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[623] あなたの死なない物語
   
日時: 2014/09/23 12:25
名前: 憧子 ID:pOn2I2WA

生かすも殺すもxxx次第。



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メンテ

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彼と彼女と幸福論 ( No.142 )
   
日時: 2013/09/09 18:03
名前: 憧子 ID:TrgbwbnA

自分、年取ったなと感じる瞬間はいつですか。

化粧ノリが悪くなってきた時。
徹夜が出来なくなった時。
平成生まれの女の子が入職してきた時。
生え際の白髪が目立ってきた時。
手を洗うだけで肌がガサガサになる時。
陳腐なメロドラマで号泣してしまう時。
漬物とお茶を一緒に食べるのが最高に美味しい時。
母親が結婚した年齢を追い越した、今。


自分の人生って、なんてつまらないものなんだろう。

そう落ち込んだ時は大抵、真夜中に、近所のディスカウントストアでカゴいっぱいにお菓子を買う。お酒も。
何度も何度も違うお店が建っては潰れ、また建っては潰れと繰り返してきた曰く付きのこの土地にも、遂に安住の店舗がやって来たと思っている。
系列企業で大量購入、大量備蓄して来るべき時に売るというスタンスは、輸入モノを取り扱う大型ディスカウントストアと同じく、然るべき成功を収めているというわけだ。
それに何より、24時間営業というのも大きな魅力のひとつだ。
日用雑貨から食料品まで幅広い品揃えを誇るこの店は、コンビニよりも実に便利で、またお財布にも優しい。良いことづくめなのである。
ただあえて文句をつけるとしたら、ポイント3倍デーが毎週木曜日という点だ。
出来るなら、火曜日にしていただきたかった。


図書館にあってもおかしくない程大きい棚に、ずらりと陳列されたお菓子をぼーっと眺める。
このコーナーに足を踏み入れる度に、さて何を買おう、どんだけ買っても大人のわたしにはチョロい金額にしかならないのよねうふふ。
と子供みたいにワクワクしているのに、今はなんだか気が乗らない。
思い起こされるのは今日(正確には日を跨いでいるので昨日になる)のこと。
それを忘れる為に此処へ来ているというのに、わざわざ記憶を掘りおこすとはどういう了見かと我ながら驚きを隠せない。

目に付いたお気に入りの甘いお菓子をカゴに放り込む。

(え〜? だってそんなこと言われてないですしぃ、あたしそんなことする為にここに来たんじゃないんですけどぉ)

甘ったるい声。耳障りだ。鬱陶しい。
塩気のあるお菓子もカゴに放り込む。

(えっモリコ先輩って、彼氏いないんですか? えぇ〜それって、干物女ってやつじゃないですか?
もしかして先週のマチコンとか行ってたりして! きっとあの人、年齢=彼氏いない歴ですよぉあたし分かるんです!)

トイレという空間には、不幸しかないと思う。
300円のパンツを下ろしたまま紙を握りしめて静かに耐えていた自分は、惨めな姿ながら相当偉いと思う。
誰もいなくなってから水を流して、手を洗って震えを抑えて、何事もなかったかのように彼女と接していた自分は相当大人だったと思う。

認めたくないけれど、彼女の言っていることもあながち間違っていないから、だから「お手洗いで上司の陰口はどうかと思うよ」と注意したり
「マチコンに行くほど男に飢えてないから」と憎まれ口を叩いたり「どうも〜三十路手前の処女でーす!」と冗談を言うこともしなかった。

自分は、自分なりに頑張っている。

誰も認めてくれないが、誰も察してくれないが、誰もが当たり前と思っているだろうが、自分は相当頑張っていると思う。
頑張っている自分を褒める為に自分でしている行為が、結果的に自分の首を締め、下腹部に脂肪をまとわせているとしても良い。
それで良いじゃないか。
しかしこれが、彼女みたいな若い子に言わせれば「干からびている」状態なのだろうか。


「失礼ですが、お客様」


眈々とした声に、ハッと顔を上げる。
店のイメージカラー、蛍光色の黄色いエプロンをつけた男性が、ぬぼっとした表情でわたしを見下ろしていた。
咄嗟に、レジ表示と自分の出したお札を確認する。足りない訳ではない。



「あ、ポイントだったらそのままでいいです……」
「いえ、そうではなく」



男性は、深みのある声で淡々と喋る。
見たところ、わたしよりいくつか歳上のようだが、その声には様々な経験を積んできた重みのあるものが含まれているような、そんな気がした。
深夜のディスカウントストアでレジ打ちしているくらいだから、それなりに普通じゃない経験があって、今ここに立っているのだろうか。
などと、変な詮索をしてしまう。


「えーと、あの、お金これで足りてますよね、お会計を……」
「失礼ですが、お客様。あと250円あれば、きっと素敵なことが起きますよ」
「は」


口から漏れたのは、新入社員が仕事中にスマホをいじっているのを注意したら逆ギレされた時にわたしが出したのと同じ、心底気の抜けた渾身の「は」だった。
何言ってるんだこの人。冗談言うような人には見えない、というか、本人は冗談だなんて思ってないような至って真面目な表情だし。
男性はそれ以降口を噤んでしまって、お会計を済ませてくれなさそうなので、わたしは仕方なく小銭を確認した。
えっと、250円だっけ。あ、出る。


「はい、じゃあ250円」
「では、1250円お預かりします」


ピピピ、とボタンを叩くと、じゃらじゃらとお釣りが出てくる。
最近のレジは自動でお釣りが排出されるから、渡し間違いもなくてレジ閉めも楽なんだろうな。
男性は、レシートと小銭を重ねると、「777円のお返しになります」と言い、ほんの少しドヤ顔になった。
レシートには、777と、太く大きく書かれている。


「素敵なことって、これ?」
「お気に召しませんでしたか」
「うーん……残念ながら」
「それは、失礼しました。どうもお客様は気分が優れないようでしたので、小粋な計らいでもと思ったのですが。無粋な真似を致しました」


男性は相変わらず無表情だった。それにしてもペラペラとよく喋る。
もしかして新手のナンパだろうか、と思ったけれど、スッピンに寝巻きみたいな格好をした女を引っかけようとする男がいるとも思えない。
化粧しててもナンパなんてされた試しがないのに。
きっと、深夜で話相手もいなくてわたしが久しぶりの客だから、構いたくなっただけだろう。
それか、頭がおかしい人。前者であってほしい。ここに来にくくなるじゃない。
黙って去るのもアレなので、どうも、と会釈をしてからわたしは店を後にした。
男性は業務的にありがとうございました、とだけ言った。

家に戻ってから、名札見てくれば良かったな、と少し後悔した。
名前を知ったところで友達になりたいとかそういうのじゃない、けど。何となく。
それから牛乳をレンジで温めて、飲んだらホッと全身の力が抜けて、買ってきたお菓子には手を付けずにわたしは寝てしまった。


出勤。というか、出動。
社会人になるっていうのは、敵まみれの社会に出動することだと思う。
勿論周りにいるのは敵だけじゃなくて、わたしをサポートしてくれる味方もいる。
しかし不思議なもので、味方は片手ほどの人数しかいない。何処へ行っても、大抵は敵の方が多勢なのである。
まあわたしは、正義のヒーローほど、自分は勝ち続けられないけれど。

今日も、地下鉄の押し合い戦争に負けて電車を一本見送った。
押されると尻込みしてしまって、他人に道を譲りたくなるのだ。
それはわたしの処世術だと思う。
自分が我慢すれば、次の電車には一番に乗れる。それで良い。
毎日無駄に早起きをしているけれど、それで良い。
つまらない人生だな、と列の先頭に立ちながら思う。
自分で自分を鼻で笑う。見事に社会の歯車になってるじゃないか。
特異点になる気はないのか、このままで良いのか。
焦り、なのかもしれない。


