ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[3782] 【長編&短編】天使が集う場所【長編05.更新】
   
日時: 2016/02/21 17:36
名前: 夜久野 鷯◆8zBdnxDwSc ID:Ga2OCQDA

 わたしは、夜久野 鷯と申します。読み方はやくのりょうです。
 のんびり更新していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。


◆  目次・連載  ◆
●トライアングル・シンフォニー
  アオミドリこと緑川碧人とその幼馴染み白亜香華、そして二人の親友、榊原橙矢。
  平和かと思われた大学生活。しかしその幻想は、三年目にして脆くも崩れ去るのだった。
  突如警察に届けられた楽譜。犯人の分からない殺人事件。だがこれはまだ、前奏曲にすぎないのだ。


>>24 序曲 栗色の髪の幼馴染み

第一楽章 奇想と情意 >>25-
>>25 01.
>>26 02.
>>27 03.
>>28 04.
>>29 05.


◆  目次・単発  ◆
>>01 鏡が歌う、時の詩は。
   − 一番幸せになれたのは誰? −
>>02 私とわたし
   − 逃避をし続けた少女の末路 −
>>06 窓辺に咲く紅葉
   − 私はきっと紅葉に似ている −
>>17 運命は突然に
   − 大切な人に迷惑をかけた女 −
>>18 Diverse Fantasy
   − 異なるいまと、まぼろしと −
>>23 影まで愛して
   − 夢を見るストーカーの物語 −


◆  目次・続物  ◆
>>22 主要人物紹介

●白河慶二シリーズ
  人の心の傷を癒す特命を神より課せられた人間、通称『天使』の慶二が主に主人公の小説。
  信じることからすべては始まる!

>>03-05 助けられてしまった女性(全三頁)
   −「ああ……どっちにしても、私は、裏切り者なんだ」−
>>07-11 殺されてしまった女性(全五頁)
   −「でも、彼女、きっと孤独だったと思うんだよなぁ」−

●原口洋成シリーズ
  裏の顔を持つ捜査一課のエリート刑事、原口が主に主人公の小説。
  もう、終わりにしましょうか。

>>12-13 月下の踊り子(全二頁)
   −「……ずっと一緒に暮らしていた恋人がいるんです」−

●姫路彩音シリーズ
  天才ピアニストの父親を持つ少女、姫路彩音が主に主人公の小説。
  ピアノは私のすべてです。

>>14-16 月の奏者(全三頁)
   −「――私は、お前の力を過信しすぎていたようだな」−
>>19-21 音の壊れたセレナーデ(全三頁)
   −「でも、殺人に関しては素人かもしれないっすよ?」−


◆  前作リンク  ◆
 戦いの戦慄よ、空に響け
  幼馴染の二人と音楽家のお嬢様が旅に出て、いろんな人と出会いながら世界を救おうとするお話。
  旋律と迷いましたが戦慄のほうがしっくりきたんで戦慄にしました。
  中二くらいの時の作品です。文章は今より酷い(特に前半部分)のであしからず!



↓御崎ヶ原学院案内マップ↓
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

Re: トライアングル・シンフォニー ( No.25 )
   
日時: 2015/12/19 22:56
名前: 夜久野 鷯◆8zBdnxDwSc ID:XCzagB1.

 第一楽章 奇想と情意

 01.

 力強いニ単調のメロディーが、指先から紡がれていく。短い旋律の中に狂おしいほどの生命の息吹を感じるのは、踊り続けなければ死んでしまう、という言い伝えを知っているからだろうか。
 最後の和音を叩き終えると、楽譜を外してアプライトピアノの蓋を閉じる。同時に溜め息にも似た声が漏れた。

「さて、と」

 呟きとともにデスクへ向かう。揃えられた二種類の楽譜のコピー。中身の見える透明な小瓶。道具を詰め込んだ黒い紙袋。必要最低限のものだけが、机の中央に置かれている。あと足りないのは、『作戦開始』の合図だけだ。
 そしてその合図も、遂に告げられようとしている。
 これから起こる未来に思いを馳せると、人知れず笑みがこぼれた。

     ♪

 新緑の木々が植えられている並木道を進むと、いつになく高揚した気分になった。僕がミサ学に入学してから早二年――今日から三年生となる。今日この日から、先輩よりも後輩の人数の方が多くなるのだ。責任、という熟語が嫌でも脳裏にこびりつく。だがそれは、けっして不快なものではなかった。
 門から入ってすぐ左側にある警備室のおじさんに小さく会釈をして、その少し奥にあるグラウンドを見やる。今日は確か野球部の学生が練習に使っているはずだ。僕の親友で香華の高校時代の同級生でもある榊くんは、野球部の三塁手、兼リリーフ投手として在籍しているから、どこかで走り込みをしているに違いない。
 僕が所属する御崎ヶ原学院の交響楽団『希響(ききょう)楽団』も、今日は早朝練習が予定されている。新一年生が入学する頃に毎回開かれる、クラブ・サークル別アピール大会で最高のパフォーマンスを行えるよう、念密な練習をするのだ。ここで彼らにサークルの特徴や雰囲気を知ってもらい、気に入ってもらえれば入部、といった流れになる。もちろんこれだけではなく、ビラを配ったり看板を作ったりなど、様々な手段を用いて一年生を『確保』するのがこの時期の使命なのだ。
 黒字に青のチェックが入ったリュックサックと、僕の愛用するチェロが収められたケースを肩に下げて、門から続く並木道をずっと進んだ先にあるコの字型の本棟へ向かう。校舎の端と端は、三階にある渡り廊下でつながっているから移動はそこまで面倒ではない。屋上には金と青の細工が美しい、大きな鐘のついた時計台がある。この鐘は、ミサ学のシンボルの一つでもある。
 時刻は六時半。僕は自宅から通っていて、さらに通学時間が電車一本三十分とかなり恵まれた環境に住んでいるので、朝練も苦ではない。春の柔らかい空気に包まれながら、どこか新鮮な気分で見慣れた校舎の階段を上り、四階東にある音楽室の扉を開いた。練習は七時からなのだが、すでに何名かの楽団員が楽器を奏でている。演奏の仕方や楽器の種類で、顔を見なくても誰が来ているかは大方予想がついた。

「おはようございます!」

 朝の挨拶とともに辺りを見渡すと、想像していた面々も笑顔で返してくれた。僕より先に来ていた人たちの中でも、特に交流の深い先輩のもとへ歩みを進める。
 文学部の四年生、藍沢麻希(あいざわ まき)先輩――毛先の跳ねたミディアムの短髪と、少し垂れ目気味の大きな瞳が特徴の、チェリストだ。僕と同じ楽器、ということで、僕が一年生の時から何かとお世話になっている。

