第三回短編小説コンテスト 最優秀作品

夢が終わるとき  Bonkura


「いわゆる『夢』は、意識によって抑圧された願望の無意識状態における発露なのである。『真のエゴ』は夢にようやくその実体的存在を果たすとも考えることが出来よう」
「心理学総論講義・第六版」横浜大学出版会・前田宏

「振り返れば私の人生は全て夢のようである。さて、人生が夢ならば夢から覚めたとき、『私』は私たりえるのだろうか?私の見た『私』の夢はもうそろそろ終わるだろう。死ぬことの何が恐ろしいかと言えば、自分が自分で無くなることなのだ。正直に言えば、私は恐ろしい」
「ウィリアム・H・タイラー」木志社・William H Tyler,(中小路雪乃・訳)

 ***

「いつまで寝てるの?」
 誰かが俺の鼻を摘んだ。目を開けると女がいた。笑顔が眩しい。いや、眩しいのは女が寝室のカーテンを開けたからだ。笑顔が眩しいはずがない。
 真っ白な朝日の中で彼女はやはり俺を見下ろしていた。顔が逆光でよく見えない。ねえ、早く起きてよ。今日からまたお仕事でしょ。頑張ってよね。
 なぜ、この女は俺を急かすのか。まだ、眠っていたいのに。ん、ああ、今、何て言った?
「西陽台の土地、昨日わたしひとりで見に行った。って言ったのよ」
 雅英が一日中寝てるんだもん。
 女が本当は怒っていないことぐらい、わかっていた。そうだ。俺は、本当はすべて分かっている。それでもわからないフリをして、俺は彼女と毎日をやり過ごしている。嘘で塗り固めた生活だ。
 マイホームか。
「そ、わたしたちの家が建つ土地」
 そうだ。この女はマイホームを欲しがっている。確かに西陽台の地価は安い。だが、自他共に認める“負け組”がおいそれと手を出せるような値段ではない。分かっていて、この女は無茶を言う。いつだって、そうだ。いつだって、この女は無茶ばかり言って俺を苦しめる。
 なあ。と、俺は言った。
「結婚しようよ」
「何よ。今更」
 振り向くと、彼女は目をかっと見開いていた。
「もう、遅いわよ」
 わたしたち、もう終わりなのよ。
「そんなこともわからない?」
 馬鹿じゃないのと吐き捨てて、彼女は寝室から消えた。
  ならば、何故「わたしたちの」家を欲しがるのだ。嘘つき奴、と俺は思った。要するに、あの女は追いかけられたいのだ。本当は捕まえて欲しいくせに、悲鳴を 挙げながら逃げ回るのだ。どこかの漫画家が言っていた。「インコは好きな人の前で吐いて愛情表現をする」と。要するにこの女はインコだ。ぴいぴいと煩いイ ンコ。飼主を発狂させるまで喚き続けるインコ。
 ただ、どんな理由であれ、女を泣かせた男が惨めなことに変わりは無い。惨めで、惨めで、俺は泣きたくなった。次に、怒りに似たモノが湧いてきた。あるいは、このどす黒い感情は殺意とでも呼ぶべきだったろうか。
 彼女は台所に立っていた。何かを作っている。俺の好きなベーコンエッグとコーンスープ。気が利く女なのか。いや、昨日の夜、俺が頼んだのだ。ああ、それにしてもなんていい匂いなんだ。
 俺は彼女のうなじが好きだと言ったことがあった。変態、と彼女の華やいだ笑顔を見て、俺も笑った。そんな季節が俺達にもあったのだ。
 時々肩が震えているところを見ると、あの面倒くさい女は泣いているのだろう。いや、嘘泣きに決まってる。また、俺を困らせようとしているんだな。なんて憎たらしい女なんだ。
 彼女は鼻歌をうたっている。メロディーがふらふらと揺らいでいる。あの曲は平井堅の「楽園」だったか。随分と古い曲だ。それに、俺は平井堅があまり好きじゃない。いや、むしろ、大嫌いだ。昔は好きだったんだけれども。
 忍び寄って、俺は彼女のしろくてほそい首を締め上げた。彼女はあっさりと死んだ。
 死ぬ直前に彼女は俺の名を呼んだ。
 雅英。
 気持ちの悪い、婆みたいな声だった。それは、そうだ。首を絞められているんだから。
 終わってしまってから、俺は酷く後悔した。抱くのは得体の知れない感情だった。   110番に電話をかけ、人を殺したと言い、アパートの住所を告げた。彼女の屍体に触りたくなかった。
 十分もしない内に警察官がやって来て、警察手帳を見せた。ああ、警察手帳なんて、初めて見る。直ぐにパトカーの中に連れ込まれた。
「何で、こんなことをした」
 刑事は若い、真面目そうな男だった。
「彼女が平井堅のうたを歌ってたから」
「お前、正気か」
  どういうことなんだ、ちゃんと説明しないか。おい、コラ。いつまでも俺が優しいと思うなよ。刑事はいつまでもブツクサ言っているが、俺にはもう関係の無い ことだった。あの女は確かに死んだのだ。いや、俺が殺した。それだけだ。俺は目を閉じた。鼻の奥に、ツンと感じるものがある。それが何なのかを思い出す前 に、口の中いっぱいに鉄の味が広がった。
「ふざけやがって、このイカレ野郎がッ」
 刑事の肘が俺の鼻に綺麗に入った。俺は気を失った。