「失礼ですが、お客様」


凛とした声に顔を上げる。まさか。
そのまさかだった。
わたしの隣には、昨晩のレジ打ち男性が立っていた。それも駅員の格好で。


「えっ」


上から下まで眺めてみても、間違いなく駅員だった。
黄色いエプロンなんてしていない。


「駅員さんだったんですか」
「いえ、レジがクビになりましたので、今日からです」
「えっ」


呆然とするわたしをよそに、男性はあるものを差し出した。
白いハンカチ。


「これは、あのご婦人の落し物です。お客様が、届けてさしあげてください」
「い……いやいや。誰のか分かってるんなら、貴方が渡せば……」
「お客様でなければ駄目なのです」


あちらの方です、と男性は隣の列の先頭に立つ女性を指差す。
臙脂色のカーディガンを羽織った、白髪交じりの女性。


「きっと素敵なことが起こりますよ」
「……」


わたしの手の中にハンカチを押し付けるようにすると、男性はツバ付き帽子を片手でちょいと持ち上げて、去っていった。
折角、先頭にいるのに……とわたしは背後を見る。
ヘッドフォンをつけた学生や、携帯を見つめるサラリーマンがわたしの後ろにズラリと立っている。
それから、手の中のハンカチ。
預かってしまった以上、渡さなければ仕方ない。
わたしは意を決すると、列から抜けて女性の元へと歩いていった。


「あ、あの」


ためらいがちに声をかけると、わたしより少し背の低い女性は、すっと表を上げた。
その顔を見て、わたしは驚きを隠せなかった。女性もわたしの顔を見ると、「あらぁ」と声を漏らした。


「杉山先生。お久しぶりです」
「へえ、やだ久しぶり。わー、スーツ! 似合ってるじゃない。職場はこの辺りなの?」
「はい、5駅先の……」


女性は、わたしの小学校の時の担任だった人だった。
この人に出会って、教師という道も目指してみたいと思った、いわば恩師なのだが、結局頭が足りずにこうして普通に会社員をやっている。
先生は、あの頃と変わらず優しさと厳しさのある顔だった。見合わせた瞬間は優しさが勝っていたと思う。
勿論、シワもあるし白髪も見受けられるけれど、キリッと引き締まった目元と、一つ結びの髪型は当時の面影を残していた。
近況報告も程々に、わたしは当初の目的を思い返す。


「そ、そうだ。このハンカチ、先生のですよね」
「あら、落としてたのね。ありがとう、助かったわ。貴方にも会えたし、何だか運命を感じるわね」
「……運命」
「ええ。今日は良いことがありそうだわ。貴女にもきっと、ね」


そう言って先生は笑った。
同時に、ホームにアナウンスが響いて、電車がやって来る。
また会った時には詳しい話を聞かせてね、と目を細めて笑うと、先生は電車に乗らず、階段の方へと歩いていった。
わたしは先生の背中を見送りながら、あの駅員を探した。
運命。
先生の一言が胸の奥に引っかかった感じがした。
彼はホームの何処にも見当たらなかった。わたしは諦めて、列の後ろに並び直し、電車に乗った。


不幸の空間。

(締め日で忙しいってのに、あの新人)
(風邪だーなんてねぇ。昨日まであんなにピンピンして課長にゴマ擦ってたじゃない)
(ま、親戚を5人も6人も殺すよりマシね、可愛いもんよ)

わたしは、複雑な気持ちだった。腹を抱えて笑えればいいのに。
彼女に同情している自分がいた。
優等生ぶりやがって、といきり立つ気持ちを奥歯を噛みしめて殺す。
だからこんなつまんない人生なんだよ。
人の悪口を盗み聞きして、一喜一憂して、本心なんて誰にも話せなくて深夜にやけ食いすることでしかストレス発散できない。
つまんない奴。臆病な奴。

誰もいなくなったのを感じてから、わたしは扉を開けた。
自分の悪口を言われていないだけ、マシ。
いや、むしろわたしはそれを一番恐れている。
誰かが自分の悪口を言ってるんじゃないか。敵がいるんじゃないか。
そうビクビクしながら、個室に閉じこもって耳を立てる。
他人が出ていくまで、自分も外に出られない。

人混みの中で溜め息をついた。気分が沈む。
こんな時はお菓子やけ買いしよう、そう思いながら帰路を急ぐ。
ああでも、あの変な人はもうレジにはいないんだ。
ふっとそう気づいて、気分がより一層沈んだ。
この気持ちは何?また会いたい?恋?一目惚れ?
いや、そういう甘い感情じゃない。
あの男性は、わたしに小さな幸せをもたらしてくれる。
そう期待してしまう。だから、会いたい?


「失礼ですが、お客様」


がやがやとした喧騒の中で、響く、声。
最初は幻聴かと思った。たまにあるじゃない、想像しすぎて名前を本当に呼ばれたような錯覚に陥るの。


「お客様」


あら、幻聴じゃない。
顔を上げると、横には赤いジャンパーを羽織ったあの男性。


「……えっ」
「ティッシュをどうぞ」


男性は無表情で、ポケットティッシュを差し出していた。
片手には、山盛りのティッシュが入った籠を持っている。
お願いしますー、お願いしますー、と同じような赤いジャンパーの人達が周囲でティッシュを配っていた。
わたしはもう驚くのをやめて、黙ってティッシュを受け取った。


「もしかして、昨日の今日でもうクビになったんですか。駅員」
「はい」
「それある種の才能だと思いますよ……」


わたしは、改めてしげしげと男性の顔を眺めてみた。
刈り上げられた黒髪、清潔感は……あると言えば嘘になるような。でも不潔ではない。
ややキツイ目元。髭はないけど、シワが少し。見た目より意外と歳なのかも。
長身で、ぬっと立ち塞がられると圧迫感があるかもしれない。
しかし反面、声がとても魅力的だと思う。
そのアンバランスさが絶妙で、変な人なのに、惹かれる。


「不思議な人ですねぇ」
「私がですか」
「そうですよ」
「失礼ですが、お客様。私から言わせていただくと、貴女たちの方が不思議でなりません」
「へー……」


貴女、たち?
首を傾げながら、無意識のうちにティッシュをポケットにねじ込んだ。
男性はそれをじっと見ていた。


「……あの、アレは?」
「アレ、とは」
「素敵なことが起こりますってやつ」
「はい」
「ないの?」
「あります」


男性は軽やかに会話のキャッチボールをこなす。


「先ほどお渡ししました。お話ししてください」
「お話し?」
「素敵なことが起こりますよ」


見間違いかもしれないけれど、男性はほんの少し悲しそうな目をした。
先ほどお渡ししました、ってことはこのポケットティッシュのことを言ってるのよね。
引っ張り出してよくよく見てみると、裏面の広告が入っている場所に厚紙が入っていて、小さく、電話番号が書いてある。
見覚えがあるような、と思考が一瞬停止する。


「……ってこれ、うちの実家の電話番号! なんで知って……あれっ」


道端で大声を出したわたしに、通行人の視線が痛い。
慌てて男性の姿を探すけれど、つい十秒前には隣にいた彼は忽然と姿を消していた。


「どうなってんのよ……」


専門学校か四大かで揉めて、わたしの我儘を通して専門に行き、散々遊びまくり、うまく就活が進まなくて、親のせいにした、わたしの十代と二十代前半期。
そんな遅すぎる思春期における葛藤と、家族にしてきた仕打ちを思い返すと、布団を自分に見立ててばしばし叩きたい衝動に襲われる。
わたしは本当に馬鹿でした。過去にタイムスリップできたら、どうにでもなるさと社会をなめてた自分を殴り飛ばしてやりたいですとも。

スーパーで買った特売の惣菜で夕飯を済ませて、床に寝っ転がりながらポケットティッシュを見つめる。
そういえば、就職して一人暮らしを始めてから母親とまともに会話をしていない。
正月にも盆にも帰らなかった。実家は遠くないけれど、仕事が忙しいというのを言い訳にしてきた。
実際、忙しかったけれど、家族と顔を合わせづらいのが本音だった。
逃げてきたのだ。
だけどそろそろ、向き合う時かもしれない。わずかながら仕送りもできる余裕もある。
もう、家族に胸を張れる自分になれたんじゃないだろうか。
それに、迷惑をかけた母親に、一言謝るべきじゃないか。

