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[3] 談話室
日時: 2011/05/23 16:31
名前: 新短編コンテスト ID:AmJwZGvs

 コンテスト感想、レビューへの返答などなどご自由にお使いください。
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Re: 談話室 ( No.54 )
日時: 2013/03/25 22:43
名前: 管理者 ID:rerkD2Pk

>>かにさん

申し訳ありません、管理側のミスです。今回はワーストの投票もお願いいたします。投票所のほうも修正して参りました。
気付いてくださり、ありがとうございます。

>>しじまさん
こちらこそ、ありがとうございました。よろしくお願いいたします。
メンテ
Re: 談話室 ( No.55 )
日時: 2013/03/26 12:05
名前: 雨野◆7UZLXavaLc ID:TqItKJLg

 言い訳、あとがきに相当する書き込みがありましたので、削除しました。開票後はいくらでもやっていいので、そのときにまたお願いします。
メンテ
Re: 談話室 ( No.56 )
日時: 2013/04/04 21:39
名前: Raise ID:CeF0Z29s

 皆さんお疲れ様でした。今回の短篇コンテスト、非常に楽しかったです。一方で、最終回ゆえの賑わいなのだろうな、と寂しくなることも一度や二度ならず、正直複雑な思いです。
 とはいえ。このように、読むことと書くことの相互交通があり、更には談話室というかたちでレスポンスも行えるようなこの場は、小説に関与するうえでは非常に珍しいし、かつ価値のある場所であったことは間違いありません。私自身参加そのものは非常に不定期であったし、正直この一年ほどはほぼ参加していないに等しかったのですが、それでもこの場所に対する感謝というものはあるし、またここから生まれたものが何かしらあったに違いありません。管理してくださいました方、ここまで引き継いでくださった方、そして勿論最初期の企画者の皆さんに御礼申し上げたい。そしてもちろん、参加というかたちで継承し続けてくださった皆さんにも、ただただ感謝するばかりです。

 自己解題します。書く前の『意図』ではなく、それについて私ならどう読んだか、という程度の「解題」です。何にも解いてはいないうえに、レビューを全て返信したあとで統合的に書いているようなものなのですが。

■自作『星々』について
 「ものがなかった。本も、CDも、何もなかった」「紙やティッシュペーパーの一枚だって落ちていない」「空っぽの冷蔵庫」「だけどキッチンには水染みも油汚れもなく、洗剤もたわしも買ってやったステンレスのフライパンも鍋掴みもなく」。「ある」ではなく、「ない」ものから語る「私」の態度は、「誰か解らないだけに、鏡合わせの自分への軽蔑と見なしても、おそらくよい」というところからも伺える。誰か解ったとしたらそうではないけれど、認識が「ない」ということに「鏡合わせの自分への軽蔑」を読み取る。もし語り手に何らかの性格を規定するならば、「ある」よりは「ない」に惹かれる人間だということです。だから「部屋は美し」い。おそらく、ものが「ある」部屋より「ない」部屋のほうが美しい。

 しかし一方で、「私が生まれた九十二年にも、アメリカ同時多発テロの年にも、私が大学に合格した十一年にも、失踪者は居た」ことに対し、「一つの奇蹟」として解釈するけれども、「単純に胸糞悪くもあ」る。惹かれはするが、「ない」よりは「ある」ほうが望ましい。このあたりのアンビバレンツが、たとえばしじまさんの指摘なされる曖昧さにも繋がっているのだと思います。
 
 ところで少女漫画雑誌の「デザート」って知名度あるんでしょうか。
 「その小説は読んだが、内容は覚えていない。天文台住まいの少女を愛した二人の少年が、先に告白する権利を賭けて星を捕まえにいく、という内容だった。」ってどういうこっちゃ。ごめんなさい。 
 「この場に居ない者の意志を勝手に推測するのは悪趣味だ」間違いありません。「母が教務課へ問い合わせたところ、緑は現代文学史とイメージ論、死の理論といった必修講義を一度も欠席していなかった」緑は死んでいるわけでもないけれど、その分だけ余計に曖昧さが広がっていく。「距離と呼ぶのは躊躇われる何か」単純に「いる/いない」で分別されるなら、「いない」程度を評価すればいい=「距離」。しかし、「いる」かつ「いない」状態を「距離」では評価できない。時に継起し、時に消滅する信号のような「距離」。
 
 関与出来るのか、出来ないのか解らない、そこを往復する緑の影は、ほとんど幽霊みたいなものです。この二極をあいまいに往復する緑の存在は、もしかすると「日に何通もの手紙を読み取り、そして私が何通もの返信をする」「ソニーエクスぺリア」に重なるかもしれない。「青い長方形の機体」でわざわざ「青」を強調しているのも変な感じです。「要するに人が居ないのが問題なんでしょう、と笑いかけた」というところで

 「緑はこの部屋で何を考えていたのだろう、というような小説的な感傷は、意味がない。でも、意味がないことに意味を見出してしまうのが、感傷ということだろう」これは「この場に居ない者の意志を勝手に推測するのは悪趣味だ」にもつながる。何故ならば、私たちは「死者」について考えることは出来ない。死者は死者であり、それ以上更新されないわけで、そこにあるのは単純に死者に投影された「私」に過ぎないのだから。つまり「緑はこの部屋で何を考えているのだろう、というような小説的な感傷」は所詮「緑をめぐる私」をめぐる内省にしかならない。しかし、「死者」とはそれでいて尚「小説的な感傷」をかき立てずにいられない。本来実在せず影響しないものが時に現出し影響するようなことは、たとえばライトノベルならば「心の中に生きている」というのかもしれないが、おそらく記憶を意味しない。「実在=影響しない」のか「現出=影響する」のか、この両極を曖昧に往復する「緑」の姿は、さっき書いた「幽霊」に近い。さらに鈴木三重吉なりマルセル・エイメなり、ともかく死んだ作家を「朗読」するとは、今そこに居ない何者かの言葉を代弁することに他ならない。既に死んだはずの人間が、どうして代弁などさせることが可能なのか。そういう意味で、「朗読」とは憑依のようなものかも。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、という例の下り」の、「河」の曖昧性に似ている。「死者」と「生者」のはざまを流れていく「幽霊」。

