第八回短編小説コンテスト 最優秀作品

サクラサイクル 杞憂

 おかあさんは、裁判所へ行かなければならないと言った。
 わたしはそれを聞いたとき、目の前が真っ暗になったと思った。熱があったせいもあって、体の中心がぐらりとずれるような眩暈を感じた。
 まだ六歳だったわたしに、裁判所へ行くとはっきりおかあさんがそう言ったのは、なぜだったろう。そこが何をする所なのか幼いわたしが知るはずもないと高をくくっていたのだろうか。それとも、たったひとりで赴く心細さから、つい、もらしてしまったものだろうか。
 おかあさんが靴をはいて、アパートのドアを開けたら、すごい光がぱあっと差し込んできて、わたしはそんな光を、いつかどこかで見たことがあったと、たしかに思った。強い記憶だった。
  ドアが閉まって、玄関はもとの薄暗がりに戻った。おかあさんの姿は消えて、俯いて見ると、少し汚れたわたしの小さな靴が、ばらばらに脱ぎ捨ててあって、バ タンという余韻が耳の奥からも消えた頃、わたしの世界は逆転したと、痛切に感じた。今まで信じていたものはすべて、信じてはいけないものになった。
 胸の中に大きな風船を飲み込んだかのように、息が苦しくなって、心臓がドキドキするのと同じ拍子で、わたしの体はドクンドクンと波打った。ああ、おかあさんは、とうとう知られてしまったのだ。
  本当は、朝から予感していた。わかっていた。昨日までなんとも無かったのに、今朝になって急に熱が出て、学校を休んだ。おそらく、おかあさんのよりもずっ と未熟なわたしの能力は、それでも異変をしっかりと察知していたのだ。その証拠に、熱は三十八度もあったのに、どこも痛くも苦しくもなく、ただおかあさん に甘えたかった。ひんやりとした指で、額に触れて欲しかった。そして、たまらなく不安だった。おかあさんにすがり付いて、離してはならないと、体の奥のほ うで命令する声が聞こえていた気がちゃんとしたのに、わたしはそれに逆らった。
 おかあさんは少し困った顔で、今日の予定は変更できそうにない。仕事はお休みできたけど、午後の予定だけは、変更が難しいと言った。すぐに帰って来られると思うんだけど、と言って、わたしの額に手を当てた。
「熱があるのにごめんね。ひとりで待っていられる?」
「ひとりで待てるよ。平気」
  元気すぎる笑顔を見せたら却って変だと思ったから、ちょっと笑って見送った。そのほうが、平気っぽいと思ったから。おかあさんも、「平気」と言うとき、い つもこういう顔をした。わたしは何度も鏡の前で、その顔を練習したものだった。「へいき」の「き」の字を言うとき、唇の両端に微妙に力を入れるのがコツ だ。ずいぶん、上手くなったと思う。だからおかあさんも、「そう、じゃあすぐに帰ってくるね」と言い残して出掛けて行ったではないか。けれども、すぐに 帰ってくるというその言葉さえ、もう、「信じてはいけないもの」のうちのひとつであり、わたしの胸の中で全く違う意味に反転していた。ながの別れ、と言う 言葉が、わたしの頭にふと浮かんだ。本当に変な言葉ばかり知っている小学一年生だった。変な子だった。おかあさん譲りの。だがそれも仕方がない。おかあさ んは普通の人ではないのだから。ながの別れ。そう考えたら、わたしの目に涙が盛り上がってきて、こぼれ落ちそうになった。けれども駄目。おかあさんは、わ たしのおかあさんは、普通の人と違うから、ちょっとやそっとのことでは泣かない。わたしだけが知っている、おかあさんの正体。わたしは今日から、もしかし たら、そのあとを継ぐことになるかもしれないのだから。