「普通、こういうときって寝ないものなんじゃないの」
 時間もったいないよ。それともそんなにアタシって退屈なの。意識の混濁が鎮まると、俺は気がついた。
 寝ていたのだ。リアルで、嫌な夢。
  俺の腹の下で怪訝な顔をしているのは彼女ではない。今日初めて顔を見た女だった。この女の九十分を結構な金を払って購ったのだ。しがない会社員には辛い金 額だった。それでも女の顔とからだを見たとき、俺は資本主義の偉大さを改めて理解した。金で買えないものは滅多に、無い。
「だから、続けたら?」
 この女の言うとおりだ、俺は思った。女はすぐに鼻を鳴らし始めた。
 なぜ、こんなことをしているのだろう、と俺は考えた。そうだ、退屈だったのだ。退屈の反対は刺激に満ち溢れた興奮だ。
 彼女は可愛い。性格もいい。相性だっていい。怖いくらいに愛されちゃってるし。
 愛されちゃってる。
「だから、退屈だ」
  現代人は退屈を死ぬよりも恐れている。要するに、俺は愛されている事実ではなく、愛されている実感が欲しいのだ。あまりに日常に紛れてしまい、実感を失っ てしまうのならば、それは愛であって愛ではないものと化す。結局のところ、俺は彼女との実感を失ったに過ぎない。その実感を取り戻すための、この行為だ。 この買春行為は彼女の愛を実感するための単なる手段に過ぎない。崇高な目的の為の手段に、善も悪もあったものか。彼女だってあるいは感謝するべきなのかも しれないぜ。
「だから、俺は、悪くない、絶対に、悪く、ない」
「知らないわ、そんなこと。お客さんの、彼女の、ことなんて」
 感覚が研ぎ澄まされていく。それが頂点に達しようとした瞬間、寝室の扉が開いた。
「なに、誰、その人、え、え、雅英?」
 最悪のタイミングだ。彼女は持っていた買物袋を落とした。零れる長葱。この生活感が嫌だったんだ。いや、いや、今はそれどころじゃない。
「いや、違うんだ、え、と、いや、違うんだって」
「最低ッ」
 俺の住んでいるのははごく普通のワンルームマンションに過ぎない。だから、彼女が台所から包丁を持ってくるのが、手に取るように見えた。
「何を……」
 殺して。
「その女を殺して」
 彼女が俺に放り投げてきたのは、一度目を背けてみても、やはり冷たく鋭く鍛えられた金属片だった。
「ばか、落ち着け。な、落ち着けよ、とにかく」
 殺して、殺して。殺してよ。ねえ、雅英。殺してよ。
「お客さん、ちょっと、勘弁してよね」
 女が狂ったように俺の体を揺すぶる。それを見て、彼女は更に狂ったようにわけの分からないことばを叫んで、俺に女を刺すように求める。暫く経って、隣の住人が壁を蹴り始めた。うるせえぞ、てめえら。今何時だと思ってやがる。
「な、いいかげんにしろよ。迷惑だろう?」
 操り人形の糸が切れたように、彼女の体から力が抜けた。
「あ、そう。そうなんだ、雅英、そういうことなのね」
 もう、うんざり。雅英。わたしは何にもわからない。
 彼女は言うと、毛布の上に転がっていた包丁を取り、惑うことなく自分のしろい喉を突き、抜いた。
 ヒュウ、と間抜けな音とともに、彼女の喉から噴出した血が、寝台の上の俺と売女のからだを濡らした。鼾のような音を立てて、女は気絶する。幸せな女だ。俺は気絶も出来ずに、彼女の虚ろな瞳を直視することしか出来ないのだ。
「なんで」
 俺は床に倒れこんだ彼女を抱いた。彼女は俺の手を振り払い、肩を掴んだ。そして、耳元で囁いたのだ。それはこっちのセリフよ、と。
 こと切れた彼女を血の海の中で抱きながら、俺は何をするわけでもなく、ただ彼女の白いブラウスが、どす黒く染まっていくのを眺めていた。血は紅くない。黒い。視界がぼやける。涙が零れた。