「藍沢先輩、おはようございます」
「んー、緑川(みどりかわ)くん、おはよー」

 改めて礼をすると、気だるそうな口調で返答された。この先輩は、低血圧で朝に弱いのだ。それでも、遅刻するどころか毎回かなり早い時間から大学に来ているのだから、この先輩は恐ろしい。学業の方でも主席を狙える位置にいるとかで、初めは僕なんかが気安く話しかけていいものかどうか迷ったものだ。

「いやぁ、確保合戦も二回目となるとそこまで緊張はしないですね」確保合戦とは言うまでもなく、今日開かれるアピール大会のことだ。「まあ、希響も小規模な楽団ですし、十人入ってくれたら御の字って感じですよね」
「うん……そうねぇ」

 チェロの音出しをしながら合間に会話をする。今日演奏する予定の曲は、シベリウスの交響曲第二番の第一楽章だ。旋律が響くや否や眼前に広がるかのような雄大な自然の風景、壮麗なソナタ形式が十分ほどの間に優雅な物語を提供してくれる、シベリウスの中でもっとも有名な曲だ。
 第一楽章はホルンが目立つ構造なので、練習のためにホルン弾きの彼女ももうじき来ると思うのだが――。

「おっ、おはようございます……!」

 楕円形の眼鏡をかけたそばかすの少女がホルンケースを担いで声を出す。こげ茶色の髪をお下げにした彼女の名前は、稲岡朱音(いなおか あかね)。僕より一つ年下だ。

「おはよう、朱音ちゃん」
「おはようございます、碧人(あおと)先輩!」
「緊張してる?」
「はっ、はい。初めてだし、ホルンが主役のシーンもあるんで……」
「僕が二年だったときはね、先輩にチェリストがたくさんいたから、チェロコンをやったんだよ」

 チェロコン、とはドヴォルザークのチェロ協奏曲(コンチェルト)のことで、その名の通りチェロがメインの作品だ。僕たちが演奏したのはそれの第三楽章のロンドで、先輩たちに囲まれ冷や汗をかきながらもなんとか弾ききったのをよく覚えている。

「でも、なんとか弾ききることができた。だから、朱音ちゃんもそこまで気負うことはないと思うよ」
「……ありがとうございますっ」

 プレッシャーに押し負けそうな後輩を励まして、僕は自分のパートの演奏練習を開始した。

      ♪

「おっはよーう! アオミドリ!」

 上機嫌な香華の挨拶に振り返る間もなく、背後にすさまじい衝撃を感じて「うっ」と小さく呻き声を漏らす。咳き込みながらようやくその姿を認めると、香華の隣に僅かに顔を火照らせた榊くんも見つけた。

「おはようございます、碧人君」
「お、おはよう……香華、榊くん」

 確保合戦開始まであと一時間といったところ。先ほど全体練習を終えて、二人と合流するために校舎を出て西側のテニスコートで待っていたところだった。希響のメンバーで再び集まるのは昼休憩の後なので、しばらくはゆっくりできる、というわけだ。
 それぞれテニス、野球部に所属する香華と榊くんは、各々のユニフォームを着ている。左胸に力強い筆遣いで書かれた『忍』の文字が目立つテニスジャージ、その背中には『庭球革命』とプリントされている。一方ミサ学の野球ユニは、御崎ヶ原のMとGを組み合わせた青色のロゴが眩しい、縦縞だ。僕は普段、あまり二人のユニフォーム姿は見ないからどことなく新鮮な気分になる。
 数分間たわいもない会話をしていたが、榊くんが徐に話を切り出した。いつも以上に冷静な声色に、自然と背筋が伸びる。

「そういえば、経済学部の先輩から聞いた話なのですが、今年法学部に入学する一年生の辻村さんを、碧人君はご存知ですか?」
「つじむら……?」
「なんでも、碧人君を追いかけてきたと噂されている、辻村財閥の一人娘らしいのですが……」
「えっ、ちょっと待ってよ! アオミドリがなんでそんなお嬢様に好かれるわけ!?」
「僕も分かんないよ!」
「……本当にご存じないようですね。先輩はかなりの情報通なので、この噂も十中八九正しいと思われます。相手は令嬢とだけあって相当我儘らしいですから、碧人君も気を付けてくださいね」
「そうよ、気をつけなさい。ああいう輩はね、人食い草みたいなものなんだから」
「それは偏見だとは思うけど……榊くん、忠告ありがとう」

 僕を追いかけてきたとかいう謎の令嬢についての話はいったん終わり、今日の確保合戦で行われるパフォーマンスの話題が上った。香華はラリーのレクチャー、榊くんはビラ配りの役目が割り振られているようだ。短気な香華が、素人相手の役割を果たせるかは甚だ疑問だが、端正な顔立ちをしている榊くんが直接勧誘を行える係に就いたことについては、大いに頷ける。

「……アオミドリ、私にこの役目が務まるのかちょっと考えたでしょ」
「えっ、そんなこと、ないよー?」
「ほんとかしらねぇ」
「本当だってば!」

 二十年近く昔から繰り広げられている、僕と香華の言い争いを、榊くんが静かに微笑みながら見守っている。
 こんな平和な空間が、いつまでも――大学を卒業しても――続いたらいいな、なんて、そんな風に僕は思うのだ。
メンテ
Re: トライアングル・シンフォニー ( No.26 )
   
日時: 2015/10/31 23:57
名前: 夜久野 鷯◆8zBdnxDwSc ID:NE4doJkI

 第一楽章 奇想と情意

 02.