 その裁判は、大昔の外国で本当に行われていたと、一学期まで通っていた前の学校 の、隣の席の高山くんが言った。捕まえられた女の人は、ぐらぐら煮えた熱いお湯の中に放り込まれて、死んだら人間。生きていられたら人間じゃない。柱に磔 にされて、火あぶりの刑にされるのだという。それでは誰も助からない。わたしは生唾を飲み込み、全身が耳のようになっていながら、それでも大して興味ない という感じが匂うようにと頑張って聞いていた。少しでも動揺したら、気付かれてしまう。わたしは出来るだけ無関心な風を装って、心の底で確信していた。わ たしのおかあさんは、「それ」だと。ああ、口に出しては駄目。これは重大な秘密だ。誰にも言えない。おかあさんは、とても変わっているから。だからきっ と、そうに違いない。そうでなければ、あんなに変わっているはずがない。とにかく、おかあさんは変わっているのだ。
 草や木が伸びる話は今でも忘れられない。それは、一学期の「せいかつ」の時間のことだった。これも、前の学校でのこと。
「草や木は、太陽から光をもらって生きているので、太陽にありがとうを言うために、少しでも側に近づこうとして一生懸命伸びます」
  先生の質問に手を挙げて、わたしがそう答えた瞬間、教室が沸いた。「そんなわけねえだろー」と、最初に声を張り上げたのは高山くんだった。ひとりが言うの を合図に、何人もの声がわたしを囃したて、先生はそれを静めようとしてパンパンと手を叩き、囃さない子もくすくす笑って近くにいる友達と何かを囁きあって いた。わたしは突っ立ったまま目だけを左右に動かして教室を見回した。たぶん、顔は真っ赤になっていた。その頃のわたしは今よりもずっと「無邪気」だった から、騒ぎ続けるみんなに大声で釈明した。
「だって、おかあさんがそう言ったもん。本当だもん」
 そんならお前のおかあさん、変人だ。変 だ。変だ。群集のざわめきは止まなかった。わたしはこの出来事をとおして、正しいと思うことであっても、むやみに人前で口に出してはいけないと学んだ。お かあさんが教えてくれることは、わたしにとってはどれもこれも素敵だったけれど、それはどんな人にとっても素敵ではないのだという教訓を、胸に痛いほど刻 んだ。わたしは、自分が異端であることを知った。
 だから、新しい学校に移ってからも、誰にも話さずに来たのだ。おなかが痛くて眠れないとき、お かあさんの白い手が、どれほど安らかにわたしを眠らせてくれるかということ。ほかの人にはない、すごい力をおかあさんは持っているのだ。でも、絶対にそれ を誰にも言ってはいけない。学校へ行く気になれない朝、「気持ちが悪い」と言うとき、どれほど鋭くわたしの嘘を見破るかということ。さらに学校へ行きたく ない理由も、おかあさんは見抜いてしまった。そして、おまじないをくれた。
「あなたはあなた。ほかのだれでもないあなた。あなたの姿を正しく見る ことの出来ない人の言葉など、気にすることないのよ。あなたを正しく見ることが出来る人に出会う日が、いつ来てもいいように、中も外も、きれいにしておく ことよ。そういう人は、いつも突然現れるから。今日、学校で会うかもしれないね」
 そう言って、わたしの肩を包むように抱いて笑ったおかあさんの 唇は、端っこのほうが少し切れて血がにじんでいた。その頃のおかあさんは、いつも体のどこかに新しい傷を負っていた。今から思えばあれは、おかあさんの正 体を怪しんだ何者かが、毎夜毎夜、体に傷を付けたり殴ったりして、本当にただの人間かどうか確かめようとしていたのに違いない。そうとでも思わなければ、 あの暴力に、ほかにどんな理由が付けられただろう。
 何者か、だなんて。わかりきっているくせに。わざとその名を呼ぶのを避けるなんて、わたしはまだ全然修行が足りない。本当のことを口に出すのは、なかなか怖いことだった。

  それからどのくらい時間がたっただろう。わたしは蒲団に包まって考えていた。眠ることなんて出来なかった。それほど長い時間ではなかったと思う。おかあさ んは、帰ってこなかった。わたしはのそのそと起き上がり、普段着に着替えた。足元がちょっとふらついて、そういえば、と、額に手を当ててみる。このくらい の熱で、へこたれてはいられない。修行は全然足りてないわたしだったが、真実を見極めることくらいなら出来る。おかあさんを奪われたら、生きて行けない。 これこそ真実。だって、わたしにはもう、おかあさんしか頼る人はいないのだから。
 夏休み前まで一緒に暮らしていた人。「おとうさん」だった人は もういない。だから、夏前に越してきたこのアパートには、おかあさんをひどい目にあわせる人はもういない。住むところを変え、わたしは学校も変わった。わ たしたちは、そのばかげた裁判とやらから逃れたはずだった。それなのに、なぜ今頃になって裁判所へ呼ばれたりするのだろう。取り戻しに行こう。おかあさん が、火あぶりにされている場面を想像して、思わず吐きそうになった。わたしの大事な人を、そんな目にあわせるようなやつらをわたしは決して許さないだろ う。
 わたしはいつもの運動靴をはくのをやめて、下駄箱の中から、黒いつやつやした硬い靴を出した。入学式に一度はいたきりのその靴は、少し足を 締め付けたけれど、わたしのたぎるような決意にふさわしい厳かな気配を纏っていた。箒で行くわけにはいかない。飛び方を知らない。息を切らして自転車置き 場へ急ぐと、おかあさんも自転車で行ったと見えて、目になじんだ銀色の車体がなくなっていた。それならわたしにだって行けないことはない。去年の誕生日に 買ってもらった、十四インチのピンクの自転車で、わたしも行こう。颯爽とサドルにまたがり、黒いエナメルの靴をペダルに乗せた。折よく吹いてきた風が、わ たしの髪をばっと巻き上げ、上気した頬を叩いた。わたしはまさにそのとき、箒で舞い上がろうとするような勢いで、ペダルにうんと力を込めた。

