第五回短編小説コンテスト 最優秀作品

桜と血を照らし合わせる比喩のように てる

ちゃ んと朝日は、東から昇ってきた。都心のビルには闇と光の境界が出来、車は足元でクラクションを鳴らす。彼は玄関に行って、新聞を取った、窓の向こうを見渡 すが、今日は曇っているからか、東京タワーは見えない。朝日でシルエットになる東京のシンボルは、威厳があり美しい。彼が東京タワーを好きになれるのは、 日の出た朝だけだった。昼間は平和ボケの象徴であり、夜は人工的な幻覚のようだ。朝だけだった、今日は見えない。
 彼はカーテンを閉めて、新聞の第一面を見た。ロンドン、パリの崩壊。
 新聞をめくる、高校生殺害事件の容疑者の似顔絵が載っている、一週間前からずっと、情報提供を呼びかけていた。実は、彼は犯人と同じ職場で、つまり中学校で働いていた。
もちろん顔だって知っている、陰湿な性格だったことも、生徒とうまく行かず、学級を放り投げてどこかに行ってしまった事もだ。しかし、いまどこにいるかはさっぱりなので、警察には連絡していなかった。 彼は新聞をたたみ、キッチンに向かって、朝食のパンを焼く。

自分は何て鈍くなったのだろうか。彼は心底そう思った。
  ロンドン、パリが一昨日、昨日と相次いで崩壊したのだ。彼の職場はその話題で持ちきりだった。新聞の見出しではないか。毎日読んでいるからか、とうとうど の事件を押さえるべきか、分からなくなった。 彼はまず、ロンドンやらパリやらよりも自分の無能について考え始めた。周りは話し声で溢れている。騒々しい 中、彼は黙ってチャイムが鳴る前に、職員室の引き戸を開けた。 防犯カメラのモニターには、遅刻者が門をくぐりぬける姿が、映されている。
 ようやくロンドンやらパリやらについて考え始めだしたのは、三時間目の授業の時だった。
彼は理科の教師だ。教室は表向き静かだが、たまに椅子が音を立てたり、何かをはさみで切ったりする音が聞こえ、運動場からはせみの鳴き声が一つ。窓は開放しているが、無風状態で、下敷きをうちわ代わりにする音が絶え間なく続いている。
核 戦争の始りか、一体何があったのか、教師達に聞くと「新聞を読んでいないのか」と馬鹿にされそうで聞かなかった。生徒に聞くなんて論外だ。恥をかきたくな ければ、家に帰って新聞を読むしかない。せみの鳴き声は、彼が電磁石の説明を始めるとピタッと何の前触れも無く止んだ。木々の葉が舞い、一つの風が教室に 転がり込む。

 彼がアパートに帰ると、ベルリンが崩壊していた。 階段を上り、ポケットに手を突っ込んで、鍵を探しながら、記事に目を走らせる。鍵を射し込み、小手をひねった。
部屋に入る前に、朱色の空を見渡したが、雲しかない。部屋に入り、ソファーの上に置いてある朝刊を掴んだ。暗がりの中、カーテンが透けて、ほのかなオレンジ色をした夕日の光が、部屋をぼんやりと照らす。
 第一面を読む。ロンドン、パリの崩壊。 記事の内容はこうだった。
  昨日、突如ロンドン郊外に、国籍不明の飛行物体が確認された。それはロンドン上空で静止し、武力によってロンドン都市部を粉々にした。郊外に住んでいる人 の証言では、まず夕食中に停電が起き、スプーンや電化製品などが宙に浮いて、数十秒後に凄い勢いでスプーンなどが上昇し、屋上にめり込んだ、というのだ。  その怪現象が終わり、電化製品などが床に転がり落ちると、すぐそばで落雷したような凄まじい音がして、庭に車が落ちてきた。 横には屋上にめり込んだス プーンと、住民が撮影した郊外の様子の写真が載せられていた。街は戦場跡よりもひどく、鉄塔がいくつか引き抜かれて横倒しになったり、車が屋根に落ちてい た。マンホールは見当たらず、その代わり、暗い穴が二つあいている。パリではエッフェル塔が引っこ抜かれたそうだ。 EUの調査団がロンドンに向かった 所、ほとんどの木は黒く焦げ、建物には大きな亀裂が入り、骸骨さえもたまにしか見なかった。金属には電気が流れていて、水道水を飲んだ調査団の二人が感電 死した。 これが朝刊第一面の全てだ。 夕刊はベルリンが崩壊した事、飛行物体が宇宙船であるとNASAが発表した事ぐらい。
彼は記事を読み終わった後は、いささか興奮気味だったが、すぐに冷静を取り戻すと、すぐに風呂を入れ、冷蔵庫を開けた。急いで家に帰ったので、食材を買っていないのだ。
彼はうどんを一玉手に取る。 もうすぐ東京がやられるかもしれないのに、天の下にある東京タワーは逃げようともしない。