 しかし、そのようなことを込みにしても、死者は死者である。ものとしての肉体である「解剖実習室の御検体」には、ちゃんと「なにかの動脈の名前」がある。生者は精神的な何かを持っているだろうけれど、肉体もちゃんと備えている。幽霊にはない。「身体がなくともせめて影か横顔ぐらいは見つかってよい」横顔は肉体の一側面であって、全体の、具体的なものではなく、あくまで瞬間的な欠片としてある。

 「黙読のほうが向いている」私が、「初めは搾り取るように出していた声は、桜樹の葉擦れにかき消されてどんどん小さくなり、予想していた隣室からの壁叩きもないままに、私の朗読は終わった。教授の問いに答えられなくなるときの声のしぼみ方と、少しばかり似ていた。」。それは最終の「声は小さくともいつまでも途切れず、何千の夜も読み続けられそうだった」に移る。ここを変えたのは何か。

 「母親の風邪が移っちゃってと説明した。ガウンのソニーエクスぺリアがメール受信を合図して、相変わらず入れている「桑の実」ごと震えた。」は全て同じものを相手にしている。「風邪」は嘘であり、「桑の実」もまたフィクションである。だけれど、それらはフィクションとして、今「そこにないもの」として威力を持つ。その曖昧さが、「ソニーエクスぺリア」のメール受信とともに震える。「布で顔を覆われた検体たちが、私や緑でもおかしくなかった」ものとしての人間に、そんなに特異性はない。「私」や「緑」も同じようにものとしての性質を供えている。みんな人でしかない。しかし、そこには勿論細やかな差異があって、それがたとえば「朗読」になる。朗読の事跡を引き継ぐことが、そのまま「幽霊」である緑への「喪」になる。さらに言えば、「検体」たちは決定的な死を迎えているけれど、行方不明の「緑」は死んですらいない。そこに最早希望を見出すことは出来ないし、その決定不可能なことはたぶん心を揺るがし続けるだろうが、ともかく「もう既にいない誰かはいない誰かなのであって、それを考えることはやはり私を考えることでしかない。しかし、もう既にいない誰かはやはり残り続けて、私に影響する。それは記憶とは違う死者の、正確には死者の痕跡である幽霊の特権だろう。「約束する、と思わず口をついたとき脳裏にあったのは、緑の冷蔵庫の光だった」。外に出る。それでも「ない」ということの「光」あるいは気持ちよさというものはあって、それに後押しされて「約束する」ということもある。不在の人間は、決して感傷だけをかき立てるわけでもなさそうだ。私は「緑」の不在のそばにいる人間として、「朗読」を引き継ぐ。ことで、「別れ」を通達する。

 引用の中身に関して。鈴木三重吉『星の女』の結びです。「二人の旅人」が「家」に居合わせたのは偶然でしかない。それでも彼らは「みんなを呼ぶ声」の証人として、唯一無二の存在たる。同じように、「緑の不在」に居合わせることの出来ている「私」も「青山」も、単純に偶然の証人でしかない。さらにいえば「私」が今「私」であり「検体」でないことも、それを複雑怪奇な理由の絡み合わせと呼んでもいいのかもしれないが、単純に「偶然」でしかない。それを読み替えれば「祝福」と言えるのかもしれない。「冷蔵庫の美しい光」とは、そういう祝福の光かもしれない。これは単純に「一期一会」と言い換えていい。だから、「偶然」出会う「ほろよい」は、「世界のどの名酒よりうまい」だろう。そしてそのような偶然は「この部屋にいつか来る」。語り手は「ある」より「ない」に惹かれてしまう。その態度は否定神学としての「ない」の神秘に惹かれているのではなくて、単純に「ない」ということそのものに惹かれている。その場に「ある」ことより「ない」ことが、単純に価値を持つこともある。そして、おそらくは「理由」にも同じことが言えるのだろう。「来るかどうか、居るかも解らない」からこそ寄せられる期待というような、事態に先立つ予感のようなものがあり、そしてこの小説は予感と喪の作業だけで終わるからこそ、「物語」がないといえば、そうなのでしょう。
 そしてそこに、「物語」を求める態度はあってごく当然だと思います。 
  
 以下レビューへの返信です。

■軽伸辺 柿太さん
>今回は雰囲気しかない印象を受けました。エピソードの数は豊富ですが、ゴドーを思い出す程度には散漫としています。
>それは別にいいのですが、緑の不在、解剖実習、青山の来訪のすべてで話が始まりの兆しを見せているのに終わっていないので、物足りないです。
 もっともです。感情>事件(具体的な物語)となっているのがまず第一の問題点であり、第二にはエピソード同士の繋がりがあまりに薄いことなのでしょう。「かくれんぼ」をめぐる過去の話に、割合を割き過ぎたか、というのが第三の問題としてあり、更に言えば割合を割き過ぎるということは単純に推敲の問題なのだと思います。自己批評、自分の文章を顧みるプロセスが欠如していたろうな、と思う。

>それでもあえて主眼を設定するならば、緑の不在をてこにして語り手の生活感を描き出すというところでしょうか。
 私は「生活感」のような曖昧な言葉をあまり信じていないのですが、語り手の周辺をぼんやりと書くように一回りずつするとこうなった、というところですね……。

>要するに「消えた弟の部屋で本読みながらぐだぐだする」と要約できてしまうのがつらい(これも「乱暴すぎる要約」ですかね)。
 その通りだと思います。エピソードそのものの数はあっても、それらが融和しない。像を結ばない。

