐息をつきながら耳打ちした。

「…これだから、キャプテンとマネジは成立しても、清水に彼女って関係は無理だったんだよ…」
「オレ…、自分が怒られたんじゃないのに…もう泣きそうッス…」
メンテ
Re: 雨、降る日のバスケ ( No.23 )
   
日時: 2013/11/25 15:14
名前: 創魔 ID:gBtzJEE2

「あーぁ…、あの怪力女のマッサージのせいで…余計に体中がイテェ…。
つか…マジ死ぬかと思った…。二度と受けねーぞ、あんな全身足つぼマッサージみたいなモン…」

自分の教室に戻った藍堂は、ぐったりと机に突っ伏して青筋を立てていた。
靴の中はテーピングだらけでまともに動かせもしない。まるで石のように固定され、ギブスかと思った。
しかし、想像以上に足のだるさはなくなっていて、覚悟していた激痛も全く怒らない。痙攣も収まっていた。

(…すげーな、あの女…。あれだけは…、マジで本物だ…)

処置も、対策も、分析もなにもかも一つも間違っていない。放課後の練習には出られるとまで言ってのけた。
天才と言うのは、隠れた所に居るものだ。有名校や、光の当たるところだけにではなく。…こういうところにも。
その時、不意に休み時間のクラスの戸がノックされる音がしたかと思うと、伏して寝ていた藍堂の背中が誰かに揺すられた。
顔を上げると、クラスメイトが顔を覗き込んでいる。「誰か訪ねてきてるけど…」と指を差され、扉を見た。
教室の戸口に、どこかで見た顔が立っているのが見えた。アマ公が、クラスを訪ねて待っていた。




「すいませんでした…」
「……。」

ポツリ、と呟かれた言葉に、思わず藍堂の剣幕が曇る。
廊下に出た2人は始終黙りっぱなしで、藍堂は壁に寄りかかって助けられたまま話を聞いている。
その、表情にはほとんど出ていないくせに、見るからに気落ちした様が伝わってくる顔に、舌を打つ。

「…んで俺が頼み込んだことに、お前がわざわざ謝りにくんだよ。筋違いだっつの…」

「いえ、正直…他の人にとってこんなに負担になるトレーニングだと思って無くて…。
分かってれば、僕ももっと考えてました…。…バスケにとって足は命です、…危ない真似させました」

「…テメ、そりゃ俺に喧嘩でも売ってんのか。地獄のトレーニングは、お前くらいすごくないと出来ませんてか」
「僕がすごいだなんて言ってません。…ただ、僕には僕のやり方があって、キミにはキミの鍛え方があるっていうことです…」
「……。」

アマ公は正論だ。間違っていない。自分がこいつの秘密を暴こうとして、他人のやり方に手を出した。
それが間違っていたということは、正しい。それにしても、気に入らなくて吐息をつくと、頭をかいて首を撫でた。
横目にそいつを睨んで腕を組むと、少しばかり動揺したのかアマ公の眼差しがかすかに揺れる。
藍堂は目つきの悪い顔で、かったるそうにその少年を睨み、首筋をかいた。

「…まぁ、お前がなに言いたかったのかだけは…、確かに分かったわ…。
あの山を、全力疾走するだけじゃねぇ。犬がちょいちょい方向変えるおかげで、合せるこっちの瞬発力は相当上がる。
…ありゃ、相手がどっちに動くかわかんねぇ、ディフェンスの動きを見極めるようなもんだ…、反射もつく」

「……。」

「スタミナは勝手に上がるし、筋力も着く。…動体視力もつくってことは、お前の速さの謎は大体わかった。
ただ、あれを毎日やってるっつったら…俺は納得しねぇ。…この俺だって、これだけ体壊してんだ。
ひょろっひょろのお前があんなんやったら、10分もたねぇだろうよ…。当たりか?」

「……、5割正解、かもしれません」
「あ?」
「僕だって、今日のキミみたいな無茶はやりません。…2時間以上、休憩なしで挑むなんて」
「結局、捕まらないままどっか行っちまったけどな」