  翌日、朝刊の見出しはこうだった。「欧州連合軍壊滅」 彼は膝を折って叫びそうになった。やはり、心のどこかで軍隊に頼れば大丈夫と思っていたのだろう。 しかし、それは間違いだ、約百機の戦闘機が落ちた、敵に当てたのはミサイル二発、SF映画のような不死身のシールドは無いらしく、攻撃も実弾だったらし い。小さな円盤も出てこなかった、母体一つだけのようだ。新聞にはシールドが無い分、まだ勝機はあると書いてあるが、どこにそんなものがあるのだろう。頭 がおかしくなりそうだ。
 しかし、時は動いている、彼は理科の教師なのだ。パンを食べながら、電磁石の授業の準備をしていると、飛行物体の影は徐々に頭の中から去っていった。
  学校の生徒が減った、教師も、だ。東京を去ってしまったのだろう。けれど、まだ大部分は残っていた。彼は教室に入り、無言で理科の授業を始めた。後ろの黒 板にはUFOの絵が白いチョークで描かれている。ただのありがちなUFOだったが、彼には恐ろしく、狂ったものに見えた。彼は全ての感情を強引に抑え、電 磁石の説明を生徒にする。途中、ある一人の生徒が、顔を俯かせ、逃げるように教室を出て行ったが、彼は黙って授業を進める。
 誰が家で泣きじゃくっていようと関係ない、チャイムは鳴った。
風は空席をぶん取るように、教室の中を暴れまわり、プリントを廊下に飛ばす。話し声はぽつぽつとしか聞こえず、いつもはかき消される木の葉が揺れる音が、珍しく聞こえた。
 戦争の上にある平和で、日本は支えられていた、彼はつくづく感じる。最後の手段が西の空で壊滅した知らせは、誰からも戦うとか勇気とかを失わせたに違いない。
彼 が教科書をプラスチックの籠に入れると、前から生徒が歩いてきた。 「ざつ」だった。「ざつ学大王」である。生徒の間でも、教師の間でも、誰が呼んだか、 このあだ名が広まった。 ざつは授業を終えると、たまに本当にどうでもよい雑学を伝授してくれような、風変わりな男子だ。得意満面でもないすまし顔で、語 りかけられる度、彼の脳には本当にどうでもよいことが植え付けられる。無害そうな顔で、服装は常に崩していた。「先生、東京タワーって、どんな鉄で出来て るか知ってますか?」とざつは言った。
「え、ただの鉄だろう?」と彼。「そうですけど、戦中の戦車のスクラップを利用してるんですよ」最後まで一本調子で告げると、ざつは教室を出て行った。

  東京タワーの影が、西のビルの屋上に落ち始めた頃、彼は顔をくしゃくしゃにして、新聞に見入っていた。迎撃せんと構えた米軍を飛行物体は突破し、ワシント ンD.C.を粉々にしてしまったのだ。多くの人々は来る前に逃げ帰ったものの、数千人分の赤い血と白い家が桜のように散った。 学校はからっぽになるだろ う。自衛隊では勝てるはずが無い。何もかもが嫌になり、彼は裸足で家を出て、空を見上げた、雲しかない。クラクションが耳障りな朝。足元では引越し屋が せっせと働いている。車両が一台なら、何も彼の目に留まる事ではないが、今日は三台、全て異なる会社のトラックが、アスファルトの上に乗っかっていた。  東京タワーはどのような気持ちで日本の首都を見渡しているのか。
その火照った赤い顔はぴくりとも動かない。向かいにある国道は車で覆い尽くされ、排気ガスが目にしみる。再度部屋に戻ると、いくらか落ち着いてきた。
  彼の部屋を見て分かるとおり、心も体もまだ狂気に蝕まれてはいないが、喧嘩の音や歌を歌う声、泣声や歌を歌う声でずっといたら頭がおかしくなりそうだ。頭 が狂う前に、彼は何も口にせず、身だしなみなんて気にすることも無く、靴下にサンダルという組み合わせで、学校向かった。 東京タワーはここから見えな い。