>もしかしたら「不在」を主題に据えるのと字数制限のために戦略的にこのような方法をとられたのかもしれませんが、物足りないと感じてしまったので成功はしたとは評価できません。
 戦略的に、ではないけれど、ある程度長編っぽい書き方になったというか、最終的にここに出てくる「緑」「解剖」「青山」の三つのセクションが一つにまとまるようにある程度長く書くときは気を付けているのですが全く出来なかった。それは単純に枚数制限によるのではなく、先に述べた推敲の問題だと思います。
 

>総合すると、空気感は評価できますが、はじめかかった話が終わらないのはちょっとどうなのか。結局、個々のエピソードの面白さで勝負するしかないのですが、パンチ力が足りませんでした。
 そこは非常に重大な欠陥であったと思います。私自身緑に関してはさすがにマズすぎる、という危惧はあったのですが、それ以上に個々のエピソードに十分な強度がない。「短篇」という枠の問題ではない、と思います。やはりこれも枚数制限が原因なのではない。 

>それでも最初から最後まできっちりと読ませるだけの技量と文章の厚みはあったので、その点も評価したいです。
 ありがとうございます。

■バーニングさん
>改行が少なく読みにくそうだなあと思いつつ
 文字数制限なので改行……したかったのですが……当日まで推敲を放っておいたら何やらかんやらで時間吹っ飛びやがりました。

>弟の習慣であった朗読を、「私」がお話の最後にすることで、一種の引き受けのような形できれいに収斂していると感じました。
 最後の最後に朗読が出てくるのは高橋源一郎『星降る夜に』のパクリです。小説家志望であった男が断筆して、幼児用のホスピスで本を朗読する仕事をする、という何かコケそうにない小説で、基本的にこの作家が大嫌いな私でもグッと来てしまったのですが(腹立たしい)、それの結びの朗読では何だか『泣いて』しまっている。すごいなと思って導入したんだけれど、うーん、というところですね……。高橋源一郎のを読んでいて、自分の言葉(文体)を編むことを放棄した人間は、結果的に他者の言葉をもって語らねばならない。それは敗北なのかもしれないが、しかしそこにおいて出来ることもある。他者の言葉を引き継ぐことは、言葉の在り様を知る者にしか出来ない。中途で挫折した人間においても、しかしその立ち位置から何かが出来る。というのがぼんやり件の小説を読んでいて思ったことなのですが、何だかセンチメンタルな方向に流され過ぎてしまった気がします。そっちのようなしぶとい強さがない。引き受けなのは確かだと思います。

>弟のエピソードではかくれんぼのエピソードが象徴的に思いました。大学生になり、少なくとも昔よりは歳をとり大人になった今でもかくれんぼ(のような行為)を続けている弟は、未成熟なまま歳をとった子どもか、あるいは成熟を拒否することに固執する一人の人間のように見えます。
 緑は「喪失」の構図に当てはめるために強引に消してしまっています。つまり、「喪失」は「それがあった過去/それがない今」という明瞭な構図を打ち出し、更に「ないということへの悲嘆」という非常に頷きやすい感情を持ち込んでくるわけですから、ちゃんと書きさえすればまずコケない。
 ただ、そういう構図を別として、この家族には一種広がる諦観のようなものがあり、語り手はそれに抗したい。抗したいが、消えているということはどうにも受け入れる他ない。『桑の実』の登場人物も屋敷も実際にはここにないように、実感は出来るが実際にいない幽霊のような何者かにどう接するか。たとえば小説の登場人物であるならば、その本を読み終えることが一つの喪の作業となる。同じように、彼女にとっては朗読の引き継ぎこそが弟の喪であった。もうこれ以上交わりようのない誰かに向けた、架空の葬儀。『星の女』の旅人たちは、何故「一人もいない」かを察することは出来ない。しかし、彼らの残した家を引き継ぎ、そこに住まうことは出来る。その痕跡を感じ取り、その声の記憶を聞きとることは出来る。たとえそこに意思の介在がなくとも、彼らの住まう家が誰かによって再度住まわれるということは、それだけで継承であり、一つの喪ではないか、と理由付けをするならばそういうことになるかと思います。たとえ彼らが「よぶ声」によって、既にそこではないどこかへ移ってしまったとしても。それは単純にごまかしであり、現状解決には何もならないのかもしれない。しかし、「ごまかし」が威力を有するとき、私はそれを一つの救いだとは信じたい。
 どういうことだまったく。
 「実感は出来るが実際にいない幽霊のような何者か」とは、たとえばもう既に出会えない過去の何者かなどが当てはまると思います。その人たちがどうなったかは解らない。あんまり解りたくもないが、しかし悪い予感はある。気にかかってしまう。しかしそれを「喪」という形式で送り出すのは、ちょっと自己満足だ。

■8823さん
>やっぱり、何らかの答えとか動きが欲しいと思うのです。姉が弟のいた部屋で弟の影を追いかけている、ました。でっていう。
 「緑」「青山」「解剖」のどれにもどうも答えがない。消化不良感を雰囲気でごまかしている感はありますね……。枚数があれば収束させられたよ、というのは不誠実な言い訳なのですが、たとえあったとしても「緑」は行方不明のままだったんじゃないか、という気がします。あとは、「弟の影を追いかけている、ました」姉が内面的に非常に「つまらない」というのが一つ問題点としてあるのだと思います。私も「答えとか動き」とかを素直に書ける小説のほうが好きなので、この方向性は少なくとも現時点ではあまり向いてないんじゃないか、という予感は薄々しています。

