幽霊たまご ( No.2 )
日時: 2012/02/01 00:00
名前: Raise ID:GXAPvNDw

ころころ、ころり、ころころころ。卵はずっと、海にむかって転がっていく。その音が土曜の冬の大気のなかで甘く響くのが、不思議なぐらい大きく聞こえてくる。走る。ひっそりと静まり返った、人足も車もない住宅街。だけどこの坂を超えさせるまで、ずいぶんとたくさんの卵を割ってきた。石ころにも幸運と偶然の重なりで当たらずにすみ、卵はひたすらに転がり続けていく。今日は調子がいい。卵はだんだんと弾みをつけて、やがて坂を抜ける。追い付けなくなる。海はもうすぐだ。いけ、いけ! 両手を組合せながらお祈りをしていた私の遠いその視線の先、ガードレールの手前で、だけど卵を待っていたのは自転車の車輪だった。
 ぶちゃり。
 私はため息をついて、去っていった自転車に星の数よりも多くの罵詈雑言を心の中で言おうと努めながら、降りてきた坂をもう一度駆け上がっていく。背中からずっと遠くのあの海の手前で、卵の黄身が凍り付いていく様を想像すると、私はひどく、いたたまれなくなる。

 玄関では、母が待っている。
「はる。卵、また一つ足りない」
「食べちゃった」
「悪食よ」
「夏目漱石もしてたらしいよ。腹壊したらしいけど」
 あんたもお腹壊したいの? ぶつぶつ言いながら、母さんは半開きの卵のパックを受け取る。ざらついた手だ、と私は思う。靴を思いっきり力強く脱ぎ捨てて(でも、母さんの背中が振り向かないように音は立てずに)、二階の自室へ駆け上がっていく。下からの呼び声。
「昼ごはん、すぐ出来るわよ」
「いいよ。親子丼、別に好きじゃないし」
「ふるさとの味をありがたく思いなさい」
「料理本の親子丼はかあさんの味とは言わない」
「つくってるのかあさんよ」
 カーテンを開けて、陰気な光でもなんとか部屋に招き入れて、制服を着替えて、オレンジでドットのブラウスと、ちょっとレトロなプリーツスカート。鏡の前の、春物の格好に身を固めた自分に、果てしない満足を覚える。ふいに窓から見える海は、春なんて永遠に来ないみたいに、どこまでも薄暗くて、陰気だ。日本海なんて蒸発してしまえばいい。水がなくなったあとの砂漠のほうが、きっとずっと目に楽しい。不穏で、しかもばかげている、と自分の想像を笑いながら、私は母さんに気付かれないように玄関の扉をそっと開ける。
「風邪ひくよ、あんた」
「やるな。さすがは我が母君」
「ばかなこと言ってないで早く席に着きな」
 まったく、何考えてんだかわかりゃしないんだから。この真冬にオレンジの薄いブラウスを着るのに文句をつけるのは、もうやめにしたらしい。それが少し、気を楽にした。
「今日も遅いの?」
「うん」
 卵をとくその手はいつ見ても荒れていて、私はすこし、さみしい。海辺の冬の夕方は、いつも早い。さっきまで高かった太陽が、もうがくりと足を踏み外しかけている。窓に立ったまま、私は自分の手を見る。凍るような潮風にあてられて、それでもまだ瑞々しさを失わずにいる、年相応の長い手を。

 学校は好きだ。授業も好きだけど、休み時間はもっと好きだ。
「はるちゃんさ、幽霊の話、聞いた?」
「深夜二時、国道沿いに出るってやつか」
「説明しよう! って感じだね、変なの」口元に手を当てて笑うと、夕草はとてもかわいい。私はこの瞬間の彼女がとても好きで、いつひょうきんなことを言ってしまう。紙パックのレモンティーのストローを少し噛む。もう飲み切ってしまった。私はいつも飲むのが早い。夕草は遅いので、ずっと吸う音をたてている。 二人とも足をぷらぷらさせて、机の上にスカートをべたりと広げて座っている。
「その幽霊はさ、あそこの病院の看護婦の霊なんだよ」学校から病院はよく見えるので、ちゃんと私は指差してやる。誰もが知っている、国道沿いのその病院の建物は、灰色の曇天のなか、死んでしまった細胞みたいな静かで凝り固まっている。「働かされ過ぎて死んじゃった看護婦の霊」足のぷらぷらが自然と加速する。「あと、卵が好きなの。でも、食べるのが好きなんじゃなくて、坂の上からごろごろと転がすのが好き。よく観察してると見れるかもしれない。もしくは聞こえるかも。卵がごろごろごろごろ、転がっていく小さな音を。耳をよく澄ませば、ね」
「わたし、耳悪いよ、はるちゃん」
 でも、そんな音が聴けたら、ちょっと自慢できるかもね。それにしても、掴みどころのない幽霊だよね、と夕草は笑う。私は長く垂れ下がった彼女の髪の先っぽを、そっと指に巻く。きれいな髪だなあ、と私は嘘偽りない気持ちでいう。結婚したいなあ。
「もう、女同士だよ。なんかそんなさ、サブカル漫画みたいなノリやめようよ。とりあえず女くっついたら詩的! 素敵! きゃははははうふふふふ、みたいなやつ」
「変な言い方するなあ」おかしくて、笑う。「もう女って」