 なぜか学校は休校ではない。そこは東京でごく稀な、狂気を知らない人が来る聖地だった。 生徒は約一学年に五人ほど残っていて、残 る理由は大多数が「親が動かない」であった、残った教師三人は「どこに行っても同じ」で一致。その他にも「親がどこかに行ってしまった」などもあった。そ のグループにざつがいる。ざつは朝、門で顔を合わせると、「先生、サンダルに靴下って組み合わせ、日本人特有なんですよ」と一本調子で音を外すことなく、 まるでチャイムのように告げた。寂しそうな声だった。 教師達は一年を三階の一年一組に、二年を二組に、三年を三組に集めて、特にやる事も無いので、何事 も無かったように授業を始めた。チャイムは鳴らなかった。
 生徒が一人、職員室に訪ねて来て、三人の前で言った。「日本は勝てると思う?」と。彼は唸った後に答えた。「東京タワーが助けてくれると」
また、その後、ざつとある生徒が一緒に同じ質問をしてきた。今度は年配の教師が答えた。
「東京タワーが助けてくれる」と。

夕刊が来た。飛行物体の写真が載っている、まゆのような形の銀を鉄の棒が貫いている。分別すると、葉巻型の円盤らしい。これで宇宙にも鉱物があることが証明された。
上 に艦橋と思しき建物があり、下には先の尖った突起物がある。きっと戦艦大和でネイティブ・アメリカンの住む大陸に押し寄せたような感じなのだろう。新しい ニュースはこれぐらいで、あとは治安が非常に悪くなっている事ぐらいだ。 三人で新聞を囲みながら雑談をしていると、ざつを含む三人の生徒が職員室に来 て、学校で一夜を過ごすと申し出た。話の流れで、独身である彼と若い教師は職員室に泊まることになり、三人の生徒は一年一組の教室で泊まることになった、 発狂からの避難場所はここしか残っていないような気がする。

