三キロメートルの無 ( No.5 )
日時: 2012/01/22 14:25
名前: オムさん ID:WivCYdMA

 あるとき家のトイレの便座が私に向かって倒れかかってきたために、小便が私に跳ね返ってきたことがある。私は顔まで小便まみれになり、立ちションをしていたのだから仕方のないことなのだが、家のトイレの便座は緩いということに私は憤りを感じたのである。
 全くもって殺人的なまでに退屈な日曜日の昼。出かけようにも車がない。売り払われてしまったのだ。親元を出なければ、と思うのだが次第に袋小路に追い詰められていく。この田舎町で車がなければどのようにして用を足せば良いのだろう。私の家は周囲から三キロメートルの距離で建っている。というよりも、私の家がそのまま周辺三キロメートルにわたって広がっているというべきだろう。夏は牧草、冬は雪原、照りつく太陽と遠方の山並み。私は牛たちに囲まれている。牛は今のところ鳴く以外には能がない。食べるだけだ。乳を出すまでにはまだしばらくかかるようだ。手違いで乳牛を出荷してしまったのだ。ところがその牛たちはしっかりさばかれて肉になってしまった(私が知るかぎり最も残酷な体験)。
 私は私の周囲が自決に向かって自転を繰り返しているような気がする。
 とはいえ私は家でこうして小説を書いているだけだ(小説を書くのに実務経験など必要ではない。十年に及ぶ文章修行で到達した真理がこれである)。他にするべきことも見当たらない毎日なのだ。だが日曜日はやはり退屈なものなのだ。そういう時に私はインターネットで“契機”を探し始める。とにかくも契機が大切なのだ。契機がなければ何事も始まりはしない。目の前にはただふやけて引き伸ばされた時間があるばかりだ。私にできることはまだ何も無い。
 契機はすぐに見つかった。そして私は筆を執る。
「ちょっとあんた、三島さんのところまでひとっ走りしてくれないか」
「車がないのにどうしろっていうんだ」
「車がないって、ないのはあんたの車だけじゃないか。練習だと思って乗ってきなよ」
「だめだ、僕はオートマチックしか乗れない。クラッチなんて忘れた」
「せっかく何もないところにいるんだよ。今乗らないでどうするよ。あたしの金で免許取らせてやったんだから、少し乗ってきなさい」
「冬道じゃないか。物事には順序があるよ」
「順序ったって最初の一手をいつまでも渋ってる人間なんだから、無理矢理にでもやらせないとしょうがないじゃないか。あんたがいると暗くてたまんないんだよ。ほら、車のキーはここに置いとくからね。これが三島さんに渡す菓子折り。頼んだからね」
 と私の母親が私に言った。私の思いは挫かれた。
 車のキーを挿してエンジンをかける。車はのろのろと走り出し、周囲には何もないから車窓を流れる景色に集中できる。しかし景色は何も変わらない。
 せわしない現実を離れて遠い世界に、いや、まったく新しい世界に。走りだせば体が操作を思い出すから、慣れないマニュアル運転でも余裕ができて空想を始められる。変わらないことが契機になり始まることができたのだ。重要なのは次のことだ。世界をまるごと作ることだ。地球のモデルを書き換えていくというのは、細部に拘る。そういうことだから、拘った細部が魅力的に動けばそれでいいのだ。要するに誰もが夢を見たい。ぼんやりとした印象の夢が明晰に見えてくるほど、人の心を惹きつける。
 大体原稿用紙を四枚ほど消化しただろうか。残るところ十五枚と少々。短編であるから起承転結をしっかりさせておかなければならない。道はどこまでも直線のままだ。太陽が積もった雪に照り返して眩しい。前が見えなくなりそうだ。地吹雪でも起これば自分がどこにいるのか、私はすっかりわからなくなるだろう。牛舎が点在しているらしい。こんな冬でも牧場の臭いは漂う。私の鼻をつく臭いはまるで使用直後の便所のようだ。これなら人を殺せそうなものじゃないか。犬ほどに鼻が利くなら、人はこの臭いに犬ほど鈍感ではいられないだろう。まるでモンスターじゃないか。くさいのだ。
