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[3709] 毒殺ディアンドル裁判
日時: 2015/09/23 00:50
名前: 有理数 ID:F8ZzUBIk



1.手葬 Firefly's Handcuff >>1-4

2.あなたの湖 >>5

3.パラフィリア徘徊 >>6

4.ブックカバー・ハートビート >>7

5.アノマリア奇譚 >>8

6.ステイヒア・ゴースト >>9


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メンテ

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あなたの湖 ( No.5 )
日時: 2013/05/03 21:16
名前: 有理数 ID:LKOrmCts

 あなたはお昼寝が好きなのですねと、私の耳を撫でる彼女の指先をよく覚えている。その爪の先が私をまさぐろうとすると、その向こう側にあるべきではない事実が見え隠れしてしまいそうで怖かった。冷たい、そして柔らかく、それなのに妙に艶めかしいその指は私の至る所を撫で続ける。私はそれを静かに受け入れ彼女の膝枕に頭を宛がう。どうなる、どうしたいなんて言葉は無用で、部屋に二人きりで、静かに過ごしていることが好きだっただけ。彼女が誰かなんてことはどうでもいいのだった。





 失恋の痛みはきっとそこらに転がっているナイフよりも痛くて苦しいもの。そんな風な歌を歌うあのシンガーは嘘吐きで、この歌詞が感動するんだって私にイヤホンを突き付けたあの友人たちも同じように嘘吐きだった。私の中にあった失恋の痛みは刃物なんかではなく、それはまさしく湖に叩きつけられた大きな石だったのだ。森の奥の、動物一人暮らさないような湖。人は誰も住まず、自然現象も起きない静寂の湖。絶海の水分。私の心は誰にも侵されることのない聖なる場所で、誰も入ってこないから、何も起こらないから湖の水面はいつだって冷徹に平静を装った。
 そこに誰かがやってきた。それが私の片思いの相手で、私の湖に初めて手を触れた人だった。なぜ好きになったのかなんてわからなかったけど、なぜ、どうしてを説明できるような恋愛をしていたつもりもなくて、さりげない優しさが好きだとか、時折見せる顔が好きとか、そんな誰にでも言えるような安い一言で紡がれる恋物語を自分で演じたいなんて思わなかった。どうして好きなのかわからない。その程度の、少しばかりがむしゃらの心理こそが恋愛のちょうどいい温度。友人たちに共感されない、小さな小さな私の恋愛観だった。
 そこにやってきた彼は私の湖の水に手を入れ、少しばかり横に撫でた。当然波紋は広がった。ゆっくりゆっくり。今までそうやって湖を揺らす相手はいなかったんだと私は思った。揺れなかったから、揺れなかったのである。そこに彼は侵入してきてしまった。しかしながら、私は『彼の湖』に行くことはできなかった。私の湖は揺れ動いていたというのに、彼は別の女の子と共にその物語を始めたのだった。結局のところ、私は彼の横顔ばかりを見つめているだけで、特に込み入った話などしなかったというのに情けない。だから私の失恋は、刃物で刺された気分ではなかった。揺れるだけ揺れて、結局私は相手を揺らすことが出来なかっただけ。勝負に出ていないし賭けもしていない、望みがあるかもという段階にすら達していない。砂時計をひっくり返す前のような静止した恋物語を必死で朗読する私、そして、それが聞こえなかったために別の女の子と談笑に花を咲かせる彼。見事な構図で、同時に私は無様であった。惨め。矮小。これがナイフの痛みなわけがない。言うなれば圧倒的な敗北で、空は晴れ渡っているのに雨に濡れた気分だ。傘を差したのに傘の内側から雨が降っているような気分。びしょ濡れだ。私のイメージは完全にそれと一致した。湖に投げ入れられた大きな石が水飛沫を上げ、私はそれを思いきり被った。それだけのことである。
 失恋したとわかって帰宅すると、部屋に着物を着た女の人が座っていた。私より少し年上のような風貌だが非常に美人で、黒髪で、恐ろしいほどに可愛らしい笑顔だった。なぜ私の部屋に見知らぬ人がいるのだろう。そう考えながらもあまりに自然体で床に座っている彼女に大きな声を上げる気にはなれなかった。私は鞄を置いて彼女を見下ろし、いろいろと浮かんだ疑問を消化しようと声を掛ける。
「あなた、人の部屋で何をしているんですか」
「ここは私の部屋ですよ」
「いや、私の部屋ですけど……」
「ここはあなたの部屋であり、私の部屋なのです」
 意味がわからない。いつから私はこのような綺麗な住人と同居していたというのだ。というか同居してたんならさすがに気付くだろうし、顔に見覚えもないし。私は顎を撫でて唸った。とりあえずいくつか質問を飛ばしてみるが彼女は曖昧な答えばかり。どれもこれも彼女の本質に近づけるものではなかった。さらにはどうも私も悪い気持ちがしなかったのか、彼女と話しているうちに少しずつ打ち解けてしまっていたのである。会話の応酬の中にはささやかな軽やかさと好感触を抱く花のような香り。ここにあなたはいていいのかもしれない、と私が思って口に出すより前に、完全に彼女はこの部屋の住人のような佇まいをしていた。不思議なものだ。まだ出会って数分だというのに他人という気がしない。そう言われてみれば彼女がずっとこの部屋にいたような、そしてこの部屋にいるのがあるべき姿のような心地もしてきている。これは私がどうかしているのだった。おかしすぎる。初対面の女性だというのに、失恋で頭がおかしくなってしまったのだろうか。もう考えるのも面倒になってきた。ただでさえ心身共に疲れ切っているというのに。
「それより、私は晩御飯まで寝るから」
「では、私の膝をどうぞ」
「は?」
「いや、その方が喜ぶと言われました」
「誰に?」
「誰かさんにです」
 私にとってはあなたも『誰か』状態なのだが、という質問は喉の奥で泡となって消えた。私はすでに立ち上がってベッドに向かおうとしていた足を止め、彼女の脚に目を向ける。着物で包まれたそれはふんわりとしているのが見て取れ、確かにそこに頭を預けると気持ちいいのではないか、と私の中の私が囁いた。少なくとも枕よりは心地がいいのかもしれない、とまだ囁く。見ず知らずの相手に膝枕されるというのはなんともおかしなことだが、しかし目の前の彼女はすでに『見ず知らず』というレベルではなく、そんなつもりで対応する私もいる。まるで仲のいい友人のようだ。まだ数言しかやり取りをしていないというのにだ。
 結局、私はお言葉に甘えて、彼女の膝枕にお世話になってしまった。
 やっぱり私、頭おかしくなったのか。





 耳掃除をしてもらうみたいな形を取って膝枕をされると、少し慣れない雰囲気に私は動揺する。お母さんとは違う。それでも少し目を瞑って眠れ眠れと自己暗示をかけると、まるで雲の中で柔らかな気持ちよさに溺れているようだと思うようになってきた。心地よい。形容詞はそれほど多く持っていない私のボキャブラリー帳が悲鳴を上げる。じわじわと沁みてくるような眠気が差してくる頃合い、耳に何かが触れた。
「……」
「…………」
 私は体を起こした。キョトンと瞬く彼女に溜め息を吐きつつ申し出る。
「……あの『  』さん」
「はい」
「耳をふにふにするの、やめてほしいんだけど」
「あらら、可愛らしい耳ですのに」
「寝にくいよ」
「でも、気持ち良いって誰かさんが」
「誰かさんって誰なのよ」
「でも柔らかくて、触っている私の方が気持ちいいのですよ」
「……ほどほどにしてよね」
 私は再び膝枕に頭を乗せた。
 正直に言えば、耳を触られるのはくすぐったいけれど、もう少しばかり奥深いようなくすぐったさがあった。心地よいのだろうか。歯がゆいと言えばいいのだろうか。よくわからない。ほどほどにしてと言った私の忠告は聞かなかったのか、目を閉じているというのに彼女は指で私の耳を撫でてきた。輪郭をなぞるように、くぼみに這わせるように。耳たぶを摘ままれ、端っこを摘ままれ。やりたい放題である。こんなんじゃ眠れるはずがない……。時折頭上から「可愛い」とか「おお」というような感嘆する声まで降ってくる始末。いったい何しに来たのだ。あなたは何者なのだ。なぜ私の部屋にいるのか。そしてどうしてこんなに親しみやすいのか。聞きたいことは山ほどあるというのに何を能天気な――。
 質問を羅列して数えているうちに、私は微睡の中に沈んでしまった。





「おはようございます」
 ゆっくりと起き上がった私の後ろから声がする。振り返ると彼女が座っていて、眠る前と同じにこやかな笑顔で私を見ていた。膝枕から起き上がると後ろ側になってしまうのか、というどうでもいい分析をしてしまった私の視界の端に映った時計。それはどう見ても夜を差していた。私は晩御飯を食べていない。
「どうして起こしてくれなかったのよ」
「だって、あまりにも気持ちよさそうに眠ってらっしゃるので」
「……にしたって、お母さんが呼びに来なかった? この時間ならとっくに晩御飯食べ終わってるはずなのに」
「確かに呼びに来ましたが、起こしませんでした」
「……お母さん、あなたの姿を見たの?」
「はい」
「お母さんは、あなたを見て何とも思わなかったの? 何も言わなかったの?」
「特には。お母様はこの部屋に来られましたが、私が『御覧のように気持ちよさそうに寝ていますよ』と言ったら『そうなの、なら起こしちゃ悪いわね』と一階に下りて行ってしまいました」
 そんな馬鹿な。私は何か言おうと思って口を開きかけるのに、喉の奥が路頭に迷ってぱくぱくするだけになってしまった。この女性はいったい何者なのか私にはわかっていない。帰宅した私の部屋に座っていた着物を着ている女性。それだけだ。確かに話してみると随分と親しみやすい気もするし、『元々からそうだった』と思わせるような不思議な雰囲気を持っている。しかしそれを抜きにして一切素性は知れず、意味不明の塊のような女性である。そんな女性に――お母さんにとって初対面のはずの彼女に膝枕されて寝ている私を見て、何も思わなかったのだろうか。なら仕方ないと思う要素がどこにある? 私にはわからない。
 私は女性を部屋に放り置いて一階に下りた。お母さんは夜勤のためにすでに家を出ていて、テーブルの上には美味しそうながらも寂しげに置かれたいくつかの食事、そしてメモがある。どうせ温めて食べておいてね、という程度のメモかと思ったが何やら分量が多い。文章の途中に『あの女性』という文字があることに気付いた私はすぐさまメモを手に取り、普段の読書の何倍以上かの速度で読み進めた。
『夜勤に行っていきます。起きたら温めて食べておいてね。それと突然のことで驚いているかもしれないけれど、あなたの部屋にいるあの女性は、あなたそのものです。言うなれば神様のようなものです。私の家系の人間がこれでもかというほど嫌な思いをすると現れて、あなたにとって安らぐことをしてくれます。あなたの嫌な気持ちも慰めてくれます。だから安心して身を任せてください。では行ってきます。母より』