 最終的に、犬を捕まえることはできなかった。それは、山の中で道を見失ったわけじゃない。
犬は姿を眩ますが、すぐに姿を現して藍堂の目に見えるところに現れる。それも、目と鼻の先に。
追いかけさせて、目の前でわざと複雑な追わせ方をして、逃げる。だから山の中でも息が切れる。
…あの天敵の前から逃げる、餌食になる動物みたいな動き。相手の動きを拡散させる、あの動きにやられた。

「大体…、んだあのデッケー山犬は…。山を平野みたいに疾走しやがるわ、脚力もハンパねぇわ…。
普通飼い犬ってのはあーはならねぇだろ。…人をおちょくるみたいに逃げやがって。本当にお前んちの犬か」

「あの…、はい」
「何食ったらあんなデカくなんだ」
「…えと、…ドッグフードとか…、シカとか」
「あんなデケー犬、山で放し飼いにしてたら猟師に撃たれんだろ…。名前は?」

急にたどたどしく答え始めたアマ公に、藍堂が何気なくそう聞く。低い声なので、それだけで迫力が増す。
傍から見れば、長身で体格がよく、強面の藍堂に、貧弱で気弱な少年が絡まれているかカツアゲしているようにみえる。
ひそひそと噂話の聞こえる廊下で話す2人の光景はそれほど異様で、アマ公は不意をつかれたように瞬きした。

「えっ…?」
「名前だよ、犬の名前。太郎とか次郎とかあんだろうが」
「な、まえ……ですか…」
「あぁ?」

名前を聞かれた瞬間が、アマ公の一番つっかえ始めた場面だった。
眉をひそめる藍堂の顔を、焦ったように見つめたり逸らしたりした後、やっと絞り出した。

「…、イヌ」
「あ?」
「…イヌです」
「わかってんよ。だから名前」
「…イ、イヌ…です」
「は?」

眉をひそめた藍堂の眉間に谷が生まれる。そのまま沈黙が過ぎ去り、口を開けっ放しの藍堂が瞬きした。

「…犬の名前が、イヌ…?」
「……。」
「…マジかよ、ウケ狙う奴多いけど。…それは斜め上だわ。チワワにチワワってつけるようなもんだぞ…」
「…すいません…、今のが渾身です」


メンテ
Re: 雨、降る日のバスケ ( No.24 )
   
日時: 2013/11/25 18:48
名前: 創魔 ID:gBtzJEE2


「……。」


 雨は、じっと森の中に耳を澄ましていた。今朝は、雨上がりの冷たい匂いがした。
早朝の3時。まだ森は闇に包まれ、明かりは何一つなく、暗がりに沈んでいる。山にも森にも気配はない。
人の気配がないことを確かめる。あの4ツ角をまっすぐ歩いてきた、鳥居の入口の岩の前。
そこで雨は、最後に人がいない事を確認して、狼になった。服が滑り落ちて、濡れた苔の上に落ちた。
咥えていつもの大岩の影に隠すと、軽く泥の斜面をはじいて山の中に駆け上がって行った。

『……。』

これが、雨の本当の至福の時間。本能に何もかも飲まれる麻薬のような時間。
狼になれば、人間だった時間のことなど忘れてしまう。静寂に耳を澄ませて、4つ脚で全力疾走する時間。
風がふだんの10倍のスピードで過ぎ去っていき、5mはある大岩も軽々と飛び越えられる。
体中のバネを使い、飛び上がる瞬間の自由。岩の上に着地した途端、弾けるようにさらに山を駆け上がった。
草や茂みの冷たい雫を弾き飛ばし、毛皮は森の匂いに染まっていく。灰斑色の狼は、野性に帰る。



 白い光が走り、雨は金の目を走らせた。兎が一頭、木の根の間に紛れていた。
そろり、と足音をそばだてる。狼の気配に気づいた兎が飛び出した瞬間、雨は行く手を大きな前足でふさいだ。
右へ、左へ、と縮こまった動きで逃げ惑う兎。それを、鋭い動体視力で反射的に右へ、左へ、と追い込む。
素早く飛び出した兎の行く先を追いかけ、山の中をどこまでも走り抜けた。強靭な後ろ足に蹴られた大地は、大きな力を雨に返してくる。
雨は兎をすぐには捕まえず、しばらくそうして敵を翻弄する兎を追い込んでいた。食い殺そうと思えば、何度でも牙は届く距離で。