お客様、お話ししてください、と記憶の中の男性がわたしの背中を押す。

わたしは携帯を取り出すと、連絡帳から実家の番号を呼び出した。
父親が出た。娘だけど、と謎の自己紹介をすると軽く笑われて、母さんに代わるかと尋ねられた。
わたしは唾を飲み込んで待った。


「もしもし」


ああ、お母さんの声だ。じんわりと涙が出てきた。


「お母さん、わたし」
「何、急に電話なんかしてきて。結婚でもするの?」
「いや、しないから。うん、何かね……話したくなったから」
「だったら帰ってきなさい、忙しいのかもしれないけど。せめて年末くらいは休めるでしょう」
「うん、今年はちゃんと帰るから。それから、今まで迷惑かけてごめんね、お母さん」
「どうしたの、あんた、怖いわぁ。母の日までまだあるわよ、気が早すぎ」
「言いたくなっただけ。ごめんね」
「それなら誠意を見せてもらわないとね。母さん、温泉に行きたいなぁ」
「はいはい、じゃあ今度ご馳走しますから」
「父さんも一緒よ」
「はいはい、それじゃね」
「声聞けて嬉しかったわよ、モリコ。頑張りなさい」
「うん」


3分半の会話で泣けるなんて、自分は本当に涙もろくなったなーと、少しだけ笑えた。


それからの数ヶ月間は、驚く程平和だった。
小生意気な新人も、上司にしぼられて改心したのかすっかり大人しくなった。
わたしは家族旅行の計画を立てながら、自分の仕事に邁進した。
毎日が意欲的で、やけ食いすることも減った。
まるで人が変わったように穏やかな心持ちだった。

何がきっかけだったのかと考えれば、やはりあの不思議な男性が現れたことだと思う。
彼がもたらしてくれた小さな素敵なことが、わたしとわたしの人生を変えてくれた。
あれから彼を見かけることはなかったけれど、もう一度会えたらお礼が言いたいと、そう思っていた。

矢先に、平和は音を立てて崩れた。件の新人の手によって。


年の瀬が近付いた頃、もうすぐ昼食だという時だった。
新人が、社内で行方不明になった。
トイレに行ったと思っていたのだが、仕事を放り出したままかれこれ一時間帰ってこない。
荷物もスマホも席に残ったままだから、何処かで油を売っているらしい。
昼休みになれば財布くらい取りに戻ってくるだろう、とわたしはさほど気にしていなかったが、わたしの知らないところで、事態は大事になっていた。

外線電話をとっていたらしい上司は、目を丸くして自らの持つ受話器を見つめた。
わたしと同じくパソコンに向かう手を止めてその様子を見ていた男性社員が「どうしたんです」と声をかけると
「このビルの屋上から誰かが飛び降りようとしているらしい」と半笑いで上司は答えた。
誰かの悪戯だろうと信じたい、複雑な声色である。受話器を置く音が、昼食のチャイムよりも大きく響いた。
その場にいた全員も笑うに笑えない変な顔ばかり浮かべていたから、同意見だったのだと思う。

わたしは咄嗟に、新人の席を見た。机の上は整然と片付けられていた。
仕事はできないが、できるフリだけは上手だった彼女の机の上はいつも書類やメモで埋めつくされていたのに。
まさか。
わたしはエレベーターホールへダッシュした。


師走の空は灰色に染まっていた。すぐに雪が降りそうなくらいに寒い。
上着持ってくれば良かった。と悠長なことは考えていられない。
屋上を見渡すと、フェンスの向こう側に立つ茶髪の女の子。


「サキタニさん!」


わたしが声を荒げると、彼女はびくりと振り返った。


「モリコせんぱぁい……」
「馬鹿なこと、考えてないで! 戻ってきなさい!」


ここは高層ビルの屋上。
落ちてしまえば、一貫の終わり。
頼りなさげなフェンスを握りしめる手は細かく震えていた。
わたしは頭をフル回転させて、目の前で自殺しようとしている人物の説得方法を必死に検索した。
これまでの経験則は勿論ゼロだ。
とりあえず刺激してはいけないと、片腕を伸ばしながら、ずり足でフェンスへの距離を詰める。


「どうしたの、仕事の悩み? わたしに相談できない?」
「違うんですぅ、ちが……モリコ先輩、あたし、どうしたら……」


ビル風が、朝まで可愛らしくゆるふわっと巻かれていた彼女ご自慢の髪を、容赦なく巻き上げる。
サキタニさんは大泣きしたらしく、鼻元も、目元のぱっちりメイクもグシャグシャだ。
わたしはなるべく憤りを抑え、優しい顔をしながら、じりじりと必死に近づく。


「課長が、別れてくれって、あたしとは遊びだってぇ……酷い、奥さんとは離婚するって、あたしは特別秘書にしてくれるって、言ってたのにぃ!」


グシャグシャの顔をさらにクシャクシャにして、サキタニさんは腹の底からの恨み節を叫んだ。
冬の冷たい風はかまいたちのように頬に当たり、この場をどうにかしなければと必死になるわたしの身体を冷やしてくれてはいるが
同時に、境界線の向こう側にいる彼女の危うい背中を、後押ししようともしている。
課長、浮気してるんじゃないかって噂あったけど、この子だったのか。
……なんて、今はそんなこと考えている場合じゃない。
いくら評判の悪い新人社員だって、会社で、しかも目の前で死なれてしまっては困る。
彼女の人生も終わってしまうし、自分たちの人生だって最悪終わってしまう!流れが変わってきている今になって、それはあんまりだ。
もう半歩近づけば、彼女の手を取れる。


「先輩、ごめんなさぁい。あたし、本当、これからは真面目になりますぅ。もう、こんな思いしたくないんですよう」
「そうね、サキタニさん。それがいいわ。あんなヘボ上司、仕事で見返してやりましょうよ。何もこんなこと、する必要ないのよ」
「ごめんなさい、先輩、ごめんなさぁい……」
「いいから、さあ、早く戻ってきて。お説教はそれからたっぷりするから」
「は、い……せ、せんぱい、あの」


フェンスに縋りつくような彼女の手を掴んだ。凍えるほど冷たい。
見ると、彼女は今にも飛び降りを決意しようとしていたらしい。
靴を脱いで、素足同然の薄いストッキング1枚で氷に等しいコンクリートの上に立っていた。
身体は小刻みに震えている。折れた決意と同時に恐怖の感情が甦り、寒さと相まってその震えは自身には抑えられそうもない大きさになっていた。


「あああ、足が、震えて……もう、ダメです。先輩、どうしよう」
「落ちついて、下を見ないで、こっちを見て」


涙に濡れた瞳が、わたしに向けられる。


「今、わたしがそっち側に行く。一緒に、昇りましょう。
だからひとまず握っているこの手は離すけど、貴女は絶対にフェンスから手を離しちゃダメよ、約束」
「はい、はい……約束します。ごめんなさぁい、先輩」


サキタニさんは何とか両手でフェンスにしがみついている。
わたしは意を決すると2m近いそれによじ登った。こんな恰好、子供の頃、幼馴染と木登りをして以来だ。
なるべく揺らさないようにまたぎ越すと、わたしは極力、下を見ないようにして、ゆっくりと慎重にフェンスを降りた。
その間、サキタニさんはわたしとの約束を守り、頑なに目を閉じて俯いていた。
境界の向こう側、更に空との境界は、幅30cmもない。思わず体の芯がぞわりと縮み上がる。


「サキタニさん、わたしが腰を支えるから、とにかく落ちついて昇るのよ」
「できません、先輩、さっきから震えが止まらないんですよう、あたしには無理ですぅ」
「無理じゃない、できるから、わたしのことも、自分自身のことも、信じて」
「……」