「あなた、神様なのね」
「そう呼ばれてはいますが」
 部屋に戻るなりそう言うと、『  』さんは頬をポリポリと掻いてそう返した。何を照れることがあろうか神様のくせに。私はデザートですよーと置かれていたチョコレートをパキパキ食べながらベッドに座る。甘い。しかし私は彼女のことをどう呼称した? 今、あなたとは呼んだ。しかし今頭の中で名前を読んだような気がする。『  』さん。『  』さん。なぜだ。頭の中でそれを発しているのに、自分で理解できない。先ほど耳を撫でられたのに反抗した時も、口に出して呼んだ。しかしそれを自分で認識できない。空白だ。なるほどその辺りが神様なのか、と私はチョコレートの銀紙を捲りながら考えた。しかし名前を呼んでいるのに自分で認識できないというのは随分不便なものだ。ちょっと頭が混乱する。
「で、私が嫌な思いをしたから現れたと」
「らしいですねえ。こういうのは私の意志で出てこれるものじゃないです」
「え、違うの?」
「ですから、あなたが絶望なり挫折なりしないと出てこないんですよ。私が出ようと思って出てこれるものじゃなく、あなた次第と言いますか。何かあったんじゃないですか?」
 私はチョコレートを口の中で噛み砕く。
 絶望、挫折、か。
 それほど大きなものではないと思ってたけど、そんなに私はダメージを食らったのだろうか。私の中の湖に手を突っ込んだ彼が、別の物語を歩み始めて、私はそれを遠くから見つめざるを得なくなっただけで。刃物で切られるような痛みもなかったし、大きく揺れに揺れる波紋を呼び起こす大きな石を投げいれられた程度で、今はそれほど湖も揺れ動いているつもりもないのにな。私はチョコレートを持っていない片方の手で前髪を触りながら、小さく小さく彼女に言った。
「えっと、その……失恋した」
 口に出すということはそれに実体を与えるということだと聞いたことがある。私はチョコレートの甘さのことばかりを考えるようにした。甘い。しかし実体を与えられ、言葉、音声として現れた『失恋』という文字は少しずつ私の耳に入ってこようとする。甘い甘い、と考えてその音たちを排斥しようも無駄、その言葉はじわじわと水が染み入ってくるように私の中に浸食を始めた。なるほどこれは辛い。言葉として実感すると、またしても私の中の湖が少しずつ揺れ動く。誰も手を突っ込んでいないし石も投げいれられていないのに、私自身が揺れ動かしてしまっている。
「失恋ですか、なんとお若い」
「あなたも若いじゃない」
「いえいえ、私は神みたいなものなのですよ。若いわけがないでしょう」
「でも、外見は」
「女は化粧でいくらでも」
「神が化粧って」
「嘘です」
「嘘か、安心。私の中の神様のイメージが崩れかけた」
「化粧も崩れ、イメージも崩れ」
「洒落にならない」
「まあ、歳は取らないのです。外見だけだと二十歳くらいでしょうかねえ」
「ほら若い」
「あなたは女学生では?」
「まあ、うん」
 女学生って言い方が微妙に引っかかるけれど、まあ神様なんだし時代錯誤もあるだろう。というよりも話が脱線しすぎだ。神様が出てくる=私が絶望なり挫折なりした。何があったのか? 失恋した。という流れだったのにいつから外見や身なりの話になったのか。
「しかし失恋ですか。それはまあ、辛かったでしょうね」
 そうはいっても、私はそこまで辛い感じはないのだけど。だって彼とは仲が良かったわけじゃないのだから。元々私の隣にいてくれる人だったわけじゃないんだし、自分の手元から零れ落ちて行ったわけでもない。それなのにどうして辛いと思えることができようか。実際今もチョコレートを食べている。失恋した女子がする行動としては随分とそぐわないような気もする。もうちょっと泣き寝入りするとか、そういう然るべき態度というものがあるとは思うけどそんな空気も心向きもない。単純に、彼が別の女の子と手を取り合って歩みだしたのを後方で見送っただけである。チョコレートを食べて何が悪いのか。
 あまり辛いという感じはない、と伝えると彼女は首を傾げた。
「しかしながら、私はあなたがこれ以上ないほど絶望しなければ姿は見えないはずなんですけどねえ」
「何かの間違いじゃないの」
「間違いではありません。あなたの心なんて知るわけがないでしょう。いいですか、私の姿が見える見えないは私自身では司ることが出来ません。あなたが絶望しなければ見えない。それだけです。ですから、あなたが私の姿を見ているということは、あなたが絶望しているということなのですよ」
「…………」
 意味の分からない因果関係だ。私は私の歯で折り取られたチョコレートの端っこを見つめる。
 間違いではなく、彼女は私が絶望したから見えるようになった。見えるということは私が絶望していること。では何に――そう考えると、私は失恋したから絶望したということになるけど。それほど自分では実感していない。チョコレートを食べ終えて、銀紙を丸く潰してゴミ箱に投げる。適当に投げたからか銀紙はゴミ箱から大きく外れてしまった。だけど入れ直すことはせず、床に転がったそれを見つめながらポツリと呟いた。
「……やっぱり、絶望なんて大層な気持ちにはなってないよ」
「あらら、おかしいですねえ」
「いつまでいるの、あなたは」
「さあ、消える時まで」
「……私、もう寝るよ。さっきも寝たけど」
 時刻はもう明日になりそうだ。
「では、どうぞ」
「えっ、また膝枕?」
「はい。それが役目ですので」
「意味が分からん……」
 私は文句を垂れ流したけど、ベッドの上で正座する彼女にまたしても私は頭を預けてしまった。なぜかはわからない。不思議な感覚なんてものを信じたいなんて思わないし、まだ神様だのなんだのなんてことを信じたいわけじゃない。でも、私は受け入れてしまっている。見知らぬ人がここにいることを、あなたが神様であることを、今までここにいたことを。私は目を閉じた。枕の無機質な柔らかさとは違った、温もりのある優しいものが私を包んでいるようだった。
 今日は、少し寝すぎ。
 だけど、ずっと眠っていられそうだと思った。
 甘かったはずのチョコレートが、口の中で苦味に変わっていくのを感じながら。





 次の日学校に行くと、彼と彼女の物語は話題になっていた。私にはありがたいことにそれなりに友達がいて、朝は机に寄ってたかって窓の外を見つめるようにしながら話題に盛り上がる。宿題のことや授業のこと、体育のことや今日はあの日だとか。それらに当たり障りなく笑って、私も笑っていたけど、友達がそういえば彼と彼女、両想いで付き合い始めたらしいよと言った。私は一瞬、自分の笑顔が消えていやしないかと冷や冷やした。しまった、湖が揺らぎそう。必死で隠せ、森を増やせと心がざわめくのである。
 私の恋心は友達一人として悟られていない。この恋心は私だけのものであった。私以外には知る由もなく、可能性に思い当たる人など誰もいないだろう。だからこそ彼女たちは何の悪意もなく、彼と彼女の恋物語や噂や目撃談を煌びやかな瞳を持って延々と語りだすのだ。二人が手を繋いでいたとか、ジュースを回し飲みしていたとか、学校の裏で口づけを交わしていたとか。
 悟られてはならない。もし私の恋心が彼女らに悟られてしまったら、彼女たちの同情の言葉が私の耳に飛んでくるからだ。それはまたしても石となり生物となり私の湖に大きな震えを与える要因となりうる。言葉はいつだって実体となるのだ。昨日失恋したと囁いた自分の声がいつも以上に低かったことを忘れるな。私は笑うしかないのだ。
 教室に歓声が沸き上がって入口に振り向くと、彼と彼女が同時に教室に入ってきた。なるほどもう一緒に登校か。二人の恋が成就したことに喜び羨むクラスメイト達の声。彼と彼女は照れたように顔を合わせ、そしてまた照れるように笑ってクラスメイト達の声を受け入れていく。私は頬杖を突いて見つめていた。
 冷めている。
 私が冷めている。
 彼とは友達だし、彼女も友達だけど、他の皆のようにからかうことはできない。笑ったりすごいと言ったり、やっと付き合い始めたかと手を叩くこともままならない。私は冷めていた。しまった、これでは悟られる。いい気持ちではない、こんな光景を見せられて腹立たしく思っていることを見抜かれてしまう。これではまずい。私は笑った。隣にいた友達に、いいなあ彼氏、と言った。これが最も痛かった。





 帰宅して、彼女に膝枕をしてもらった。
 私は自分の腕を目に当てるようにして、暗闇に視界を投じる。
「やっぱり辛かったんじゃありませんか」
「そんなことはないよ」
「いえいえ、しかし私がいるということはですね」
「私が悲しんでる、ってことでしょ。聞き飽きた」
「それはいつまでもあなたが直視しないから、何度も言わなきゃいけないのですよ」
「直視して何になるのよ」
 例えば私が悲しみなり絶望なり挫折なりから目を逸らしていたとしても、それはそれでいいんじゃないかと私は思っているのに。なぜ泣かなければいけないのか、辛さに直面しなければいけないのか。別に泣かなかったのなら泣かなかった、その事実だけで時間に運ばれればそれでいいのではないかって。湖はできるだけ揺れ動くべきではない。誰にも侵入されてはならなくて、いつまでもいつまでも水面は平静でいるべきだと。だから、だったら私は自分から湖を汚したくはない。実際涙も出ないのだし。
「あー、もう寝る」
「おやすみなさい」
「晩御飯には起こして」
「え」
「そこは迷うとこじゃないでしょうが」
「あなたの寝顔を見ているのが好きなのです」
「うーん、今は目を隠してるから表情も何もないはずだけど」
「だから腕をどかしていただけると」
「それは無理」
「あらら、残念」
 私は眠りに沈んだ。
 少しだけ暗闇に埋もれそうになる時、また耳を触られた。
 だけど、今日は文句を言わなかった。





 学校の帰り道、彼と彼女に出会ってしまった。
 自動販売機で缶を取り出して顔を上げたら、横に立っていたのだ。私は息が詰まるのを感じた。視界が凍る。二人が並んで微笑んでいて、声を掛けてくる。
「みっちゃんじゃん、こんなところで会うなんて奇遇だね」
 彼女の方が私に笑いかける。彼女の腕は左隣の彼の腕をしっかりと掴んでいて、それがまるでこれ見よがしにやられているようだと思った。そんなわけがない。私の彼への恋心は誰にも悟られていないのである。別に彼女と彼を取り合い争奪した仲でもない。彼女にそんな悪意があるわけがない。そして彼女はそんな悪意を持つような性格でもないし、純粋に彼を愛しているのだ。変な疑惑を持つべきじゃない。
 しかし私は心地が悪く、すっと視線を逸らした。だがすぐに私の中のプライドが視線を二人へと戻させた。ここで目を逸らすなんて『友達』として、二人の物語の『傍観者』としてあってはならないことだ。悟られてはならない。この気持ちを。二人の仲を羨んでいるなどと思われてはならない。だから笑え、私。笑うんだ。二人を交互に見て、私は言う。
「二人はこれからデートかな? お熱いわねー」
 私は口元に四本指を当てて、からかうように笑った。昨日の朝にはできなかったことだ。しかしやるしかないのである。目の前にいるから。昨日の朝のように、輪の外から彼らの姿を見つめているのとはわけが違うのだ。今この場にいるのは私と彼と彼女の三人で、私が輪の中にいる。だったら――だったら、笑うしかないじゃないか。私の中にそうせざるを得ない何かが知らせるままに、私は微笑むしかなった。
「そうなんだよ、彼がどうしても行きたいって」
「おいおい、俺はそんなこと言ってないぞ」
「えー、そこはそうだぜって言わなきゃ」
「こらこら」
 私を置いてけぼりで会話する二人の息はピッタリだった。私は邪魔者だ。ここにいるべきではない。場の空気はその場にいるべきでないものがいるだけで、異物を取り込んだ機械のように動きを止める方へ動き出そうとする。私がこの場にいるのはあるべき姿ではない。二人は幸せそうだ。彼の頬も彼女の頬も、ふんわりと染まっているではないか。私の冷え切った心は、温かな二人の障害にしかならない。私は、ここには割り込めない。ここは私の居場所ではないのだ。
「私はお邪魔みたいね、うん。帰るよ」
「引き留めてごめんな」
 彼がバツが悪そうに言った。
「それじゃあね」
 私は手を振って歩き出した。
 曲がり角を曲がってから、走った。





 部屋に戻ると、『  』さんはいつものように正座して待っていた。微笑みをこの数日間にどれほど見たのだろうか。彼と彼女の恋路を見つめるたくさん人たち。それは誰しもが他意も悪意も善意も何もないままに見せる表情であったはずなのに、どれもが全て私を苛むようだった。私は微笑むその他大勢にまぎれたかったのに、上手く笑えたのかわからなくて。辛くないはずだった。悲しくないはずだった。絶望なんてしていない。失恋など痛くなかったのだ。彼と彼女の物語を、無表情で無感情に送り出したはずだったのに。
「眠りますか?」
 神様は微笑んだ。
 全ての誰かの微笑みとは違う、受け入れるだけの、慈愛の笑顔を。
「眠らない」
「では」
「泣く」
「あらら」
 彼女は口元に手をやって、やれやれと言いたげに目を細めた。
「何よ」
 私は問うた。
 彼女は返した。
「もう泣いてらっしゃるじゃないですか」
 そっと頬に指を当てた。
「……はは、なんだ。出るじゃん」