 メンバーを増やすべく奮闘するもの、見知らぬ世界に迷い込んでしまったかのような、不安と好奇心に魅入られた顔をするもの――桜の散りゆく御崎ヶ原学院は、様々な思惑が絡み合い、熱狂的な様相を見せていた。
 榊くんは仕事が先に入っているため、「僕は一度持ち場に戻ります」と言い残して走り去っていった。僕と香華のシフトは午後なので、することもなくぶらぶらと辺りを散策しているところだ。

「希響は、今回何を演奏するの?」
「シベリウスだよ」
「名曲じゃん。ってことは第二?」
「そう。第一楽章だけだけどね」

 香華は音楽に造詣が深い。昔は、ピアノも習っていたくらいだ。榊くんは、歌はうまいけどクラシック音楽にはあまり詳しくはないから、音楽の話をするのはたいてい二人きりになったときだ。
 バスケ部の人たちが、連続スリーポイントチャレンジを繰り広げているのを横目で見ながら、シベリウス音楽の良さについて語らっていると、前方に見覚えのある女性の姿を発見した。向こうも気が付いたようで、手を振りながら小走りにやってくる。

「やあ、久しぶりね!」

 グレーのスーツ姿の彼女は、経済学部の講師をしている灰原秋子(はいばら あきこ)先生だ。学生との距離感の近い人で、榊くんとよく親しげに話しているのを見かける。自分の教え子の試合や発表にはできる限り顔を出す、という信条があるらしく、榊くんの試合を見に行くと必ず顔を合わせるので、法学部の僕や香華でも親しみを覚えている。
 邪魔にならない程度に道の端っこに移動したところで、灰原先生が話を切り出した。

「希響、確か午後の最後の方よね。水城(みずき)さんが私のゼミ受けてるから、聴きに行くつもりなのよ」
「ああ、そういえば水城は経済でしたね」

 水城深冬(みふゆ)――コントラバスを演奏する彼女は、僕の一つ下の後輩だ。背がとても低く、なぜかいつも青のジャージ姿でクマのぬいぐるみを抱きかかえている、小学生のような子。小柄な彼女が、楽器の中でも大きい部類に入るコントラバスを殆ど完璧に弾きこなす姿を初めて見たときには、部員一同度肝を抜いたものだった。
 教え子の晴れ舞台には必ず顔を出す。やはりその信条は今年も健在のようだ。

「緑川くんのチェロも楽しみにしているわ」
「よかったね、ついでに見てもらえて」
「ちょ、香華っ!」
「ふふふ。二人は本当に仲がいいのねぇ」
「幼馴染ですからね」
「私が仲良くしてあげてるんです」

 香華の憎まれ口に苦笑しながらも、灰原先生が先ほどから何か言いたげな様子には気が付いていたので、「午前は」と口を開く。

「榊くんは、ビラ配りで奔走してますよ」
「あー、どうりで一緒にいないわけだ」
「試合観に行ってるとき以外は、あまり橙矢抜きで話しませんもんね」
「そういえばそうね。大学でこの三人だけで話すってのは、案外初めてかもしれないわね」

 その後は、あのサークルの出し物が面白かったであるとか、あの部活の新人は期待が持てるだとか、そういった話題が上っては消えた。
 十五分ほど談笑したところで、灰原先生は「イラスト同好会を見に行くから、また今度ね」と校舎内に戻っていった。
 けれど、僕たちにその「今度」が訪れることは、二度となかった。

     ♪

 その日、白亜祐一(ゆういち)は、缶コーヒーを飲みながら暫しの安寧に浸っているところだった。二週間前に起きた殺人事件を解決し、課長から「休めるうちに休んどけ」とありがたいお言葉を貰ったばかりだ。
 四十七歳――役職についていてもおかしくない年齢。ましてや、多くの事件の謎を解き、人望も厚いとなれば尚更だ。しかし、生憎白亜は出世というものに興味はなかった。
 刑事は、現場に何度も足を運ぶもの。それが白亜の理想の刑事像である。
 だから、出世の打診を受けても彼は断り続けている。そしてそんな白亜に付いた二つ名が――。

「お疲れ様です」

 白亜と同じ缶コーヒーを片手にやって来たのは、白亜の右腕的存在、景井桜花(かげい おうか)だ。彼女は二十八歳と、白亜班の中では最年少の刑事だが、ずば抜けた洞察力、冷静な対応力、無駄の少ない行動力はすでに年上の刑事たちを凌ぐ、将来有望な女性なのだ。

「ああ、景井か。お前も休んどけ。どうせまたすぐに事件が転がり込んでくるぞ」
「やめてください、不吉です」
「事実を言ったまでだ。とはいっても、重大事件を取り扱う白亜班は、当分暇を貰えるはずだ。俺も暫くぶりに家に帰るかな」
「『現場の鬼』の家庭の姿ですか。想像できませんね」
「お、言ってくれるじゃねえか」

 現場の鬼、という安直な二つ名だ。ちなみに余談だが、捜査一課には『三鬼』と呼ばれるベテラン刑事たちがいる。残りの二人は、『尋問の鬼』と『交渉の鬼』だ。いずれも齢四十を超える強者である。

「んじゃ、呼び出しくらう前にさっさと家に帰るかね」

 大あくびをしながらデスクへ戻ると、「白亜さん」と一人の刑事が声をかけてきた。荷物をまとめつつ「なんだ」と返事をすると、「これ、なんですかねえ」と大判の茶封筒を差し出してきた。
 受け取って観察してみる。差出人の名はなし。宛先は警視庁捜査一課とある。しかし何より目を引くのは、中央に大きく書かれた「GIFT」の文字だ。
 捜査一課への贈り物。嫌な予感しかしない。

「開けてみたのか?」
「いえ……ただ、中に危険物は入っていないことは確認済みです。中身は紙かと」
「紙……犯罪予告だと厄介だな」

 複数のシナリオを脳裏に描き、意を決して封を開ける。常備している使い捨ての手袋を装着して、入っていた一枚の紙を取り出す。

「楽譜……?」

 入っていたのは、コピーされた楽譜だった。音符の数がそれほど多くないことから、初心者向けの曲であることが推察されるが、曲名までは白亜には分からなかった。昔、娘がピアノを習っていたが、白亜は専ら聴くだけで、譜面を読む力はない。

「ああ……これ、『タランテラ』ですよ。ブルグミュラーの練習曲の一つだったと記憶しています」

 覗き込んできた桜花が呟く。それから、冒頭部分を口ずさんでみせた。なるほど、聴いたことがあるような曲だ、と白亜も微かな記憶を辿って頷いた。

「あと気になるのは、ところどころ楽譜に印が付けられていることでしょうか」
「ピアノの先生が教え子の楽譜に書き込みをするのは珍しいことではないが……それにしては、印を付けるには自然なマークも見受けられるな」
「しかも、よく見ると、丸で囲まれている音符と四角で囲まれている音符がありますね」
「まあ……手の込んだ悪戯だろう。犯罪予告なら、犯行声明文も同封されているはずだしな」
「それもそうですね。一応、保存しておきましょうか」