「亀井さん。亀井さん」
  看護士に起こされた。彼女の寝台の横のパイプ椅子に座ったまま、俺は眠り込んでしまっていたようだ。頬に何かを感じると、それはどうやら涙のようだった。 ひどい夢だった。夢の中の夢も、ひどいものだった。きっと疲れているのだろう。心も体も。だからだ。けっして、これは願望の顕れなんかではない。
「お疲れですね」
「はあ、まあ」
 無理だけはしないで下さい。言うと、看護師は彼女が繋がれた機械を拭き、ディスプレイに映った数字をメモすると別の患者の病室へ消えた。
 彼女は瀕死の病人だ。何とか、何とか病。
「生きてる?」
 彼女の頬を撫でる。潤いの無い、乾いた肌。どこまでもやわらかかった体は痩せて、触ると骨の感触が痛々しかった。試しに唇を重ねてみても、彼女は、もう、はにかまない。
 彼女の意識は半年も戻らない。植物と変わらない。生きているけど、それはそういうことじゃない。
 看病と仕事の掛け持ちで、俺は疲れ果てていた。
 彼女はこの状態をどう思っているのだろうか。
 殺そう、と俺は思った。それを彼女も望んでいるはずだ。大丈夫、一人ではいかせないからさ。
 病室の鍵を閉め、彼女と機械を繋ぐ管を何十本か引きちぎる。飛び出た銅線が俺の手を引っ掻く。耳障りな電子音が病室に響き、看護師が飛んでくる。
「亀井さん、亀井さん、どうしたんですか。鍵を開けてください」
 看護師は扉を叩き続けるが、俺は無視した。
 彼女は、眠り続けている。いや、あるいは死んでいるのかもしれない。俺に残されている仕事は一つだけだということにことに変わりは無いのだ。
 林檎の皮むきのためだけに、100円ショップで買ったナイフ。腹に突き立てた。

 目が覚めた。彼女がいる。顔色が悪い。ああ、彼女は死んでいる。死んでいるのだ。

 なぜだ。なぜ、俺は繰り返し繰り返し彼女を殺してしまうのだ?
 辛くて、苦しくて、俺はまた泣いた。不誠実な男を愛してしまって、報われない女のために泣いた。
 泣いて泣いて、それでも涙は涸れないのだから、俺はやはり彼女を深く深く愛しているのだ。そして、そんな俺を彼女は愛してくれる。
 彼女が笑っている。彼女が喜んでいる。彼女は幸せだといってくれる。

 そして、目が覚めると、隣に寝ているのは彼女だった。
 長い悪夢が終わったのだ。
 俺は隣に眠る彼女をそっと抱きしめた。
「甘えちゃって。珍しいじゃない」
 彼女は結局俺を受け入れてくれる。何だ、いつもと変わらないじゃないか。
 何回か嫌な夢を見て分かったのは、俺は彼女を本当に愛しているってことだ。だって、彼女を失ったとき、とてもとても悲しかった。だから、再確認できた。少しぐらい気分の悪い思いをしたって、充分にお釣が来るってことだ。
 なーに変な顔してるの。
「好きだよ」
「何よ。急に」
  俺は世界で一番の幸せ者だ。夢を見て、わかった。だって、彼女を失って、あんなにも悲しかったじゃないか。あの悲しみを知ったから、今の幸せが直感として 理解できる。ほとんどの人は、自分の幸せに、それを失うまで気がつかないのだ。そういう意味で、やはり俺は世界で一番の幸せ者なのだ。