 涙は出る。
 心の中にある湖は、いつしか決壊するのだ。
 あまりに揺れ動く湖は水が溢れ、その溢れた水が、熱くなった目からさめざめと。
 ああ。
 きっと私は、二人の物語を笑って送り出すことができなかったんだ。
 だから、こうして。






「あなたは気持ちいいわ。ずっとこうしていたい」
 私は膝枕されたまま囁いた。
「それはありがたいことです」
「いつまでいるの?」
「あなたが希望を見出すまで」
「なら……まだまだいるのね」
「私は絶望の権化で、あなたが絶望から目を逸らさないために可視化されたものなんですよ」
「うん」
「普段私の姿が見えなかったのは、絶望を見る必要がないから」
「……」
「ですから、少しずつ私が見えなくなり、忘れていくんですよ」
「……そっか」
 私は彼女の温かさに包まれながら、笑った。
 正直に言えば、立ち直るのに時間が掛かるかもしれない。だとしたら、彼女と共に生活することになるのかな。失恋の痛みはナイフではなく、岩石だったのだ。その石が湖の底を転がるから私の心は痛い。この石が深い深い湖の底に辿り着いて動きを止めるまで、石は湖の側面を殴り続けるのだろう。だとしたらきっと相当時間が掛かるな。だけど、それでもいい。彼女との、絶望との日々を楽しめばいい。
「眠るよ」
「泣き疲れたのですね」
「うん。それに、気持ちいいし」
「あらら」
 彼女は嬉しそうに私の耳を撫でた。




(了)
メンテ
パラフィリア徘徊 ( No.6 )
日時: 2013/05/04 22:13
名前: 有理数 ID:1R5meiEs

 僕の姉は妹を酷く嫌悪していた。僕が姉の部屋に行き夕飯の完成を知らせると、姉はまず妹の所在を尋ねる。妹はどこ? 妹は何をしているの? 僕はその対応にすでに慣れ切っていたが、慣れというのはそれに対して何も感じないことと同義ではない。当然ながら僕は姉の態度にいつも違和感を覚えていた。妹はすでに席についている。僕がそう答えると、姉は言う。妹が食べ終えてから食べるわ、と。なぜそこまで妹を嫌悪するのか、空間を共有することですら忌み嫌うのか。僕はある日姉に尋ねた。何が原因なの、と。すると姉は怯えたように視線を泳がせ、震えるためにがちがちと鳴る歯を見せながら訴える。
「あいつは人食いよ。人を食べていたのよ」
 僕は姉とは別のところで妹に会った。妹はどこにでもいるような、取り分けて美人でもない、しかしかといって悪くもない、よく見れば魅力的な顔立ちをしているという程度の少女であった。四つ上の姉と、二つ違いの妹。どちらと長く時間と空間を共有したかといえば妹であり、姉は早くに大学に進学したため家にはいなかった。残された僕らはよく遊び、たまに勉強を教え、たまに料理をしたり、と仲良く生活をした。そんな妹が人を食べた、と姉は主張したのだ。姉が大学を卒業し、職場のために実家で暮らし始めた歳だった。
「人を食べていたの?」
 僕は問うた。廊下の明かりだけが部屋に光を差し込ませ、姉の怯える表情が真っ二つに陰影を作り出している。左側は暗闇に塗れ、右側は光のために不気味に悲痛。姉は頬を爪でゆっくりと引っ掻いた。そこに跡は残らなかったが、姉のその叫びにも似た態度と視線に僕は動揺を禁じ得ない。
「食べていた。家の裏で、確かに食べていたのよ」
「見間違えじゃないというの」
「あれは、人。人なのよ」
 姉は言う。人の眼球を箸で串刺し、口に運んでは咀嚼する。人の髪の毛をフォークで絡めてまたしても口ですすった。ずるずるずるずる。肌をナイフで切り落とし、血液は水分のように妹の体を満たしているようだった。月夜の晩だった。妹は極めて冷静に事を運んだ。裏庭の小さなスペースに非日常を叩き込んだ死体を、妹はただひたすらに食べていたのである。姉はそれを話し終えると、低く嗚咽にも似た声を漏らしながら発狂した。またか、と僕は扉を閉めた。
 階段を下りると、妹がソファに座ってテレビを見ていた。こうなると姉は少しの間相手にならない。妹は僕の足音に一瞬こちらを見るがすぐに画面へと視線を戻し、手に持っていたお菓子の袋に手を突っ込んでは一つまみを口へと運んでいく。その横顔は愛くるしく可憐で、風呂上がりの髪の湿り気もその妖艶さを助長しているかのようであった。そんな妹の隣に座って画面を見つめる。よく知らない芸能人たちが会話を繰り広げており、何の興味も持てない。こういったものは文脈こそ全てで、途中から入り込むと意味不明の塊でしかない。僕は画面の字幕を見つめたまま、先ほど交わした姉とのやり取りを話すことにした。
「お前、人を食べたことがあるのか」
「どうして?」
「姉さんが言っていた。裏庭で、まるで美味しそうに食べていたそうだけど」
「なるほど、見たんだ。お姉ちゃん」
 僕は顔を横に向けた。妹は何とも気にしていない様子でリモコンを手に取る。電源を消すのかと思いきやチャンネルを変えるだけであった。その双眸には一寸の曇りも動揺も見られず、僕の凝視にすら意に介さないようである。僕は妹の持っていたお菓子の袋に手を入れ、一つまみだけ取り出す。妹は言葉を促さずとも続きを話し始めた。
「人、食べたよ」
「そうか」
「ほら、私の友達の××ちゃん、行方不明でしょ。本当は××ちゃん死んじゃってるんだ。その死体を、私は食べたんだよ」
「どうして?」
「私が××ちゃんのこと、好きだったからだよ」
 僕はいまいち掴めなかった。好きな相手だから食べた、というのはとても難しい文章だろう。意味がつながらない。僕に一般的な思考と観点が身についているかは不明だが、少なくとも好きな相手が死んでいたとしてもそれを食べるという判断には至らないはずだ。それだけは理解できる。好きな人ができたら食べてみたいなどと普通は思うわけがない。一般的に考えると思うはずがないのである。
「食べるために、殺したのか」
「違うよ。××ちゃんを殺したのはお姉ちゃんだよ」
 僕はお菓子を食べ終えると妹の隣から立ち上がり、二階に上がった。姉の部屋は先ほどよりも随分と静かになっていて、もう寝ているのかもしれないと一瞬思った。しかし時折扉の向こうから漏れてくる囁くような唸りと喘ぎがそんな一瞬の思考を消してくれる。僕は姉の部屋の扉を開け、廊下の明かりだけが部屋に差し込む薄ら紫がかった部屋に一歩踏み入れた。姉はベッドで寝転がり、泣いていた。
「姉さん。聞きたいことがあるんだ」
「何……」
「妹が食べたのはあいつの同級生だと言っているけど……殺したのは姉さんだそうだね」
「そうね」
 姉は涙を拭きながら体を起こし、乱れた髪を手でふわりと掻き分ける。正直な姉妹だが、その愚直と称していい真っ直ぐさと嘘偽りを知らない言葉たちはむしろ不気味さに磨きをかけるだけだ。
「本当なんだね」
「そう、私はあの子の同級生の××という女の子を殺したわ」
「どうして?」
「あの子が××とかいう娘のことを好きだったからよ」
 僕は混乱した。二度目の文脈無視を正面から叩きつけられたからだ。少なくとも、自分の妹に好意を抱いた妹の同級生を殺す判断に至る理由としてはどう考えても結びつかない。僕に客観視できる感情の理解があるかはわからないが、少なくとも妹に好意を持つ同級生を殺す選択を取ることなんて、想像ですらない。発想すらないのである。しかし姉が自分でやったと言い、その理由は何かと問うてそう答えたのだからそれがまさに真理なのだろう。妹は××が好きであり、そのために姉は××を殺し、妹は××を食べたのだ。
 僕は一階に下りた。この自分の中の気色の悪い違和感や途方に暮れてしまった真実を、納得のために心に押しやらなければ僕の落ち着きは取り戻せない。そう考えた。
 妹はテレビを見るのをやめていて、キッチンの方で夜食のおにぎりを食べていた。食事。先ほど姉から聞かされた言葉が、妹の唇を見つめたことによって瞬間想起する。人を食べた。その柔らかな口やほのかに笑んだような瞳で、人を食べた。そう考えると僕にはまず違和感が先行してしまう。普段の素行からは考え付かない行動を、この無垢で清楚な妹がやったというのだろうか。なんとも信じがたい話だ。
「姉さんは、同級生の××ちゃんを殺したのは、お前が××ちゃんのことを好きだったからと言っているが」
「そうだね。私、××ちゃんのこと好きだったよ」
「それはどういう意味で」
「××ちゃんの全てが欲しいと思うぐらいに」
 妹の異常性に触れるべきだろうか。僕は迷った。そもそも姉が××を殺した理由は、妹が××を好きだったから。××を好きだったから妹は彼女の死体を食べた。そして姉は妹を気味悪がった。少しずつ断片的ではあるが文脈はつながりつつある。しかしまだ完全ではない。僕はもう一度二階に上がり、姉に問うた。
「どうして妹が××ちゃんのことを好きだからって、××ちゃんを殺したの?」
「私が妹のことを、好きだったからよ」
 僕はこの姉妹が別次元に言ったように感じた。そこにあるのはいくつもの禁忌である。僕にはそれに対応しうる表情と語彙を持ち合わせていなかった。妹も姉も、殺人、同性、食人、という一般的に見れば関節の外れた位置で生きていたというのだろうか。僕はそんな素振りを普段の二人からは想像しきれなかったというのに。姉の異変は知っていた。だがその異変の原因はその大きな大きな因果から巡りくるものだったとは。僕は一階に下り、ソファに寝転んでいた妹に問うた。
「姉は、お前のことが好きだったそうだよ」
「うん。知ってるよ」
「どうして知ってるの?」
「告白されたから。あと、襲われたんだ」
 妹は自分の内股に指を入れ、痛かった、と小さく言った。禁忌が一つ増えたと思った。同時にまたしても疑問が増える。意味不明の範疇に片脚どころか全身を入れてしまい、その線引きに僕の頭は混乱する。僕の知らないところで何をしていたのだろうこの二人は。そんな行為が行われた素振りを二人はまったく見せなかった。妹もその程度の言葉で済ませて普段通りの生活に帰着しているというのがある意味で恐ろしい。同時に少しずつ深淵へと踏み込んでいくような疑問のスパイラルが酷く心地が悪かった。僕はもう一度姉さんの部屋へ行き、いくつか質問することにした。
「妹のことが好きだった?」
「ああ、好きだったよ」
「だったら、どうして今は?」
「あんな化け物だとは知らなかったんだ。もう好きなんかじゃない、あんな人食いは」
 そこである。全ての起点は妹が××という同級生を食べたことにある。まとめると。
 姉は妹が好きだった。襲ったこともある。
 妹は××が好きだった。
 姉はおそらく嫉妬のために、××を殺害。
 しかし妹は××の死体を食す。
 それに恐怖した姉は妹を嫌う。
 ということか。
 であれば、なぜ食べたのか。好きだからといった。だがそれは返事になっていない。どうして好きであるから食べるという判断に至ったのか。その思考の過程にこそ疑問が集約される。もう一度一階に下りると、妹が部屋の中央に立っていた。両手を後ろに回して、いつも以上に冷たく色のない瞳を向けながら。部屋に入ってくるのを待っていたかのような視線に一瞬たじろぐが、その疑問を問うべく向き合い口を開く。
「どうして××ちゃんを食べた?」
「言ったでしょ。好きだからだよ」
「どうして好きなら、食べたんだ?」
「食べるということは、私になるということだよ、お兄ちゃん。私は××ちゃんの全てが欲しかった。心も声も香りも唇も。ねえ、お兄ちゃん。人は誰しも、誰かと一つになりたいんだよ。お姉ちゃんもそうだった。だから私をあんな風に弄った。だから私も、××ちゃんと一つになりたかったんだよ。そのために食べたの。私の中で××ちゃんが生きるために。私と一緒に生きるために」
 妹は後ろに回していた両手を前に出しだす。
 その手は、包丁を持っていた。
「お兄ちゃん。いいよ、殺して」
「――」
 妹は笑った。僕はその突き出された刃と、妹の細くしなやかな指が掴む茶色い柄をまじまじと見据える。
「私と一つになりたいんでしょ」
「……」
「そして、お姉ちゃんとも一つになりたいんだよね」
「……」
「だから、殺して。食べて。いくらでも禁忌を破ってもいいんだよ」
 見抜かれていたのなら仕方がない。
 僕の姉妹両人に対する病気的なまでの愛情と執着を。
 姉が欲しかった。そして妹が欲しかった。
 妹が言っていたように、二人の全てが欲しかった。だが僕たちは家族であった。それは侵されざる禁忌であり、僕は常にその思考と劣情を圧倒的な冷静さに閉じ込めるように抑え、圧し、封じ込めてきた。だがどうだ。二人の話を交互に聞けば聞くほど、馬鹿らしくなってきた。この二人の異常な行為と情と欲望と醜さ。僕と同等ではないか。僕が今までひたすらにひた隠し押さえつけ、なんとか悟られないように努力してきた考えと行動を、姉と妹は両方がすでに実行済みだったのだ。
 妹は笑っていた。受け入れる覚悟はできているということだろうか。僕にはこの妹の心がわからない。そういう意味では最近酷く狂ったように見えた姉の陰で、彼女もまたひっそりとその心の中の狂気を増幅させていたのかもしれない。僕は知らなかっただけなのだ。この妹の本当の闇を。包丁を握っているその細い指を食べるときっと美味なのだろうな、と僕は一日に何度考えただろうか。それは底知れぬ悪かもしれなかったし、一般的に見れば猟奇、狂気、異常な性的倒錯であろう。しかし構わなかった。もう枷は外されたのだ。姉妹の異常を目撃し、僕はもう籠の中にはいない。いくらでも妹と姉を殺し、死体を犯し、目玉を刳り貫き脳を吸い取り、その唇をいくらでも蹂躙しようと構わないのだ。そこにはまた僕に最上級の快楽と幸福を与えてくれる光がある。闇ではない。きっとそこはとても心地いいのではないか。そう考えると僕の心臓の表面を柔らかなものでくすぐられた気持ちになる。そして震えて、動悸がやってくるのだ。
 僕は包丁を受け取り、妹を殺した。
 姉の部屋に行き、姉を殺した。
 二人の肉を食べ、血を啜った。
 それはそれは、満たされた行為だった。姉の部屋に飾られた姿見に映った僕の顔は、自分ではないと錯覚するほどに口を歪めて笑っている。ああ、きっとこのために僕は。そうして自分の手にへばりついた血液を舐める時、まるで渇ききった世界で喉を潤す水のような、いつまでも渇望し続けたものがやっと手に入ったような、そんな幸福が胸を震わせるのだ。