同じ行為を繰り返しながら、山鳩、子イノシシ、ネズミ、と捕らえていく。
雨にとって、この山の全てが基礎練習だった。雨にしかできない、体力を養う方法。
しかしそれは、野性の中で育くまれるこの上ない興奮の中で行われる、自然で、至福の時間だった。
狼の反射神経や洞察力は、人間の数倍。脚力や体力は、山の中で雨を何十倍にも成長させた。


かさり、と音がして耳をそばだてる。蹄の泥臭い匂い。葉や木の皮を削り取る荒い音。
近くにシカの気配がした。雨は興奮した息を押さえ、暗闇に目を光らせた。勝手に足が、尾が、静まり返る。
ゆっくりと身を低くして、シカの匂いを確実に嗅ぎつけた。人の時では考えられない行為と、欲求。
耳を後ろに伏せて集中すると、牙が勝手にむき出される。突然の狼の吼え声と共に、雨は襲い掛かった。


 気が付けば、シカの悲鳴が一つ上がっていた。襲い掛かった先で、勢いをつけてがぶり、と急所に牙を立てる。
シカの全力疾走の勢いと共に、山の斜面を転がり落ちた雨は、傾斜に爪を立てて滑り落ち、雨飛沫を上げて止まった。
キバの中から赤い舌をのぞかせて、本能的に荒い息を繰り返す。山の地面に押さえつけた泥まみれのシカは、既に息絶えていた。
それらの獲物を引きずって、雨は山の頂上まで登った。引きずり上げた獲物に、ためらいもなく雨は近づく。
牙や口のまわりがちに染まっていることなど気にもせず、雨はシカに牙を突き立てて食べ始めた。
まだ温かい肉をむさぼり、苦みのある内臓を舐めとった。骨を噛み砕き、空腹の腹を満たしていく。

 この山には、タヌキもいる。キツネもいる。しかし、狼ほど明確な捕食者はいない。
雨は、この山の最強の生き物だった。そしてまた同時に、雨は人間だった。ふと街からクラクションの音がして、彼を我に返した。
気が付けば空は白んでいて、山頂からは雲海のような白い街が広がっていた。
静けさに包まれていた町が、車の音によって徐々に満たされ始める。闇に溶けていた自分の姿も、今や明確だ。
野性の姿で町を見下ろして、雨はその冷たい空気に身を浸して目を閉じ、耳を後ろに倒した。
気持ちが良かった。生きているという、心臓に地が巡る心地良さ。そして獲物をしとめた、欲求の充足。

 しかし同時に、雨は瞳を細めて街を見下ろす。徐々に興奮が収まっていき、雨は人の心を取り戻した。
今は空の明るさから、午前5時半。家に帰って、7:20には朝練が始まるから、学校へ行く。
時間を考えられるようになるのが、人に戻った合図だ。一気に気持ちは沈んでいき、落ち着いた。


「……。」

 雨は、迷っていた。雨は、半分人間。半分狼という生まれ方をして、この世にいた。
聞けば、祖父も同じだったという。そして祖父は、人間として生きる道を選んだ。狼の生き方を捨てて。
その証が、獣を銃で狩るという方法だった。狼なら、爪や牙で狩りをすればいい。それに、銃を使う。
それは狼の最も本質的な部分を捨て、人類の文明に頼るという選択だった。それが、祖父の覚悟だ。
父は狼の血を、なぜか受け継いで生まれては来なかった。母は人間で、父も人間。だから、狼の血は断たれたと思っていた。
けれども、その血は再び、孫の雨に現れたのだ。祖父は、ハイイロオオカミの血を継いでいた。雨もまた、そうだった。

けれども、人として生きるか、狼として生きるかの狭間で迷い、2つ両方の生き方を行ったり来たりしている。
昼間は人として高校生になり、家族と一緒に時間を過ごす。夜は危険なためで歩いてはいけないと言われ、
雨が狼として出歩くのは、誰にも姿を見られることのない早朝の、この3時間だけだった。
しかし、この3時間は雨にとって何にも代えがたい時間だった。自分が、ありのままでいられる時間。