 幽霊に性別なんてあるのだろうか、と私はさえない田舎町の道路を歩きながら、ふいに考える。冬の海沿いは、本当に寒くて、風が吹くたびに震える。大学受験に向けた補習が終わるころにはとっくに日は沈んでいて、海と船と街しか、もうここにはない。女の幽霊とか、よくテレビでやってるし。やっぱり、性別の差はあるんだろう。だけど私には、せめて幽霊にはそんな取っ掛かりがなければ、と願う。お小遣いで買った卵のパックをスーパー袋の中でゆらゆら揺らし、私は坂の上をゆっくりゆっくりと、一歩ずつ踏みしめて登っていく。いつからか、この坂を振り返ることはしなくなった。いや、初めのうちからだったろうか。引っ越したばかりは、坂の途中から見える海が何とも好きで、振り返ってばかりいた。今はもう、そんなことはしない。帰ってくると、昨日の親子丼の具の残りが鍋に入っている。火は弱火でね、と解りきったことをわざわざメモにする、その几帳面さが、私にはひどく苦しかった。補習の疲れから、ベッドに滑り込むと私はすぐに眠りに落ちていった。何ひとつ、何ひとつ考えたくなかった。

「岸のお母さんって、あそこの病院だっけ」聞かれた質問に答えるのは、当たり前。「そうだよ。大変な仕事だよ」学校の窓辺から、病院の建物はあまりによく見えすぎる、と私は思った。いっそ全部カーテンで覆うか、あるいは窓を割ってしまいたかった。窓を割っても、結局見えるのは同じだったけど。「千葉の病院みたいに、綺麗じゃないよな、うちのって」曇り空の多い季節に、日焼けしたその手は、この街の潮のたまものだ。机に置かれたその手を、私はすこし、羨ましい気持ちで眺める。それからこっそりと、机の下の自分の、真っ白な手を、見つめる。「幽霊が出るらしいよ」「そっか、そりゃそうだよな、あんな汚かったら、患者の霊が出てもおかしくはねえよな」「ううん」視線を、またその骨ばった手に、落とす。「看護婦の霊」「へ?」「働き過ぎて、身体がぼろぼろになった、看護婦の霊だから」

 卵を転がすのは、いつからの習慣だったろう。習慣というのは、ゆっくりと形作られるもので、だからいつから、という問いかけは、あまり意味を成さない。だけど坂を上りながら、私はまたその問を、繰り返す。いつから私は、卵を転がすようになったんだろう。夜風が吹く。三日月。オレンジでドットのブラウスと、ちょっとレトロなプリーツスカート。春が来るのは、この海沿いの田舎町では、遅い。私は道路に体育座りをして、右手に置いた卵パックを開く。一つつまみ、そっと置く。卵ははじめはゆっくりと転がり出す。ころころ、ころころころころ。どんどん早くなって、私には見えなくなる。潮の音が、何故かこの坂の上には聞えない。それなのに、卵がガードレール下をかいくぐって、水の中に落ちた音は、ひどくはっきりと聞こえてくるのだ。そんな気がするだけなのかもしれないけれど。成功に気分をよくしたわたしは、二つ、三つ、と卵を転がしていく。ぽちゃん、ぽちゃん。私は最後の卵を、そっと右手の中に握る。道路で少し割ると、私は黄身と白身を丸ごと飲んで、それから坂を静かに下る。ゆとりのあるプリーツスカートは、ほんのすこしの風でもすぐにはためく。まるで映画みたいだ。酔っている自分に恥ずかしさを覚えながら、私は海に沿った国道を、季節外れのオレンジで歩きだす。

