第七回短編小説コンテスト 最優秀作品

狐ノ花  

  久し振りの砂利道の感触が、痛いほど足に響いた。普段ただでさえ歩いていないせいだ、とすこし涙目になりながらも足は止めなかった。じゃりじゃり、じゃり じゃり、と小石のぶつかりあう音が耳に届くたび、自分が子供に戻ったような感覚を味わう。足先からじわじわとタイプスリップしているようだ。まばたきして 偶然目の前の景色が昔見た景色と重なると、本当にタイムスリップしてしまったんじゃないだろうかと、どきっとした。でもそんなことは有り得なくて、昨日 降った雨の水溜りを覗くと、やはり大人のわたしがそこにはいた。ほっと安心する自分もいたし、なんだが残念に思う自分もいた。変なの、と思った。
  わたしが今向かっているのは狐ヶ丘と呼ばれる、草と野花がぼうぼうに生えた狭い広場のようなところだ。周りは深い森に囲まれていて、その森に狐が住んでい るということでそんな名前になったそうだ。本当はもっと古めかしい名前があったのだけれど、いずれ老人達も簡単な名前で呼ぶようになると誰もが元の名前を 忘れてしまった。元の名前があったことすらも、忘れて。
 足がさらにじんじん痛んできた。小石が食い込む。なぜ昔はこんなところを屁とも思わず走 れていたのだろう。不思議で仕方がなかった。そう思った瞬間、ぱっと頭の中に浮かんだ。一人の少年の、白い首と細い指がしなやかに動くところだった。指は 名前もわからない野花を摘み取ろうとしていた。もう片方の手には今まで摘まれたのだろう花たちを持っている。その様子はまるで人外のようで、森の狐をはっ と思い出させた。狐は化ける。もちろん人間にも。けれど、わたしはそんなことあるまい、と一人首を振った。例えどんなに幼くても、そんなことは理解でき た。そして目の前の少年はこちらに気付いたようで、ゆっくりと振り向いて――と、そこで彼の動きは止まった。また、彼の周りの景色も止まった。けれどそれ で充分だ。少年とわたしのその後は、つまらない恋愛話と何も変わらない。すぐに仲良くなり、幼いながらに恋心を抱いた。けれど結局両思いになれず、別れる こととなる。それは、しようのないことだった。今でも別れるときのことはよく覚えていた。
 わたしと彼は狐ヶ丘の真ん中に座り「彼岸花、地獄花と も言うそうよ」「そうなんだ、でもぼくは綺麗で好きだなあ」「わたしも」などと喋っていたと思う。彼はせっせと花輪を作りながら話していた。わたしはそれ を見ながら、眠気に負けないよう、一生懸命だった。ぼんやりとする頭が心地よくて、でも彼と遊ぶんだから寝ちゃいけないと思って、でもいつもどおりだと安 心していた。けれど突然はっとした。いつまでもこんなことが続くわけない、とか、母にこんなことを知られては起こられてしまう、とか、いろんな不安が積 もったせいだと思う。それだけじゃなく、なにより、嘘をついている罪悪感がたまらなかったのだ。ぞわぞわと気持ち悪いものが、わたしの小さな体を這う。目 には涙をためて、唇をかみしめた。そんなわたしの様子に気付いた彼は「どうしたの」と高い少年らしい声で尋ねてきた。もう今日で終わりだ、と思った。自分 自身の手で終わらせなければ、とも思った。「もうお別れなの」「どうして、なんで、急に?」と、彼は戸惑った声で呟く。わたしはそれに答えず、鼻をすすり ながら彼の完成した花輪を手に取った。「知ってる? 化けた狐を元に戻す方法」彼はぴくりと体を震わせる。分かりやすい反応だった。そう、彼も理解してい るのだ。たまった涙がこぼれる。この涙が土にしみ、草花の成長に少しだけ、ほんの少しだけ役立つんだと考えると、優しい気持ちになれた。「狐はね、花輪を 頭にかぶせると、なぜか元に戻るんだよ」彼は泣きそうな顔をしていた。美しい泣き顔だ。たぶんわたしは二度とこの泣き顔を、彼の顔を見ることがないのだと 思うと、さらに涙を流した。「ごめんね」とわたしはその一言を必死に呟いて、彼の作った美しい花輪を、自らの頭にかぶせた。指先からゆっくりと元に戻る感 覚がした。いつも化けるときは一瞬だから感じることのないそれを、じわりじわり、染み込んでいくように味わった。わたしの体がようやく完璧に狐に戻ったと き、彼は驚いた顔をしていなかった。ただ悲しそうな瞳をみせているだけだから、ついわたしも悲しくなって、だっと逃げ出した。頭の花輪が落ちたような気も するけど、気にしていられないぐらい悲しくて逃げ出したかったのだ。