>「あとはそっちで頑張って」と言わんばかりの無責任さで要素要素が放られたまま収束を見ずに完結しちゃっててどれを拾えばいいのか分からない。ていうか何で僕が拾わなきゃいけないんだよう。いやそもそも片付ける必要はなくて散らばっている状態で作品なのか。分かんない。
 一応は、「散らばっている状態で」を目指しています。しかし、それには個々のエピソードの作り込みが足りない。収斂がないならば完全に分散し尽くさねばならぬのに、だからといった「緑」の余韻から逃れられているわけではない。小説全体が一つの喪失感に捕らわれているにもかかわらず、喪失感と踏ん切りをつける喪の作業=朗読にしっかりと力点を置けていないのが問題だった。あと、たぶん「行方不明」という設定ではなく、病死とか事故死とか、ちゃんと明瞭に「失われる」ほうが構図としてはきれいであったと思います。ただ、バーニングさんのレビューにも書いたとおり、最初にやりたかったのは「実感は出来るが実際にいない幽霊のような何者か」との向き合い方なので、実際に「死」を導入してしまうとちょっと……。でも、物語として成功しているとは全く言えないので、うーむ、というところです。

■しじまさん
>「遊び」と「ゲーム」が果たして区別できているのかという疑問が残ります
>それを差し引いてもこの作品の中に両者を分けるだけのもの、あるいはそうしようとする意識があったようには感じられません
 出来ていないですね……。テーマ消化という観点ではとても加点できません。

>少なくとも「ゲーム」は必ず最低限の秩序を要求し、一方で「遊び」は無秩序でも成立しうる
 これに関してはちょっと区別が解らないです。「秩序」が何なのかよく解らないからかな。「遊び」よりはるかに無秩序な「ゲーム」は存在すると思いますが、もうこうなると言葉遊びに近いような。とはいえ、そのような明確なビジョンを持ち合わせていないことは事実です。

>響いていて、ある種の統一感があったのも、安定感を生み出しているのだろうと思います。また、書き出しの二文の滑り出しの良さは非常によかったです。相当すっと作品に入れました。
 ありがとうございます。このところずっと書き出しのことを考えていました。「一か月が経った」は、読み手が物語に入り込む(そこに跳躍する)ギャップと、時間的ギャップの重なりから、ごく自然な導入になるのではないか、とある程度感覚の予想を付けていました。さらりと入れたならば、ありがたい限りです。
 
>それなのに、最初の場面が全体で最も回りくどくごちゃごちゃしているのは不親切でしょう。
 ここは本当にダメダメだと思います。まず単純に推敲の問題としてNGな部分が多いのと、過去と現在の入れ食いをもう少し上手く出来なかったものかな、と。移動している時間に比して時間の移動が煩雑すぎる。

>「私」の語り口もやや安定を欠いていて、時々違和感を感じました。一番の原因は、やっぱり語彙の違いでしょうか。前半や具体性の高いあるいは現実性の高いものから、後半へと一般性の高いものへと変わっていったからかと思います(あと、よく分からないたとえも前半から後半に欠けて減っていたりしているように思います)。
 前半部と後半部では光度が違うというか、「緑」の問題からしだいに「緑に出ていかれた私」の問題にスライドしていく過程がなめらかでない、ということなのだと思います。あるいは「緑」をすでに消えてしまった人間としてすっぱり諦めてしまい物語に再登場させないことがマズかったのか(まだら模様に「緑」と「私」と「緑のいない私」の三人の物語があれば、あるいは均衡がとれたかもしれません)。特に「よく分からないたとえ」は「分からない」というより「中身がない」んだと思います。中身がないものは分かりようがないから。 

>緑もとんでもなく部屋を汚すようなだらしなさと、文章を書いたり朗読したりする様子と、失踪する様子がどうにも頭の中でうまく結びついてこないです。
 うーん。私は人の要素が統合されて迫ってくるという経験があまりないので、これもちょっとよく解らないです。そうは言いながら「あいつ絶対〜するだろうな」みたいな推定は当然するんですけど、小説の読解では要素を拾い集めて『性格』を再統合することはあまりない(ヘンリー・ジェイムスが好きなのもそのせいです)。逆にそういう「結び」つける作業をするのは評論ですね……。小説の読解と評論の読解に区別をつけるならば。

>持って回った言い回しをやたらするけれども、きちんと相手の動作を描写したりというのも少ない
 「持って回った言い回し」は単純に安全化装置でしかないので、推敲の時点で全部消すべきであったと反省しています。「相手の動作を描写」はとてつもなく苦手です……これは本当何とかしたいです。

>あまりにも全体を出来事として描写しようとしすぎ
>「私」があまりにも受け身的で、かつそれが徹底しているわけではなく妙にゆらゆらと語られている空間に出たり消えたりしているような感じです。最後になって急に「私」を浮かび上がらせてくるのに違和感を覚えました。
 「私」にとって関与できる部分と、関与できない部分があると思います。「緑の喪失」に関して語り手は何もできないが、「緑の喪失をめぐる私」に関しては何かが出来る。その結果として部屋の来訪があり、青山との会話があり、朗読があるはずです。もっというならばその「朗読」とは、たとえば過去の死者との対面そのものではないか、という気がいたします。私たちは「死者」について何かをすることを出来ないが、「死者をめぐる私」に関しては何かが出来る。「情念を留めることは出来ないが、その情念について考えることによりそこから解放されることは可能である」と言ったのはスピノザかアランか忘れましたけど、感情にしろ死者にしろ抽象的なものにしろ、肉体的に触れられないものに直接関与することは出来ないけれど、それに取り囲まれた自分をどうにかすることは可能だ、と思います。「死者」であるということに打ちのめされる=関与し得ない部分(緑の喪失)と、それを受けた「私」の行動とが交互に出ることが「ゆらゆら」であり、「空間に出たり消えたり」していることではないでしょうか。最後になって急に「私」が浮かび上がってくるのは、その場に「私」しかいないことに他なりません。

>回想の比重が大きくて、あくまでも現在だけで考えてみるとほとんど動きがないです。回想のための物語ではない以上、やはり現在はもっと作っていかなければならなかったのではないでしょうか。
 私は正直、「回想のための物語」だと書き終わった直後は考えていました。その回想の流れを受け継ぎながら「私」がどう向き合うか、という「緑をめぐる私」の筋道に流れ込んで、その最終的な帰結が「朗読」であった、というつもりです。思い出すこと自体が現在的になるというのか、回想そのものは過去形で物語られるけれど回想すること自体は現在的であるような時間のギャップがあり、思い出すたびにだから回想は現在的なものだと思っているんですが、そういう意味で私には「回想」と「現在」の区別があまり付けようがない……。そも「喪」としての作業が短すぎる、という点において「現在はもっと作っていかなければならない」という指摘には同意いたします。