 次の日、防衛省は山岳部で飛行物体を食い止めるべく、防人を福岡県に召集した。
今からでも遅くない、逃げようか。 しかし、体が動かない。もうどこに逃げても無駄だろう、撃退するしか道は無いのだ。 彼はそう思いながら、電磁石の授業の準備を始める。五人相手に授業をするのは初めてで、新鮮だ。若い教師はまだ寝ている。
  すると、防犯カメラに大人の人影が写った。まだ七時だ、年配の教師が来るには少し早い。 誰だろうか、とにかく、一回に降りてみる。汚れた冷たい壁が、背 後に迫っているような気がしたが、後ろを振り向くのが恐い。 鉢合わせだった。年は四十ぐらい、包丁を持ち、背広を着た人間と。「不審者だ」 彼は大声を 張り上げた。本当に大きな声だと思う。その声に反応したか、不審者がいきなり、走って追いかけて来た。何も感じないような顔、青い顔で。彼は背を向け、夢 中で階段を駆け上る。階段を必死で上るっていると、防火扉を半分閉めて、ざつが待っていてくれた。彼が転がり込み、すばやくもう片方を閉める。
「ありがとう……なんでわかったんだ?」
「本 当に、大きな声だと思いますよ」 彼は小さく笑った。防火扉はまるでベートーヴェンの運命のように規則正しい間を持って叩かれる。「多分、北校舎から入っ てくると思う、君は皆を起こしといてくれ、俺は職員室に行くから、逃げる準備だ」 ざつははいと良い返事をしてから、走り去る。
職員室への道のり の途中、フッと思い出した。不審者の顔に、彼は見覚えがある。新聞に載っていた似顔絵の奴だ。戻ってきた。三年前に突然、行方をくらましたときと全く変 わっていない、幼い顔だが、あの顔は理性を失っていない、復讐心の塊のようだった。 職員室の引き戸を開けると、もう起きていた若い教師が目の前に現れ、 「北校舎に不審者が居ます」と彼に告げた。エアコンの風が気持ちよい。「こっち側にも居るよ、仕方が無い、教室に篭ろう、俺は食料を集めてくるから、君は ケイタイを持っていって、ドアから不審者が入れないような教室をつくってくれ、俺は窓から入るから」 了解です、と若い教師は言った後、走り去った。若い 教師は不審者が誰だか知らない、自分だけと思うと寒気がした。
 「くそ、何で誰も」と彼は声を荒げた。一一〇番に誰も応答しないのだ。
 彼のいらだつ声は敵と神経戦を繰り広げている箒を持った生徒にとってかなりの精神的不安になることは知っていても、そうしなければ、彼の心は確実に狂ってしまう。
「ま あまあ先生、まだ登校して来る生徒や先生もいるんでしょ」とざつが彼をのんきに慰める。彼は「そうだな」と言ったが、もう十時だ、誰も来ておらず、悲鳴が 頻繁に聞こえるのは気のせいだろうか。廊下には不審者二人がどっしり構え、入ってくる風が開かぬドアを揺らし、音が立つ。教室の中では、備え付けの扇風機 だけが首を動かしていた。静けさが肩に降り注ぐ。冷たい影は空と同じ色、灰色がかった色。梅雨の天気だった。
 一人の生徒が、我慢ならんといった 感じで扇風機の電源を切りに行った。誰もがそちらに注目し、スイッチを切ろうとしたとき、パリンと荒々しく窓が割れる音がした。床が所々光っている。扇風 機を切りにいった生徒が、声を上げずに驚いて転倒し、椅子がひっくり返る。この瞬間を待っていたかのように、二人目の不審者は血でどろどろの右拳を、見せ つけるように突き出した。 床に血が滴り、その赤旗は彼らに降伏を迫っているようにも見える。 ざつの体に力が入り、一気に抜けていくのが見て取れた。  箒が床に倒れ、高い音を立てる。それを待っていたのだろう、不審者は腕を割れた窓に突っ込んだ。女子生徒が顔を突っついたがびくともせず、鍵が開く音が教 室に響く。