 そう言って、桜花は透明のビニール袋に封筒、楽譜をそれぞれ収めると、「失礼します」と立ち去って行った。
 心に一抹の不安を抱えながらも、白亜は「爆弾や細菌でなくてよかったな」とニヒルな笑いを浮かべて帰宅の準備を始めた。
 今夜は、久しぶりに家族で飯が食えそうだ。
 事件の予感をかき消すかのように、白亜は思考を切り替えた。

     ♪

 穏やかに響き渡る管楽器が美しく絡み合い、フィンランドの空気感を一瞬にして創り上げる。旋律をリードするホルンが、のびやかに曲を歌い上げる。風に揺れる木々のようなざわめき。弦楽器の音の背景に、木管楽器が雄大な絵画を塗り足していく。繊細に奏でられるソナタに、体育館に集まった聴衆は皆一様に息をのんでいた。
 拍が変わり、変わって幻想的な哀歌が紡ぎ出される。艶やかに震える弦が、今度は一転弾かれ、音楽全体が盛り上がりを見せる。加速した旋律を木管楽器が引き継いで、また新たな主題に移り変わっていく。
 朗々と奏でられるシベリウスは、その後第一主題を再現すると、そのまま徐々にその速さを落としていき、そよ風が遠ざかっていくかのようにごくごく小さなざわめきだけを残して、静かに幕を閉じた。
 練習以上の成果が出た。感嘆と称讃の溜息が渦巻く体育館で、僕はそう確信するのだった。
 指揮者を務めた大石一茶(おおいし いっさ)先生――文学部の准教授で、希響の顧問も務めてくれている――が、深々と一礼をすると、万雷の拍手が僕たちを出迎えてくれた。
 四階東の音楽室で別の曲目を演奏することを最後に告げて、希響楽団はその日の出番を終えた。
メンテ
Re: トライアングル・シンフォニー ( No.27 )
   
日時: 2015/11/08 14:47
名前: 夜久野 鷯◆8zBdnxDwSc ID:TqVXnvUQ

 第一楽章 奇想と情意

 03.

 昨日の熱気が嘘かのように、今日のミサ学はしんと静まり返っていた。痛いほどの沈黙。終わりの見えない静寂。息を吸うことすら躊躇わせるその空間で、僕たちはじっとしていることしかできなかった。

「私、絶対に許せない」

 ぞっとするほど冷たい声色で、香華が吐き捨てた。それきりまた、黙り込む。僕はかけるべき言葉を知らなかった。だから、やっぱり無言を貫くしかなくて。
 けれど、こんな僕らの何倍も、榊くんや水城は辛い思いをしているはずだ。
 ――事件の知らせを聞いたのは、今日の朝、家を出る直前だった。大学からの一斉メールで、事件の概略とマスコミ対応の指示が送られてきた。
 亡くなったのは、僕らとも面識がある灰原先生。服毒死らしかった。自宅のリビングで倒れているのが発見されたが、まだ自殺か他殺かは判明していない。
 けれど……灰原先生は自殺をするような人間ではない。そのことは、彼女と関わった人なら誰もが知っている。だから、きっと誰かが殺したのだ。あんなに、優しい先生を。
 あんなに、優しかった先生を。

「碧人……灰原先生、毒で死んだんだったよね」
「……そうらしいね」
「関係ないかもしれないんだけど……昨日ね、パパが帰ってきて、私に頼みごとをしたのよ」
「頼みごと?」
「そう、その内容が……」

     ♪

 テニスのレクチャーに快い汗を流し、部員獲得の確かな手応えを感じたところで、私は帰宅をした。ミサ学と自宅の通学時間は、電車一本三十分。近いから、という理由だけで選んだ大学だ。別に、アオミドリの志望校だったから、というわけではない。断じてない。
 玄関の鍵を開けたところで、私は一度足を止めた。底の擦り切れた革靴。パパが帰って来たらしい。顔を合わせるのは、果たして何週間ぶりだろうか。
 こうしてたまにしか戻ってこない父親を、幼い頃は恨んだものだ。けれど今は、パパのことを誇りに思っている。私のパパは、凶悪犯と闘うヒーローなのよ、と。

「ただいまー!」
「おかえり、香華。久しぶりだな」
「元気そうでよかったわ」

 シャツに薄手のガウンを羽織り、リビングのソファに腰を沈めていたパパは、のんびりとコーヒーを飲んでいるところだった。ポットにはまだ残っているようだったから、私もカップを取り出してその漆黒の液体を注ぎこむ。角砂糖を一つだけ落として、スプーンでかき混ぜていると、いつになく歯切れの悪い声でパパが話しかけてきた。

「そうだ、香華。タランテラって、まだ弾けるか」

 唐突に述べられたブルグミュラーの楽曲に、私は反射的に「なんで」と気の抜けた返事をした。それからようやく、パパの言った内容を理解したように、「弾けるよ」と笑って見せる。

「楽譜、どこ置いたかな……」

 中学に入ってピアノをやめて以来、ピアノはリビングの片隅で忘れられたように置かれている。たまに気が向くとアプライトピアノの蓋を開けるが、それでも毎日のように弾いていた頃と比べると、指先はだいぶ鈍ってしまっている。
 大量の楽譜が収められた箱の中から、ようやく『ブルグミュラー』の名前を見つけると、私は軽く埃を払ってページをめくった。

「懐かしいなぁ」
「どれ、ちょっと見せてくれ」

 パパが私の背中越しに譜面を覗き込んでくる。「パパ、楽譜読めるっけ?」と尋ねてみるが、返事はない。仕方がないので、私も無言で音符の列を眺める。メロディラインにつけられた赤鉛筆の跡、忘れがちなクレッシェンドをなぞった線、どれも先生が私に注意を促したものだ。

「じゃあ、さくっと弾いちゃうね」

 まずは小さく息を一つ。指先のぷっくりとした部分に、鍵盤の冷たさがじんわりと伝わってくる。
 初めは右手と左手が同種の音を奏でるが、やがてじっくりと時間をかけて和音を弾くと、そのあとは流れるようなリズムの舞曲が紡がれていく。初心者向けの曲であるけど、テクニックを持って曲に向き合うと、完成度の高い楽曲であることは明らかだ。
 高音に向かって加速していく音楽を終焉に導くと、私はもう一度息をついて振り返った。パパは、黙って立っているだけだ。