>文章があまりにもほかの要素に影響を与えすぎていて、そのバランスをどうするかというのが問われた
 これは多分他の小説に言えることだし、あと毎回思うのはたぶん自分が想定しているほど文章がちゃんと出来ていない、ということですね。丁寧なレビュー、ありがとうございました。

■かにさん
>弟のキャラづけが細やか。
 何つーかキャラづけってよう解らんです。その人物をめぐる記述を増やしていくことがキャラづけなのかなあ。私は「キャラクター」を取り扱うことがすごく苦手なので(のわりに、私の小説の登場人物は極めて類型的なのですが)。

>これにインスピレーションを受けて書き起こした話って感じがする。

 ばれた! 読んだのはだいぶ前なのですが。「桑の実」は書いている当時読んでいました。

>残された主人公と隣の住人が緑を待ち続けてロマンスを繰り広げるシチュ
>ってかこのシチュがやりたかっただけじゃないのか。
 ばれた!(復唱)
 
>納得できる結末を導き出してほしかった。
 「弟がどうなったか」解らない、という消化不良な結末を「納得」させられる力があまりに乏しかったのが、この小説の敗因なのだと思います。それは続く朱空さんのレビューにも書きましたが、そこでたとえば「読めてない!」みたいな意味不明な抗弁をしても何も得をしないわけだし、実際に「読む」ことに先行する「意味」など"あまり"存在しないのだから。

■宮塚さん
>いつか音読が楽しいみたいなことを言っ

たことありますけど、これもなかなか楽しい
 どうなんでしようね? 私は特に前半部のリズムの悪さは致命的だと感じたし、たいがいにおいて私の文章は「音読」するほど滑らかに書けないので……。ともかく、ありがとうございます。

>緑の疾走癖が結局本当に只の疾走癖で、姉貴振り回されてるだけじゃあんと言う何か妙なガ

ッカリ感が。いや、お前何を期待してたんだよと言われても困りますが
 「それっぽく」見せておきながら中身がないのと、「振り回されている」「姉貴」がただのブルーでつまらない女の子、というのがデカいのでしょう。彼女の語り口=私の語り口が内面的におそろしくつまらないから、内面の話をしたときに単純につまらない。

>何かいつものことだけど、テーマの消化率が不具合。
 テーマ消化の難しさは異様……。いや今回のテーマが難しいというのではなくて、私は何となく「テーマを消化する」こと自体が今のところよく解らないので。前には解ったのかもしれませんが、最近色々と混乱続きなところがあります……。

■朱空さん
>「感傷に意味はない」のだというのなら、この小説こそが無意味なのだと。
 まず「無意味だと解り切っているが、しかし威力を持っている」呪術的なものはあると思います。幽霊に似ているのか。そこに苦しめられるということは間違いなく存在する。それはたとえば「自意識に過ぎない」と退けたところで大概の「自意識」の病にとっては効用がないのと同じです。そして、「自意識」が大抵において『ウザい』ように、「無意味だと解り切っているが、しかしそこにのめり込んでしまう」ということは『ウザい』。
 不快感は当然です。もちろんそれは、

>なお、文章も非常に読みにくかった。見苦しいだけの比喩、読みにくいだけのディティールが多すぎる。冗長で無駄が多いだけの、面白みのない文章。
 これも原因でしょう。特に冒頭は失敗です。 

>何一つ、この小説は乗り越えない。
 私はどちらかというと「現状の肯定」が好きな人間です。むしろ、行動によって打破したつもりだ、というようなときほど疑わしく感じてしまう。たとえばこの小説で「緑の行方」に決着を付けたところで、それが何なのか、という気がしてしまう(無論重大な跳躍ですが)。ともあれ、しじまさんのレビューにも書きましたが、まず「乗り越えて」いると私は読みます。「いないものはいない」という認識ぐらいは出来ている、のかなあ。
 もちろん、私も「小説らしさ」として緑の失踪を利用し、「それっぽさ」を演出したに過ぎないのだと指摘されればあまり否定も出来ませんが(そんな頭は持ち合わせていないというぐらいしか出来ない)、

>どこにも結びつかない。どこにもたどり着かない。
 これは素朴に違うと思います。であるならば、「私」は別に朗読をしない。もちろん、「あったものがなくなる」「複雑な」「私」に酔っているに過ぎない、そしてその感傷を無意味と断ずるならばこの小説自体が無意味だという指摘に対して、私は否定のしようがない。そもそも部屋にたどり着いているじゃん、という気がしてしまう。朗読=「決別」であるとか緑の「引き継ぎ」だという「解釈」も可能かもしれませんが、それ以上に私は「たどり着かない」小説を今までにあまり読んだことがないので……。私はこの「朗読」は喪の作業だと思いました。

>何も得られない。
 「何も得られず」生きているような人間がこの世に実在するのか、私にはよく解りません。そして、小説が人間によって書かれた以上、「何も得られない」小説が果たしてこの世にあるのか、正直なところよく解りません。いや実際、青山七恵『ひとり日和』みたいなダメダメな小説でもそうだと思います。

>何も戻らない。何一つ、この小説は乗り越えない。
>そうである、という事実は私にとってべつに面白くない。
 ひとつ、私は「そうである」という事実がとても好きだ、というところに小説観の大きな違いがあるのだと思います(これがたとえば「現状肯定」をめぐる違いにもつながるのでしょう。固定された「現状」などあり得ないように思われますが。動きの大きさの問題ではないでしょうか)。もし変化が欲しいならば、私は小説よりゲームのほうが好きなので……。ただ「そうである」ということで魅せるならば、文章の上手さは義務として求められるわけで、そこがごく単純に失敗している。