  団地の中の小道を抜けて、表通りまで出た。そこで、いきなり途方にくれた。わたしはそのとき、まだ、おそろしく六歳だったのだ。そして、おそらく熱があっ たために、おそろしく思考力が落ちていた。わたしは、裁判所がどこにあるのか、知らなかったのだ。わたしは思慮の足りなかった自分を釜茹でにしたい衝動に 駆られた。それでも行かなくてはならないのだ。わたしはペダルをぐいぐいと漕いで、右、と見当をつけた方向に向かって進んだ。表通りには街路樹がやたら等 間隔に整列していて、そのあまりの規則正しさに、樹そのものが意思を持って並んだのではないかとすら思えてくる。
 しばらく走ると、自転車は国道 に出た。自動車の通りも多い。この道は、東京にだってつながっていると聞いたことがあるくらいだから、きっと、目指す裁判所もこの先にあるに違いない。わ たし、なかなか冴えている。右。また、わたしは心の命じるままに方向を決めた。左はわたしたちの通う小学校へ続いている。まだ見ぬ行ったことのない場所 は、行ったことのない方向に、きっとある。漕ぎ出そうとして、バランスが崩れた。ぺたり、と左足を一度地面につくが、間髪をいれずにまた漕ぎ出した。頬が 熱い。やっぱりまだ、熱がある。

 わたしは、一体誰がおかあさんのことを密告したのだろうかと考えながら、その人物への憎しみを力に換えてペダルを漕いだ。一体誰が、なんて。そんなの、ひとりしかいないではないか。わたしは甦ってきた記憶に、唇を噛む。
  ばかよ。おかあさん。どんなに殴られても、酷いことをされても泣かなかったから、正体がばれてしまったのよ。「心が弱い人なのよ」なんて言って庇ったりし たからよ。ふつうの女は、そんなに強くないものよ。それに、わたしに言わせれば、あの人こそが、本性を隠して人前ではまるで優しい人みたいに振舞う……魔 男なんて言葉があったかしら……。とにかく、どうしてこうなる前にやっつけてしまわなかったの? 杖をひと振りして、蛙か何かに姿を変えてしまえばよかっ たのに。それとも、あの体を風船みたいに膨らませて、空のかなたへ飛ばしてしまえばよかったのに。わたしにそんな力があれば、迷わずそうしたのに。どうし てわたしは、何の力も持っていないの? これじゃあ心が弱いより、ずっと始末が悪い。

 わたしはもうずいぶん、自分が、すっかり大人に なったのではないかと思えるほど、長い間自転車を漕ぎ続けていた。地球は百回くらい回っただろうか。一度だけ、すれ違った人に「裁判所はこっちですか」と 訊いて、自分の勘が正しかったことを確かめた。ほらやっぱり。わたしたち親子には、常人にはない力がある。
 足に力が入らなくなってきた。荒く弾む息は、日ごろとは全く違う熱い息だった。太陽は傾き、アスファルトの照り返しが目に痛かった。
 そのとき急に、私を呼び止める声がした。
「おまえ、こんなところで何やってるんだ?」
 男の子らしい乱暴な口調なのに、きんきんと響く高い声。聞き覚えのあるその声は、高山くんだった。
「引っ越したのに何やってるんだ?」
  高山くんは、サッカーボールを抱えて、照り返しのきつい路上に立っていた。まるい目を余計に丸く見開いて、なんだかちょっと嬉しそうに駆け寄ってきた。わ たしもびっくりして、自転車を止めた。高山くんは、柿の木のある家と門の回りにサルビアをたっぷり植えている家の間の路地を指差して
「おれの家、この道まっすぐ行ったとこなんだけど」と、言った。
「そうかあ、ここ、前の小学校の近くだったんだ……」
 大きくなって地図が読めるようになる頃、わたしはこのめぐり合わせについて理解することになるのだが、このときはただ、不思議だった。もう会うこともないだろうと思っていたのに、高山くんに再会した。願いが叶う予兆のようにも受け止めていた。
「急いでいるから、もう行かなくちゃ」
 立ち去りかけたわたしに、高山くんは大きなきんきんの高い声で呼びかけた。
「今度、遊びに来てもいいよ。転校した学校に、一緒に遊ぶ子いなかったら、遊びに来てもいいよ」
  とても嬉しかったのに、恥ずかしかったのと、それから本当に急いでいたのとで、わたしは何か返事をしたはずなのだがよく覚えていなかった。だからそのあ と、気になって気になって、何度もこの町に足を運ぶことになる。そんなふうに、運命は、ちいさなことから変わったりする。たぶん、ひとの力を超えた何か が、風向きを少しいじった程度のことで。