 ***










 目を開ける。
 隣には、誰もいない。一人きりで俺は寝台に横たわっていた。寝すぎた後の気だるさ。欠伸をして、俺はまた寝ていたことに気がついた。
 窓から見える街は燃えるように紅い。朝焼けか、あるいは夕焼けなのか。部屋に時計は無い。壁紙から寝具まですべてが真ッ白だ。扉のノブすら白いペンキで塗りたくられていた。その白も、紅い光の中に沈みかけている。
 また夢に決まってるさ。
 俺は目を瞑った。眠れない。いつまで経っても、眠れない。目を開ける。彼女がいない。寂しい、さみしい。
 ゆめがおわらない。いや、すべて夢だったのか。彼女の名前を呼ぼうとして気がついた。
  あれ、彼女の名前、なんだっけ。彼女の名前をこんなにも叫びたい。それなのに俺は彼女の名前をどうしても思い出せない。そう言えば、彼女の顔が思い出せな い。声が思い出せない。彼女との思い出が思い出せない。出会ったのはいつだ。初めて結ばれたのはいつだ。初めて喧嘩したのはいつだ。何もない。何もかもが 妄想の霧の中だった。
 俺は悟った。「彼女」など最初からいなかったのだ、と。
 世界が崩れていく。
 全てが夢なのだとするのならば、夢を見ていた俺は誰だ? 鼓動が早まる、目の前が暗くなる。俺には、もう何も分からない。わかるのは、俺が孤独だと言うことだけだ。
 ついに居心地の良い夢が終わってしまったのならば、俺は何かを搾り出すような呻き声をあげることしかできないのだ。

 (了)

ようやくの目覚め   朱空


 ようやく咲きそめた桜は、ゆっくりと眺める間もなく散ってしまった。すっかり葉を茂らせた古木を窓越しに見ながらため息を吐いたとき、間抜けな音を響かせて、折り良くチャイムが鳴った。
 翔太は微動だにしなかった。教科書を机の中にしまってから、肩を叩いてやると、大きな体がかわいらしく震えた。
「ん?」
「いつまで寝てるつもりよ。一時間目から寝っぱなしじゃない」
 数学、世界史、英語の授業を寝続ける受験生も珍しい。あくびをしながら、翔太は爽やかに笑った。「春眠暁を覚えずって奴だな。窓際って、天気がいいと眠くなる」
「よく言うわよ。授業中に寝るなんて、今年に入ってから急にじゃない。去年までは優等生で通ってたのに」
「だって眠いんだもんよ」
 私は呆れて肩を落とした。「受験生なんだってこと、忘れちゃダメよ。夜、勉強してるの?」
「まさか」と翔太は笑った。「勉強なんて夏になってからでいいだろ。四時間目も寝るから、終わったら起こしてくれ。頼むぞマネージャー」
「まだ寝るの? あんた、なにがしたいわけ?」
「夢の続きが見たいんだよ」と、こっちの胸をくすぐる微笑を見せて、翔太はまた机に突っ伏した。「いいところで途切れてるんだ」
 二秒で眠りこけた横顔を眺めながら、馬鹿ね、と笑った。夢の続きなんて、見られるわけがないじゃない。