そう、無理じゃない。
確かにわたしは年を取った。
好き嫌いが変わった。自分を取り巻く環境も変わって、自分が無慈悲に取り残されていく気がした。
でもそれは違う、きっと。自分で信じれば、可能性は広がっていく。
人生捨てたもんじゃなかったって、彼は教えてくれた。

サキタニさんは、深く深く息を吸い込んだ。
それからわたしの顔を見つめて、無言のまま頷くと、力強く腕を伸ばす。
わたしは片手でフェンスを掴み、空いた腕で彼女の小さなお尻を抱えて、ゆっくりね、とか、落ちついて、と声を掛けた。
たっぷりの時間をかけて彼女が向こう側に辿りつき、へたりこむと同時に、屋上へたくさんの人がなだれ込んで来た。
同僚や先輩、上司の姿。彼女を呼ぶ声。わたしを呼ぶ声。
わたしはホッと胸を撫で下ろすと、自分も、あの輪の中へ戻ろうと。
日常の中へ帰ろうと、足に力を入れた。

その瞬間。


「お客様」


あの声が聞こえた。
それまで耳を千切り取ろうとせんばかりの勢いで唸っていた風も、同僚たちの声も、都会の喧騒も一瞬で消えた。
わたしは傾いた身体を捻って、空を見上げていた。
ふわりと、真っ黒いスーツを着たあの男性が、ビニール傘を差して空から降りてきた。


「メリーポピンズですか」


男性はわたしのツッコミに何も言わず、憂いを帯びた不思議そうな瞳でわたしを見下ろしていた。
そういえば、手足の感覚がない。わたしはこれまでの一連の流れを思い返そうとした。


「お時間です、お客様」
「……その、お客様ってさ」
「はい」
「……ううん、やっぱり、なんでもない」
「そうですか」


考えることはやめた。
ああ、つまり、そういうことか。
はははは。乾いた笑いが浮かんだ。


「わたし、馬鹿みたいだ……」
「いいえお客様。お客様はきっちりと、課せられた素敵なことを清算致しました」
「わたし死ぬんだね?」
「はい」
「そこは……嘘でもいいえって言って欲しかったかも……」
「すみません」
「謝らないでよ、わたし、馬鹿みたいじゃん」
「すみません」


男性は一点の曇りもない瞳で、わたしを見つめていた。


「……親孝行、全然してない」
「はい」
「仕事だって全然」
「はい」
「恋だって、結婚だって、してな……」
「……はい」


ゆっくりゆっくり、空が、男性が、遠ざかっていく。
わたしは落ちていく。
落ちていく。

落ちていく。
メンテ
Яの谷 ( No.143 )
   
日時: 2013/11/09 17:07
名前: 憧子 ID:TrgbwbnA

更紗ねえさんは、いつも古いものに囲まれている。
埃臭さ、錆の臭い、腐った臭い、汗、お香……
この世に存在するありとあらゆる古きものを鍋で煮詰め閉じ込めたような空間で、お気に入りの椅子に座りながら煙管を咥えている。
俺が店に入るとつうと視線だけを寄こし、にっこりと目を細める。
ガラクタ屋敷のその一画では、更紗ねえさんが最も若く、そして美しかった。
更紗ねえさんが微笑むたびに、俺はその不思議な魅力に逃げ出したくなるほど恐怖していたことを覚えている。


「今日の足音はさみしそうね。お話してご覧」


更紗ねえさんが煙を吐き出して微笑む。
伸ばされた腕に誘われるように俺はランドセルを床に置いた。
その時は確か、クラス委員を決めて、俺は飼育委員になったんだった。
誰もやりたがらない役を、じゃんけんで押し付けられたことに、悲しさと悔しさと憤りを感じていた。

更紗ねえさん曰く、俺のその日の気分は入って来た時の足音で分かるのだという。
骨董品を売買する場所はこうでなければという先代の意向で、床板はわざと軋むように敷いてあるらしかった。
俺は縋り付くように更紗ねえさんに近づくと、思いの丈を包み隠さず吐露した。
椅子に座ったねえさんの、白い足にしがみつくと、冷んやりとしている。
俺が話す間、ねえさんの指は俺の髪を弄ぶようにすくったり、耳朶をくすぐったりしていた。
反対の手はいつものように煙管を支えていて、紫色の目に染みる煙をもくもくと燻らせる。

俺の愚痴が終わると、更紗ねえさんは幾重にも重なっている衣の袖の下から、銀色の容れ物を取り出した。
掌に収まるほどの大きさで、懐中時計のように見える。
ただそれとは違い、蓋と容れ物は別々に分解できるようだった。
くるくると蓋を回して開けると、中には色とりどりの飴玉が入っている。
夕陽を僅かに受けて、宝石のように輝く球体に、俺は目を奪われた。


「大丈夫、大丈夫よ。お薬があるからね」


ねえさんの声は、先生よりも母親よりも甘く、艶やかだった。
冷えた指先に熱が宿り、身体の奥がびりびりと震えた。


「大丈夫よ。おあがり」


ひたすらに優しい声で、更紗ねえさんが言う。
細い指が、黄色い飴玉を摘まむと、俺の口元へゆっくり運んだ。
俺はそれを、じいと視線で追い、静かに口を開けて、受け取る。
舌の上で転がし、時々ころころと歯に当たる音を立てると、更紗ねえさんは笑みを浮かべた。


「いいこね」


長い栗色の髪が揺れて、更紗ねえさんは不自然なほど完璧な微笑みを俺に与えてくれた。
その笑顔が見られれば、その日の憤りも悲しみも、内にあった負の感情は一瞬で消えてしまう。
ねえさんからの「大丈夫」は、口の中に残る飴玉の甘さを凌駕するほどに、麻薬のような快楽性があったのだ。
ランドセルを捨て、ぶかぶかの学生服を着る頃になっても、その学生服が身の丈に合う頃になっても、ひたすらにねえさんを求めた。


「大丈夫よ」
「大丈夫よ」
「大丈夫よ」
「お薬があるから、大丈夫よ」


むしろ、心身が成長していけばいくほどに、俺はねえさんに溺れていったようにも思う。
日常の些細な引っかかりにさえ、ねえさんからの言葉がないと不安で眠れないほどだった。
ねえさん以外の人間、自分と血の繋がった両親相手ですら、心を許そうと思うことはなかった。
教室や町やテレビで見る他人の顔は、どこか白々しくて、うそぶいていて、見ているだけで気分が悪くなる。
俺の唯一は更紗ねえさんだけだ。
神聖で、美しく、慈愛があり、ねえさんが大丈夫と言ってくれればそれ以外は何もいらなかった。
恋というもので片付けられるほど軽い感情ではない。そう結論づけることを、自分で許せなかった。
ねえさんと自分の関係は、恋人同士という終着点とは程遠い場所で繋がっている、不変のものであるという自負があったからだ。

気が付けば、俺はもう成人を迎えようという歳になっていた。

いつものように、更紗ねえさんのいる骨董屋に入る。
今日はちょっと忍び足で近づいてびっくりさせてみようと子供みたいなことを考えて、静かに床板を踏んだ。
それでも、冷たい空気で僅かに張った木は、寂しそうで狡猾そうな音をあげた。

俺の知っている限り、店に並ぶ売り物はここ数年変わっていない。
元々はねえさんの先代が趣味で集めたものを見せびらかす為に作った場所で、ほとんど売る気はないのだという。
ねえさんもねえさんで、店の奥で玉座のような椅子に座って店番をしている風でも
煙管より重たいものは持たない主義のようで、ハタキを振っているところなど見たこともない。
埃をかぶったまま止まった振り子時計の横を進んだ奥に、更紗ねえさんはいる。
そっと足を踏み込もうとしたその時、話し声が聞こえた。
驚いたのと同時に、じくりと胸が痛んだ。
低い男の声と、ねえさんの笑い声。

客が来たのだろうか。それだけではない、多少なりとも顔馴染みのようだ。
人見知りの激しいねえさんにしては、楽しそうな声色が聞こえる。
会話の内容までは分からなかったが、最後にねえさんは「それではまた次に」と言ったようだった。
棒立ちになる俺の前に、ばっと、影が現れた。
スーツを着こんだ老紳士だった。
俺の頭一つ分ほど抜きん出た背丈で、物陰に俺がいたことを知ってか知らずか、落ちついて視線を合わせてきた。
ほんの一呼吸だけ顔を見合わせたと思うと、老紳士は口元に笑みを浮かべて、俺の脇を通りすぎていった。
その不思議な態度と雰囲気に、混乱する。

誰だ、アイツ。
アイツはねえさんと何を話していたんだ。
二人きりで。楽しそうに。
アイツは何を知っているんだ。
アイツは俺を知っているようだった。
アイツは何を聞いたんだ。
アイツは、ねえさんにあの言葉を、“お薬”をもらったのか?