(了)
メンテ
Re: 毒殺ディアンドル裁判 ( No.7 )
日時: 2013/05/05 21:47
名前: 有理数 ID:tNSj0Nhw

 私はビクビクしていた。それなりの広さのある店内には、やはりそれなりに人はいて、それぞれが思い思いに本の群れの中を渡り歩いている。ある人は雑誌コーナーで立ち読みし、ある人は新書コーナーで背表紙をなぞる様に動く。学校帰りの中学生は文房具コーナーでうろうろ。そんなお客さんたちを、『研修中』の文字の入った名札を胸に留め、緑色のエプロンをつけた私は見守っていた。うう、まだ全然慣れてないのにいきなり一人でレジ番なんて鬼畜店長が! と突っ込まずにはいられない。だけど、私はお腹の前で両手を組んで、お客さん来ないでー、いや来い! というジレンマに悩まされていた。
 その時、一人の男がやってきた。黒髪が爽やかな若い人。あらなかなかカッコいいじゃないの、という乙女心は彼が持ってきた大量の文庫本がぶち壊した。待て、いち、に……六冊!? こらあ、新人アルバイトに拷問か! 心の中の私が、レジの前で首を傾げる彼にハリセンを叩き込む。だけど私は営業スマイルで「お預かりします」と言って六冊の文庫本を受け取った。うわ、重い。苦笑いしたい気持ちを抑えながら、バーコードを読み取っていく。うわー、緊張する。本を落としちゃいそうだった。だけどギリギリで持ちこたえ、次の段階へ。
「あ、えっと、カバー、お掛けしましょうか」
 これは建前で、必ず聞けと店長に釘を刺されている。こういったサービス精神があるか否かでお客さんの印象は変わるのだとか。でも私はあんまりこれが好きじゃなくて、文庫本にカバーを付けるのは、緊張しているとすごく時間がかかってしまう。私も事務室で練習したけれど、どうもお客さんの前だとテンパってしまって……一冊にどれだけお客さんを待たせてしまったか。その度に反省する。でもその前に、お客さんが「カバー掛けてください」って言わなければ、私がこんなに苦労することはないのだ、という結論に至る。なので建前としてこの言葉は言うのだけど、内心お客さんが「あ、いりません」とでも言ってくれるのを期待している。
 そして彼である。さすがに六冊だし、ない、よね?
「あ、お願いします」
 
 何!? 彼は正気なの? これ! 『研修中』の文字が見えるでしょうが! まさか、本当に六冊の文庫本にカバーを掛けろって言うの!? 鬼畜すぎる! 
「わ、わかりました。少々お待ちください……」
 私はレジの下の棚から茶色いカバーを取り出した。指が震える。心が震える。失敗しては駄目だ、と心が叫ぶ。私が焦って失敗した姿をイライラしながら見つめるお客さんの顔が浮かぶ。その度に申し訳なくて、恥ずかしくて。自分の情けなさや、精神的に弱いところに悩んだのだ。でもなんとかやってこれたのに、まさか六冊なんて。
 一冊目で、いきなり綺麗にカバーを掛けれなかった。やばい、私、すごくテンパっちゃってる。ああ、もうなんでここ綺麗に折れないかな! あ、この作者私も好き……じゃなくて、急げ私。今は目の前の彼しかレジには並んでいないけど、でも、だからって急がない理由にはならない。
 三冊ほどをやっとこさ終わらせた時、彼を見た。
 なんとニヤニヤしていた。
 こら、こっちの気も知らないでなんという罰ゲームなのこれは。まあちょっとかっこいいし? 許してあげなくもないけど、こちとらすごい焦ってるしドキドキしてるんだぞ。ホント、人に見られてる状態であたふたしながらせっせとカバー掛けるなんて恥ずかしい。しかも六冊とか。ニヤニヤしてる彼が故意にやったとしか思えない。ちくしょー、舐めやがって。


「あ、ありがとうございました。またお越しください……」
 彼は終始ニヤニヤしながら私を見守っていて、私が本を袋に入れ終わると彼は満足そうに店から出て行った。私は大きな溜め息を吐いた。恥ずかしかった。でもなんとか乗り切れたぞ。もうあれ以上の拷問はしばらく来ないだろう。よくやった私。
 しかしさっきの彼、『研修中』の名札が見えなかったのかなあ。ちょっとは遠慮してくれてもいいんじゃない? これは私のわがままだけど、店内には文房具側のレジもあるから、「研修中の子に文庫本六冊は大変だな。よし、あっちのレジに回ろう」みたいな配慮があってもいいんじゃないのかい青年よ。まったく、酷い時間だった。







「なっ」
「カバー、お願いします」
 そんな馬鹿な。私は硬直した。昨日私を拷問に投げ出したあの青年が、またしても私の前にいた。しかも、文庫本五冊を差し出している。裏を感じさせないあどけない笑顔はさておき、なんのつもりだ彼は? 私は毎日ここにバイト入ってるけど、昨日の今日だ。昨日六冊も買って、今日も五冊? リッチマンめ。そして何より、カバーを掛けろだって? また私をあの羞恥プレイに落とし込むの? なんてひどい。私は泣きだしそうだった。
「あ、ありがとうございます……少々お待ち下さい」
 私はまた昨日と同じ作業をする。わなわなとふるえる指先が、綺麗にカバーを掛けなければという私の思いを阻害する。本当は逃げ出したかった。知らない男の人に、私は醜態を晒しているのだから。慣れない手つきで本を扱う新人。きっと彼も、心の底では笑っている。もう嫌だ。こんなにも恥ずかしがり屋なのに、レジ係を所望するんじゃなかった。
「ありがとうございました……」
 またお越しください、と言えず、私はペコリとお辞儀した。正直彼にはもう来るな、という感じであった。二度も私を辱めるなんて。最悪だ。しかも今日は、彼だけじゃなくて後ろに並んでたし。最悪だ。もう恥ずかしい。恥ずかしすぎる。







 それから次の日も次の日も、彼は文庫本を数冊持ってきて私にカバーを掛けさせた。さすがに五冊六冊も持ってこないようにはなったけれど、ほぼ三冊ほどレジに持ってきて、ニヤニヤしながら私がカバーを掛けるのを見つめていた。自分の飼い猫にヨシュアとかヘンリーとか名付けてそうな顔のくせに鬼畜野郎だった。私は指を動かしながら、心の中で彼に悪態を付く日々が続いた。
 私はもう彼の顔を完璧に覚えてしまったし、彼が店内に入ってくるたびに鬱になる。またあのヒヤヒヤする時間が訪れるのか、と思うといつも胸が苦しくなった。







「なんだお前、カバー掛けるの上手になったな」
 私が事務室で作業をしていると、店長が私の手つきを見てそう言った。
「……そう、ですか?」
「ああ。入った頃はもっと汚かったろ。たった一週間でよく成長したな。練習でもしたか?」
 私の頭に、彼の顔が浮かんだ。
「……いえ、練習なんて」
「そうか。まあいい。レジも慣れてきたみたいだし、これからもよろしく頼むよ」
「はい、わかりました……」
 彼の顔が、頭から離れなくなった。
 まさか、そんなはずないよね。






 自動ドアを潜り抜けてきた彼の姿を、私はレジから見ていた。レジの机の下のカバーがまだ数があることを確かめる。その時目に入った自分の指先が、それほど震えていないことに気付いた。中学生がライトノベルを持ってきて、私は丁寧に対応する。
「カバー、お掛けしましょうか」
「あ、お願いします」
 中学生の言葉に、私はまったく動じない。彼の鬼畜文庫本に比べれば、一冊や二冊どうってことないのである。一度体験してみろ中学生。あれは拷問だ。だから、君のように一冊程度で済ませてくれるお客さんは、なんて簡単なんだろうって思えちゃうのよ。
 それは。
 それは、彼のおかげ?
 中学生が脇に避けた時、そっと近づく彼の姿。


「カバー、お掛けしましょうか」
「いえ、いいです」
「えっ?」
 私は思わず彼に聞き返していた。まさか。今までずっと、私に文庫本のカバーを掛けさせ続けたのはあなたじゃない。今私の手元にあるのは、三冊の文庫本。どうせまた掛けさせるんだと思ってた。でも私もちょっとだけ手馴れてきたから、あなたが望んでた私の焦る姿は見れませんよーと私は内心彼に勝った気でいた。でも、ここでまさか、もうカバーは掛けてと言わないのだろうか。私は微妙に拍子抜けして、すっと本を袋に入れた。
「ありがとうございました。またお越しください」
 私がペコリとお辞儀して顔を上げると、彼は微笑んだ。今まで見せていた意地悪そうな顔ではなかった。満足そうな、だけど私を見透かすような瞳だった。そして、首をちょっとだけ傾げながら、こう言ったのだ。