 結局、翔太は六時間目までしっかり寝た。部活に出てくるころにはすっかりキャプテンの顔になっているところは、さすがというより、ちょっとずるい気がする。
 体育館に、シューズと床がこすれる音が響いている。ぎこちなかった一年生たちも、そろそろ練習メニューについてこれるようになった。翔太の幼馴染としてではなく、バスケットボール部のマネージャーとして客観的に見ても、今年のチームはここ三年でいちばん強い。
  フォワードをやる翔太の得点力は県内でもトップクラスで、ガードの健二のボール捌きには定評がある。圭介は二メートルに届きそうな長身が売りの、いいセン ターだ。この三人の三年に、秋口からめきめき力をつけてきた二年の新田君と、目をつけていた新人の三田村君が加わった五人のプレイは、ちょっと凄みすら感 じさせる。
 中学生のころ、ほとんど翔太に拉致されるようにしてはじめたマネージャー業務だけど、六年目になると仕事に慣れて気分が楽になったぶ ん、とても楽しい。高校に入ったら辞めようと思っていたのだけど、中学で味わった悔しい思いが忘れられず、気づいたら入部届けを書いていた。
 水で薄めたアクエリアスを作りながら、もうこれも何本作ったんだろうと微笑んだ。ああ見えて翔太は胃が弱いから、少しでも濃く作るとすぐにお腹を下す。いまだに翔太のドリンクだけ下級生でなく私が作っている理由は、それだった。
「はい、どうぞ」休憩に入って、コートに座り込みながらタオルで汗を拭いていた翔太に、ボトルを渡す。
「ああ、サンキュ」と受け取った腕から、汗のにおいが立ち昇っていた。バスケをしているときの翔太は、幼い顔立ちや甘い声を感じさせないくらい、男臭い。コートを見ながら、部員の健康状態をチェックしているその横顔が、私はなによりも好きだった。
「夢の続き、見た?」と笑いながら訊いた。
「ん、ああ、無理だった」
 真顔で返答されたのがおかしくて、思わず噴き出した。「当たり前じゃない、夢の続きなんて、見られるわけないんだから」
 翔太は私を顔を一秒くらい眺めてから、目を細めた。「そうかな。たぶん、いつかは見られるだろ」
 なに言ってるの、といいかけたとき、翔太は立ち上がって、集合の号令をかけた。雑談をしていても、しっかり時間はチェックしていたらしい。さすがキャプテンという賞賛と、もう少し相手をしてくれもいいのに、という恨みを飲み込んで、おとなしくコートの隅に走った。

  家が近いからという理由で、私たちはいつも一緒に下校する。どうせふたりとも練習が終わるまで学校にいるのだから、時間もぴったり同じになる。ただの成り 行きだ。中学生のころはからかわれたりもしたけれど、翔太の人望のせいか私に女の色気が欠けているせいか、冷やかしは長続きしなかった。
 並んで自転車を走らせながら、他愛のない話をする。学校ではマネージャーとしか呼んでくれない翔太が、むかしのように美沙と言ってくれるのは、このときだけだった。
「ねえ翔太、今日見てた夢って、なんなの?」
「なんだよ、急に」
「そんなに続きが見たい夢って、こっちだって気になるじゃない」
「ああ、それはそうかもな」と言ったきり、翔太は黙って自転車のペダルを踏んだ。たぶん赤信号で止まるのを待ってから、首を振った。「でもダメだ。やっぱり美沙には教えない」
「なによそれ」
「話したら、続きが見られなくなりそうだからな。それで終わりって気分になる。また今度教えてやるよ。おれが、ちゃんと最後まで夢を見られたらさ」
「なによそれ。わけわかんないわね」
「そう言うなよ」
 闇夜に、翔太の白い歯が光った。吹き抜けていく風が生温くて、制服に汗が浮きそうになった。
「そろそろ夏が来るわね」
「そうだな、もう夜なのに、暑いくらいだもんな」
「月末の大会は、どう?」
「どうもなにも、今年こそ全国を狙うぜ」
 強豪とは言えないうちの高校は、まだ全国大会に出場した経験が一度もない。五月の末からはじまる県予選を勝ち抜いてインターハイに出場するのが、歴代の先輩たちの、ただ一度も果たされたことのない悲願だった。
 中学生のときにあと一歩で負けた翔太は、高校一年生からレギュラーであり続けたから、それからも何度か負けた。伸ばした手が全国大会と書かれた切符に届くことは、ついになかった。
 痛めている膝が悪化するから大学ではバスケットもう、と医者に止められる翔太にとっては、今年の夏が最後のチャンスになる。
 私の家の前で自転車を止めて、翔太は手を差し出してきた。
「泣いても笑っても夏までだ。美沙も協力してくれよ」
「ええ、任せなさい」
 しっかりと手を握り返して、私はその場に立ち竦んだ。じゃあなと言い残して自転車を闇夜に走らせるその背中を見つめて、なぜだか泣きたいと思った。
 あんなに大きな手でも、掴めないものがある。なら、私のこの小さな手で、いったいなにが掴めるというのだろう。