 何があろうとその時は一歩一歩近づいてきている。飛行物体が北京をやったとの情報を教えてくれたのは、元教師の不審者だった。 だか らといって、何かが変わるわけではなく、不審者はその後も開いた窓からの突入チャンスを窺っていた。もうすぐ、日本に来るのか、彼は動揺を見せないよう に、机の中にあった理科の教科書を見ながら思った。
「電磁石とは、鉄芯の周りをコイルなど、抵抗の少ない金属で巻き、その鉄芯に電流を流せば、磁 力を持ち、磁石の役目をするはたらきの事」か。もう少し実用的な勉強を教えた方が良かったかもしれない。例えば、天気とかだ。教科書の天気図を見ている と、新聞で見た記事が頭の中を回想する。ロンドンの写真は今も頭にくっきりと浮かんだ。マンホールやらスプーンやら高圧線やら車やら全て、宙に浮いたの だ、あの写真からは実証できても想像できない。 そうか、心の中で呟き、膝を打ってみたものの、特に名案は浮かんでこなかった。が、何か制されていたもの が取れた感覚はあった。
灰色の空からは今にも、涙があふれ出そうだ。木の葉が吹き込む風に揺れる。 一葉、教室に入って来た。時計は五時を示して いる。不審者達は、教室の目の前で堂々と「十時にやる」と宣告している。何度か威勢良く、「わかる」と呟いてみたが、何かが足りなかった、つっかかるもの はあっても、それが何かわからない。時は時計によって明確に刻まれ、時間は過ぎていく。

 教室の中は張り詰めている。九時五十分だ。虫の音が耳に届くと、かすかに喜びを感じる。そう、最後の合奏を聴いている時だった。指揮者は白い棒を振る事をやめ、何もかもが静かになった。校舎の上で震動があり、粉雪のような細かいものが髪にかかった。
窓の向こうで、千万の赤と青の点が夜空に輝いた。地球上のものでない事が人目で分かる。
星影により、銀の体が光、それを貫く太い鉄の棒はバランスをとっているように思えた。
極 少ない都市の光が六等星のようだ。飛行物体は適当な所で静止し、突起物の先端がかすかに輝き始める。それと合わせるように、蛍光灯が消え、それにあわせて 彼の頭の中に何かが点滅した。 「わかった」と彼は叫んだが、皆、窓を潜ろうとする不審者を箒で撃退していて、気付かない。
 そう、電磁石だ。兵 器を使う時、電流を鉄の棒に流したに違いない。銀は抵抗が少ないはずだ。すると、強力な磁力を持って、飛行物体が磁石の役割をするのではないか。スプーン やら車やら、マンホールやらエッフェル塔やらが、宙に浮いてのは磁石である飛行物体に向かってくっつきに行ったのだ。我々の武器は地面から抜けた東京タ ワーだった。
不審者がとうとう、侵入して来た。銀に光る凶器は月光にのみ、輝く。逃げ惑う生徒をにらみ、顔が一瞬だけ月に照らされ輝いた。 彼は 鉄パイプの束を掴み、運動場側の窓で一塊になって震えている生徒の足元にばら撒いた。久しぶりに騒々しい音を聞いた。「鉄パイプ持って、窓から飛び降り ろ」
彼は机の上に乗り、開けた窓の枠に足をかける。心臓が風船のようにもろい。意を決して飛び降りる。地面が迫ってくる、恐さで椅子を手放しそうになったが、強く握り締めた。
  すると、窓が割れる鋭い音や天井に何かが次々とあたる鈍い音と共に、体が上に引っ張られた。 飛んだ、初めての経験だ。眼下を見るとネバーランドに旅立つ 三人の生徒が飛んでいる。若い教師はいない。車やら、スプーンやらが彼を追い越していく。灯りの消えた家々は連なり、アトランティスに迷い込んだような気 がした。木々は揺れ、虫がまた合奏を始める。家の何かが剥れる音が響き、湿った雨雲の匂いが鼻をくすぐった。
 遠くで、東京タワーが浮いていた。桜と血を照らし合わせる比喩のように狂った美しさだった。