「ちょっと、弾き終わったんだけど」
「ああ、ごめんごめん。こういう曲だったんだな」
「タランテラは、実は毒蜘蛛のタランチュラとも関わりがあってね、毒蜘蛛に噛まれたときに、毒を抜くために踊り続けなきゃならない、なんて言い伝えもあるのよ」
「怖いな」
「まあ、実際のところは、町の名前が由来説が有力だったかな、確か。この辺、記憶アイマイだけど」
「そうか。ありがとう、急に無理を言ってすまなかったな」
「構わないわよ、別に。ある程度の難易度の曲なら弾けるしね」

 私はそう言って、にっこりと笑って見せた。

     ♪

「タランテラ……毒蜘蛛か」
「ピアノ習ってた頃でさえ、曲を弾いてくれなんてことは一度もなかったのよ。それを、今になってあんな風に……。多分、事件と関わりがある曲だったのかもしれない。そして、今日起こった灰原先生の……」

 それきり香華が黙り込んでしまうので、僕も思考の海にダイブをすることにした。
 けれど、僕の脳は仕事を放棄してしまったかのように、考えることを是としていなかった。

「そろそろ授業が始まるね」

 教室にいた誰かの声で、僕たちははっと我に返った。大学に来た以上、講義は真面目に受けるべきだろう。
 きっと、灰原先生もそのことを望んでいるはずだから。
 ――講師も学生も、心ここにあらず、といった様子のまま昼の休憩時間を迎えた。校内のレストランに足を運ぶと、すでに榊くんが待っていた。普段となんら変わりのない、しゅっとした容姿と知性を湛えた瞳。でも僕たちには、榊くんが心に深い傷を負っていることが分かっていた。周囲の人間に悲しみを悟らせないだけで、彼は誰よりも先生の死を悼んでいる。

「さーて、ご飯、なににしよっかな」

 つとめて明るい口調で、香華がメニューを開く。その様子を見た榊くんが、慈しむような表情で「香華さんは優しいですね」と消え入りそうな声で呟いた。

「ニュース、見ましたか」
「大まかなことは朝に」
「では、追加情報は知らないかもしれませんね。遺書が見つかっていないことから、警察は他殺の線を疑っているようです。また、先ほどネットで見た内容なので、信ぴょう性には欠けるのですが、現場には蜘蛛の絵が描かれたカードが落ちていたそうです」
「蜘蛛……ですってぇ!?」

 香華が目を見開く。僕も、きっと同じような顔をしているのだろう。
 訝しげな榊くんに、先ほど香華から聞いたことを掻い摘んで説明すると、彼は唇に指を当てて暫しの間考え込むそぶりを見せていたが、やがて重い口を開いて推察を始めた。

「おそらく、警視庁にタランテラの楽譜が届けられたのでしょう。今回の事件の、犯行予告のような意味があったのかもしれません。……確か、お父様は黙って譜面を見つめていたのでしたね?」
「ええ……」
「香華さんの楽譜には、書き込みのようなものはあったのでしょうか」
「うーん、先生が書き込んだ線や丸なら……えってかなに、疑ってるわけ?」
「いえ、けっしてそういうわけではありませんよ。さて、まだ推測の域を出ませんが、お父様は『届けられた楽譜に付いていた印は、習い事で付けられるようなものなのか』を確認したかったのではないでしょうか。もし仮に、タランテラの楽譜が犯行予告であるならば、そこにも何らかのマークがあった可能性が高いです。普通の楽譜を送っても、気づかれない確率が大きいですから」

 今のこの一瞬でこれだけの推理を組み立てるその洞察力――やはり、榊くんの頭脳は人並み外れた力を持っていることを、改めて痛感させられる。
 こんなときではあるが、僕はすっかり感心してしまった。

「楽譜が、犯行予告……そう考えると、蜘蛛のカードの謎も解ける気がするな」
「タランテラは、毒蜘蛛と関係がありますからね。もっとも、実際のところ、タランチュラには人を殺せるほどの毒はないのですが」

 そこまで話したところで、榊くんは視線を窓の外に向けた。眼鏡越しに見えるその目は、いつもの優しさを宿していなかった。

「パパは殺人犯を捕まえたばかりだから、今日は家に帰ってくるはずよ。詳しいことを聞き出せるとは思わないけど、せめて楽譜について、もう少し話を聞いてみようと思うわ」

 香華が自分自身に言い聞かせるように頷いて、僕の方をじっと見た。

「アオミドリ、先生が亡くなったの、黙って見てるだけなんて言わないわよね」
「え?」
「え? じゃないわよ。私たちも、出来ることはやりましょう」
「……僕も、また誰かを死なせるのは嫌ですからね。せめて犯人が早く捕まるように、協力できることがあればなんでもしますよ」
「捜査よ、捜査!」

 決意に満ちた香華の瞳と、同じく腹を括ったような榊くんの眼差しに気圧されるようにして、僕は一度首を縦に振った。
 一般人の僕たちだからこそ、出来ることもあるだろうと、このときはそう思っていたんだ。
メンテ
Re: トライアングル・シンフォニー ( No.28 )
   
日時: 2016/02/21 16:47
名前: 夜久野 鷯◆8zBdnxDwSc ID:Ga2OCQDA

 第一楽章 奇想と情意

 04.

 捜査、と言っても、僕たちに警察と同等の権限はもちろんなく、現状、希望は香華の父親が知っているかもしれない楽譜しかない。今日できることといえば、学生たちに灰原先生の評判を聞いて回ることくらいだが、返ってくる答えも分かり切っている。結局、始動は明日という結論に落ち着いた。
 定食を綺麗に食べ終わると、榊くんは午後の講義に、香華は自宅に、僕は練習をしに音楽室へと向かった。レストランで別れる時の言葉は、普段と何一つ違わないもので、僕に日常を取り戻させた。
 防音機能の分厚い扉を開くと、同じ法学部の一つ後輩、紺野絵里(こんの えり)が楽器ケースから銀色に照るフルートを取り出しているところだった。ドアの開閉の音に振り向いた彼女が、目を細くして「碧人先輩だにゃあ!」と駆け寄ってくる。僕よりも十センチほど背の低い後輩は、相当な変わり者であることをすでに悟ったことだろう。

「私一人だったからびっくりしたにゃあ。誰もいない音楽室に入ったのは初めてだったんにゃ」
「そっかあ。僕は結構あるけどなあ」
「そういえば、さっきピーちゃんに教えてもらったにゃ」

 紺野の言う『ピーちゃん』とは、学院付近を飛んでいる雀のことだ。紺野は、動物と会話をすることができる、という特殊能力を持っている。最初こそ信じることができなかったが、とある出来事がきっかけで、今では希響のメンバーは全員が紺野の力を認めている。