めまぐるしく展開する思考に、足元がおぼつかない。
酔った錯覚に似たそれは、俺の足を強制的に一歩前へ動かした。
きいぎいと鳴る床板。更紗ねえさん。


「あら……今日の足音は気が付かなかったわ。忍ぶのがお上手」


ねえさんは昨日よりもやわらかく、優美に笑った。

俺が来たから?
それとも、アイツと、会った後だから?

カーッと目の前が真っ赤になったかと思うと、気が付いた時には、俺の手はねえさんの首を絞めていた。
腰かけた状態のねえさんは、抵抗しない。
透き通った肌の、白い顔。冷たい。唇だけは紅を差している。
美しい、俺だけの更紗ねえさん。
ビー玉みたいに綺麗な目で俺を見つめる。瞳の中で俺は泣いていた。

煙管が床に落ちた。
ねえさんが、震えながら口を開く。


「大丈夫よ」


ねえさんの首は、根元からいともたやすく、折れた。
断面から溢れ出たのは幾重ものコード。電気配線。
振り返ると、さきほどの老紳士が無表情のまま、俺とねえさんの末路を見守っていた。
メンテ
おるすばん ( No.144 )
   
日時: 2013/12/07 00:27
名前: 憧子 ID:ppe9mlTQ

夏休みを控え、何かいいバイトはないものかと地域情報誌をめくっていると、思いがけない求人を見つけた。
日給7万円。
飲んでいるお茶を吹きそうになった。
一人で情けなく咳き込んでいると、食堂のおばちゃんが心配そうにこちらを見た。
げほん、と胸を叩き咳払いをひとつ。落ち着け、俺。
もしかしたら見間違いかもしれない。
他に誰もいないのに、何となく隠れるようにしてそっと求人情報を見直す。
見間違いなんかじゃない。いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……ゼロの数は4個。
実働7時間で、7万円。つまり時給1万!

『誰でも出来る簡単なお仕事です。18歳以上(高校生不可)性別問わず。体力に自信のある方歓迎。定員は先着1名様』

ど、どういうことだってばよ……
クーラーのきいた涼しい学生食堂の中で、俺の体温はぐんぐん上昇していく。
おばちゃんの掃除機の音に負けないくらい、耳の奥で心臓の音が激しく鼓動している。

よくよく地図を見てみると、バイト場所はここから数駅離れた町だった。
定期圏内で行ける場所だ。
なんたる偶然! いや、むしろ運命なんじゃないのか?
まずはお気軽にお電話ください、と地図の横に携帯電話の番号が書き添えてある。
定員1名とあるし、これは今すぐ電話してみるしかないぞ!と俺は早速携帯を取り出した。

何回かコール音がして、電話に出たのは落ち着いた女性の声だった。
アルバイトの件で……と切り出すと、いくつか質問をされ、2分後には『それでは明後日の10時に、その地図の場所へお越しいただけますか』とあっさり採用されてしまった。
履歴書も書かず面接もせずに即採用。俺はびっくりどころか椅子から転げ落ちていた。
簡単に自己紹介しただけ(しかも電話越し)で採用されてしまうとは、よほど至急なんだな、本当に運命だったんだ!と俺は自分の運の良さにほとほと感動していた。

この勢いで宝くじも当たるんじゃないかと思うほどにツイている!
授業をサボタージュした甲斐があったぜ!

しかし電話を切る直前、俺はハッとなって高々と掲げた左手を下ろし、「それで、当日何か持っていくものとかは……」と改まった声で尋ねてみた。
本当は友人も連れてこいだとか、お気持ちを包んで頂ければ……だとか、宗教団体的なものだったら面倒だ。
日給7万円という大きな餌の陰には、まさしく何かの“裏”があるのかもしれない。
三流のお遊び馬鹿大学に通っている俺だって、一応、そういう部分では落ちついているし配慮もする!
残念だったな、オバサン!といきり立つ俺の内心を知ってか知らずか、電話の向こうの女性は落ちつき払った声で


『いえ、特にありません。履歴書も結構です。なるべく普段に近い格好でお越しください。お食事もこちらで用意致します』
「は、はあ……マジっすか」
『それでは明後日の10時に、お待ちしております』


電話はアッサリと切れた。
既に狐につままれた気分になったので、軽く自分の頬をつねってみた。痛い。


「鬼が出るか蛇が出るかってか……」


とりあえず、何かあった時のために遺書をしたためた方が良いのだろうか。
なんてことを思いながら、俺は情報誌を丸めて鞄につっこんだ。


2日後の9時45分、指定された場所の最寄駅に俺は立っていた。
学校の最寄駅は3つの路線が通ることもあり、若者が多く行き交い栄えている方だが、ここはまるで別の県に来たように落ちついていた。
駅前には人がまばらで、金曜日だというのに客引きのバイトはおろか登下校の学生すら見受けられない。
そこそこ広く整備の行き届いたロータリーにも、タクシーや送迎の車は見られず、人の形をしたものといえばよくわからんオッサンの銅像がぽつんと立っているくらいだ。
ベッドタウン、といえばまあ聞こえは良いだろうが、見るからに人も少なく、シャッターの閉まった商店街を有する田舎町という印象だ。

こんな町で、新興宗教の勧誘などするだろうか?
こんなのどかな雰囲気なのに、人を騙すような事件が起こるだろうか?
一体どんな、誰にでも出来る仕事が飛び出してくるものだろうか。

大通りと呼んでいいのかも分からない道路を10分ほど進んでいくと、閑静な住宅街が現れた。
車通行もほとんどなく、将来家を建てるならこんな場所がいいと思えるほどだ。
手描きと思われる地図のわずかな情報を頼りに歩いていくと、一軒の家の前で俺の足は止まった。

……民家?

長谷部と書かれた表札と、周囲の様子と、手元の地図を見比べる。
確かに連絡先には長谷部という人物の名前が記されているが、まさか長谷部さんの家が目的地だとは思ってもいなかった。
逆に、こんな住宅街にオフィスビルやら怪しい建物やらがあってもおかしいのだが。
それにしたって、こんな住宅の密集した場所で、しかもこんな大邸宅で、半日かけて何をするというのだろう。
これはいよいよ怪しい。ぶるりと、悪寒がし始めた。
もしや、体力に自信のある方というのは、アレをするという意味で……
いくらなんでも、俺はそこまで金に困ってない。
身体を売るような真似はしたくないし、誰彼とホイホイするような軽い男でもないぞ……!
俺が悶々としながらカメラ付きインターホンを押すのをためらっていると、ヨーロッパ風の小洒落た門の奥で、人影が動いた。
咄嗟に姿勢を正すと、相手も俺の存在に気付いたようだった。


「……矢本さんですか?」


それは間違いなく電話で話した女性の声だった。
はいっ、と上ずった声で返事をすると、庭先で土いじりをしていたらしい女性は、両手を叩きながら俺の前に現れた。


「こんにちわ、お待ちしておりましたわ。今日はよろしくお願いします」
「あ、いえっこちらこそ……」


長谷部さんは、やや小太りの中年女性だった。
こんな豪邸に住んでいるだけあってかシックな黒いドレスを着ていて、香水だろうか、芳しい花の香りが漂ってきた。
豪華なアクセサリーこそ身につけてはいないが、俺の母親よりは女性らしく清潔感もあり、第一印象としては好感を持てる。
と言っても、異性として見られるかと問われればノーだ。
俺は熟女よりピッチピチの女の子の方が好みだし、抱けるかと問われても素面ではまず間違いなくノーだ。