 私は角を想起している。ねじ曲がった螺旋が枝分かれして先を尖らせている、禍々しい角だ。すでに西洋の空想に足を踏み入れ、肉でも食い荒らしてきそうなところだ。それでもまだ角だけだ。顔は牛のようになるだろう。しかし瞳は緑色だ。魚のように生気がない。死を直截に見つめている。何の感慨も抱いていない。生きながらにして死んでいるのだ。だから食らうのに容赦がない。動くものなら何でも食らう。特に人を好む。筋肉が盛り上がった前足が地面を蹴ると地鳴りが起こる。群れで襲われれば地震となる。だから逃げる場所がない。追い詰められて袋小路(追い越しをかけられて目の前が真っ白になる)。舞い上がる雪に包まれ急停止した車が突然横転する。誰もいない道端で一回転した車から私は放り出されて右肩を痛める。牛舎から逃げ出した牛が私の横でモウと鳴く(心底どうでもよさそうに)。
 車は道から大きく外れ逆立ちしたまま変形している。脇の段差を転げ落ちたらしく潰れた後部座席にあったはずの菓子折りも無事では済まされないだろう。近づく気もしない。そう思っていると乾燥した空気にやられたようだ。見ている間に車が火を吹き炎上した。爆発音が立て続きに響き、火柱が上がっているのを私はただ呆然と見ている。隣に立ったままの牛は同じ調子でモウと鳴く(心底どうでもよさそうに)。
 メラメラと燃え続けている。
 ――困難な世界だ。
 物語の類型について、大学の文学部でV字型の法則を学んだ。これは古代の神話から現代のエンターテイメントまで広く用いられているもので、この類型に個々の要素を正しく散りばめてやることができれば、優れた物語は完成したも同然である。とその教授は豪語していたが私としても同感だ。ただし書き手が書いているものとの距離にあまりに意識的になっている場合は、こうした類型はむしろ意識されない方が良い。科学の有効範囲と哲学の有効範囲に関するある哲学者の議論がこのことを説明してくれる。科学がもうこれ以上いけない、といった地点から哲学の領域が始まる。事物に関する研究が行き詰まったところから、綜合の研究が始まるのだ。要素の効果的配置は要素の分析と表裏一体であるから、それらを別のレベルから照射する段階に至れば分析の思考は背景化する。つまり前景化しないということだ。ところが私はこう思うのだ。私はこのファンタジーというジャンルを物語的にはきっちり類型に納めてしまうことができるジャンルだと考えている。ファンタジーが一個のファンタジーとして魅力的なのは、その物語が独創的であるからというより、展開される舞台が独創的であるからだ。というよりも、そうでなければファンタジーというのは一体どのように指し示すことができるのか、困ったことになる。異世界における人々の暮らしを延々と書いた所でそれは架空の話以上にはならない。こういうことだ。ファンタジーにはファンタジー足りうるべき展開の約束があるのであり、物語はある意味では必要ではない。というより、必要不可欠であるのだが、借用するだけでもなんとかやっていける。そういうことだ。ところでV字型の法則を説明していなかったが、残り枚数が不安だから今は割愛することにする。
 早起きは三文の得だというが、できた時間を使わされることが多いのが実家暮らしの辛いところだ。午後に目を覚ましていれば今頃温かい布団の中だ。見えない道を歩いているが右肩の痛みはまだ取れないし、迷子にならないように道路を歩くからいつ轢かれてもおかしくない。死と隣り合わせの行軍。かといって飽きて眠ってもそこは雪の上だ。まったく人の住む所ではないと思う。右肩は血こそ出ていないが骨にひびが入っているかもしれない。歩く度に響くように痛みが走る。歩く度だから心が休まることもない。
 菓子折りを諦めて実家に引き返すことにした。どの道炎上しているのだから助かりはしまい。西から広がった曇り空のせいで辺りは灰色の一色になって寂寞としている。じきに吹雪き出すだろう。先日流氷が接岸したというから寒さだって厳しいだろう。氷点下は二桁を数えるのが当たり前だ。こういうときいつでも私は途方に暮れる。途方に暮れるというのは飽きることも慣れることもない。いつでも通り魔のように、深く静かに途方に暮れることができる。先が見えなくなると見ようとも思いたくなくなるものだ。だが見えている。先が見えないということがどこまでも見えている。同じ風景の繰り返し。振り返ると雪、前にも同じ雪が続いている。辺りは吹雪きはじめている。牛はどこにいったのだろう。自分で牛舎に戻るぐらいなんでもない奴だ。勝手に戻っているに違いなく情けないのは私だけだ。