 わたしはいつのまにか閉じていたまぶたを、そっと開く。目の前は狐ヶ丘。逃 げ出した幼い頃から何も変わっていない、草と野花がぼうぼうに生えた丘だ。そしてやはりその中心には、彼が立っているのだ。手には彼岸花で作られた花輪を 崩さないよう丁寧に置いている。もう片方の余った手には、紙に包まれた一升瓶らしいものを握っている。あの悲しそうな瞳は強い眼差しを持った瞳となって、 白い首はすこし焼けてたくましくなって、身長は昔よりもずっとずっと、高くなっていた。でも変わらない彼の中の何かが、わたしの今まで食い止めていた感情 が溢れるさせる。それを抑えながら、涙目になりながら、声をかけた。「何年経ったかしら」「もう十五年ぐらい経つんじゃないかな」「そう、あなたも、成長 が止まるほど成長するはずね」そう言うと、彼の細めた目が優しく垂れた。ああ、彼だ、とわたしはしんしんと感じた。おばあちゃんそっくりの笑いかた。彼の 祖母もまた、わたしに優しくしてくれた一人だった。器にご飯と味噌汁を盛ったものを、よくご馳走してくれた(もちろん、狐の姿のときだ)。近づくとわたし が逃げるのを承知していたから、すこし離れたところからにこにこと笑いながら、わたしが食べるのを見ていた。そのときの表情と彼の表情はよく似ていた。幼 い頃よりさらに近づいている。「なぜ、ここにいるの? 東京に戻ったんじゃないの?」「それはこっちの台詞だ、と言いたいところだけど、うん。ついにおば あちゃんが死んでしまったんだ。今さっきのことだ」わたしはびっくりして、目を丸くした。でもすぐに落ち着いて、頷く。「そうね、もうお年だったもの」 「たぶん、百を超えていたな。大往生だよ」「でも尚更よ、なぜおばあちゃんが死んですぐに、ここにいるの?」「遺言だよ、狐ヶ丘に行きなさい、あの子が 待ってるからって」「……わたし? 変ね、おばあちゃんの前じゃ人間の姿になったことないのに」「うん、でも分かっていたんじゃないかな。あのおばあちゃ んだし」「そうね、あのおばあちゃんだもの」くすくす、と私たちは笑い合った。人が死んだというのに、不謹慎このうえないだろう。けれどおばあちゃんは死 んだというよりも、ただ遠いところへ行ってしまった、という感じだったのだ。旅に出かけたみたいな、気軽さを残して。それはきっとおばあちゃんだけにしか できないことだと思う。あまりに優しくて、不思議なおばあちゃんだった。「そういえば、どうしてわたしがわたしだと、分かったの? ……変な質問だけど」 本当に変な質問だ、と思った。記憶喪失をした人のようだ。けれど彼はゆっくり頷いて、でもおかしそうに笑いながら返した。「うん、正直最初は知らない人だ と思ったけど、裸足だったから」「はだし?」「うん、人間の子供は靴を履かないこともあるけど、大人は靴を絶対履くんだ。知らなかったのかい?」はっとし た。だから足が痛かったのか、と。素足に砂利道は痛いのなんて、当たり前だ。子供の頃も確かにそれを体感したはずなのに、狐ヶ岡の柔らかな草のマットでし か行動をしなかったから、すっかり忘れてしまっていた。うわあ、なんて馬鹿なことをしたんだ! と頭を抱えたくなった。「君は肝心なところをうっかりする ところ、まったく変わってないね、安心したよ」「嫌だわ、そんなところが変わってないなんて」むう、と眉をしかめた。すねたわたしの様子を楽しそうに見て 快活に笑い、頭に手をぽんぽんとはねさせた。昔は同じ目線で短い腕を伸ばし撫でていたのに、今では腕を少し曲げて、だ。時の流れを感じさせる。けれど大き な掌が頭を包む感覚が気持ちよかった。「そうだ、忘れていた」掌が離れていった。残ったぬくもりばかりが寂しい。そんな感情を振り切りながら、なにかし ら、と首をかしげた。手に持っていた彼岸花の花輪を、そっとわたしの目の前に差し出した。思わずびくっとする。そのわたしの反応に、まゆを落としながらも 言った。「一応、後悔していたんだよ、あの日のこと」「……ごめんなさい」「謝罪を求めようとしたわけじゃないんだ、ただ、この花輪をかぶってくれない か、って」俯いた顔をあげた。彼の困った表情。彼が本気だとわかった。すこしだけ、身を引いた。「わたし、元に戻っちゃう」今にも泣きそうな声が、自分で 情けなかった。でも彼はゆるやかに首を振る。「いや、大丈夫だ。……確証があるわけじゃないんだけどさ。化けた狐に花輪を乗せると元に戻るのは、ぼくの推 測だけど、化けるという漢字に草冠をつけると、花っていう字になるだろう? だから化けるという字が消えて、元に戻ってしまう。でも狐に対してマイナスの 要素をもたらさない花だったら、大丈夫なんじゃないかって。