end

いくら青くても、空は盤ではない 朱空


 ノックをしてから、入るよ、と声をかける。ノブの金属がひんやりと手に吸い付く。たぶん、これから入る部屋の空気のほうが冷えている、とぼくは思う。
  部屋の奥のベッドに上半身だけを起こして、妹は本を開いていた。開け放った窓から流れてくる夏の風が、長い黒髪を撫でていた。レースを透かした白いひとむ れの陽光が、彼女を陽だまりの池に沈めていた。美しいと思った。この一瞬の光景を切り取って絵画にできるといわれても、ぼくは拒否するに違いない。かたち にしなければ、永遠にぼくのものだ。たとえ記憶でしかないとしても。
「返事をする前に入ってきちゃったら」視線を本に落としたまま、彼女は言った。「ノックの意味はない」
「ああ」後ろ手にドアを閉めてから、ぼくは答えた。「そうだね。そうだった」
「謝罪はないんだね」
「うん」
「まあ、いい」
 広すぎる部屋に、豪華すぎるベッドが置かれている。静かすぎる世界が演出されている。意図的に。意識的に。底知れぬ悪意によって。
 サイドテーブルに乗っている水差しは、たぶんサラリーマンの平均月収より高い。でたらめな価格に、でたらめな状況。金が回っている。こんなに清潔なのに、どこか汚れている。下手な病室よりも手入れの行き届いた部屋には、だからこそ人のにおいがない。
 窓を開けているのだから、室温は外気と変わらない。なのに、ひどく肌寒く感じる。錯覚だと知っているから、余計に怖い。なんだってそうだ。ないはずものがあるよりも、あるはずのものがないことのほうが、おそろしい。
「なにを、読んでいるの?」と問いかけながら、ゆっくりとベッド脇に近づく。彼女の視線がようやくこちらを向く。微笑みかけると、これ見よがしにため息を吐いて、本の表紙を見せてくれた。
「デュマ・フィスか」ぼくは頷いて、たどり着いた椅子に腰掛けた。「悪くないな。『椿姫』はいい小説だ」
「そう」彼女は一秒くらい沈黙して、本を差し出してきた。「じゃあ、あげる」
「読まないの?」
 彼女はかぶりを振った。それは、とても芸術的な運動だった。彼女ほど綺麗にかぶりを振る人類は存在しないだろうという気がした。仮にいたとしたら、それはもう人類ではなく、綺麗にかぶりを振る人類、という新しい生物に違いなかった。
「まだ読み終わってないんだろう?」とぼくはたずねた。「それはいい本だよ、読んだ方がいい」
「読む気がなくなった。いま。たったいま」
「それは不幸なことだね」そこで、ぼくは一拍置いた。「君にとっても――デュマ・フィスにとっても」
「知ったことじゃない」
 半袖から突き出た細い腕は、寝間着と同じくらい白かった。静脈を透かした顔はさらに白く、むしろ青いくらいだ。彼女を基準に考えるならば、肌色という言葉はなくなるだろうと思った。
 太ももから下を覆う布団も、やはり白かった。先ほどから風を孕んで膨らんでいるレースのカーテンも、眩いくらいに白かった。怖いほどに黒いのは、彼女の瞳と、髪だけだった。
 潔癖すぎた。異常なほどに整理されていた。だからこそ正常に、ここの空気は流れている。そういうふうになっている。
 空調は切ってある。窓も開いている。日盛りの午後だ。体感とは裏腹に、ぼくの肌にはもう汗が浮いている。なのに、彼女に汗の気配はなかった。美しい顔と可憐な体躯の代わりに、神は彼女から汗腺を奪った。
 人間らしい機能を、ひとつ。
 誰かの命と、一緒に。
「それで」と彼女はベッドから腕を伸ばして、ぼくの頬に触れた。冷たかった。ドアのノブより、ずっと。「今日はなにか用事があるのかな」
「ない」とぼくは即答した。「正確にはあったんだけど、もう終わった」
「なにを言ってる?」と彼女は首をかしげた。「せめて英語かフランス語かドイツ語か日本語で喋ってくれるかな」
「君、ドイツ語は苦手だろうに」とぼくは笑った。「会いに来たんだよ。顔を見にきただけだ。だから、もう用事は済んだ」
「そう」と彼女は手を引いた。「なら、もう帰る?」
「帰らない」
「どうして?」
「さあ」とぼくは首をかしげた。「空が青いからじゃないかな」
「はじめて聞いた」と彼女は嘆息した。「そんな、下らない台詞は」
「だろうね」
「帰らないのなら、チェスがしたい。指せる?」
「それなりに、強いよ」とぼくは言った。「盤と駒さえあれば」
「そういえば、そんなことを聞いた覚えがある」と彼女は満足そうに頷いた。「盤と駒。両方ともそっちの引き出しに入ってる」
「それで?」
「それで?」と彼女は眉を寄せた。「盤にも駒にも、足はない。歩くことはできない」
「それは良かった。歩くチェス盤があったら、テレビ局に売りつけたくなる」
「ねえ」と彼女はため息を吐いた。「あなた、わたしを怒らせたいの?」
 あなた、といういびつな呼称を受け止めながら、ぼくは笑った。「泣かせるよりは、そっちのほうがマシかな」
「もういい」と彼女は髪をかきあげた。「はやく取ってきて。盤と駒を、ここに」
  ぼくは立ち上がって、チェス盤と駒の入ったケースを引き出し、サイドテーブルに置いた。水差しを慎重に床に降ろして、駒を盤上にばら撒いた。たぶんこれら も高級品だろうと思ったけれど、頓着はしなかった。馬や城や王様に象られた駒たちは、所詮ぼくらの手がなければ動くことはできない。どれだけ高くても、足 がないからだ。
 それでも、とぼくは思う。