 一度、狼として生きる道を決めようとしたことがある。だが、それはあまりにも過酷な選択だ。
自然で生きることは、この3時間に比べたら違い過ぎる。野性の厳しさ、自然の残酷さ、不条理。
そして狼という生き物が、この土地で暮らすことの難しさ。それが何よりも、雨の意思を阻んでいた。
生きられるのはこの山の中だけ。ちっぽけな、本当に小さな世界だ。一歩外に出れば住宅街、車や街。
絶対に足を踏み入れてはいけない場所がある。その2つの過酷さの中で、人並みの寿命を迎えるのは不可能だ。

それを思うと、雨の母親は、狼として生きることに反対していた。人として、幸せに生きて欲しいと。
雨が迷いに迷い、自分を見失っていたとき。小学4年生の時だった。父親が、誘ってくれたものがあった。

『雨…。バスケットボール、やってみたいか?』
『バスケットボール…?』

 父は、雨をプロのバスケットボールの試合に頻繁に連れ出すようになった。そして、一緒に楽しんだ。
しばらくすると、小学校のミニバスのクラブに入り、いつも練習するようになり、バスケの面白さにハマった。
仲間もでき、それまで狼の野生の生き方にばかり気を取られ、魅了されていた雨の目を逸らさせた。
やればやるほど強くなる。山にはない面白さがある。仲間が喜んでくれる。自分を見止めてくれる。
そんな面白さにのめり込んで、雨はどんどん強くなっていった。同時に、仲間といることが好きになった。
しかし…。

「……。」

 狼としての本能は、日増しに再び雨を山へと誘い出すようになった。人として生き、また山へも通った。
年を重ねるごとに、森への誘惑に勝つことが難しくなり、雨は以前にも増してバスケに打ち込むようになった。
まるで、山からの誘惑に逆らうように。山へ引かれればひかれるほど、憑りつかれたようにバスケに向かった。
野性と、バスケ。無秩序な自由と、規則だらけのルール。まるで対極の生活が、次第に雨の日常になって行った。

(気が付けば…、僕は全中大会で優勝していた…)

なぜバスケをやるのかと聞かれた。

なぜバスケが強いのかと聞かれた。

 バスケよりも好きなことがあるから、それを忘れるためにバスケを始めた。

逃げるために始めたバスケから、僕は逃げられなくなった。





 雨は狼の姿で瞳を細めると、さっと身を翻して山を下りた。獲物を咥え、鳥居の傍に戻った。
一歩、また一歩と下る階段。狼の前足が、ふとした瞬間に人のそれに戻って、静かに階段を下って行った。
家族と祖父へのお土産に(本当は家族はいらないのに、そうしたくて)持ち帰る獲物。家族ももはやそれに慣れてしまった。
服を着て、足に靴を履いて。布袋を抱いて山を見上げた雨は、完全に人になっていた。いつもの大人しい、ひかえめな少年に。

「……。」

ふと、鳥居の向こうに広がる道の向こう側に瞳を細める。彼は…、藍堂くんは今日は来なかった。
彼が山に来たとき、正直かなり動揺した。自分の秘密を、知られるかと思った。
けれど、雨はなぜか仮の嘘で彼に付き合い、自分の本性を曝してしまった。そんなことをする義理はなかったのに。
彼が、それを犬だと思い込み狼だと気が付かなかっただけでも助かった。自分は…、どうしてあんなことを。
藍堂のことを、改めてとんでもない人だ、と思った。自分の動きに、2時間ずっとついて離れなかった。
自分が狼の姿だったとしても、2時間ずっと山の中を駆け抜けるのは不可能だ。なのに彼は…、走り続けた。

雨が野性の獲物に対して取らせるあの俊敏で予測不能な動きを、自ら藍堂に示して見せた。
逃げる側になったのは、初めてだったと思う。藍堂の追い込むような、あの動きはバスケの産物そのものだ。
彼は山の中で、それを苦も無くやってのけた。彼は本当に、本物の天才だ。自分とはちがうことは、火を見るより明らか…。


「……。」

 雨は、布袋を抱えて服の泥を払い、家へと小走りに帰って行った。
誰も知らない、狼の秘密。バスケがなければ、きっと自分は狼になってしまうだろう。
だからバスケは、雨が人であるための最後の砦だった。
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前
パスワード (記事メンテ時に使用)
コメント

   クッキー保存