「もう、慣れたでしょ?」
 
 
 彼は小さく手を振って、店を出て行った。


 笑顔が、頭から離れなくなって。体中が熱くなった。
 その時、私の恋は始まったんだ。




メンテ
アノマリア奇譚 ( No.8 )
日時: 2013/05/06 21:22
名前: 有理数 ID:oxqJS9YI

 王国の騎士たちが村を滅ぼした時、一人だけ生き残った少年がいた。王国の騎士たちが村に入ってくる直前、彼の両親に地下室に逃がされていたのだった。地下室の扉が閉まると、そこは少年の瞳に一切を与えない暗闇を演出する。馬の蹄が地面を叩き、家屋の倒壊する音が扉越しに伝わってくる。少年はしゃがみ込んで震え、嗚咽に全身を蝕まれながら時を過ごした。手のひらを耳に押し当て、抉るように側頭部に指を食い込ませる。音はいつまでも響いて劈き、少年はただ孤独に耐えた。押し当てた鼓膜が少しずつ、細い糸のような耳鳴りを、まるで子守唄のように歌うから、少年はいつのまにか眠ってしまっていた。
 それからしばらしくて、少年は目を覚ました。それでも何も見えなかった。けれど音は止んでいた。その異様な沈黙が心臓の律動を耳にまで伝道する。その律動が衝動となって自分の語感と四肢をゆるやかにでも覚醒させると、自分のしゃがんでいる砂埃の床を手探りして、地下室から飛び出した。地下室の扉は何かが上から押さえつけているようだったが、息絶え絶えにでも力を振り絞る少年に、その圧力は役には立たなかった。
 扉を開けると、そこには空があった。真紅が少しずつ群青に溶けていく、真白の雲が少しずつ淀みに消えていく、夕暮れに尊き麗しの空。夕焼けにいくつもの愛情と会話を交わした追憶が、その瞬間瞬間に少年に巡りくるようだった。地下室の扉を押さえつけていたのは、惨たらしく死んだ母だった。首を裂かれ、腕を裂かれ。断裂に凝固した血がその主張を揺るぎなく押し付けるその死体に、少年の呼吸は数秒、否、数千数万の時が止まったかのように感じた。少年が再び息をする時、そこにはもう一つの死体。倒壊した家屋の壁に磔にされるように死んでいる父の姿だった。名前は出なかった。呼称すら、悲鳴すら。口から出たのは、拒絶の狭間さえ与えない吐瀉物の逆流。少年はその場に打ちひしがれるように膝を付き、その喉の震えるままに体液たちを吐き付けた。そうしてやっと、段階を踏んだように涙が流れ、叫びが溢れた。父と母を明滅するような弱い声で呼び、地面に呻きを叩きつけた。少年は一晩中、完全に崩落した村でただ一人、心のままにその涙を流し続けたのだった。
 少年は泣き終えた後、父の体を無様に晒した剣を抜き取り、村を出た。
 その瞳と心には、王国への復讐が確かに宿っていた。





 王国へ辿り着くと、堅牢な城へと歩みを進めた。城門の門番の男たちは、少年を下賤な言葉で阻んだが、少年は躊躇いなくその刃を彼らの喉に走らせた。その剣の鋭敏さに男たちは悲鳴を上げる隙無く絶命し、少年はその肉片たちをブーツで踏み砕いて荒らした。これが恨みだ思い知れ。吐き捨てた言葉を訊く者はいなかったが、その言葉は空気を揺るがして自分の耳に穏やかに伝わり、その胸に細やかな満足を与えた。
 それから城へと侵攻し、掛かってくる城の人間をひたすらに斬り捨てた。兵士も騎士も、冷徹な剣先が狂いなく八つ裂きにした。首を叩き切り、腕を吹き飛ばし、脚を跳ね飛ばす。阿鼻叫喚が城内を支配する。少年はその悲鳴たちの耳障りな感触に舌打ちし、またその耳障りな感触に口元を釣り上げ笑った。少年の内に抱かれた復讐の炎を消すには、騎士兵士の浅い意志では弱すぎた。城のあらゆる部屋を巡る様に廻り、少しでも動くものがあればその指と刃を持って殺し尽くした。王と女王は死体と称するに難を覚えるほどの制裁を加えて死に至らしめられた。
 最後の一部屋で待っていたのは、豪勢なベッドに座って本を読む、煌びやかな風貌の少女だった。先ほど死んだ女王に似た見てくれに、少年は王女であると確信する。彼女が城の最後の一人だ。今までそうしてきたように剣を王女に向けた。王女は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに悟ったように息を吐き、本をこれ見よがしに閉じた。
 なにやら騒がしいと思っていましたが、あなたが原因でしたか。
 王女は美しい顔をしていた。今まで刃を向けられた人間は、予定調和のように恐怖に表情を揺らがせた。けれど王女はそんな素振りなど寸分も見せず、寧ろ嬉々とした上目遣いをしてみせた。少年は自らの衣服に付着した返り血の匂いに鼻を燻らせながら、王女の違和感に言葉を発する。
 城の人間は皆殺した。お前が最後の一人だ。
 まあ。それはそれは。
 怖くないのか。
 いいえ。それより、どうしてあなたはそのようなことを。
 この王国が、俺の村を滅ぼしたからだ。
 少年はそんな言葉を告げながら、地下室から飛び出した際の衝撃を克明に反芻した。まだ憎悪は潰えていなかった。城の人間を殺す度に、確かに愉悦と充足が少年を包み込んだが、憎悪は消えていくことはなかった。殺したところで収まりはしない。その理由を問い詰めるより先に、騎士たちが少年に猛撃を始める。きっと城に人間が残っているからだ。全員殺せ、殺してしまえ。それを完遂させた時、恐らくこの気持ちは消えていくのだろう。そうした思いが剣を駆り立て、その冷徹な心をより凍てつかせては、彼の復讐心に拍車を掛けた。それほどの激動がもたらした闘争も、目の前の王女一人で終わるのである。その向こう側は想像できなかったが、確固たる一区切りを目の前に、少年は刃の方向を消して乱すことなく彼女に向けることが出来ていたのである。
 だから、お前も殺す。
 ああ、わたしが滅ぼすように命令した村ですか。
 王女は微笑んだ。
 なんだって。
 わたしがお父様とお母様にお伝えしたのですよ、あの村を滅ぼしましょうと――
 少年の剣が、王女の心臓を貫いていた。言葉が耳に届いた刹那に、精神と体は分離し、体だけが本能のままに動き出したのだった。王女は目を見開いて吐血し、少年の肩にすがる様にがくりと項垂れた。数度痙攣し、呼吸の音は消える。少年はその体を突き放して、ベッドの上に横倒しになったその死体を見据えた。王女がその瞼を閉じ、口元に血の跡を残し、絶命した。静寂が少年の、今まで剣を握り続けて熱を帯びた指先を撫で、ぞくりぞくりとした歓喜が心で産声を上げた。王女が村を滅ぼした。王女を殺した。復讐は終わった。その事実が全身を確かに暖かく包み込み、思わず笑い出す。名前を呼ぶ。両親を呼ぶ、友人を。その完遂を添えて呼び続ける。狂気に笑い声が止まらず、膝を付いて笑い続けた。けれどその断続的な笑い声に終止符を打ったのは、また別の声だった。
 痛いではありませんか。
 王女がむくりと起き上がり、少年を見た。彼は愕然とした。弛緩していた肺が強い力で掌握されたかのようであり、喉に固形物を押し込められたようでもあった。確かに絶命させたはずの体が、その愛くるしい微笑みを持って再び動きを取り戻したのである。王女は小さな喘ぎと共に自らの胸に刺さった剣を抜くと、ベッドから降り、その剣を少年に差し出した。
 驚かれましたか? 
 どういうことだ。確かに、お前は死んだのに。
 王女は誇らしげな瞳を伏せ、片手を自分の胸に当てた。
 私の生命は涙なのです。涙が枯れると私は死にます。同様に、涙が枯れなければ死ぬことはないのです。例えこの身を幾千幾百の肉片に裂かれようと、涙の枯渇による死でなければ、私が死ぬことはないのですよ。
 王女の胸にあったはずの傷は、いつの間にか消えていた。





 王女はアノマリアと名乗った。
 二人は城から抜け出し、街を歩んだ。深い闇に埋もれていた街は城の異変に気付き始め、ぽつりぽつりと明かりが灯り始める。街の家屋から住民が飛び出し、松明を持って城へと向かい出した。彼らは口々に、王様が……とか、女王が……といったような言葉を繰り返し、その口調に焦燥感をありありと滲ませていた。アノマリアはローブを羽織り、街の人間たちの視線を上手く掻い潜った。二人は街を抜け、森に入った。森には湖があり、そこが抜け道の目印だった。街の人々は皆一様に城へと向かっている。見つかる心配などない。城へ侵入する以前は茂みや草木を歩む一音一音にさえ神経を尖らせたものだが、今の少年には、別の案件が頭を巡っていた。当然のことながらアノマリアのことである。アノマリアは今も少年の隣を陣取り、時折鼻歌を風の音に乗せてそっと囁いては、その機嫌の良さを少年のありありとした感覚に訴えかけていた。視界に入る踊るような髪の毛先や、耳に嫌でも響く歌。何より当のアノマリアが、村を滅ぼした張本人である。彼女を殺せば、復讐は完遂すると思っていた。しかし、彼女は死ななかった。少年は爪を噛み、あまりにも悠長なアノマリアに悪態を吐きたい気分に長く浸っていた。
 おい、お前。
 アノマリアです。
 頭上に広がる木々の隙間から、月明かりが隙間を選んで降り注ぐ。数歩前を歩いていたアノマリアは振り返り、少年に名前を強要する。彼は小さく喉を詰まらせた。アノマリアの顔の表面に、ちょうど隙間を縫って越えてきた月の淡白な光が張り付き、その神秘的な容姿に磨きをかけていたのだ。少年は調子が狂ってしまったが、やはり言葉に淀みを持たせることなどなかった。ここまで歩く中で巡り巡ってようやく統一された夥しい疑問を、少しばかりの戸惑いを持たせつつもアノマリアにぶつける。
 どうしてお前は、俺の村を滅ぼすように願ったんだ。
 アノマリアは顎に人差し指を添えると、あどけない声で唸り、その視線を考え込むように右往左往に動かす。それから、そうですね、と前置きがてらに囁くと、少年に答えた。
 村を滅ぼして、涙を流すことができるのか試したかったのです。そんなことを命令した自分の恐ろしさに嘶くのか、村人の悲鳴を想像して泣くか、その悲しみを抱いて叫ぶのか。どれであろうと、わたしはきっと泣くことが出来る。そんなことを成せる自分の声や指が恐ろしい。その恐ろしさでもいい。それがきっかけで、涙が流すことができればいい。そう思ったのです。
 ではやはり、涙が枯れると死に、枯れないことには死なないというのは本当なんだな。
 何度も言っているではありませんか。それに、実際死ななかったのを、あなたは見ているのですよ。
 ……だが、どうして涙を流せればいいなどと? そんなことになったら、お前は死んでしまうんじゃないのか。
 私のような涙が枯れないと死なない人間は、そのあまりの制約に自ら死を選びたがるのですよ。城の人間が音楽を嗜む時、私は部屋に籠ります。どうしてかわかりますか? 音楽は、涙を誘うからです。その音像に心を掴まれた時、人は涙するからですよ。同じように、父や母が演劇を観覧する時、舞踏会へ参加する時。騎士たちの武芸大会を見る時――ありとあらゆる場面に伴う、嬉しさや悲しさ。そういったものを、私は見ることが出来ない。見てはならない。
 お前の家族は違ったのか。
 私だけです。私は幼い頃に、涙の枯渇が死と結びつくような魔法を掛けられたのです。