 北国のことは絶対に書いてやらない。私は決心した。人には北を目指す人種と南を目指す人種がいる。北を目指す人種とはわかりあえない気持がある。私は南を目指す人種だからだ。目指すまでもなく北国はここにある。さらば北国。私は逃げ出そう。妄想のトンネルを走り、小麦色の肌と出会う。ウクレレを持つ。腰巻の上は男も女も裸だ。垂れ下がる乳房が目を奪い、捲くれば性器が顔を出すから誰もが陽気に交わっている。熱が満ちているから臭いは消えることがない。漂うのは汗の臭い、花の臭い、土の臭い、焼ける肉の臭い。南国の植物はそれぞれがまったく違う臭いを、強烈に発しているだろう。幹からも、葉の一枚一枚からも。それぞれの臭い。衣類に染み込んだ生活の臭い。唾液混じりの食物の臭い。糞尿の臭い。精液の臭い。嘔吐物の臭い。香水の臭い。チーズを咀嚼した時のように輪郭の曇った粘性の刺激臭。溢れかえった人々の群れ。それぞれの相互無関心。よく見るとどれも同じ顔をしている――
 まだ雪道を歩いている。私は愕然とした。私は南国の経験がない。印象は画一的で私はそれ以上の細部を描けない。経験していないことは結局書けないのだ。皮膚感覚から遠のくほどに私はうそ臭さを感じる。それでいてどれほどの皮膚感覚を持っているか私は自問自答する。
 痛い。
 しばれとはつまりこういうことだ。
 鼻水も凍っているらしい。頬の表面がきりきりと痛む。手の感覚はもうほぼ失われている。足も冷え切って何も感じていないようだ。色彩感もそうだが、外界に対する感受性が失われていくのが北国ということだ。厳しいというのは単調さなのだ。雪が積もった北国ではもう、変化するものは何も無いからだ。代わりに内面が肥大し、風景は内面の延長に発見される。美しさは内面の働きを借りなければならない。空想には有利になる。だけど私はその空想を信用することができなくなりそうだ。考え過ぎたらしいのだ。
(陽の高さからするとまだ二時を過ぎたところだろうか)
 それでも事故までの時間を鑑みればそれほどの距離を歩かなければいけないわけではないのだ。まるで根拠はないがそろそろ家につく頃だろうと思う。五メートル先が見えないと永遠を目視できる気分だ。だが唐突に現実は馬脚を表す。
 家にたどり着いて、私は寝た。
 作家志望だった父親の講釈。
「そりゃ、読むことは大事だ、そう思ってお前は読んでいる、だけどお前は自分が面白いと思うことだけを追っている。プロというのは職人だ。職人は技術を資本に金を得るのだ。技術を磨くことは、鍛錬が必要だ。鍛錬は自分と異質なものを身を削って習得していくという作業も含んでいる。お前はそれをどれほど意識したことがあるか。どうやって取り組んできたか。自問自答してみるがいい。お前は日本文学が好きだ。昭和の日本文学が好きだ。おれは普段口を出さないがお前の本棚を見ているからよくわかっている。本棚はお前よりもはっきりとものをしゃべるからな。内向の世代、その前後。変なものが好きだな。後藤明生。古井由吉。黒井千次。しかし一番好きなのは後藤明生だ。他に小島信夫は敬愛の域だな。実は野坂昭如も愛読している。文章が変だからだ。普通のものより変なものを、変なものよりすっとぼけたものを好む傾向がある。お前はだがそれらの作家がほぼ絶版であることをどう説明する。読まれないのだ。どんなにお前が面白いと思っても、読まれないものを参考にしたものは、読まれない。古井由吉なんて、もう古い(それが言いたかっただけか)」
 温かい風呂と温かい食事を与えられ、怪我のお陰で私は一日を生きながらえたような気がする。布団の中で私はそう思う。
 紙面が余っている今のうちにV字型について説明しておこう。単純なことだ。転落と再生の道。ある人物が困難に陥り、やがてそこから逃れる、そのプロセスがV字を描くというだけのことだ。転落と再生という文字から安易に生じるアナロジー。上と下、高い状態と低い状態の対比による直感的な認識。だがそれが最も普遍的な物語類型となるのだ。そのことが最も直接的に示されているのは『オディッセイア』だ。オデュッセウスは故郷を目指す。その旅路でオデュッセウスは様々な困難に遭遇する。その度にオデュッセウスは窮地に陥り、しかしやがては困難に打ち勝つ。小さなV字を繰り返す。しかしその勝利は新たな困難を呼び起こす。困難が困難を呼び、やがてオデュッセウスは冥府に下る。だが冥府に下るということが終わりを意味するわけではない。冥府は過去の英雄たちが行き着くところだ。彼らの言葉を聞き、オデュッセウスは帰還する。最大の転落からの回復。帰還したオデュッセウスは更に航海を続け、故国で妻を取り戻し大団円となる。物語は見事なまでにV字を描く。
