第九回短編小説コンテスト 最優秀作品

えもちにあ・もちおにあ Raise


 えもちにあ・もちおにあ。
  ケセラセラを越える呪文を作ってみたくて、ルーズリーフの端っこにそう書いてみたのだけれど、やっぱり結構な年月を越えた呪文を越える事が出来なくて、悔 しかったので紙飛行機にして屋上から飛ばしてみた。そこには色んな書きたい事が端書きでかき混ぜられているうちに出来たぐっちゃぐっちゃの海があって、 一ヶ月間筆箱のポケットの中に入っていた。それも、今日でお別れだ。多分、明日からまたちょっとずつ、海が生まれていくんだろう。
 屋上から見え る世界はちっぽけだけど、やっぱり掌の中にぽんっと収まってしまいそうで、ちょっと悲しい。お弁当箱をナプキンで包んで、しっかりと結ぶ。飛行機雲が、コ バルトブルーの空にチープにかかっている。飛行機で世界を一周するのにどれくらいの時間がかかるのだろう、と思う。目を閉じる。足下のタイルに、世界文学 全集のヘッセ四大名作集を、ぽんと置く。
 えもちにあ・もちおにあ。
 emotionとmotionにiaをくっつけてみたのだけれど、 emitioniaだと、えもちおにあ、になってしまう。それが何だかとっても歯痒かったし、字数も揃わなかったので、強引にoを消してえもにちあにし た。それで、まあ、しっくり来る様になった。でも、消されたOにはちょっと申し訳ない気持ちになる。さよなら、O。foundだとか、towardだと か、sorrowだとか、ああいう単語に上品に座ってるアルファベットが、emotioniaから消えてしまった。
 やっぱり不ぞろいな感覚がした。何が、言いたかったんだろう。何を、かなえたかったんだろう。えもちにあ・もちおにあ、には、け・せら・せら、みたいな素敵な意味は無い。何が言いたいんだろう。何を教えたいんだろう。
 肩に、手が置かれる。眼の中の、温かい暗闇がふんわりと光の中に消えうせる。目を開けても世界は劇的には変わっていなくて、やっぱりコバルトブルーの、ミニチュアみたいな世界だった。
 何やってんの。
  三角座りで屋上に座っていて、しかも足下に世界文学全集を、それもヘッセの「春の嵐」だの「シッダールタ」など置いている女子中学生というのはやっぱり変 なのかもしれない。何というか、別に彼に逢いたかったわけじゃないんだけど、それでもわざわざ人の滅多に来ない屋上にまで来てくれるというのは何だかほん の少し嬉しくて、とにかく、言葉には言い表せないけどちっぽけな複雑さ、みたいなものに私は顔を背けさせられたのだ。
 座ってる。
 それは見れば解る。ていうか、はたから見たら危ない人にしか見えないんだけど。危ない人なのですよ、はい。
 危ないなあ。強烈に危ない。強烈ではないのです、あい。
 自覚してないとしてもさ、結構強烈だけど。そんなつもりじゃないのです。
 気持ち悪いぞ。解ってるのです。
 沈黙。飛行機が、空を描ききる。銀色の翼が、もう世界の反対側に行ってしまう。境界線の無い空の向こう側に、このミニチュアの世界の、もうひとつへ。太陽が、フェンス下のプールサイドできゃらきゃらと笑ってる。私は、うつむく。
 ゆーうつ? そうじゃないです。
 じゃあ何で塞ぎ込んでる。塞ぎ込んでないです。気分です。
 ごめん、どう見ても自殺一歩手前。ですよね。私もそう思います。
 お前の事なんだけど。解ってないつもりじゃないです。自殺する気もないです。
  何て言うか、本当にさみしかったりする訳じゃない。ただ、時間がゆっくりになって、大気が澄んでいる様な、そんな時間にぽとりと落ち込んだだけ。どういう 風に言葉に言い表したらいいかは解らないけど、それはとにかくaerial――霊妙、ってやつなのだ。凄くキザったらしくて自分でも嫌になるけど。
 鳥の影が、雲の影が、屋上の上に光のグラデーションを映し出す。温度の無い空気の海に、落ち込んでしまう。別に、何もやってないです。考え事です。
 じゃあ百円あげるから、何してたか言ってみて。私そんなに現金な子じゃないです。
 立ち上がったまま、空を見ている彼は、私の言葉にもめげず対話を続けようとしてくれている。世界が、自分の物になってしまったみたいで、感覚ばかりが酔っぱらっている。aerial――空気みたいに軽い、そういう夢想なのだとは解ってるけど。
  じゃ、何考えてた。Oの行き場です。Oって? emotionalのoです。どっちの? 後ろのOです。ケ・セラ・セラに勝てるような呪文を考えてたんで す。どういう意味で? 意味なんかないです。とにかく勝てるっていうか、凄い呪文になるはずだったんです。でも、emotionalには二つのoがあるこ とを忘れていた。ここにiaを付けてたんですけど、えもちおなりあ、じゃ病気みたいじゃないですか。インソムニアとか、アムニーザとか。あ、ごめん。英語 苦手だから何言ってるか全く解んない。インソムニアは不眠症で、アムニーザは記憶喪失です。そんだけです。そんだけ、かあ。はい。そんだけです。