>一方で読んでいて楽しいカタルシスもない。
>エンタメ性も文学性も私には見出せない
 「エンタメ性」「文学性」というものが私には全く理解できませんが、「カタルシス」あるいは魅惑がないのは間違いないです。そしてそれを技術の問題に帰するのは「逃げ」なのかもしれませんが、どうしても「物語」の問題だとは思いたくない。私は「物語」大好きで、大概の人の小説にケチを付けるときは「物語の構築」云々言うんですが。

>すでに手遅れなのは緑であって彼女ではない。なのになぜ、としか私には思えなかった。
 残されているのが「彼女」だからです。手遅れの人間は、それなりの責任で手遅れになる、とまではたとえば就活なんか見てると思えないのですが。ともかく面倒なのは、その「手遅れ」に自ら関与できないが、その影響を確実にこうむる人間で、傍観を超えたただの鬱陶しいお節介だと断じられてしまえばそれまでです。しかしその「傍観」を超えて、痕跡をほんの少しでも追跡することが出来るのは、「手遅れ」でない「彼女」でしかないのでは。当事者にしか出来ないこともあれば、当事者でない人間にしか出来ないこともあると思います。

 しかし、まとまりのないことをあれこれと述べるよりかは、

>この小説がつまらない
 というこの一句を受け止めるほうが余程「お得」だと思っているし、受け止めています。

>神は細部に宿るかもしれないけれども、物語は宿らないと私は思う。


 本作とまったく関係なしに、これには単純に反対します。「小説的に無意味な」ディティールは存在するだろうけれど、それはあくまで「小説らしさ」への依拠ではないでしょうか。そして私は「小説らしさ」が全く理解出来ない以上、「空疎」な「中身」もまた理解出来ない。私がすべきだったことは「この小説はエンターテイメントです」「この小説は文学です」とラベリングすることで、「エンターテイメント」でないならば「文学」の手続きをすることだったのかもしれませんが。ただ、無意味だと解っていてもなお力の持つものはあるだろうというのは冒頭の通りだし、そのプロセスの欠乏が伝達の障害であるならば当然反省すべきだったろうと思います。

 ともかくとして、
>この小説がつまらない
 やはりこれがすべてだと思います。
 
 というのは、私が「何も乗り超えない」小説を書き、そしてそれに「何も乗り越えない」という非難をされたならば、それは単純にそれ以上の魅力を与える力に欠けていたのだと反省すべきだからです。「物語」(をこの小説に導入したら、果てしなくメロドラマっぽくなりそうですが)がないことを納得させるだけの力がないわけで、そこを反省せねばならない。「何も乗り越えていない」に対して「乗り越えている」と強弁するよりかは(ちょっと冷静に読み直すとそうなので、というのは上の返信もまた「面白くない」から)、「乗り越えている」と作品で説得出来なかった自分の力の至らなさでしょう。あるいは「乗り越えていない」ことに面白さを作り出せていない。「当事者でないこと」が「面白く」ないなら、やはりこの小説は失敗です。そしてそれを納得させる方法論を再編せねばならない、と思います。そのうえでもちろん、単純にマイナスからプラスに至るまでの「物語」を見つめ直してもいいだろうし、「この小説がつまらない」というのを受け止めるのが「得」だというのは、そういうことですね。じゃあその方法論を事前に毎回採用できるのか、というとまた別問題ですが。

 あと、何だかここまでの話に自己弁護で使ってはいけないような言い方を何回かしてしまった気がします。言い換えれば自分の「得」にならない節回しをしたような……気分を害されたらすみません。たぶん「〜できない」「〜が理解できない」からしょうがない、というような自己規定と居直りの言い回しって自分の得にならないし、この小説の語り手の『ウザさ』はそういうところにあるのじゃないかな。それでも語り手がこの小説で「何も得」なかったとは、決して思いませんが。

 単純にこれは朱空さんとの小説観の違いなのかもしれませんが、たとえば以前にどこかで「作品を支配する感情」みたいなことについて互いに話したことがあったような記憶があります。朱空さんは「作品は一つの感情が支配的になるもの」だと言って、自分は確か「作品には複数の感情がばらばらに存在するもの」みたいなことを言っていた気がします。これも、おそらくは小説観の違いなわけで、たぶん今作をめぐるヘンテコなかみ合わせの原因なのでしょう(何かこの文章を書いているとき、私はすごく変な気分がしてしまいました。単純に強弁が多いのもあるだろうけれど、それ以上に何かすごく違和感を覚える返信でした)。
メンテ
Re: 談話室 ( No.57 )
日時: 2013/04/05 06:05
名前: バーニング ID:vcuNWEdY

 みなさんおつかれさまでした!
 コンテスト後のチャットでも触れましたが、すごいなー面白いなーと思いながら長い間ROMってたわたくしですが、最後に参加者のひとりとして加われて楽しかったです。
 単に書く場としてではなく、読む場でもあるということ。読む場であるということは読まれる場でもあるというこの場所で、多くの人にレビューという形で批評をいただきました。批評をするという行為は自分にとってはなじみのあることですが、批評されるということは大学のような学問の空間以外ではほとんど経験がなく、新鮮に感じながら一人一人の批評の言葉を受け止めました。もちろん規約上そうなっているからではありますが、コメントをくださったすべての方にお礼を申し上げます。
 書くということ、創作するということはまだまだ不慣れなこともあってか難しいもので、レビューでも指摘されてましたが推敲の甘さも目立ちました。ただ、こうした機会がなければ拙作は完成していなかったと思いますし、コメントをいただくこともなかった。書くということの難しさと楽しさを両方味わえたことや、他の方の作品を真剣に読むという機会を与えられたこと。こうした場を提供してくださった管理者の方にも、改めてお礼を申し上げたいと思います。おつかれさまでした。