長谷部さんは愛想笑いのひとつもなく、俺の顔色を静かに窺うと「詳しいことは中でお話しします」と踵を返し、家の中へと招き入れた。
俺は早速逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、面会してすぐに引き返すのも失礼だし、まず仕事内容を聞いてからでないと断る理由も思い浮かばないので
とりあえず彼女に従って玄関へ入っていった。

家の中には彼女と俺しかいないようで、しんと静まりかえっていた。
一階のリビングに通され、四人掛けのダイニングテーブルに座ると、何故か、食卓の中央には目覚まし時計が置いてあった。


「早速ですが、お仕事の内容を説明させていいただきます。矢本さんには、今日半日この家で、留守番をしていただきたいのです」
「るすば……え?」
「留守番です。小さい頃に、誰しもご経験あるでしょう」
「えっ……と、それだけ、ですか?」
「それだけです。私はこれから外出しなければいけないので、求人に載せた通り10時から17時まで、この家にいていただきたいのです」


俺と長谷部さんのちょうど中間、テーブルの真ん中に置かれたピンクのアナログ時計は、コチコチコチと規則正しく時を刻んでいる。
何を無茶ブリされるのかと構えていれば、おるすばん……だと……?
まあ確かに募集要項に間違いはないよな。誰にでも出来る簡単なお仕事。
これが仕事になるのかは果たして疑問だ。いやそれ以前に、普通に留守番頼むだけならハウスキーパーさん?的なものを雇えば済む話じゃないか?
それに、体力が必要な留守番ってなんだよ。ぐうたらしてるだけじゃあ駄目なタイプの留守番なのか?


「……混乱させてしまいましたね。色々と思惑なさるのも無理ありません。こんなアルバイト、非常識だとは分かっています。
 ですが、何度も申し上げる通り依頼内容は他意など何もない、普通の留守番です。
 ただし……そう、ただしいくつか守っていただきたいこともございます」


他意はない、とか前置きしておきながら、結局何か変なことをさせる気には変わりないんだな。
俺は構えの姿勢を崩さぬまま、彼女の顔を見張った。
長谷部さんはふう、と軽く息をついてから、右手を挙げた。拍子に、手首につけていた黒真珠の数珠がしゃらんと綺麗な音を立てた。
すう、と人差し指が立つ。


「まず一つ目ですが。先ほどから何かと視線に入るこの時計。実は、この家の主要な部屋には同じ時計がいくつか置いてあります。
 そしてそれぞれ、1時間毎にずらして、アラームがセットしてあります。
 矢本さんには、時計のアラームが鳴った部屋で、別の部屋からアラームの音が聞こえるまで、過ごしていただきます」
「えーと、つまり……ずっとひとつの部屋にいるなってことっすか?」
「端的に言えばそうです。無論、アラームの鳴った部屋から一歩も出るなとは言いません。お手洗いに立つことは大丈夫です。
 極力、その部屋で1時間を過ごすと考えていただければ結構です。この条件に強制力はありませんが、これも仕事の内ということをお忘れなきよう」
「は、はあ……分かりました」


長谷部さんはにっこりと笑った。目尻に皺が寄って、一瞬だけ年相応?のオバサンらしい表情になった。
静かに中指を立てて、長谷部さんは続ける。


「二つ目です。それぞれの部屋で矢本さんには自由に過ごしていただいて構いません。
 本のある部屋でしたら読書をするもよし、ベッドのある部屋でしたら寝るもよし……
 このリビングでしたらテレビを見ていただいて構いませんし、キッチンにはお食事もご用意してあります。
 この家にある飲食物はご自由に口にしていただいて結構です。勿論、お金を請求することは致しませんわ。
 それも仕事の内、ですから」
「随分と自由っすね」
「ええ、そこはなるべく、この家の住人になったつもりで矢本さんらしくリラックスして過ごしてください。ただ……」
「ただ?」
「いくらこの家の住人になったつもりと言っても、お友達を呼んだり、またお友達へこのことを話したり
 この家にあるものを持ち出したりしないことをお約束ください。
 金品宝石類、ひとかけたりとも、です。ついうっかりでは済まされませんので、お忘れなきよう」


それまで穏やかだった長谷部さんの表情と声色が、急に凄みを増した。
これだけは、命に代えても守らなければいけない、そんな気にさえなった。
俺はコクコクと赤べこのように頷き返した。


「三つ目です。戸締りは、キチンと行ってください。不用意に窓を開け放ったまま別の部屋へ行くということがないようお願いします。
 こちらからのお願いは以上となります。何かご質問は」
「……あー、そうっすね。言いにくいんですけど、お給料の方って……」
「17時に、私の方から直接お渡しします。金額は求人に載せた通りです」
「あ、それはどうも……えっとじゃあ、もし留守番中に誰か客が来たらどうすればいいんすか? 居留守すればい……」
「誰も来ません」
「えっ」


長谷部さんは、強く断言した。


「でも、宅配便とか回覧板とか、万が一来た場合には……」
「誰も何も来ません。返事はしないでください。以上です、他にご質問がなければ、これで」


立ちあがった勢いそのままに、長谷部さんは「よろしくお願いします」と頭を下げた。
俺も慌てて立ち上がり会釈でもしようとしたのだが、顔を上げた時には玄関の閉まる音が聞こえるだけで、目の前の時計は10時ちょうどを指していた。


10時、和室。
最初に時計のアラームが鳴ったのは、リビングの向かいにある六畳一間の和室だった。
床の間には何かすごそうな書道の掛け軸と、高そうな壺と、生け花がある。
南向きの窓から日の光が入ってくるので、ポカポカと気持ちがいい。
押入れの中から適当に座布団を引っ張りだして、日向ぼっこをする。
他人の家でくつろぐだけの仕事という、この不思議な状況について空っぽの頭で考察しようとしてみたものの
何の仮説も思い浮かばず、とりあえずだらだら引きこもりしているだけなら勉強より得意だという結論に至った。

11時、洗面所。
和室とは打って変わってひんやりとした部屋だ。
特に尿意があるわけでも、シャワーを浴びたいほど汗をかいたわけでもないのでどうしたものかと、思わず座禅。
探検ついでに棚を物色してみると、高級そうなバスローブが出てきた。
ちょっと拝借して、鏡の前で写メでも撮ろうかと思ったけれどバレたら咎められそうなのでやめた。
そっと畳んでもとの位置に戻した。
何となく後ろめたかったので、トイレ掃除をした。

12時、リビング。
小腹も空いたことだし、キッチンを覗いてみると洋食のランチプレートが用意してあった。
これも長谷部さんが作ったのだろうか、と想像しながら食べる。普通に美味しかった。
自分の家にあるものとは比べ物にならないほど大きなテレビで、いいともを見た。
やっぱ迫力が違う。
携帯を見ると、可哀想なほど真面目に授業へ出ていたであろう友人からメールがきていた。
「おーいサボり、今どこで何してんだ?」
可哀想なほど勝ち組な俺は「バイト。午後の代返よろしく〜」と手短に要点だけを返信した。
適当に皿洗いを済ませて、お菓子とジュースを持って次の部屋へ向かうことにした。

13時、こども部屋。
二階に上がる。勉強机のあるシンプルな部屋に入った。
おそらくこどもの部屋だ。しかも、本棚にある漫画の種類から推察するに女の子の部屋だ。
なるべく一カ所に座って過ごそうと思っても、視線は自然とタンスや机の引き出しにいってしまう。
金品だけじゃなくて、下着一枚だって立派な泥棒になる。それだけはいけない。
必死に自分を抑えている内に一時間は終わった。