それで気になって調べたら、彼岸花が狐の髪飾りといわれることを知ったんだ。……うーん、やっ ぱり、だめかな」彼の口調は不安そうな台詞のくせに、確信を持った強さがあった。わたしは強張らせていた顔をゆっくりほどいて、微笑む。まったく、嫌な 人、と思いながら。「いいよ、わたしは」「本当に?」「決心が揺るがないうちに頼んだわ」笑って言ったけれど、やはり体があのときを思い出して緊張してい た。静かに深呼吸をして、きゅっと眼をつむった。高鳴る鼓動が体中に響く。彼が動く気配がした。そっと、花輪の感触が近づいてくる。彼の吐息がかかるほど 誓い距離。花輪が頭に乗せられた。息が止まる。――けれどいつまで経っても、体が元に戻る感覚はない。強くつむっていた眼を開く。溜息をついた。なんて重 苦しい空間だったんだ。「いや、よかった」彼も安心したように息を吐いた。「もし元に戻ったら、逃げられてしまってもう二度と会えないと思ったんだ」「わ たしもよ。元に戻ったら逃げて、もう二度と会わないと思った」「おお、そりゃ恐ろしい」ほっとしたように二人で胸を撫でた。花輪を頭に乗せるだけでこんな に体力を使うカップルは、わたし達以外きっと存在しないだろう。まるで交わったように近く、苦しい時間だ。口付けるよりも性交するよりも、存在が近かった と思った。「よし、新婦も着飾ったし、結婚式を始めようか」「あれ? いつの間にか結婚式?」「ごっこってことで」笑った彼の瞳はやはり本気だ。彼のいつ でも本気だから困る。でもそこが好きでもあった。強制を強制と感じさせない優しさ。ずっと彼以外の男の人と出会ったことがないから、ひどく優しく思えるだ けなのかもしれないけれど、わたしにはそれで充分だったから、それでよかった。「せっかくお酒も用意したんだ。もったいないだろう?」「ええ、それ酒だっ たの?」びっくりした。彼が持っていた一升瓶(と、盃)は酒だったらしい。また彼もびっくりして尋ね返した。「なんだと思ったんだい?」「……醤油かと」 「どんな奴だ、そりゃ!」けらけら笑った。わたしは頬を赤く染めながら、早く式を進ませなさいとごまかした。ごまかしきれてないだろうけれど、とにかくそ のことから逃れられたのでよかった。赤い盃と一升瓶が紙の包みから出てきた。「三々九度とかややこしいことあるけど、そういうことは一切抜きにしよう。酒 飲み大会だとでも思ってくれ」「なにそれー」そう呟きながらも、彼が盃に注いだ酒をごくっと飲んだ。安いのなのか、口には出さなかったが不味かった。彼も それを思ったらしく、わたしの飲み残した酒をちょっと飲んで眉をしかめていた。「うん、まあ一度飲めば大丈夫だろう」「何が大丈夫なのよ」「……し、式の 具合」ごまかしの下手さも、わたしと彼はよく似ていた。くすくす笑う。彼も照れたように笑った。なんて優しい空間だ、と思った。これを見た誰が化けた狐と 青年が結婚の盃を交わしていると考えよう。例え気付いても、考えないでほしい。心底、そう思った。単なる若い人間同士の青い恋愛だと、勘違いしてほしかっ た。一生のお願いというのが使えるのなら、使いたかった。こんなにも望んだことは今までない。きっとこれからも、ない。空をなんとなく見上げる。頬にぽつ りと、しずくがこぼれた。あれ? と思うとどんどん降ってきた。軽くぬるい雨だ。「天気雨だ、最近は見ていなかったけど、懐かしい」「……狐の、嫁入り よ。どこかで誰かが結婚してるのよ、きっと」「ああ、そうか。――いや待てよ、うん、冷静になってみよう。もしかしたら神様がぼくたちのことを認めてくれ たんじゃないだろうか、と考えてみてはどうだろう」「あるわけないでしょう。狐と人間の結婚どころか、恋愛すら認められないわよ」わたしは自分で言いなが ら、悲しくなった。でも彼は明るい様子でいやそうに違いない、と勝手に決定していた。「日本には八百万の神がいるんだから、一人ぐらい認めたっていいじゃ ないか」「……そう、そう、ねえ」雨がぽつぽつとわたし達をぬらす。晴れた空から降る雨にどんな意味があるのか、人それぞれだろうけれど。わたしは俯い て、思う。きっと、そうだといい、と。わたしと彼を認めてくれた神様からの、優しい粋な贈り物であればいいと、思ったのだ。どんなに馬鹿らしい勘違いで も、一瞬でも幸せにしてくれた神に、感謝しよう。彼岸花の花輪から、ぽたりと、しずくが落ちた。

《終》

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