 アノマリアは幼い頃に魔女に出会い、涙によって死を縛られる魔法を掛けられた。涙が枯れることで死に、枯れないことには死なない。もし涙を流すことなく生き続けたとしても、寿命ですらその命は尽きることはない。人間と同じように齢を刻み、歳月を積み重ねていくが、どれだけその体が弱ろうとも、決して死ぬことはできないのだと語った。
 だから、あなたは復讐を成し遂げることはできないのですよ。
 構わない。いつか、殺して見せる。
 少年は言った。アノマリアとの会話では、まるで仇だとは思えないほどに憎しみが隠れてしまっている瞬間も確かに存在した。一度では殺せなかった相手。けれど冷静になり、まるでいくつもの写真が入った木箱を必死に漁る様にその記憶たちを貪ると、憎しみは明滅を伴いながら息を吹き返す。少年は剣先をアノマリアに向けた。森は歌う。茂みが黙々と揺れ動き、枝の重なりが細やかな暗がりを二人の向こう側に生み出す。その背景たちは、二人の横顔を美しく見せるための材でしかない。アノマリアは取り乱すことも瞬きすることもなく、眼前に突き付けられた剣先の寄清々しい光沢に瞳を光らせ微笑んだ。少年には分っていた。嘘ではなく、確かにアノマリアは、この刃でいくら打ちのめそうとも死ぬことはない。だが、少年には分っていた。殺す方法はあるのだ。
 アノマリア、俺と旅をしよう。
 剣を下げ、少年が告げる。アノマリアは目を丸くする。
 俺には帰る場所がない。お前に壊されたからな。お前を殺して、自殺するつもりだった。けれど、まだお前への復讐は終わっていない。お前を殺していない。俺と一緒に旅に出よう。そこで、お前を泣かせてやる。世界中を旅して、お前の涙を枯らせてやるんだ。
 少年の言葉が終わると、アノマリアは吹き出して、口元に手を当てた。
 できるのですか? 私は街を少年少女たちのように、涙もろくも、何事も都合よく受け入れる優しい女ではないのですよ。
 それでも諦めない。俺はお前を殺したいんだ。俺は村から出たことはなかったけれど、城でぬくぬくと育ったお前も同じだ。旅をすればきっと、お前を涙させるものを見つけられるはず。そうして、お前は死ぬんだ。死にたかったんだろう。だったら、利害は一致している。
 村の大人は言っていた。世の中には、素晴らしい物がたくさんあるのだと。母も父も言っていた。世の中には、人の心を震わす素敵なものに溢れているのだと。それほどのものならば、涙の枯渇に死を委ねられたアノマリアも、きっとその冷たい瞳を揺らして、涙を流すはずなのだ。少年はなんとしても、アノマリアを殺してやりたかった。
 アノマリアは溜め息を吐いた。
 まったくしょうがないですね。そもそも私も帰る場所がないのです。あなたが城を襲ったために。
 お前は俺が憎くはないのか。俺はお前の家族を殺したんだぞ。
 いいえ。寧ろそれを狙っていたのですよ。
 わたしがあなたの村を滅ぼし、彼らの身を憂いて涙を流すことができればよし。もしどなたか生き残りがいれば、その方の身を案じて涙が出るならばよし。その方が復讐と謳ってわたしの家族を殺し、その悲しさに涙を流せればそれもよし――わたしはわたしの涙のために、いくつも糸を束ね引いていたのですよ。
 少年は驚いた。涙が出るきっかけは、些細なことでも起こりうる。アノマリアはそんな可能性を信じて、この場合ならばとそんな可能性を一つずつ吟味していたのだ。その枝分かれしたいくつもの可能性は結局のところ敵うことはなかったが、彼女は自分の涙のためならば、家族や自らの城さえも布石における氷のような心を持っていたのだ。
 薄情な女だな。家族が殺されたのに泣けないとは。あれだけの人間が殺されて泣けないとは。
 そうです、私は薄情なのです。さあ、こんな私をあなたは殺せるでしょうか。
 殺せる。きっと、殺してみせる。
 楽しみにしておきましょう。あなた、お名前は。
 キルヒヘルだ。





 アノマリアと少年――キルヒヘルは、その身二つで旅に出た。
 絵画の街、音楽の街、絶景の街。
 二人の歩みは止まらず、その瞳が何かを見続けることを止めることはなかった。キルヒヘルはアノマリアの隣を、または数歩前を行き、世界をアノマリアに見せて回った。キルヒヘルにとっても、そんな世界は初めての物ばかりでったが、自分が素晴らしいと思えるものはやはりアノマリアも同じ感触を味わい、涙を流せるのかもしれないという考えではあった。行き交う人々。そびえる芸術、高らかな歌声。その内側にある神秘と光にアノマリアが触れ、その目から涙を流すこと。キルヒヘルはそれだけを願い、そうすることで彼女を殺したいと願い続け、歩みを止めることはしなかったのだ。
 けれども、アノマリアは決して泣くことはなかった。
 面白かったですね。素晴らしいです。素敵でしたね。感動的でした。演劇を見終え、絵画を見終え、音楽を聴き終え――数々の芸術を終えると、アノマリアはその口からありふれたような言葉で隙間を埋めた。アノマリアは笑っていたが、その笑みが本物でないことをキルヒヘルは見抜いていた。キルヒヘル自身も涙は流さなかった。けれども感動はした。数々の芸術に涙を流しかけた。しかしその時すぐ隣を見ても、アノマリアは無表情だった。
 アノマリアは、泣かない。
 キルヒヘルは旅の中で、気付き始めていた。
 けれど、それでは駄目だった。キルヒヘルの中には、確かにあの日の憎悪がしっかりとした根を張っている。殺すために、旅に出た。殺すために、こうして数々の可能性に賭けているのだ。キルヒヘルに諦めるという選択肢は存在しなかった。芸術を見つめるアノマリアが例え表情を失ったままでも、必ずその目に涙を浮かばせてやるとキルヒヘルは拳を握りしめる。だからこそ、旅は終わらなかった。
 キル。
 なんだ。
 もう諦めてはどうですか。これだけ素敵なものに出会っても、私は涙を流さない。これではきっと、旅は終わりません。キル、あなたをこれ以上誑かすのは良くないことです。
 そんなことは、お前が考えることじゃない。
 けれど、私は――涙を流すことは、できないのですよ。
 アノマリアはその時、小さく憂う表情を見せた。
 キル、あなたのやっていることは無駄なことです。私には、どうしようもないのです。私は死ねません。涙は流れない。あなたは報われず、あなたの復讐はきっと終わりません。それではあなたが可哀想ではありませんか?
 お前を殺せない方が、俺は報われない。
 私を泣かせるものなど、この世界にはありません。
 そう囁くアノマリアは美しかったが、表情があまりにも暗すぎた。旅の始まりでほのかに微笑んだアノマリア。旅の途中で微笑んだアノマリア。アノマリアは微笑みを常にその表面に浮かべてはいたが、ことに深刻さが二人を包むと途端に暗澹をその全てを持って体現する。暗い。陰りのある何もかもが、アノマリアにはある。それは、自分の涙のことに憂う時。そんな涙のために旅を続けるキルヒヘルについて案じる時のみの仕草だった。そんなことは、キルヒヘルもわかっていた。彼女は涙を流さない冷徹な女ではあったが、何もかもが冷たいわけではなかった。涙を流すと死んでしまうこと。涙を流さなければ死なないこと。涙が出にくい人格であること。そんな自分に復讐しようとする男。けれど、その復讐は終わらないこと。そして、そのためにいつまでも男が縛られていること。アノマリアにとって、それらは結合し、彼女自身を確かに苦しめていた。
 俺の事を案じているのか。
 そんなことは。
 けれど、キルヒヘルにはわかっていた。涙を流すことは、自らの意志とは関係がないこと。泣きたいから泣くなんてことは、どれだけの演技を持っても本物ではない。きっと純粋な涙でなければ、アノマリアは死ぬことはない。アノマリアは泣きたいのである。そして、死にたいのだった。彼女は冷徹ではあるけれど、それは優しさの対極ではなかったのだ。泣きたいこと。キルヒヘルの旅を拒むこと。それは、彼女の中の優しさだった。
 だったら、お望み通り、いつか必ず殺してやる。
 キルヒヘルは、アノマリアの手を取った。





 二人の旅は長く続いた。
 どこまでも広がる空と大地。世界を回り、どれだけの時間を越えても、二人は手を繋いだままだった。
 しかし、旅は終わることになる。





 キル?
 出会って七年目のある時、キルヒヘルはアノマリアを宿屋に置き去りにした。アノマリアはベッドの端々を見渡し、部屋を見据え、キルヒヘルの断片すら残らない周到な旅立ちに喉を冷やした。何もない。ここに、キルヒヘルの残したものが何もない。アノマリアは早急に着替え、宿屋を飛び出した。自分の荷物など要らなかった。アノマリアにとって本当に必要だったのは、キルヒヘルだけだったのだ。
 街を出て森へ行き、湖に辿り着く。時折風が水を割り、細やかな冷気が森全体の温度をひたすらに落ち着かせる、湿っぽく、神秘的な湖だった。湖はちょうど円形に森を刳り貫いたような形で鎮座しており、空が開け、月と混じり合った群青の空がその世界を照らし尽くしている。アノマリアは肩で息をしながら、水辺に立つのその姿に駆け寄った。
 キルヒヘルは水辺に立ち、その到来を細い目で受け入れた。
 アノマリアか、もう気付いたんだな。
 キル、あなたは。
 驚いたか。
 アノマリアがここまで駆け抜けるまでに心の中にありありと浮かんだ文句は、キルヒヘルの恐ろしいほど穏やかな笑顔に消えた。口を開きかけ、閉じる。言葉は唇の上を彷徨って、そのまま冷えた空気と一緒に喉の内側に隠れてしまう。言いたいことはあった。けれど、何も出てこなかった。
 まあ、追いついたならそれはそれでいいだろう。
 何を、言っているのです。
 キルヒヘルはアノマリアから目を逸らすと、その視線を湖の風による波紋に向けた。キルヒヘルは笑ってはいたが、横顔は何かを反芻する切なげなものだった。キルヒヘルはそのまま湖の中にゆっくりと歩を進め、語る。
 お前は言ったな。俺の村を滅ぼしたのは、様々な可能性に賭けたのだと。俺の村を滅ぼして、村人に同情して泣けるかもしれない。生き残りがいて、その生き残りに同情して泣けるかもしれない。その生き残りが復讐にやってきて、国の家族を殺されて、泣けるかもしれない。そう言ったな。様々な可能性が、お前を涙させるかもしれないと。
 ……。
 それと同じことを、俺はやろうとしたのさ。
 キル?
 涙を流すことに、方法論なんて無い。そんなことは、知っている。だけどあの時お前がやったように、俺もたった一つの出来事で、幾つもの可能性を編み出してやる。
 何を。
 キルヒヘルは手元からナイフを手に取ると、その柄をアノマリアに差し出した。
 アノマリア、俺を――殺せ。





 キルヒヘルはアノマリアを睨んだ。強い目だった。その威圧にアノマリアは身を捩じらし、一歩二歩と後ろにたじろぐ。耳の中で言葉が連続的に再生を繰り返され、それが脳裏と全身に打撃を与える。殺せ。それは、幾年か前に自分が騎士に下した命令と同じものだった。あの時は、いったい何を思ってその言葉を告げた? 死にたい。死ぬためには、どうすればいい。試しに殺してみよう。そんな論法で導き出された思考だ。それを小さな返答で見事にやってみせたあの騎士たちは、目の前の彼の復讐の過程によって死んだ。そして彼は、その復讐を成すためにここまで自分と一緒にいた。殺せと命じ、殺せと言われる今のこの瞬間にまで。
 けれど、アノマリアは、あの時のアノマリアとは違った。
 キ、キル。
 ナイフを取れ、アノマリア。そして、俺を殺せ。
 何を言い出すの。
 可能性だ。お前が七年前にやったことと同じことだ。俺を殺せば、お前が涙する可能性は無限に広がるぞ。復讐者が死んで嬉しくて泣ける。復讐者が死んで、あの時仕組んだ目論見が消えて悲しいから泣く。人を自分の手で殺したという事実が悲しくて泣く。殺した感覚が楽しくて泣く。どうだ、これだけあれば、お前は泣けるかもしれない。
 本気で言っているのですか。
 当たり前だ。俺はお前を殺すために、ここまでやってきたんだ。
 アノマリアは、胸の痛みを感じた。自分は彼の家族を殺したが、彼を生かし、そして彼の時間さえも殺したのだ。私が全ての原因だが、そのためにキルヒヘルは全ての時間をアノマリアに費やしてしまった。もし彼が復讐を成し遂げられなかったらどうする。それは、彼が自分に裂いた多くの時間への裏切りだ。今更裏切りもない。それは彼自身が行ったことだ。だが、それは確かにアノマリアにとって酷く苛まれるべきことだ。キルヒヘルの家族や村を殺し滅ぼしたのはアノマリアであった。そして、この瞬間、その因果が巡り来たのだ。
 殺せよ。泣けるかもしれないんだぞ。
 そんなことは、できません。
 なぜだ。お前は、泣きたいのだろう。願いが叶う。俺はお前を殺したい。願いが叶う。それで全て終わりだ。
 風が運んだ葉が水面を打つ。そんな涼しげな世界だというのに、アノマリアの額に汗が伝う。
 あなたを殺すだなんて。
 できないか?
 キルヒヘルは、ナイフ越しに笑った。
 できない――。
 アノマリアは拳を握る。
 どうしてできないのか。
 理由など、分かっていた。
 アノマリアは気付いていたのだ。自分を殺しに来た復讐者に抱いた恋心を。長い旅。自分を殺すために膨大な時間を費やしたキルヒヘル。それは自分を殺すためだが、死にたいという願いを叶えてくれるために尽力してくれたともいえる。そしてそれ以上に、アノマリアにとって、これだけの長さを共にした男など他にはいなかった。キルヒヘルは旅の中で、アノマリアを感涙させるために幾度も芸術を見せた。演劇を、紙芝居を、音楽を、景色を。そして、いつだって隣にいてくれたのだ。ありとあらゆる可能性に賭け続けながら。そんな可能性に賭け続けた男を、そして、自分のために旅をして、同じように旅に誘い傍にいた男を、どうして好まないことがあるのか。アノマリアは知っていた。疼く心を、伸ばしたい指先を、触れたい肌を。
 できません。
 どうして。
 どうしても、できないんです。
 そうか。
 キルヒヘルは、また笑った。それは何もかもを悟った様な、けれど、どこまでも憂いに満ちながら、どこか嬉しそうな微笑みでもあった。アノマリアは、痺れるような空気を忘れたかった。けれど彼女が言葉で空気を割り裂くには、キルヒヘルの行動や言葉は、あまりにも残酷だった。
 これで、復讐は終わりだ。
 キルヒヘルはそう言い。
 ナイフを自分の腹に突き立てた。