 雲が染まっていた。夕焼けにはまだ早い。わたしは太陽を追いかけるように自転車を漕いだ。雲の 切れ間から、目に飛び込んできた西日の一閃がまぶしくて、目を瞑った。そして、次に目を開けたとき、それは起こった。桜色に染まった空が、視界をまるで満 開の桜の花びらが埋め尽くしたような景色に変えていた。両側の道路沿いに並んだ街路樹の葉っぱの色が、輝く西日を浴びて、ことごとく、桜の色に染め上げら れていた。街路樹は優しい黄色い葉を時折散らしている。その木が本当に桜の木だと言うことも知らなかった。ただ目の前に広がる景色の異様な美しさに圧倒さ れて、何も考えられないまま、足だけを夢中で動かした。わたしの車輪はくるくると回り、回るごとに、わたしはぐいぐい運ばれた。
 なぜ、そんなふ うに思ったりしたのだろう。季節外れの満開の桜の下を自転車で走りながら、わたしは、まるでこの世界に自分がたったひとりで取り残されて、それでも自転車 を必死で漕いでいるかのような錯覚を起こしていた。どこへ向かっていると言うのでもなく、何から逃げていると言うのでもなく、ただ、わたしは必死で漕ぐと いうその行為に、ある種の貴さをさえ感じていた。ひとり――を、わたしはわたしの中で、熟成させていた。絶望とは違う。ひとりはひとりでも、孤独とは違 う。世界のすべてとつながっている、長く果てしないひとり。しいんと静まった胸の中でかみ締めた「ひとり」は、間違いなく、この日を境にわたしを前よりも ずっと強くした。強い心で、強く願った。おかあさんに、会いたい。
 季節外れの桜降りしきる中、遠くから、わたしを呼ぶ声がする。おぼえている。わたしはこの声に導かれて、いつかのあの日、はじめておかあさんと会った。あの日の光。
「おかあさん!」
  桜色の光の下を、銀色の自転車が近づいてきた。おかあさんの驚いた顔が、だんだんはっきりと見えるようになるにつれて、わたしはだんだん我慢が出来なく なって、ついに泣いてしまった。泣きながら、わあわあと言葉にならない声を発しながら、ペダルを漕いだ。小さな子みたいで、恥ずかしいと思い、その一方 で、こんなにわあわあ泣いたりするのはたぶん今日を限りにもう無いだろうことも気付いていた。
 強い願いは必ず叶う。何かを代償にして、必ず叶う。
 でもこれは、誰にも内緒の話。誰かに聞かせるには、あまりに恥ずかしくて。
 今から思えば、何て思い込みの激しい子供だったのだろう。

  それから私たちは、名前が少しだけ変わった。それは、まるで私たちの本当の名前のように思えた。お母さんや私に害をなそうとする者は手出しできない、新し い名前は、まるで強固な結界のように、私たちを守ってくれているようだった。お母さんは、持てるすべての力を使って、私のために新しい名前と新しい穏やか な暮らしを手に入れて、そして笑顔で帰ってくるために、たぶん、力を使い果たして、普通の女になったのね。私にとってお母さんは、だんだん万能ではなく なっていったもの。もうすぐ、やさしいおばあちゃんよ。本人は、そう呼ばれるのは嫌みたいだけれど。
 私は新しい学校と、前の学校とあわせて、とてもたくさんの友達ができて、それからけっこう忙しくなった。しかし、いつでも心の中に、秘密を隠し続けてきた。すごい力を、私たちは持っているのよ。
 今まで誰にも話さなかったけど、今日、あなたに聞いてもらおうと思ったのは、あなたが女の子だと、今日わかったからなの。私の声が聞こえるかしら? おなかの中でも、聞こえるかしら。
 この力を、引き継ぎましょう。願えば必ず叶う力を、誰かのために使う日が、あなたにもきっと訪れますように。
 桜の頃に会えるのを、楽しみに待っています。

――おかあさんより――

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