「あまり物騒なことに首は突っ込むべきじゃないにゃ。心配だにゃ……」

 よく手入れされた緑の黒髪がさらりと肩に垂れた。憂える表情を浮かべる紺野は、まるで親猫からはぐれてしまった仔猫のようだ。不安げな彼女を慰める術を、僕は知らない。あの子は、適当な言葉で納得するような性格ではないから。
 それに――紺野が心配しているのは、おそらく僕ではない。

「心配していたと伝えておくよ」
「にゃにゃっ! だ、誰に伝えるんだにゃっ。私は碧人先輩のこともちゃんと心配してるにゃ!」
「それは嬉しいね」
「白亜先輩や、榊原くんの足を引っ張っちゃダメにゃ」
「うわっ、なんて酷い」
「にゃはは」

 笑いながら、紺野が窓辺に歩いていく。それに誘われたかのように、一羽の雀がやって来た。僕には分からないが、おそらく現在、意思疎通を図っているのだろう。楽しげに雀――区別がつかないので定かではないが、ピーちゃんだと思われる――と顔を見合わせている紺野を放置して、僕もケースからチェロを取り出した。
 そろそろ、六月に開かれる定期演奏会――『紫陽花』の練習をしなくてはならない。
 予定されている曲目は、今のところ全部で三つだ。
 一つは、ベートーベンの交響曲第六番『田園』の第三から第五楽章。テンポの速く軽やかで陽気な曲調の第三楽章。雷鳴轟く嵐が訪れる第四楽章。そして、嵐が去り、美しい自然や小鳥のさえずりさえ聴こえてくるかのような、牧歌的な旋律の第五楽章で締めくくられる。
 二つ目は、チャイコフスキーの交響曲第六番『悲愴』の第一から第三楽章。陰鬱なメロディーが続く第一楽章と、穏やかになるもののやはり暗さを隠しきれない第二楽章。しかし第三楽章は打って変わって明るく力強い雰囲気で、勇ましく立ち上がっていくようなラストを堪能できる。
 三つ目は、シューマンの交響曲第一番『春』。最後の第四楽章までを奏で上げる。春の穏やかさや不安といった感情を音が、咲き乱れる花の色香や鳥たちの戯れる情景を曲調がそれぞれ表現しているようで、僕の好きな曲の一つでもある。
 外界の音を一切遮断するこの音楽室は、ある種の異世界と言っても過言ではない。この空間に存在するのは、名の通り音楽のみ。先ほどまで僕を取り巻いていた、あの心の痛みや得体の知れない恐怖感も、今だけは、忘れられるような気がした。
 だってこの場所は、特別なのだから。

     ♪

 言語というものは不思議なものだ。同じ言葉でありながら、地域によってまったく異なる意味合いになることもある。まさしく、神秘。
 きっと彼らは気づいていないだろう。あの文字に隠された、真の意味に。
 だから、恐怖を持って教えてあげることにする。
 ここからが、本当の悲劇の幕開けだ。

     ♪

 事件から一夜明けたせいか、門の付近で待ち構えているマスコミの数はかなり減っていた。時は進み続ける。生きている僕たちに、ずっと同じところで立ち止まり続けることは許されていない。

「にしても、香華と一緒に通学するのは久しぶりな気がするな」
「朝練の時間が被っただけでしょ」
「そうだけどね。でも、懐かしいなって思って。なんか嬉しいなあ」
「アオミドリ、気持ち悪い」

 呆れた口調で首を振る香華に、一瞬苦笑させられるが、彼女の表情に浮かんでいるのは言葉とは正反対のものだった。この天邪鬼さには、散々苦労させられてきたものだ。

「今日は門の辺りが空いているね」

 ほんの数日前まで、所詮は他人事でしかなかった殺人という行為が今は我が身のように思われる。無くならない罪に思いを馳せる、というよりは、残された家族や友人の心情に胸が痛くなる、といった感じだ。

「カメラマンが少ないのは、多分、都心で強盗殺人事件があったからね。犯人、人質とって立て籠もってるらしいじゃない。そっちに人員を割いているんでしょうね。ってか、それくらい予測しなさいよ。朝、大騒ぎだったじゃない」

 無知な僕を嘲るように大きな溜息を一つ。予測ができなかったわけではない。僕はそもそも、その事件を知らなかったのだ。
 そう弁明すると、いよいよ香華は右の口角だけを上げてそれきり沈黙した。
 今後の対応に困っていると、救世主が縦縞を着て現れた。

「おはようございます。今日は、お二人揃っての通学なのですね」
「おはよう榊くん! いや、メシア!」
「え……?」

 僕の台詞に困惑した様子で微笑んだ榊くんに、続いて香華も言葉を投げかけた。

「おはよう、榊原。この時間ってことは、やっぱり朝練?」
「ええ。新入生への対応に追われる週では、午後の活動はあまり見込めませんからね。朝のうちに体を仕上げておかないと、鈍ってしまいます」
「わあーお、榊原ストイックぅ」
「けれど、そういうお二人も朝練のために早く来たのですよね?」
「あはは、まあね。じゃ、僕たちは行くよ。またお昼にね」

 手を振ると、榊くんも軽く右手の指先を動かして別れのしぐさを見せた。イケメンはなにをしても様になるからずるい。
 ミサ学シンボルの時計台が六時半を指している。当然音は漏れ聞こえてなどこないが、すでに何人か楽団員が来ていることは、長年の経験から導き出される。
 テニスコート付近で香華と別れると、僕は少しだけ足取りを速めた。
 ――防音扉を開くと、「ようやく来たか、緑川」と男勝りなトロンボーン奏者、草笛友里(くさぶえ ゆり)先輩が歩み寄ってきた。袖の曲げられた白のシャツに、飾りのネクタイ、銀色のシャドーラインが薄く入った黒のベストに、タイトなスラックス。紳士然とした服装を自然に着こなす先輩だが、髪型はダークブラウンで毛先が外側に跳ねまくっている短髪、目つきは鋭くシャープな輪郭、とこちらは打って変わってどこかのヤンキーのお兄ちゃんのように見える。
 性格も男性的でさばさばしているので、楽団の女子部員から絶大な人気を誇っている。バレンタインのチョコの数は毎年トップで、中には本命のようなものもちらほらと……。

「いいか、よく聞けよ。俺は一度しか言わねえからな」
「はい」
「昨日、緑川が帰宅してすぐ、ほとんど入れ違いで、辻村っていう新入生が見学に来た。お前のことを追って来たらしい。かなりの金持ちみたいだが、心当たりはあるか」