14時、ベッドルーム。
キングサイズのベッドがどかんと鎮座する部屋。
腹も膨れて眠くなってきた所だったから、軽く昼寝をした。
うちの煎餅布団とは大違いだ。
良い夢を見られそうな気がした。夢は特に見なかった。

15時、こども部屋。
今度は勉強机もなく、空色の壁紙が貼られたこども部屋に入った。
さっきの部屋の持ち主よりも、幼いこどもが使っているのだろう。
しかし生意気にも、ひとり部屋に自分専用のテレビとPS3がある。
電源をつけて、俺も遊んだことのあるRPGでしばらく遊んだ。
主人公の名前はヨウスケだった。随分昔のセーブデータはまだ序盤で、主人公とガタイのいい戦士しかまともにレベルを上げてない。
残念ながら、この戦士はストーリーの中盤にさしかかる所で強制離脱する。
このままではヨウスケしか使い物にならなくなるのが目に見えた。非常に残念だ。
時間が来たので、セーブはせずに電源だけ切った。

16時、書斎。
最後に訪れたのは、一家の主、長谷部さんの旦那さんが使っていると思われる仕事部屋だ。
社長が座るような黒い革張りの椅子に、腰を下ろす。最高だ。
外はすっかり夕焼けに染まっている。窓から階下を見下ろしてみても、住宅街にまだ人の気配はなかった。
パソコンデスクの隅には、写真の入っていない写真立てが置いてある。
そういえば、長谷部さん以外の家族はどこに行っているのだろうか。
二人のこどもは学生のようだが、学校から帰ってくる様子はない。
旅行にでも行っているのだろうか。
まあ、どうせ赤の他人の家庭だ。
心配したり詮索したりしたところでどうしようもない、と俺はあくびをしながら椅子をくるくると回した。

17時、リビング。
長谷部さんは穏やかな表情で帰宅してきた。
手には、銀行の封筒が握られている。


「ありがとうございました。お約束の、本日の給与となります」
「何も問題なく留守番余裕っした」
「それは何よりです。気を付けてお帰りください。お疲れ様でした」


長谷部さんは、玄関まで俺を見送ってくれた。
長谷部邸を後にしてから駅に着くまでの間に、封筒の中身を確認した。
7人の諭吉が、俺に向かって微笑んでいる。

結局、普通に留守番しただけだったな……
もっと変なことをさせられるかと思ってたけど、杞憂だったぜ。やっぱツイてたな!

小さくガッツポーズをしながら、俺は足取り軽やかに家へ帰った。


ただでさえギリギリな単位をギリギリの試験結果で取得し、夏休みは至って普通にカラオケと居酒屋バイトに費やした。
ふと、久しぶりに長谷部さんの家を見に行ってみようかと思い立って、俺は閑散とした例の駅前にいた。
相変わらず静かな住宅街は、たった一度しか歩いていなくても迷うことはなかった。
ゴミの集積所を通り過ぎて、そろそろ、ヨーロッパ調のオシャンティーな門が見えてくる……はずだった。

かつての長谷部邸があった場所には、確かにあの大邸宅がそびえ建っていたのだが
その門前には、小学校の運動会でよく見る簡易テントと「好評分譲中」と書かれた旗が風に揺れていた。
簡易テントの下にいたスーツのお姉さんと目が合った。


「こんにちわ、見学でしょうか?」
「いや、違います……っつかここ、長谷部さんちっすよね、あ、前ここに住んでた人って、引っ越したんすか?」
「あ……」


お姉さんは、俺の問いかけに一瞬顔を曇らせた。


「あなた、この辺りに住んでいる方ですか?」
「違いますけど、その……長谷部さんとは知り合いっつーか」
「ああ、そうだったんですか。長谷部さん、ご一家であんな事件に巻き込まれて、さぞ御心配されているでしょう。
 このお家も変な現象ばかりおきてなかなか売りに出せなかったんですけど、この間、お祓いで有名な女性が来てくださって
 霊は鎮められましたからと、ようやくこうして……」
「……え?」
「え?」


お姉さんから粗品の箱ティッシュをもらい、俺はすごすごと来た道を引き返す。
ちょっとは気になっていた、あの不思議な留守番の意味が、答えが、漠然と浮かび上がってきた。
数珠。目覚まし時計。ヨウスケ。空っぽの写真立て。長谷部さん。
財布の中には、あの日の給料の一部が入っている。
俺は、「いつかの代返の借りを返すから、7万くらい奢るよ」と友人たちに一斉メールを送り、何となく寒い背中を抱くのだった。
メンテ
ウソツキモノの葬列 ( No.145 )
   
日時: 2013/12/22 18:56
名前: 憧子 ID:IVoPXUc2

「ウツキさんは、可哀想な子だと思います」

まー正直に言えば、いつも無口で友達もいないような彼女のことをどう評すればいいのか分からない。
でも俺は、ICレコーダーとカメラを向けられてそれらを無慈悲に追い返すだけの非情さを持ち合わせていないから、
一般的な"両親を亡くしたこども"に対する感想を述べた。

同級生としては優しくて思いやりがあって模範的で、実にパーフェクトな受け答えをしたのだから、
まず間違いなくオンエアーには採用されるに違いない。
そして、まだ未成年でプライバシーに関わることだから、首から上は画面外に隠されて、
ウツキさんのクラスメイトという肩書きが添えられる、そんな感じに出来上がるのだろう。

実に残念だ。

全国のお茶の間に映っても気分を害されない程度には俺の外見も悪くはないと思う。
顔出しOKですよ、と自ら言うのも図々しいだろうから、俺は愛想笑いしながら言葉を飲み込んだ。
メディアへの露出を望んでいる訳ではないが、それでもこんなに思いやりのある誠実な少年がどんな顔をしているのか、
視聴者は気になるんじゃないだろうか。


この放送を見たどこかの芸能事務所から、スカウトが来るんじゃないだろうか。
どこかの女の子が、お付き合いをしたいと思うんじゃないだろうか。


容姿はさておき、声だって悪くはないと思う。
きっと俺の声に惹かれて、視聴率も上がることだろう。
相乗効果を理解していない大人たちは実に哀れで、誠に残念だ。俺はつくづく思う。
一通り完璧なやりとりが終わり、格好良く去ろうとした時、カメラマンとスタッフの
「……あの女の子、"ウチギ"さんでしたよね?」
「名前間違えられちゃなぁ、これは使えねぇな」
という会話を耳にし、俺は地に膝をつき泣きたくなった。



私、ウチギさんと同じ、飼育委員でした。
ウチギさんは毎日真面目に、一生懸命ウサギの世話をしてくれてます。

確かに、クラスじゃとても大人しくて、誰かと大声で話しているところなんて見たことないけど、口をきいてくれないわけでもありません。
飼育委員に決まったばかりの頃、ウチギさんとウサギさんって名前が似てるねって私が言ったら「そうだね」って笑ってくれました。
家で何かペット飼ってる?って聞いたら、
「お母さんがアレルギーで、お父さんが駄目っていうから飼ってない。けど、犬が好きだな」
って言っていました。

子ウサギの食欲がなくなった時も、一緒に元気がなくなるくらい心配して、放課後はずっと付きっきりでお世話をしてました。
何とか回復した時、ウチギさんは、すごく優しい目でウサギを見つめてました。

クラスの皆、彼女のことを鬱の"ウツギ"だとか言って、根暗とかぼっちとか罵るけど、
ウチギさんはクラスの誰よりも動物が好きで、優しい女の子なんです。
今回のことで、彼女がますます塞ぎ込んで、誤解されてしまうんじゃないかと思うと、私、悲しくてたまりません。



ウチギさんは寡黙ですが、どこか勘の鋭い子でした。
自分は国語の教師なんですが、彼女の作文は他の同年代の子達とは異質な……
何というか、大人でもハッとさせられてしまうほどの達見の持ち主なんです。

自分から意見を発することは少ないですが、指名すれば的を射た回答をくれますし、試験も課題もそつなくこなしています。
一を聞いて十を答える生徒というのも珍しいと、他の教師からも評判でした。
運動は少し苦手なようで文化系のパソコン部に所属していますが、中学生部門で何か特別な賞を頂いたみたいで
顧問や担任の自分ともども、鼻が高いです。

これといって問題を起こすわけでもないですし、活発すぎて授業にまで影響を及ぼす子より、無口で無害な子というものは
教師にとっても安心で扱いやすい……と言うと語弊があるかもしれませんが、本当に手のかからない“良い子”なんです。

学校は思春期のこどもが集まる場所ですから、ウチギさんをからかう子も多少います。
……いえ、いじめが起こっているという認識は、自分にはありません。
それは、今回のこととは無関係だと思いますが?