 投票では全作レビューをできなかったので、投票で挙げた6作以外についてこの場でレビューを投稿させていただきます。そのあとに自作についての解題をしてみます。

◆ 春姫「LOVE PARADE」
 読んだ中ではもっとも読みやすかった作品でした。単純に文章がこなれているというだけでなく、お話を作るなかで春姫さんなりの文体が確立しているのだろうと思いました。描写に過剰さやくどさがなく、かつ心象の書き込みもそれぞれのエピソードの主人公目線で丁寧に書かれていて、非常に好感が持てます。この点では自分のなかではけっこうポイントが高いです。
 1万字でゲームのお話を作るという点でも、オムニバス形式をとっているわりにはよくできているなと思います。人生ゲームというネタは誰かが使うだろうなと思っていましたが、以前読んだ綿矢りさの「人生ゲーム」(最近出た『憤死』にも収録されてますね)の暗さと残酷さとは対照的に、春姫さんは紆余曲折ありながらも最終的には明るい方向へ持っていきたい、という意志が見えます。
 逆に、いくつかのお話を読んでいるとオチが見えてしまったとも言えるので、オチの意外性やインパクトによる面白さという意味では弱いかなと。ただ、ゴールを迎えてからが新しい始まりであるというのがひとつのメッセージなのだろうと、読み終えて受け取りました。
 オムニバスとして書くという形式的な面白さはアイデアとして評価したいのですが、内容に人生ゲーム的な要素以外のものをほとんど受け取れなかったのは残念でした。書かれてあることは分かるけれども、響いてくるものがないと読んでいてもすぐ頭の中から消えてしまいます。簡単に言うと、試みが面白いだけにもったいないです。好感を持ちながら読んだけれどだんだんそうではなくなっていった、という理由でベストにもワーストにもいれませんでした。
 そういえば(他の方もレビューで指摘してましたが)三マス目だけないのはなぜなのでしょう。

◆ 軽伸辺 柿太「さくらのなまえ」
 ゲームというテーマをどのように盛り込むかで多様性と個性が明確に出たのが今回のコンテストだと思いますが、ゲームの「効率」に着目するというのは予想外でした。いや、逆にしたほうがいいかな。つまり、「効率」に着目することで、「スポーツとか授業とか試験とかいうやつらはぜんぶゲームだ」という主人公のぶっきらぼうさを表現することに成功しているのはうまいな、と思います。
 投稿作のなかでもっともラノベっぽいという点もあまり気にはなりませんでした。セリフの書き方はラノベっぽさを意識的に演出しているのだろうと十分予感しながら読めるようになっているので、ある意味親切でもあろうかと思います。ただ、ラノベっぽさのわりにはキャラの書き込みが甘くて、名前に着目するということでキャラの個性を客観的な部分と、呼びかけの部分で目立たせてはいるけれど、それくらいかなと。キャラは(特にさくらは)立っているので、なおさら惜しいなと感じます。
 と言った理由などで順位付けが難しいなあ(字数も超過しているし)と考えながら、結局ベストにもワーストにもいれないという算段にしました。

◆ 鮭「すべてを」
 ベスト3位に入れるかどうか最後まで悩みました。結果的に投票で2位になったのはもっともだろうと思います。文章、構成ともに非常にすぐれています。
 書き出しや、「来てよかったでしょ」という短いセリフがうまいなあと思いつつ読んだのですが、読んだあとに過去の短編コンテンスとのお題だということに気づき、加点せずというところです。ただ、書き出しから中盤あたりまでに言えることとしては、「わたし」の故郷が少しずつ立体的になっていく描写が見事だと思います。滅び行く故郷はかつてあった場所でもあるが、見たことのない場所でもある。「わたし」の目を通して読者も「わたし」の故郷を追体験する感覚は、読んでいて心地よかったところです。
 内容については男女の物語ではあるけれども、がんじいという非常に重要な第三者がいることによって、単なる男女の物語にはなっていないし、単なる喪失の物語にもなりえていない。人が生き、そして死ぬということ。あるいは、死に際にある人のそばで、見守る人がいうこと。他の場所ではありえない、故郷という特別な感情や生きてきた歴史や証がある場所で展開されるがゆえに、より一層読者に感傷を誘う。
 何かが終わっていく、失われていく予感が全体的に漂いながらも、ただ悲しいだけの物語にはなっていない。いや、ほんとうは悲しさというものが絶対にあるはずだし、忌避したい感情もあるはず。けれども、その悲しさすら静かに閉じ込めるのは、語りの静けさや描写される街並みの静けさのせいもあるのではないかと思いました。この小説で書かれている街という舞台が、良くも悪くも人の感情を抑制するように機能しているのではないか、と。
 惜しいな、と思ったのはまたがんじいのことになるのですが、がんじいという魅力的な第三者を配しながらストーリーは「わたし」と君彦の関係に収束していく。もう少しがんじいをめぐる物語を展開してもよかったのではないだろうかと(字数もまだ余裕があたようなので)とは思いました。がんじいの消失を演出したいのは理解できるので、難しいところだとは思いますが。

◆ しじま「水を結ぶ」
 寓話、あるいはファンタジー。人ならざる者として立ち現れるハナという少女と、彼女が語る物語。これらは魅力的ではあるけれども、ハナの語りは何かのはじまりの予感を感じさせるがゆえに、そのあとにすぐこの小説が終わってしまうことに物足りなさを禁じ得ません。
 また、読みやすいかというと、はっきりと読みやすいとは言いづらいと思います。時系列が小説の前半と後半で一致していないと思われる箇所や表現がいくつかあること。不在のユキが絡むことでより一層三者の関係(三角関係?)が密接になると思われるのに、あくまでハナの物語として終わらせていること。最初にも指摘しましたが設定として魅力的なところがいくつかあるだけに、ひとつの短編としての構成がうまくいっていないちぐはぐな印象はぬぐえません。
 ただ、この物語にある不思議な魅力が自分のなかでは好感をもったため、ベストにもしなかったけれどワーストにもしませんでした。物足りなさや尻切れ感は前述したように否めないけれど、ハナが語る世界への魅力は、ハナという存在そのものへの魅力(と、いくらかの怖さ)でもあり、それらを短い中で表現した点は素直に評価したいと思います。