 草笛先輩の話に、思い当たる節を見つけた。先日、榊くんからお嬢様のことを聞いたばかりだ。

「僕自身は、その子について全然知らないんですけど……」
「そうか。昨日、緑川はもう帰ったと伝えても初めはまったく信じてもらえなくてな。俺はああいうタイプの人間は、正直得意ではないから最後は麻希に丸投げしてしまったんだが……ともかくだ、気を付けろ。あいつ、かなり我儘だからな」
「分かりました。ありがとうございます」
「いや、礼には及ばないよ」

 にやりと草笛先輩は笑って、楽譜を立ててある場所に戻っていった。
 辻村というお嬢様――厄介なことになってしまったようだ。
メンテ
Re: トライアングル・シンフォニー ( No.29 )
   
日時: 2016/02/21 17:36
名前: 夜久野 鷯◆8zBdnxDwSc ID:Ga2OCQDA

 第一楽章 奇想と情意

 05.

 がちゃり、と乱暴な音を立てて開かれた防音扉の先を見やると、見覚えのない女性が侵入してきた。
 縦巻の茶髪ロング、ドイツの民族衣装のようなワンピース、人形のように精巧で気の強そうな顔立ち――その正体を察して草笛先輩に視線を投げかけると、あからさまな嫌悪感が目に飛び込んできたためぎょっとして楽器に焦点を戻した。
 時刻は七時四十分、楽団員の中心人物たちがそろったところで、いったん通しの練習をしようか、と集合をかけた矢先の出来事だった。

「ようやく……ようやく見つけましたわ!」

 真っ直ぐに僕を見据える瞳に気圧される。ここで、「誰ですか」なんて言おうものなら、緑川碧人・享年二十一歳(死因:眼光)なんてことになりかねないので、残された数秒で彼女を思い出すことに専念したが、努力も虚しく答えを導き出す前に逃げ道を絶たれた。

「忘れたなんて言わせない」

 熱気渦巻く音楽室のサーモが青くなる。辻村とかいう彼女、香華も知らなかったようだから、出会ったとすれば香華と離れた高校時代なはずだが、生憎僕にそんなお嬢様との思い出は存在しない。
 リボンで絞られたウェストに細い手を当てて僕を睨みつけてくる彼女に、ひとまず声をかける。

「つ、辻村さん、だよね」
「ええ。下の名前は覚えている? 緑川碧人君」

 僕の世界が終わる音が、確かに聞こえて。
 どうして、榊くんからフルネームを教えてもらわなかったのだろう。
 もう、無駄な足掻きは却って逆効果であることを肌で感じ、正直に告白することにした。

「ごめん……あの、まず、どこで会ったんだっけ……」

 天を見上げる藍沢先輩の姿を視界の端に捉えながら、歯切れの悪い言葉をぶつけると、辻村さんの顔が人形から能面に変わった。
 それは禁句にゃ……という紺野のささやきが、脳天に沁みた。

「そう……忘れたのね」

 映画女優のような呟きが、音楽室に木霊した。彼女は俯き、暫し黙っていたが、やがて顔を上げると、

「なら、いいわ。その代わり、わたくしに新しい思い出をくださる?」
「……えっ」
「こう見えても、わたくし、ヴァイオリンを嗜んでおりますの。お見受けしたところ、希響は弦楽五部も構成に入っているようですし」
「あ、ああ、うん。僕もチェロだしね」
「わたくしの名前は、辻村紫音。どうぞ、よろしくお願いいたしますわ」

 確かに高飛車なお嬢様ではあるが、話に聞いていたよりは、素直でいい子なのかもしれない、というのが、この時の僕の印象だった。
 紫音ちゃんの加入によって、僕個人にあらぬ方向から火の粉が飛び散ることになるのだが、それはまた、別の話だ。

     ♪

 空はよく晴れ渡っていた。例によって、香華、榊くんと学食で待ち合わせをしていた僕は、窓の外を見やりながら大きく欠伸をした。

「あの」

 かけられた声に振り向くと、見知らぬ青年が立っていた。体格がよく、人懐っこそうな表情を浮かべて、僕と目が合うとぺこりと頭を下げた。

「俺、元木大地(もとき だいち)って言います。野球部の、榊原先輩の後輩です。二年生です」
「ああ、外野手の子だよね。去年、榊くんが高校以来の緊急登板をしたときに助けてもらったって、話を聞いてる」
「本当ですか! それは嬉しいです。ところで、あの、その榊原先輩のことなんですけど」
「うん?」
「人前では元気に振舞っていて、俺らも大丈夫だって思ってたんですけど、さっき、ものすごい暗い表情してるの見ちゃって……やっぱり、結構、ダメージ食らってるみたいです。でも、後輩の俺らにできることなんてないし、ここは友人の緑川先輩に頼むしかないかなって」
「それにしても、よく、僕のこと知ってたね」
「野球の試合、ほとんど欠かさずに見に来てくれる方の名前くらいは、把握してますよ」
「それはすごい。これからは、元木くんのことも応援するよ」
「ありがとうございます。榊原先輩のこと、気を付けててください。お願いします!」

 元木くんはもう一度頭を下げると、少し離れた席に座っていた友人と合流したようだった。
 紺野に、元木くん。榊くんの後輩からの信頼は、とても厚いようだ。……もっとも、紺野は榊くんのことを「榊原くん」と、敬称を付けずに呼んでいるから、尊敬をしているかと問われると微妙な気もするけど。
 後輩からのお願いを承諾した数分後に、香華と榊くんはそろって席に着いた。

「朝ぶりですね」

 ふわりと笑って眼鏡を押し上げる榊くんは、やっぱりいつもの彼だ。
 頼まれたはいいが、僕にできることなど、こうしてだらだらと会話を続けることくらいで。
 どうすれば、榊くんの心の闇を振り払うことができるんだろう。

「今日は何を食べようかなぁ。アオミドリ、おすすめは?」
「えっとー、今日のランチAがおいしそうだったよ」
「そう。じゃあ、ランチBにするわ」

 ……香華は平常運転だ。
 僕らのやり取りを、榊くんはにこにこと眺めている。まるで保護者のようだ。

「では僕は、碧人君の言うランチAにします」
「じゃあ、ランチAが二つとBが一つだね」
「ええ。行くわよ! せーの!」

 香華の掛け声と同時に、僕はグーを出す。香華がパーで、榊くんは僕と同じくグーだ。
 僕たち三人は、グーとパーを出して一人になった方が席に残り荷物番をし、ペアができた方が三人分のランチを運ぶ、という独自のルールを決めている。
 今回は、僕と榊くんがペアになった。