  お弁当箱にも、屋上にも、空を見ている彼の背中にも、屋上から見下ろせる街の人々にも、このミニチュアの裏側の世界にも、餌を求めて飛び続ける鳥達にも、 平等に夏の太陽は光を映えさせ、南風は動きと共に踊る。南風が、草の匂い、最初は薬みたいでちょっと受け付けられないんだけど、そのうち昔嗅いだみたいな 懐かしい香りになってくる、そんな柔らかな草の匂いを運んでくる。
 草の匂いが、するね。私が言うと、彼はフェンスにもたれかけながら、こっちを 見た。ああ、する。南風って、フランス語でミストラルって言うんです。素敵じゃないですか、何かミストラルって、言葉の響きが。クリスマスみたいな感じ。 クリスマス-ミストラル、クリスマス-ミストラル? ごめん、よく解んない。でも、何か、ミストラルって、かっこいいね。あい。かっこいいんです。そうい う事です。何か上手く説明出来ないんですけど、かっこいいから、好きなんです。
 そういうのって、説明出来ない事でしょ? 彼が聞く。光に耀く 街、スロー・モーションで何もかもがふわふわと風に揺れている街で、自転車と自動車が道路を埋め尽くしている。はい。説明出来ないことです。それは、とて も不思議です。愛とか、憎悪とかも、そうなのです。彼は笑う。飛躍し過ぎじゃないか? っていうか、何か話に無理があるよ、いきなり愛に飛ぶっていうの は。そうですか? うん。文脈が無い。光が、世界のこちら側を埋め尽くしているとき、月はどこに向かっているのだろう。地球はどうして回っているんだろ う、どうして宇宙というのは生まれたんだろう。馬鹿げてるけど、私はその答えを知らない。でもさ、彼が言う。自転車の群が、大気の向こう側に消えていく。 消えていくモーメント、その瞬間に彼らが放った光は、無限の植物群に消えていった麦わら帽子のシェイプに似ている。眩い光、夏の季節が車輪の様にぐるりぐ るりと廻っている。でも、何ですか。私が、ようやく聞き返す。でも、愛だとか、憎悪だとかいうまえに、好き、って事なら、良いんじゃないか? あい。私も それに賛成です。何事も、最後は単純なんだろうね。そうとは限んないですよ。そうか? あい。絶対に難しくしなきゃいけないことも、時にはあるんじゃない んでしょうか? それは見た目に騙されてるだけっしょ。色んな事がごちゃごちゃにからまってて、もう指ではほどけない。
 世界も、もしかすると、 単純なのかも知れない。別に何の意味があったわけでもないけど、ふとそう考える。世界は、色んなemotionが、或いはmotionが複雑に絡み合い過 ぎた、音楽なのかもしれない。時が楽譜を奏で続ける、地球は自転と公転を続け、太陽は又日周運動を行ない、世界文学全集のヘッセ作品集に光を当てる。
 えもちにあ・もちおにあ。
 oの居場所は、どこだろう。
  何事も、単純だったら、幸せですね。幸せじゃないの? いや、これといって、幸せっていうわけではないのです。それって損してるんじゃないの? 損か得か も、私にはいまいち判断出来ないです。もしかすると、自分が幸福だと思っていないということが、既に幸福なのかもしれない。そういうことです。どういうこ とだよ。訳解んないよ。幸せなら幸せ、好きなら好きっていうのが、この世界を愛していく一番簡単な方法じゃない? つまりは幸せになる方法、ってことで。 世界を愛することは、そんなにも幸せなことでしょうか? 世界は、結構、不条理です。隣のおじいちゃんは毎朝庭に出て大声で叫びながらラジオ体操をやって 私を無理やり起こします。購買のおばちゃんは、メロンパンの釣り銭を十円間違えます。不条理です。私は、いまいち、悪いことはやってないんですけど。彼は ちょっと笑う。メロンパン好きなんだ? あい、好きです。さくさくは正義です。しっとりのメロンパンなど認めません。後あんぱんはこしあんです。つぶあん など汚いです。口元がじゃりじゃりしててウインドウプラントでもかじってるみたいな気分になります。ウインドウプラントって何、ゲームの敵? 違います。 立派な植物です。
 私達は、すぐに話が反れる。横道が、大好きなのだ。横道の視点から見える世界を、それこそ愛してるんだろう。どっちも、横道の ファンタジーに魅せられてる。次々と枝分かれしていく文脈というものに、幸福を感じれる。多分、彼の言う通り、世界を愛しているからなんだと思う。そうい う、文脈の音楽を、愛してる。