◆ 自作「三月は浮遊する」
 解題、というものを見よう見まねでやってみようと思います。
 まず、小説を書いて公開する、という行為はかなり久しぶりに行いました。二月にこれより少し長い短編をひとつ書いたのですが、そのときが八年ぶりくらい(最後に書いたのが確か中三のとき/2005年だったので)になります。つまり、小説を書くという行為そのものはまだまだ不慣れななかで投稿したのが拙作になりますし、未熟さは諸々に指摘されていることですが投票で三位をいただいたのは光栄に思います。
 あと、タイトルは思いつきです。ただ、この思いつきのおかげで小説を書き進められましたし、内容では難ありと指摘されつつもタイトルを褒めてくださった方がレビューでも多くいたのにはやったぜ、という気分です。

 文章について。
 主人公を女性に据えて書くのは初めてだったので、いかに女性っぽさ(というよりは女の子っぽさですが)を出すかを心がけて書きました。良くも悪くも自分のなかのイメージとしてのやわらかさやかわいさ、みたいなものが文章に出てるかなと思います。
 七海に方言を喋らせたのは、地元に帰省して会う地元の女の子なのでこのほうが自然だろうと思ったためです。場所が特定されていなければそうしなくてもいいのですが、書き出しにもあるように場所はわりと明確に意識して書きました。というか自分の地元です、完全に。
 あと、関東から帰省した大学生と地元の大学生という構図は、自分が帰省してたときにスタバで聞いた会話から着想を得ました。(聞こえてしまった会話が面白かったため)

 内容について。
 執筆を始めてから投稿するまでの間はちょうど帰省していたこともあり、この短編がなんとかできあがったのだろうと思います。タイトルにあるように、三月であることと、「浮遊」しているということを念頭に置きながら、ゲームというテーマを付け加えながら書きました。地元を離れて一年という設定は三月という時期から考えましたし、単に大学生という以上にちょうど新年度の前ということもあるので「浮遊」という不安定さを書くならふさわしいだろうと思いました。
 ゲームという点においては、自動車教習所の詰め込みカリキュラムを攻略していく「わたし」(春香)という点と、車を運転するときの感覚を、特に前半部では念頭に置いています。後半ではゲームをプレイしているいまと、いずれまた日常としての大学生活に戻っていく近い将来を、意識の中で時間的に対比させるように書いています。ただこのへんは多少後付けの部分でもあるのであまりうまくいった自信はありません。高速道路の教習のシーンではゲームと夢という対比を使っているので余計ややこしいかもしれません。(ここは高速道路の「どこにだって行けそうだ」という感覚を書くためでもあるのですが)
 春香と七海について。ふたりとも、ある意味普通の大学生です。春香は地元を離れて関東へ、七海は地元を離れずに、という風に対照的に書きましたが、どちらかが特別というつもりはありません。また、ふわふわの春香と、そうではない七海という軸も用いてますが、これは最初のふたりの対照性から引き出されるものでもあります。地元へ残った七海は自分のやるべきことがもうとっくに決まっている(だからふわふわしていない)し、地元を離れて多くの刺激を受ける春香は、ふわふわせずにはいられない。特に後半の会話では、この「実感の違い」を基に構成しています。平田オリザの言葉を借りればコンテクストの違いとも言えるかも知れません。この違いを知る(コンテクストを共有する)という経緯が、教習所での体験と組み合わさることで、小さいけれど特別な体験として春香に宿るように構成しました。ただ、これはこのあとに書くことともつながりますが、そのわりには 春香についてあまりにも割きすぎていて、七海のことが置き去りになっているという印象はあります。
 朱空さんに指摘されていましたが、こうしたふたりだからこそ何らかの形で対立させ、そこから生まれる関係性について展開できなかったのは残念でした。簡単に言えば、七海は春香の背中を押すだけの存在になってしまっていて、朱空さんの言葉を借りれば七海が哀れに見えてしまいます。また、Raiseさんに指摘されていたように、この小説は終わりに向けて主人公の内省に舵を切ってしまっています。春香に対して小さくてもいいので何らかの気づきを与えたうえで、三月という一区切りの時間を終えてほしいという思いからああいう内省が続いてしまいました。このあたりは自分の表現力の甘さかなとも思うので、いただいた指摘を参考にしながら今後に生かせていければと思っています。

 ひとまずこんなところかな。自分の書いたものについて語るのはなかなかに恥ずかしいところですね。一人一人へのレビューのレスポンスも行いたいのですが、長くなりそうなのでまた改めて投稿することにします。
 あと、これは蛇足のようなものなので最後にしましたが、春香と七海のふたりの名前は三月ということもあって春香にはそのまま春の文字を、海がそばにある街の物語ということで七海には海という文字をあてました。ただ、最初の着想は某アイドル育成ゲームのアイドルのひとりと、某シェアハウスライトノベル(アニメ)の関西弁の女の子です。七海がふたりとも方言キャラなのはたまたまです。
メンテ
Re: 談話室 ( No.58 )
日時: 2013/04/06 22:47
名前: 春姫 ID:ZwuARluE


何人かの方に「何故三マス目だけないのか?」という質問を受けたのでお答えします。
答えは単純。短編コンテストの三回目にだけ私が参加していない、ただそれだけです。
ちなみに第九回目は素で忘れてました。

皆様のレビューは全部読めませんでしたが(ごめんなさい。メンタル不足でした)、私としては満足してるので勘弁願います。
自己満足で終わってしまいましたが、私はアイラブ短編コンテストです。

(・∀・)ノシ
メンテ

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