「じゃあ、香華、あとで請求するから、待っててねー」

 香華に手を振って、にぎわっているカウンター前の行列の後ろに付いた。
 並んでいる間に、僕は今朝の出来事を報告した。

「あ、そうだ。紫音ちゃん……あ、辻村さんのことね。希響に入団することになったよ」
「そうですか。それは良かった……と言って構いませんか?」
「うん。ちょっと……かなり棘のある子だけど、意外にいい子みたいだし」

 他にも紫音ちゃんについての印象を語ると、榊くんは頷きながら、

「それは良かったですね。ところで、彼女は碧人君のことを昔から知っているようでしたが、やはり実際に会ってみても、心当たりは本当になかったのですね?」
「申し訳ないけど、全然分からないままだ」
「不思議なこともあるものですね」

 数分後、僕たちはテーブルでランチに舌鼓を打っていた。ちなみに、ランチAは唐揚げ、Bは麻婆豆腐だ。
 捜査の方は、香華がまだ探りを入れられていないようなので、一時休止、ということになっている。

「あ、そうだ。榊くん、紺野が心配してたよ」
「絵里さんが?」
「うん。ピーちゃんから、いろいろ聞いたみたいだ」
「……彼女には何でも筒抜けですからね。恐ろしい子です」
「あと紺野曰く、榊くんの周りには妖精さんがたくさん飛んでいるらしい」

 僕の言葉に、香華は苦笑いを浮かべつつ、

「私には信じられないけどねぇ。まあでも、警戒心の強い野良猫が一発で懐くあたり、榊原は何かしらの力があるのかもしれないわね」
「どうなんでしょう。妖精さんなるものの姿が見えない以上、完全に信じるというのは難しい話ですよね。ただ、絵里さんはとても優しい人ですから、その言葉も嘘ではないと思いますよ」
「榊原は真面目で硬いと思ってたけど、こういうとこ意外に頭柔らかいからなあ」
「意外にってなんですか、意外にって」

 和気藹々と話をする僕たちは、当然、新しい封筒が届けられたことなど、知るはずもなかった。

     ♪

「PRZEZNACZENIEか。英語ではないよな」

 白亜は、茶封筒に書かれた文字を読み上げて、左右に首を振った。
 その様子を見た桜花はすかさず、「ポーランド語でした」と説明をする。

「意味は」
「運命、でした」

 白亜は天を仰ぎ、深く溜息をついた。
 封筒や、中に入っていた楽譜の鑑識は終わったが、めぼしい証拠は出てこなかった。ただ、前回同様楽譜には印が書かれており、その数も曲が長くなった分増えている。
 娘の香華にタランテラを弾かせる、という建前で楽譜を覗き見たのだが、付けられた印は音符ではなく音符の下の数学的な記号や、ちょっと特別な感じのする音符にばかりあり、送られてきたもののように無作為に書かれたような印象はなかった。
 この丸や四角で囲まれたものは、何らかのトリックを示しているのか、それとも――。

「それよりも、どうしてポーランドなんだ? 前回は英語だったのに」
「今回送られた楽譜は、ショパンの『葬送行進曲』でした」
「不吉な名前だ」
「ええ。注目すべきは、ショパンがポーランドの作曲家だ、ということです」

 桜花は、後ろで一つに束ねた黒髪を触りつつ、続きを話した。

「そこで私は、前回のブルグミュラーについても調べてみました。彼は、ドイツの作曲家であることが分かりました」
「ということは、「GIFT」もドイツ語……ということなのか?」
「ええ。少々疑問に思い、こちらも調べてみたところ……確かに、ドイツ語でもありました」
「意味は」
「……毒、でした」

 白亜は目を見開き、桜花の顔を窺う。彼女は黙って、スマートフォンの検索画面を見せた。
 翻訳によると、確かに、ドイツ語で「GIFT」は毒の意味だ。

「犯人はなにが目的なんでしょう。タランテラ……毒蜘蛛……封筒に書かれた文字……現場から発見されたカード……」
「愉快犯、と決めつけるには尚早かもしれんな。それに毒、というのは被害者、灰原さんの死因でもある。今回の文字は運命。まるで、誰かが運命によって殺される、とでも言いたいようだ」
「犯人の足取りはおろか、目星すら付いていません。どうしますか」
「音楽の知識があるやつはいるか」

 白亜は不意に、そんな言葉を口走った。いるかどうかなど、白亜班のトップである彼自身が一番理解しているはずなのに。
 案の定、白亜はすぐに唸りながら首を振ると、「一か八かだが……娘に、見せてみようと思う。ピアノを長くやっていたあいつなら、何か、気づくことがあるかもしれない」と小声で言った。

「でも……」
「白亜班の三つの基本、覚えているか」
「え、ああ……個人的な判断はしない、容疑者・被害者のことは敬称で呼ぶ、間違いはすぐに認めて白亜さんに報告する……でしたよね」
「そうだ。俺もその基本は守る。だから、お前の判断を仰ぎたい」

 白亜は真っ直ぐに、桜花を見つめた。
 長年現場の第一線で活躍を続けた白亜と、女性ながらキャリアの道を進み、一課の白亜班で経験を積んでいる桜花。
 年は十九も離れているが、築き上げた信頼関係は、すでにベテランコンビを凌ぐ勢いだ。

「では、私の意見を言わせていただきます。素人の方を捜査に巻き込む、というのは、やはり歓迎すべきことではないかと思います。しかし、御嬢さんが通われている大学は、被害者の勤め先でもありました。その点では、すでに、御嬢さんは事件に関わっている、と考えることもできます。よって、捜査協力を仰ぐのは、間違いではないと思います」

 桜花の言葉に、白亜はにやりと笑って、「百点だ」と肩を叩くと、保存された楽譜の写真を撮り、一度だけ頷いた。
 まだ連続殺人と決まったわけではない今回の事件に動員されている捜査員は少ない。白亜班も、正式に捜査を命令されているわけではない。
 現段階では自由に動ける彼らは、束の間の休息を得ている状態、というわけだ。

「今は……ちょうど昼時か。景井、ランチに付き合え」
「それは業務命令ですか」
「そうだ」
「御意」
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前
パスワード (記事メンテ時に使用)
コメント

   クッキー保存