 本当の涙は、自分では確信を持って流すことなどできない。様々な要因があってこそ。自分で予想できない何かに触れること。演技でも模倣でもない、ただありのままに浸れる何かしらの素敵を浴びること。そうでなければ涙など流れない。だとすれば涙を流すためにできることは、より多くの涙を流せる可能性が生まれる『出来事』を選び取るしかないのだ。何かの『原因』を作り、その因果が涙を生む。いったい何をすれば、多くの涙が流れるのか。それを考え、もっとも優れた方法を探す。それこそ、キルヒヘルの為すべきこと。アノマリアの望むことであった。
 そうして生まれた『原因』は、今目の前にあった。
 キルヒヘルは吐血し、虚ろに瞳を瞬かせながら膝を付く。その身が湖の水面に叩きつけられる前に、アノマリアはほとんど意志とは無関係のところで動き出し、キルヒヘルの倒れ行く体を抱き止めた。口から垂れる血、腹から湧き出る血。アノマリアはその赤色に目もくれず、キルヒヘルに叫びを当てた。
 キル!
 アノマリアには、わからなかった。どうしてあれだけの会話の先に、こんなことが起こるなどと予想が出来る。わからなかった。どうしてキルヒヘルが。理由がわからなかった。どうして。アノマリアはキルヒヘルを抱き、歩み出そうと思った。どうしてよりも前に、傷がある。血が止まらない。キルヒヘルが自分でナイフを抜いたために、湖に赤がいくつも滴り、薄まりながら模様を付けていく。アノマリアは名前を呼んだ。けれどキルヒヘルは歩み出そうとはしなかった。それどころか、アノマリアを引き止めた。歩くな。連れて行くな。そんな想いが、アノマリアの肩口を掴む微力な指が語ったようだった。それこそ、理由への欲求に火をつけるばかりだった。なぜ、連れて行くことすら拒む。傷は今でも痛みになるのに。どうして、こんなことを。アノマリアは声を荒げた。
 どうして、キル、どうして、どうしてこんな――!
 顔を寄せると、彼は小さな声で言った。
 俺は、お前を愛している。
 キル。
 そして、お前もきっと、俺のことを愛しているのだろう。
 だから、だから、なんだというんです。
 涙を流すためには、最も可能性が増える出来事を選び取るべきだ。だとすれば、こんな悲劇は当然だ。
 キルヒヘルは弱い力で、アノマリアの頬を撫でた。
 一人になるのが寂しいから、泣く。
 同伴者が死んで、泣く。
 寄り添う場所が消えて、泣く。
 復讐する者が死んで、嬉しくて泣く。
 解放されて、嬉しくて泣く。
 死を間近で見て、怖くて泣く。
 血を見て、恐ろしくて泣く。
 愛する者が死んで、泣く。
 愛する者が、自分を愛してくれていたと知って、泣く。
 そして、愛してくれていたのに、その先の幸せが掴めなくて泣く。
 これは悲劇だ、アノマリア。
 キル、もう、何も言わないで。
 だから、お前はもう、死ぬんだ。
 キル、お願い。
 ――涙だ、アノマリア。
 彼は頬に添えた指で、アノマリアの目の端のきらめきを撫でた。
 それは、涙だった。
 そのまま、泣き続けろ、アノマリア。
 キル、私は、私――。
 ああ、死ぬんだ、俺は。悲しいだろう。嬉しいだろう。だから、泣くんだお前は。
 嫌、そんなの。
 だから、これは悲劇だ。けれど、同時に救いのある悲劇だろう。
 キル。
 ありがとう、アノマリア。
 キル――。









 数日後、湖で死んでいる二人の男女の死体が見つかった。
 太陽の光が湖に差し込む、その輝きの中で。
 抱き合うようにして死んでいたその死体たちは、あまりにも美しかったという。
 
 
 




(了)
 
メンテ
ステイヒア・ゴースト ( No.9 )
日時: 2013/05/07 22:06
名前: 有理数 ID:Dxf.PZlY



 あたしの部屋には、幽霊がいる。
 同じクラスの仲間にその話をした時、誰も信じてくれなかったけど、砂月くんという男の子だけは興味を持ってくれた。彼は昔から幽霊とか、都市伝説といった類いに目がないらしくて、あたしの家に行ってもいいかと屈託のない笑顔で問うた。あたしは動揺した。なぜかって、あたしは砂月くんのことが好きだったからだ。





 砂月くんはあたしの部屋の隅にいる、ぼんやりと佇んでいる幽霊を見て言った。
 可愛らしい幽霊だね。
 見えるの?
 見えるよ、女の子の幽霊だろう?
 あたしはそんなことよりも、あたしの部屋に砂月くんがいることの方に胸がはちきれそうだった。変に思われてたりしないだろうか、あたしの前髪は、あたしの部屋のにおいは……そんなことばかりに気が散って、時折飛んでくる砂月くんの言葉に、上手く反応できなかった。馬鹿だあたしは。せっかく砂月くんが、あたしに言葉をくれているのに、それに答えることができてない。それがとっても惨めで、恥ずかしかった。幽霊はいつまでも黙っている。
 喋らないの、この幽霊。
 あたしと二人でいるときは喋るけど、喋らないの?
 うん、どうやら僕相手には喋らないみたいだね。
 そうなの。
 残念、と小さく零しながらも微笑む砂月くんに、あたしは申し訳ないなって思った。砂月くんは幽霊が喋らないので、それをしばらく見つめ続けた後、長居するのもお邪魔だからとぺこぺこお辞儀して、それほど滞りのない優しい笑顔のまま帰って行った。あたしは玄関まで見送って、ばいばいと手を振ったけど、ぴしゃりと扉がしまった後、悲しい気持ちになった。
 幽霊がしゃべらなかったら、すぐに帰るんだね。





 あたしは部屋に戻って、幽霊に問うた。
 どうして喋らなかったの? 砂月くん、あんたに興味を持ってせっかく来てくれたのに。
 幽霊は、長い髪をしているが、顔はきちんと見えている。とても美人で色白で、黒い瞳がいつもきれいだ。白いワンピースを着ているが、足はない。黒い髪と白いワンピースの対照的な色合いが、あたしの部屋の隅に佇んでいるというのに、もうちっとも驚かなくなったあたしは異常なのだろうか。でも、きっと慣れだろう。別に慣れたいなんて思ったことはない。
 だって初めて見る人だもん。
 幽霊は言った。
 砂月くんはね、優しい人なのよ。だから怯える必要なんてないの。
 だって、だって。
 幽霊は、言葉を失った。
 あたしは、幽霊のことが嫌い。
 部屋にずっと佇み続けている。怖いと思ったのは最初だけで、ずっとずっとそこに立っているのだ。喋り出してからは、まるで部屋には一人ぼっちじゃなくなったような気がして、それはよかったと思った。だけど、長い長い時間、決して一人になれないというのはとても辛い。いつも見ていて、あたしもいつも見られている。幽霊が同じ部屋にずっとい続けるなんて、迷惑もいいところだ。どこかへいってほしい。そう思ってた。
 砂月くんが幽霊に興味があるから、家に行ってもいいかと訊いてくれたとき、舞い上がる様に嬉しかった。その時だけは、幽霊があたしの部屋にいてくれてよかった、って思ったのに。結局、幽霊は砂月くんをがっかりさせて、そのまま帰らせてしまったのだ。それは同時に、砂月くんはあたしには興味が無くて、本当に幽霊目当てでやってきたのだという証明にもなってしまって、あたしはこんなにも、幽霊に八つ当たりをしている。嫌な子だ、あたし。
 あんたなんて、いなくなっちゃえばいいのよ。
 あたしはそう言って、ベッドに潜り込んだ。
 ごめんなさい。
 幽霊は一言謝ると、喘ぐように泣き始めた。
 




 ねえ、今日も家に行っていいかな?
 砂月くんが次の日もそう言ってくれた時、教科書を落としてしまいそうになった。
 あたしはとても驚いたけれど、砂月くんはあたしの部屋の幽霊に興味を失くしたわけじゃないらしかった。もう一度あたしの部屋に上がった砂月くんは、幽霊の前に座って、昨日と同じように話しかけた。幽霊はいつもの、笑っているような無表情なような、よくわからない顔で立っている。あたしは砂月くんの後ろで、ちょっとだけ緊張しながらその様子を見つめていた。
 幽霊さん、こんにちは、僕は砂月です。
 ええっと、こんにちは。
 喋った。
 砂月くんは大きく反応して、喜んだ。幽霊が喋った。あたしは後ろで、砂月くんが嬉しそうにしているのを見ていた。幽霊は、ちょっとだけ頬を染めながら、それでもうろたえたように砂月くんを見つめている。砂月くんは幽霊が喋ってくれたのをきっかけに、矢継ぎ早に質問を飛ばした。名前はなに、出身は、生まれは……幽霊は記憶が無いみたいで、あんまりきちんとした答えを言わなかった。だけど砂月くんは、忘れましたといったような幽霊の反応にさえ、子どもみたいにはしゃいで喜んだ。幽霊が答えてくれる。そういうものが大好きな砂月くんにとって、これほど嬉しいことはないだろう。
 あたしだって、砂月くんが喜んでくれるのは嬉しいけど。
 嬉しいけど。
 胸が痛くて、面白くなかった。





 砂月くんが帰った後は、びっくりするくらい部屋は静かになった。かすかに砂月くんの匂いが残っていて、慌ただしい言葉や砂月くんの声が、耳の奥で反響している気がした。あたしはドアを閉めて、きっ、と幽霊を睨んだ。幽霊は少しだけびくっと体を震わせて、どうしたの、と怯えた声を出した。
 よかったわね、優しくしてもらえて。あたしとは違うでしょ。
 そんなこと思ってない。
 あたしがあんたに優しくしたことある? あたしはね、あんたなんていなくなっちゃえって思ってるの。ずっとよ。
 幽霊は俯いた。
 何言ってるんだろうあたし……幽霊は、幽霊で、それは変わらないもので、いなくなることができるのならいなくなることだってできるし、ここにいたくているわけじゃないこと、あたしだってわかるのに。あたしは、あたしの部屋にいるはずの砂月くんが、まるであたしの部屋にいないみたいな、そんな風にずれてしまった何かを、幽霊の所為にして。わかってるのに、幽霊は何も悪くないのに、言葉が止まらない。
 ごめんなさい。
 幽霊は泣き出した。
 あたしは何も言えなくなって、口の中がからからに渇いてしまって、部屋を出て行った。