 足のある駒のほうが、足のない駒より、よっぽど無惨だ。
 陰惨で、卑猥で、汚濁にまみれて――下品だ。
  彼女の指がゆっくり伸びてきて、盤上をすべった。彼女は黒い駒を選び、ぼくは白い駒を選んだ。お互いの駒を初期位置に並べながら、ぼくは唇を噛んだ。彼女 の指は細く、白く、清潔で、美しい。でも、同じ盤にあるぼくの指は、短く、爪が黒く汚れていて、第二関節の下に細かい毛が生えていて、醜い。
 黒い駒に白い指。白い駒に黒い指。めまいがする――吐き気がする。気分が悪い――機嫌も悪い。誰が悪い――ぼくが悪い。
 ……ああ……空が――青い。
 つと、指先が触れ合った。対比が浮き彫りになった。鮮烈に、残忍に、そこに告発が爆ぜた。ぼくの顔を見上げて、クイーンがにたりと笑う。声が聞こえる。おまえは偽物だ。女は本物だ。だからおまえらは別物だ。
  そうだよ、とぼくは視線を彼女に向ける。似ていない、と思った。違う、と思った。似ていないのではなく、完全に異なっているのだ、と思った。そうだ。ぼく は偽物だ。だからぼくたちは異なっている。だんぜん、異なっている。ぼくと目の前の妹とは、同じところはひとつもない。
 当たり前だろう、とぼくはクイーンに向かって呟く。血が繋がっていないんだから。
「先攻は、どうする?」と妹が――違う、とぼくは首を振る。
 あ、あ、あ。ぷつり、と断線する。落ち着け。ぷつり、と断線させる。なかったことにしようとする。いまのシーンを記憶から消そうとする。もう一度、とぼくは考える。意識しないで、もう一度言葉を。もう一度、正しい言葉を――かちり――再構成する。
「先攻は、どうする?」と彼女が言った。それでいい、とぼくは思う。ルール通りなら、と彼女が続ける。「白から――あなたからだけど」
「かまわないよ。お好きにどうぞ」とぼくは答える。「ルールなんて、無視すればいい」
「じゃあ、わたしから」
  音もなく指が動いて、ポーンが一歩前に出た。黒い駒からは、死のにおいがする。そういえば、彼はいつも黒い駒を使っていた。だから彼女も黒い駒を使うの か。じゃあ、彼と彼女が指すときはどうしていたんだろう、と思う。ぼくは彼女を見て、口に出しかけた言葉を呑んだ。そのベッドも、彼が使っていたものか い、という言葉を呑んだ。クイーンがまた笑う。いやらしく。白い駒から、真っ赤な舌が出ているように見える。ちろちろと、舌先が焔のように揺れる。
 一度目を閉じて、幻覚だ、と言い聞かせる。
 彼と指すと、いつもぼくがチェックした。何度指しても同じだった。彼は弱かった。でも、彼女とははじめてだ。彼が弱かったからと言って、彼女が弱い理由はない。たとえ血の繋がった妹であっても、チェスの腕前までが似るわけではない。
 でも、面差しはよく似ている。彼と彼女はよく似ている。気持ち悪いくらいに似ている。そっくりだ。似ている。似ている。同じように綺麗な瞳。同じように白い肌。同じように、弱い体。
 似ている。
 ぼくが自軍のポーンを摘み上げたとき、彼女が小さく声を上げた。
「どうしたの?」とぼくは顔を上げた。
「罰を決めよう」と彼女は手を打った。「罰を決めなくっちゃ、おもしろくないから」
「そうだね。ゲームに罰はつきものだ」とぼくはうなずいた。「なにか、提案はある?」
「そうだね」と彼女は顎に手をやった。「相手の言うことを、ひとつだけ必ず聞く、っていうのはどう?」
「悪くないな」ぼくはふたたびポーンを摘み上げて、ひとマスだけ前進させた。「それでいこう」
「必ず、だよ。なんでも、なにがあっても、必ず」
「いいよ、わかった。――それじゃあ、再開しよう」
 ぼくの手が離れると同時に、彼女は次の一手を出した。ぼくもすぐに駒を動かした。一秒の思考もない指しあいが、三度続いた。
「いいのかな、そんなに適当に指して」と彼女は言った。「わたしの罰、厳しいよ」
「長考するタイプじゃないんだ」とぼくは答えた。「厳しい罰って、どんなのかな?」
「死んでもらう」と彼女は笑顔で答えた。「あなたに、死んでもらう。自殺してもらう。すぐに」
 かつん、と甲高い音がした。彼女の指が、ナイトを動かしていた。盤と駒がぶつかりあう音が、不気味なくらい大きく響いた。かつん。かつん。かつん。同じマスを何度も踏みつけて、黒のナイトがぼくを真正面から見つめていた。ナイフを喉元に突きつけられた気がした。
「本気かい?」とぼくは訪ねた。それから、自軍のビショップを進めた。
「もちろん」かつん、と彼女のポーンが迫る。「あなたはなにを望むつまりかな、わたしに」
「そうだね」とぼくもナイトを出す。かつん。「ぼくを認めてください、かな」
「気持ち悪い」と彼女はルークを出す。かつん。かつんかつんかつんかつん。「怖気が走る」
 それには答えず、ぼくはポーンを進める。「彼は弱かったね、チェス」
「彼?」かつん。
「君のお兄さんだよ、本当のね」かつん。
「兄さまは、あなたしかいない」かつんかつんかつんかつん。
「今はね」とぼくは笑う。怖くて指先が震えている。か、かつん。「でも、むかしはいたじゃないか。ちゃんと、血の繋がった兄さんが」
「覚えてない」かつんかつんかつんかつんかつんかつんかつんかつん。「ぜんぜん、覚えてない」
「嘘だね。覚えているはずだ」かつん。「死んじゃったって、記憶は残る。嘘をつくなよ。下手な嘘を」
「うるさい」かつん。