 ウインドウプラントっていうのは、砂漠に生えてる植物の一種なんですけど、肉厚の葉っぱを持ってるんです。そうし て、赤っぽい色素を葉の表面に滲ませて、砂漠の強過ぎる日差しを毒にならない程度に弱くしている。で、その肉厚の葉っぱを、ほんのちょっとだけ砂地に出し てるんです。そうして、光と雨を飲み続ける。あまり多いと、お腹壊すわけなのです。
 こじつけていい? 彼が意地悪そうな笑顔を浮かべながら言 う。はい。こじつけていいです。私は許す。太陽がワン・モーションにくるくると回転木馬みたいに表情を変える、メロディーは時間で、世界の向こう側に居る 月と背中越しにこっそり手を組んで躍っている。それって、人間に似てない? ああ、やっぱ不許可です。その手の話は、ろくなことになんないです。こじつけ で人間に無理やり似せる話っていうのは、モラリストの常套手段なのです。俺無神論者だけどモラリストだよ。何ですかその上流意識みたいな鼻持ちならない鬱 陶しさは。ん? 特性。
 結局、ウインドウプラントのどこが人間に似てるんでしょうか。体育座りのまま、彼の居るフェンスのそばに、前進する。ス カートがどろどろになっても別に気にしようとしない私は、女の子として生まれるべき存在じゃなかったのかもしれない。だからさ、ほんのすこしだけ、葉っぱ を開けてるとこ。そうやって、光と雨の世界をじっと見つめて、静かに飲み干してること。何だかそれって、究極の愛じゃないか? そうでしょうか。渇いた光 の中の、雫。ただ、それだけの話じゃないでしょうか。愛って、そんなもんじゃない? 飲む、ってこと。浅いです。我々は今だジュブナイルなのです。愛がそ んなもんであるはずはありません。いや、だからそういう考えがろくでもないショートを引き起こすんだよ、頭の。愛だって、世界だって、購買の釣り銭だっ て、シンプルイズベストですよ。そうでしょうか?
 えもちにあ・もちおにあ。
 空が、残光に縮こまる。蕾の様に、光の中に空色の果肉を殻 に入れて、引きこもってしまう。そうかと思うと、また太陽と南風が、踊り出す。太陽は浮気者だから、昼の間は月とは踊ろうとしないのだ。でも、南風と踊り ながらも、やっぱお前が一番さ、といって月に甘い言葉を聞かせては呆れられている。幸せな天体のカップルなんだろう、太陽と月は。そんな、ちょっとした夢 想。雲が、銀色に鈍く輝き続けている。世界を、愛せるんだろうか?
 世界を、愛するということって、そんなにも幸福なんでしょうか? まあ、愛は 憎悪より強いと一万年と二千年前から相場は決ってるぞ、うん。ちょっとジャスラックに連絡入れてくるです。それだけは止めてくれ。俺の全財産は今二ケタな んだからな。これ以上の金はどこにも払えんぞ。どこに使ったんですか? ん。何て言うか、有害図書っていうのかな。そういうの、何のためらいもなく話すあ なたも、結構変わり者です、あい。強烈に危ないです。強烈ってわけじゃないぞ。いや、危ないです。私が言うんだから、変わりありません。
 文脈の 音楽が聞こえる。えもちにあ・もちおにあ。Love for o world 、呪文から零れ落ちたoは、ちゃんと別の場所に当てはまってる。円形、って意味が、Oにはある。完全な、ループ。眩暈がするみたいに美しい、メビウス。幾 何学から転げ落ちてきた、はぐれものの図形なのだ、Oは。Oは、世界を表わす為に生まれた。この半球を、光に耀く真昼のヘミスフィアを、その先にある暗闇 の天球を表現するために。I can love o world、そういうことなのだ!
 あのね、さっき考えてたこと、教えてやってもいいんです よ。ん、ようやく教えてくれる? ずっと待ってたんだ、実は。そういう事言われるとちょっと恥ずかしいです。あのですね、ケ・セラ・セラに負けないよう な、いやそれ以上の効果を生み出すような呪文を生み出したかったんです、だからemotionとmotionとをくっつけてさ……
 整合性の無 い、文脈の音楽の中で、私がちゃんと彼にemotionとmotionの間から零してしまったoがどれだけ可愛らしくて美しいか、説明出来るかは解らな い。私は文章をまとめるのがそんなに上手くないし、言葉にしてしまったら何もかもが空気の海に漏れ出してしまうから、出来ないかもしれない。それでもとに かく、私はこの真昼のヘミスフィアを、oを、worldを愛してる。だから、ほんのちょっとだけなのだけれど、結構幸せだったりするのだ。会話を、止め る。コバルトブルーの空が、今は単純にただの青になってる。不思議だ。きっと呪文のせいだ。もう一度、呟いてみる。世界を、もっと丸っこくするために。
 えもちにあ・もちおにあ。

(end)

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