ウチギさんのご両親のことは、本当に残念です。
彼女自身、何事も黙々と淡々とこなせる中学生らしからぬ子ですから、親御さんの教育がいいのだろうと思っていました。
聡明なウチギさんの進むべき道を支えてくれる、身近な存在がいなくなってしまった今、自分もしっかりと彼女を導いていけるよう
これからも教職に邁進する所存です。



目の前の大人は、あたしが一言も発しないでいることに、これ以上の追及を諦めたようだ。
次のターゲットを探しにいった二人組の記者を横目で見やり、あたしはそっと溜め息をついた。
ふっと息を吸い込むと、制服からは線香と古臭い香りがたちのぼる。
心臓が痛い。
葬儀場の周りには、うるさい大人がわんさか集まっていた。
年の瀬の浮きだった世間で、高速道路での玉突き事故は「可哀想に」という声も多くあがっていた。
更に、遺されたのが小さな中学生のこども一人だけとくれば、周りの大人は一層「可哀想に」と呟いた。
それなのに、最近あるネットの掲示板で、その女子中学生の両親は事故ではなく殺されたのではないかという小さな噂が流された。
彼女の両親は二人とも、事故の直前に心臓発作を起こしていたというのだ。
確かに、交通事故と報道されている割には、警察の姿をよく見かける。
そして、今日棺桶の中に入っていた遺体は、司法解剖から帰ってきたばかりなのだとも噂されている。

ずきん、と心臓が痛む。

噂は、所詮噂だ。
担任からも、この葬儀場へ向かうマイクロバスの中で
「知らない大人に、ウチギさんに関する根も葉もない噂を話すのはやめましょう」
と、注意があった。

あたしはウチギさんを可哀想とか、けなそうとか、同情しようとか、思わない。
ウチギさんは、空気のような子だった。
いつの間にか隣の席にいて、たまにウサギ小屋の中で掃除をしている、誰にも害を及ぼさない、ただのクラスメイト。
何を考えて生きているんだろうと、余計なことをぼんやり思ったりもした。
でも、空気みたいな彼女に、無理に仲良く取り持とうとするクラスメイトの姿を見ると、そんなのどうでもいいかとも、思った。

彼女はきっと、嘘で塗り固めた人生を進むつもりだ。
誰にも本心を明かさずに生きていくつもりだ。
周りのクラスメイトも教師も同じ。
嘘のウチギさんを、嘘で囲って、自己満足に浸っている。
それを悪いことだと責めるのは、あたしにはできない。
あたしには、他人の人生を否定する権利なんてない。

でも、あたしは、皆の知らないウチギさんを知っている。
根も葉もない噂じゃなくて、あたしが見たウチギさんの姿、それだけがきっと真実。
それは……

通学路にいる捨て犬の世話をしていたこと。
腕や背中にアザがいっぱいあること。
捨て犬が死んでしまっていたこと。
図書室で解剖図鑑を借りていたこと。
部活中によくネットの掲示板を閲覧していること。
ポーチの中に注射器を隠していること。
ウサギに陰で暴力を振るっていたこと。

今日、ご両親の遺体にすがりつくようにして、笑いながら、顔を捻り潰していたこと。
メンテ
n番目のミシマサイコ ( No.146 )
   
日時: 2014/09/23 12:24
名前: 憧子 ID:pOn2I2WA

ミシマサイコはいきものである。
ミシマサイコは考える芦である。
自分がなにものなのか、これからなにになるのか、ミシマサイコは液体の中で考える。
隣のベッドで先に目覚めたきょうだいは、将来の夢を早々に固めたらしい。
これからなにを食べて、どんな大きさになって、どこに行って、誰の役に立つのか。
きょうだいは嬉しそうに、楽しそうに、誇らしげに、ミシマサイコに語った。
昼を過ごし、夜になって、朝がきて、きょうだいたちは次々とベッドを抜け出して旅立っていく。
ミシマサイコはぼんやりと考える。ぼくはこのままここで、無益に死んでいくだけなのではないか。
わけもわからず生まれて、わけもわからず死んでいく為に生まれた、いきもの。
けれど、とミシマサイコは内なる自分に首を振る。
ぼくにもきっと、生まれてきた意味があるはずだと。
ぼくでもきっと、誰かの役に立てるはずだと。

「おはよう」

突然、真っ白な空を割るようにして大きな顔が現れた。
ミシマサイコはびっくりして、思わず隠れようとしたけれど、隠れられるような場所はなかった。

「わたしはセリよ。さあ、そろそろ、出発の時間」

セリと名乗った大きな顔のひとは、大きな手を伸ばして、ミシマサイコの潜ったベッドを持ち上げた。
ぐらぐらと世界が揺れて、景色が目まぐるしく変化し、顔には心地良い風が吹きあたる。
ミシマサイコはとまどうばかりだった。
他のきょうだいたちも、気が付いたらどこかへ行ってしまっていた。
きっと、このセリというひとに連れて行かれたのだろう。
自分でも自分の価値を見いだせていなかったミシマサイコは、いきなりの大舞台にてんやわんやで
気持ちの整理も心の準備も全く整っていなかった。
セリは、そんなミシマサイコを見下ろして、安心させるように笑った。
その笑顔に、ミシマサイコは既視感と、懐かしい温かさを思い出していた。

「あなたはわたしの最高傑作になるのよ。全世界のみんなの役に立つ。人類の希望よ」

セリの言葉はよく分からなかったけれど、ぼくは無益ないきものではなかったと、それだけは理解できた。
ようやく、ひとつわかった。ミシマサイコは安心する。
やがて、セリは青い天井の箱の中にミシマサイコのベッドを下ろした。
不思議な幸福感に満たされたミシマサイコは、自分がゆっくりと変化していくのを感じていた。
温かさと、冷たさと、ほんの少しの快感と、痛みのうねりに身を任せる。
マスクとゴーグルをつけたセリが、ぬっと、青天井を裂いて顔を出した。
途端に、眉をひそめる。

「ああ、嘘……残念だわ。本当に、残念だわ」
「また失敗ですか、先生」

セリではない、別のいきものの声がした。

「このこはいけると思ったんだけど」
「まあ次がありますよ。特異反応を示したのはこれだけではないですし」
「もっと検証が必要だわ」
「この反応も記録しておきましょう」
「ええ、お願いね。後処理も任せたわ」
「……先生」

ミシマサイコには、会話の一片も理解できなかった。
ただただ、悲しいと思った。寂しいと思った。
先に行ったきょうだいたちも、こんな苦しみを味わったのかと思うと、小さなからだを震わせずにはいられなかった。
青天井の下で、この身を満たしていた幸福感は、ぱたぱたと絶望感へ転換していく。
黒に塗りつぶされていく。

「先生、見たことのない反応が起こっています」
「これは……極めて珍しいわ。しっかり記録して。録画は出来ている? 今後は、このサンプル系列を重点的に使いましょう」

熱を帯びた、わけのわからない会話。
わからない。
黒く、黒く、ミシマサイコは塗りつぶされていく。
結局なにもわからなかった。
なにもわからず生まれて、なにもわからず死んでいくいきものだった。

そして、ミシマサイコは生まれる。

「おはよう」

希望を一身に受けた白天井の下で、ミシマサイコは目を覚ます。
わけもわからず死んでいくために。
そんな運命を、ミシマサイコは知らない。
メンテ

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