 あとは要素を埋めればいい。架空の世界と架空の人物と架空の出来事を正しく配置してやればいい。それで一つの話は完成だ。この小説の場合問われるのは架空のディティールそれのみだ。この小説なら困難は具体的な形を取った方が良いだろう。具体的な形とは現実的な存在という事ではない。現実的な存在でないからといってリアリティを失っていいわけでもない。ここがややこしいところだが、化物の形にするならわかりやすいだろう。モンスターだ。現実を準拠枠にした動物が怪物として創造されれば理想的だ。モンスターとの戦いならば肉体的な成長と精神的な成長を同時に達成させる。強敵の登場は主人公をどん底に突き落とす。想像の世界ならば死後にだって行けるだろう。そして戻ってくることも可能だ。死をも克服することが出来るならば、困難の元凶と対峙する時期も来ている。すべてを終わらせる時だ。すべてが終われば日常が取り戻される。日常は安定しているから日常だ。バランスゲームみたいなものだ。崩れた均衡を再び取り戻す。取り戻すのが物語なのだ。視点を変えればこういうことだ。それが幻想ということだ。転落と再生のV字展開。
 ファンタジーはこうして作られる(今になってみるとあの講義は少々単純に過ぎたようだ。文学論というよりコミュニケーション理論を専門とする教授だったからコミュニケーション的な単純化がそこにはあったのかもしれない)。
 三キロメートルの無。布団に入った今になって寒気がする。私はまだ走っている車を飛び出し、雪原へと転げでた。その後車は燃えたのだ。そして一時間に及ぶ死の行軍(私は後にそのことを知ったのだ。三キロメートルの無は時間の感覚も奪う)。いずれを見ても大事故だ。然るべき場所で起これば大事件だ。だが一切が認識されなかったのは、ひとえに三キロメートルの無が、私と私の事件とを包み隠してしまったからだ。目を閉じて目を開ける。すでに昨日は終わっている。それで終わりか。
 残りの紙面が気になる。ファンタジーの起承転結を収めきるのに二十枚で足りるかどうかが気になる。私はそれが気になってまだ何も書き出せずにいるような気がする。
 右肩がやたらと痛み出した。動かすのにも苦労する。予想はできたことなのだ。内側から告げられた痛みは際限がない。だから私は書くことを中断する。キーボードを打つにも苦労するのだから、他のことにはまるで役に立たない。
「あんたなんか早く死んじまえばいいのに」
「死ねばいいったって健康に生まれてしまったからまだまだ死ねないししょうがないじゃないか」
「それを言ったらあんたを生んだことがしょうがないことだけどねえ。ああ、セックスなんて、するもんじゃないのよねえ!」
 と母親が言ったのを私は聞いた。同意を求められても私に経験のないことは答えようがない。そう私が告げた。
「本当に、あんたなんか早く死んじまえばいいんだよ」
 母親はそう言ったが私は正確には聞かなかった。狭い家なのだ。
 家の裏に牛が集まって競って糞をしていた。そこから臭いはこの部屋にだけ入る。どういうわけか隙間が開いているらしいのだ。それでも暖房のおかげかそれほど寒さを感じない。ところが臭いとなると露骨に感じられるのだ。
 ――そんなこと言ったって牛たちほどに気にしないでいて欲しいものだよ。
 あと何年続くのかわからないからお互いの不安がどこかで共有されてしまう。起きてから今日はまだ何も口にしていない。
 お腹が空いたら、牛でも食べてみようかと思う。全くもって殺人的なまでに退屈な月曜日の昼。牛を取って食っても誰を取って食っても伝わらないのなら、どっちが起こっても同じことだろう。起こることは観察されたことでしかないのだ。事実は事実になる前に退けられても良い。昨日の雪が嘘のように本日は快晴。尿意を催したので、痛い右腕を使うことなく、左手で慎重に便座を上げて放尿をする。

 了