 その日帰ってくると、母がいた。
「今日、筑前煮よ。もうできてるから、早く食べよう」
「珍しいね。夜勤じゃないんだ」
「たまにはね。親子囲んでの晩御飯も、いいじゃない」
 本当にそうかなあ、と私は心に出たままの疑問を口にしながら、靴を脱いで、手を洗う。母娘二人だけという人数にふさわしい、そんなに広くもないキッチンの中央を、テーブルが我が物顔で占めている。一昨日は親子丼の具が入っていた小さな鍋には、にんじんとごぼうと鶏肉がごっちゃに煮られて入っている。鍋をテーブルに置くのが我が家の晩御飯だ。私は用意を手伝いながら、所々枝毛の目立つ短い髪に、そっと視線をやる。思わず自分の髪を、おさえてしまう。
「いただきます」
「これ、おいしいね」
「ね。婦長さんに教えてもらってね。作り方、少し変えた」
「じゃあ、おふくろの味じゃなくて、上司の味なんだ」
 なんだ、残念。頭を、はたかれる。憎まれ口をたたかないの。
「国道、幽霊が出るんですって。病院でもっぱらの噂だった」
「そんな話するんだ」
「私たち機械人間じゃないのよ。あんたたち中学生と変わんない話だって、ちゃんとするんだから」それ、自慢することじゃないよ。私は笑う。母さんも笑う。その様は、少しばかり夕草に似ている。「何の幽霊だと思う?」「順当に行けば、うちの患者さんじゃない。まあ、普通死ぬような患者さんは、紹介状書いて送るんだけどね」「へえ」あ、じゃあ別に汚いからって死ぬわけじゃないんだ、と私は妙に納得する。「じゃあ、何なんだろう」「さあ」「適当な返答。母とは思えん」「母だって適当な発言ぐらいするわよ」私の空いた皿に、勝手に筑前煮を盛り付けて。でも、それは、私の食べ具合をよくわかっているから出来ることだ。「幽霊だって、一度か二度ぐらいは、地の底から出たくなるのよ。さみしいんだもの」「それ、本気で言ってる?」「せっかくあんたに合わせたのに、そんなぶっちょ面することないじゃない」母はおたまを握ったまま、自分の皿を取り上げる。「いいよ」「何が」「私がするから」今日ぐらい休みなよ。疲労回復に良かったんだっけ、とテレビの健康特集を思い出しながら、私はにんじんをたっぷり入れる。お疲れ様。どうも。

「はるちゃんって、レズなの」夕草は、ときどきこういう不躾な質問をする。「違うよ」私は肩をすくめる。「絶対に、違うよ」
「じゃあ、千葉でさ、彼氏とかいたの」「ううん、いなかった。みんな、引いてた。父ちゃんが、ほら、うちあれだからさ」「ああ、確かにそういう現象あるよね。同級生で近親が死んじゃったりすると、なんか、引いちゃうよね」「ひでえ」そういう、屈託のない、空気を読んでないと言ってもいい夕草の無礼が、私は好きだ。「ほんと、そうだった。みんな、最低だよね。父ちゃんがいなくても、別に私は私だし、何歳で父ちゃん死のうが、お前らだって全員親死ぬし、って思ったよ」「えげつないなあ、はるちゃん」夕草は、笑う。「ああ、でもかわいい」「え?」「かわいいー」私がぎゅうと抱きしめると、夕草は、ちょっとまって、やっぱはるちゃんレズでしょ早く彼氏つくりなよ一生引っ越したままここで終わることになるよ、とさらりと惨い忠告をしながら、暴れた。もがくのが不満だったので、私はぎゅうと、抱きしめる。女の子の母というのは、こんな風に温かいものを抱けるのだろうか、と私はふいに、思う。

 風が吹いていた。海のさざめきが、その夜は、不思議なことに坂の上まで聞こえていた。私は今日は、体育座りはしない。ただ四つ入りの卵パックを開くと、それを一斉に、坂の上から転がした。目で追うことも、しなかった。不揃いな四つの音がしたのも、しばらくしてから、気づいた。私が考えていたのは、ただ、母さんの手のことと、幽霊たちのさみしさだけだった。寂しいヨット。父さんのヨット。転覆した、その舟の影は、あの海のどこにもない。母さんの話だけから聞いたそれをぼんやりと思いだしながら、私はもう、卵を転がすことはないだろう、と思った。