「彼が死んでなければぼくはいなかった。君とぼくは他人だった。でも、いまこうなっている。なぜかって?」かつん。「彼が、死んだからだ」
「うる――さい」かつん。
「病死だってね。仕方がない。病死ならどうしようもない。いくら金があったって、いくら前途があったって、どんなに素晴らしい御曹司だって」かつん。「ひとは、簡単に死ぬ」
「黙りなさい」
 かつん。
「承知しました」とぼくは笑う。「お嬢様」
  かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。参ったな、とぼくは思う。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。勝てない。かつん。かつ ん。かつん。かつん。かつん。かつん。強い。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。彼女は、本当に強い。かつん。かつん。かつん。かつん。か つん。かつん。
 か、か――つん。
「次でチェック」と彼女が言う。
「逃げ場もないね」とぼくが答える。
「どうする?」と彼女が言う。
「どうしようもないね」とぼくが答える。
「死ぬのが怖くないの?」
「怖いよ。ぼくだって、ロボットじゃない。人間だからね」
「代わりなのに?」
「代わりだって人間だ。養子とロボットは違う」ぼくはビショップを動かして、最後の抵抗をする。「でもまあ、仕方がないね。君がぼくを嫌うのはわかる。ぼくはこういう家にふさわしくない」
「嫌ってはいない」かつん、と彼女が最後の一手を指すべく、ナイトを持ち上げる。「ただ、認めたくもない」
「跡取りなんて、君でいいじゃないかと思うんだけどね。男じゃなければならないっていうなら、娘婿でいい。どうして養子じゃなきゃいけなかったのか、ぼくにはそこがわからない」
「お父様は、わたしが嫌いなんだよ」と彼女は手を震わせて呟いた。「わたしじゃあ、兄さまの代わりは無理だと思っているみたい。わたしが結婚する相手にも、任せたくはないって」
「ああ、なるほど。考えてみれば簡単だね」刈り取った敵のビショップを手中でもてあそびながら、ぼくは頷いた。「それで、ぼくか」
「あなたのことは、むかしから気に入ってた」と彼女は悲しそうな顔をした。「兄さまから話を聞いて、何度か顔もあわせて。いい友達だなって言ってた」
「光栄だね」とぼくは笑った。「くそくらえ」
「どうして、引き受けたの?」と彼女は言った。「断ればよかったのに。こんな家の話なんて」
「断れなかったんだよ」とぼくは彼女の頭に手をやって、ゆっくり撫でた。まだ、ぼくと彼女が他人だったときと同じように。ぼくが彼の代わりではなく、彼の友達だったときと同じように。「お金と大人を前にしたら、ぼくたちは無力だ」
「そう」
「ところで」とぼくは盤を指先で叩いた。「その手、いつになったら指すのかな」
「ねえ」
「なに?」
「死ぬのが、怖くないの?」
「怖いよ」
「だったらどうして、平気な顔をしているの?」
「ぼくは死なないから」
「約束は守るものよ」
「知ってるよ。負けたら死ぬよ。でもぼくは死なない」
「どうして?」
「だって君は」とぼくは笑った。「そのナイトを、指せない」
「最低ね」と彼女は手を止めた。「罰を、変更しない?」
「だめだ」とぼくは言った。「ぼくを殺すか、君が負けるか、どっちかだ」
「最低ね」と彼女は繰り返した。それから、ナイトを窓から外に放り投げて、三回まばたきをした。「降参」
「約束は守るものだよ」
「わかってるわよ」と彼女は笑った。清々しく。「兄さま」
 妹にはしたくなかった。だけど、そうするしかなかった。これがベストだった。
 ぼくが死んで、彼女も死んで、という選択肢もあるにはあった。それはそれで幸せだったかもしれない。だけど、ぼくは選ばなかった。選びたくなかった。
「むなしいね」とぼくは言った。「なんだか、むなしい」
「いまさら気づいたの」と妹は笑った。「わたしはずっと気づいてたのに」
「勝ったらむなしい。負けたら死ぬ」とぼくは笑った。「チェスを持ち出された時点で、ぼくは負けていたのか」
「あのとき、帰っていればよかったのよ」
「それはそれで、うまくはいかない」とぼくは呟いた。「よくできた罠だ」
「まあね。でも――わたしも負けよ」と妹は指先で髪を払った。「勝ったら寂しい。負けたら切ない」
「意味がないね」
「世界のほとんどは、意味がない」
「違いない」
 なのに、地球は青い。なんだかそれは――とても理不尽だ。
「本当は、チェスの前にすべて決まっていたのかな」
「そうね」
「反則だよね」
「なにが?」
「勝者がいないんだよ」
「そんなこと、たくさんあるわ」
「結局、ぼくらはいろいろなことに負けたわけだね」
「そうなるわね」
「じゃあ、ぼくは帰るよ」と腰を上げて、妹にキスをした。「また来る」
「兄様」と妹がクイーンを投げつけてきた。「死んでください」
「今度、負けたらな」
 ぼくはクイーンを踏みにじって、扉に寄った。ぱき、といやな音がして、駒が砕けた。ようやく、とぼくは笑った。ようやく、ひとつ。
 振り返った。部屋は白く、妹の顔は少しだけ赤い。
 夕焼けにはまだ早い。

(了)

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