 それから砂月くんは、毎日のように放課後、あたしの部屋にやってきた。
 だけど、あたしの部屋にいる数時間の間、砂月くんの視線があたしに向いた瞬間が、いったいどれくらいあったのだろう? きっと、両手で数えられるほどだろう。砂月くんの唇は、まず最初に、幽霊さんは、で始まる。あたしの名前は出ない。あたしは二人が向かい合って話をしている後ろで、本当は耳を塞ぎたいのに、二人の会話をさも面白がっているように時折笑って見せながら、この空虚で切ない時間が終わってしまうのを待っていた。耐えられなくなって、部屋からわざと出て言ったりもした。その度に胸が苦しくって、キッチンでテーブルに伏せって、暗闇にばかり心を投げたりもした。居心地が悪かったのだ。あたしの部屋なのに、二人とも、決してあたしの入り込む居場所がなかったから。
 砂月くんが帰った後は、あたしはいつも幽霊と喧嘩した。
 ――喧嘩じゃない、ただのあたしの悪口だった。よかったわね、優しくしてもらえて。いつも一緒にいるあたしよりもずっと、構ってもらえて。頬まで染めちゃって、馬鹿じゃないの。あたしは抑えきれなかった。あたしの部屋にいるのに、あたしじゃない存在が、砂月くんの視線を独り占めしている事実が。彼の口から洩れる言葉や対話が、何もかもあたしじゃない人に向けられているという事実が。
 ごめんなさい。
 幽霊は、謝った。
 あたしは喉が勢いを失ったのを感じて、舌打ちをして、ベッドに潜った。
 幽霊は泣いている。
 あたしは毛布を頭からかぶって、聞こえないふりをして。
 あんたなんか、いなくなっちゃえばいいのにって。
 だけど、砂月くんは、幽霊がいなくなっちゃったら、きっとあたしの部屋になんか来ないのだ。砂月くんの瞳には、あたしなんか映っていない。映っているのは、あたしの向こう側の、幽霊だけ。砂月くんは幽霊がいるからあたしの部屋にやってくるのであって、あたしの部屋に来ているわけじゃないんだ。
 だから、幽霊がいなくなったら。
 砂月くんはもう、あたしのことなんて、きっと見なくなって。
 話しかけもしないんだろうな。
 あたしは嫌な子だ。
 だったら、幽霊にはいてほしいって。
 簡単に手のひらを返してしまうなんて。





 砂月くんは、幽霊のことばかり話している。
 あたしと砂月くんだけの時間は、放課後、それじゃあ行こうかって二人であたしの家へ向かっている、徒歩の三十分だけ。最初はその時間だって、あたしと砂月くん『だけ』の時間でいられたのに、いつのまにか、その時間さえも幽霊は蝕みはじめたのだった。口を開けば、幽霊さん。砂月くんは空を仰いで、道の先を見つめて、あの幽霊さんは。その言葉から始まる。最初は、最初のうちは、まさか君の家にって。君って、あたしのことを表す言葉で始まっていた言葉たちが、いつのまにか、幽霊に奪われていた。時間さえも、言葉さえも。それはつまり、砂月くんの頭の中は、きっとあの幽霊で満たされつつあるということなのだ。それでもよかった、あたしと少しでも時間を共にしてくれれば。だってどれだけ言葉がそうだとしても、話をしているのは、その時間だけは――家に着くまでのちょっとの間、砂月くんと話をしているのは、紛れもなくあたしなのだから。だから、どれだけ幽霊にいろいろなものが奪われたって、それだけでちょっとは嬉しかった。
 なのに。
 砂月くんは、深刻な顔をしてあたしに言ったのだ。
 ねえ、あの幽霊さんのことが好きになってしまったんだけど、どうすればいいかな。
 




 あたしは、砂月くんに、今日は用事があるからと言って、途中で別れた。
 ばいばいと手を振る砂月くんは、本当に優しい顔をしていた。
 あたしもばいばいと手を振ったけど、きちんと笑えていたのかわからない。悟られちゃ駄目だと思った。だけど、きっと大丈夫だと思った。だって、あれだけ部屋に連れて行くことばかりしていたのに、ちっともあたしの気持ちに気付かない人なのだ。それらしい反応もしないで、遠慮なくあたしの部屋で、ずっとずっとあたしを放って、幽霊とばかり話す人。そんな人が、いまさらあたしの気持ちに気付くわけがない。そう思っていたけど、きっとそれでも怖かった。きっと泣いたら、さすがの君でも。あたしは彼の背中が曲がり角に消えて行った後、ゆっくりと手を下して、ゆっくりと家に帰った。
 部屋に戻れば、いつものように部屋に幽霊がいた。
 おかえりなさい。
 あたしは、鞄を投げ捨てて、そのまま幽霊を見つめた。
 どうしたの。
 幽霊は、何もわかってない風に首を傾げる。
 どうしてあんたは、あたしの部屋にずっといるのよ。
 幽霊は、表情の色を失った。
 あんたなんていなくなっちゃえばいいのに! 最初から、いなければよかったのに。どうしてあたしの、あたしの部屋にいるのよ。どうして奪っていくの。どうしてあたし――。
 途中から、何も言えなくなって、崩れ落ちた。
 幽霊がいなかったら、砂月くんは、まだきっと誰かを好きじゃなかったかもしれない。だけど幽霊がいたから、砂月くんは好きな人を見つけてしまったのだ。彼の心を、幽霊が満たしてしまって、あたしの入り込む隙間を、全部奪って。そこは元々あたしのものじゃない。彼はいったいどこを、あたしのために使ってくれたの。きっと、ゼロだ。彼はあたしのために、本の少しだけ時間をくれただけの、ただの他人としかあたしを見ていなくて。幽霊との出会いをくれたキューピッドだって、それだけの存在でしかなくて。あたしは顔を覆って、ずっと泣いていた。
 何があったの?
 うるさい、あんたなんか、あんたなんか。
 あたしは幽霊の声を、必死に振り払った。
 お願い、泣かないで。
 あたしは心の中で、怒鳴っていた。涙で絞るような悲鳴しかでないのに、心の中の唇だけは、どれだけ泣き声に邪魔されたって動いてくれた。うるさい。あんたは何にも知らないくせに。泣かないでなんて言わないで、あんたがあたしの泣く理由を作ったくせに。よくもまあ、そんなことが言えるのね。あんたが泣かせたのに、あんたの所為であたしは泣いているのに。
 砂月さんのことで、何かあったの?
 彼、あんたのことが好きなんだって。よかったわね、あんたも、彼のこと、好きなんでしょ。
 涙ながらに訴えた。あたしは見ていたから、きっとそうだって知っている。幽霊も、いつの間にか砂月くんと打ち解けて、笑っていた。最初は喋ろうともしなかったくせに、いつの間に彼の前で、頬を染めて、言葉にためらいがなくなっていた。幽霊は砂月くんに心を許して、あたしとは喋ったことのないようなことも、喋っていた。
 違うわ、わたしは砂月さんのこと、そんな風には思っていないよ。
 嘘。どうせ嘘よ。だからあんなにも、仲良さそうにして。嫌がらせのつもりでしょ。あたしがいつもあんたに酷いことばかりやってきたから、あたしが砂月くんのこと好きなこと知っているのをいいことに、そうやって見せつけてたんでしょ。
 違う。
 あんたなんか、いなければよかった。こんなに苦しいのは、もう嫌。砂月くんのこと、好きなのに。一緒にいてくれるのはあんたのおかげだなんて。あたしと砂月くんを繋いでいるのが、憎たらしいあんただなんて……! あたしはもう嫌なの。あんたにも、あたし自身にも……あんたがいなければいいって思うのに、あんたがここにいないと、砂月くんとはもう話せない。だから、あんたにはまだここにいてほしいって思って。そんな風に、どっちもどっちなの。選べないの。もう嫌なの、辛いのよ! ねえ、どうしてあたしの部屋に来たの。最初からいなかったら、こんな気持ちにならなかったのに。
 あたしはそれから、しばらく声を上げて泣き続けた。
 手のひらで顔を覆って。
 そしたら急に、ふわりとあたたかなものがあたしを包んだ気がした。
 滲んだ視界のまま顔を上げたら、幽霊の顔が目の前にあった。
 ごめんなさい、本当に、ごめんね。
 幽霊はあたしの頬を少しだけ撫でると。
 ゆっくりと薄くなって、消えてしまった。





 幽霊は、消えた。
 あたしの部屋の隅っこには、もう長い髪で、白いワンピースに包まれた女の子はいなくなった。砂月くんにそう話すと、それは残念だと言った。あたしは砂月くんについつい、あんな幽霊消えてくれてよかったのよ、と漏らしてしまった。砂月くんは幽霊が好きだったのに、なんてことを。あたしは後悔して、ごめんと謝った。砂月くんは、いいんだよと言った。
 ちょっと前から、僕と幽霊さんが話している時、部屋から君はいなくなるようになっただろう?
 うん、とあたしは返事をした。居た堪れなかったし、ひどく居心地が悪かったからだ。
 するとね、幽霊さん、君の話ばかりするんだよなあ。突然、自慢していいですかって。君の寝顔が可愛いだとか、いつも自分に怒ってばかりだけど、話しかけてくれるだけで嬉しいってさ。
 ……。
 どうしてこの部屋にいるのって訊いたら、秘密ですって顔を真っ赤にしてた。多分、君と一緒にいて楽しかったんじゃないかなあ。どうして消えちゃったんだろう。残念だ。
 砂月くんとはそれ以降、ほとんど関わることはなくなった。当然だ。砂月くんとあたしを繋ぐものは、あの幽霊だったんだから。その幽霊がいなくなったんだから、もうあたしと砂月くんは、決して交わることはない。時折挨拶をしたり、教室で小さな言葉程度なら交わすことはあったけれど、部屋に行かせてと言うことはなくなったし、あたしと二人きりになることもなくなった。学年が変わると、もう完全にあたしと砂月くんは、まったくの他人になった。廊下ですれ違っても、すれ違うだけだった。
 だけど、悲しくはなかった。
 あたしは部屋に戻って、おかえりなさいという声が響かないその違和感に、しばらく悩み続けた。晩御飯を食べた後に、美味しかったかどうかを尋ねる声や、いってらっしゃいと笑う声が聞こえなくなって。部屋の隅っこに佇むあの影が、ただの白い壁ばかりになってしまったことに、ベッドに座って、ただいつまでも時間を潰してばかりで。その壁にあの姿を思い出すなんて、本当は、あの幽霊の存在が、あたしの中で大きなものだったんじゃないかって。
 ごめんなさい。
 本当に、ごめんね。
 彼女はそう言って、消えて行った。
 どうしてこの部屋にいるの。
 秘密です。
 砂月くんから教えてもらった、あたしの知らない幽霊。
 どうして、あたしなんかと一緒にいたのよ。
 いなくなっちゃえなんて、酷い言葉ばっかりあんたにぶつけていたのに。
 あんなにも最低なあたしだったのに。
 それでもあんたは、あたしと一緒にいることを、選んでくれていたの? 消えることができるのなら消えるし、あの部屋にいたくていたわけじゃないんだろうって、あたしはそう思っていたのに、間違っていたの? 
 どうしてなのよ。
 あたしはベッドに仰向けで倒れて、腕を両目に押し付けた。
 それでも、答えてくれる幽霊はもういない。
 なにか、ずっとずっと大切なものを失ったみたいで、一緒にいてくれたのに、ひどいことばかりを投げ掛け続けて、そして、もしあたしと共に在ることを選んでくれたあの幽霊に、消えてしまえと罵った自分がこれ以上ないくらいに恥ずかしかった。もう一度会えたら、きっとまたひどいことを言うのだろうけど。そんな仮定は無意味で、失ったからこその気持ちなのだろうけど。
 もう一度会えたら、あたしと砂月くんを繋いでいてくれるからあんたにいてほしいなんて、言わない。
 あたしが、あんたにいてほしかったって。
 言ってあげるから。
 ここにいてって。
 でも。
 でも、もうきっと、会えないのだ。
 あたしは、押し付けた腕に少しずつ滲む水分に、ただ嗚咽を添えて、静かに泣いた。





(了)
 
メンテ

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