 好きになったのは、ずっと前だったと思う。だけど、好きだと気づいたのは、中学三年生のときだった。
 あとひとつで全国大会だった。試合が進むにつれて、応援はマネージャーからチームへ送るものではなく、女の子から男の子へ送るものへと変わった。安藤美沙の、内田翔太への声援に変わった。
 逆転のかかった最後のスリーポイントシュートを、翔太は外した。誰の責任でもなかった。フリーでも簡単には入らないのがスリーだ。残り時間もなかったのだから、マークのある状態で無理に打った翔太の判断が間違っていたとも思われない。
 だから、誰も悪くなかった。
 終了のブザーが鳴ったとき、翔太はスコアボードを見て、チームメイトを見回して、私と先生の顔を見て、大きく息を吐いた。みんな泣いていた。ベンチの選手も、応援に来ていたクラスメイトも、私も、コート上の選手も、目と鼻を真っ赤にしていた。
 でも、翔太は泣かなかった。最後まで胸を張って、汗をぬぐって、相手の選手を見据えて、微笑さえ浮かべて、ありがとうございましたと言った。
 そして帰り道で、自転車をこぎながら、何度も何度も、ごめんなって言った。私に向かって、本当に申し訳なさそうに、ごめんなって繰り返した。おれが誘ったのに。おれがマネージャーにさせたのに、おまえを泣かせちまった。ごめんな、ダメだな、おれ、ごめんな。
 気にしないで、と私は言った。私、楽しかったから。翔太の隣でバスケット見てるの、好きだったよ。だから気にしないでいいよ。
 翔太は黙って首を振った。それでバランスを崩したのか、試合で疲れて力が出なかったのか、道端の小石にハンドルを取られて、あっけなく転んだ。
 大丈夫、という叫びに、反応はなかった。アルファルトに倒れこんだまま、翔太は声もなく肩を震わせていた。自転車を止めて近寄ったとき、泣いているのだと気づいた。
 翔太、と名前を呼んだ。駆け寄って、怪我したの、と訊いた。翔太は歯を食いしばって、おれのせいだ、と吼えた。キャプテンなのに、おれが外したから。おれが決められなかったから。
 その姿が痛々しくて、とても見ていられなくて、だから私は、小さな胸で、大きな体を抱いた。悪くないよ。翔太は悪くない。ただ、負けちゃっただけなんだから。
 でも、と翔太は私の服を握り締めて、泣いた。勝ちたかったんだ。全国に行きたかったんだ。あいつらと、おまえと、全国大会に行きたかったんだ!
  ああ、と思った。私は、翔太のことが好きなんだ、と思った。勉強もスポーツもよくできて、顔も爽やかで、優しいよね、とクラスメイトは言っていた。そんな ものかな、と思っていた。鼻水を垂らしていたころから知っている翔太を、そういう基準で判断することは、私にはできなかった。
 でも、そのとき、私は翔太を愛しいと思った。私の小さな胸で、声を振り絞って、全身を震わせて泣く翔太を、誰よりも好きだと思った。
 夏だった。翔太の首筋から薫る汗の残り香を胸いっぱいに吸い込んで、私はゆっくりと大きな背中を撫で続けた。翔太は私の胸で、なにかを小さい声で言い続けていた。聞き取れない言葉を風に流して、暮れていく町を呪った。

 むかしのことを思い出してしまったからか、夜になって目が冴えた。窓際に寄って星を眺めているうちに、前の道路を誰かが走っていく音が聞こえた。
 夜目は利く。凝らすまでもなく、翔太がランニングをしているのだと知れた。
 去年までは真面目にノートを取っていたのに、今年に入って居眠りが増えた理由に、ようやく見当がついた。
 ――今年こそ全国を。
 決意は、どこまでも本気だったのだろう。たぶん、寝る間も惜しんでトレーニングを続けているのだ。オーバーワークは故障の怖れがあるから、マネージャーとしては止めなければならない。
 でも、私は止めない。止められない。翔太の悔しさを、たぶん、私は誰より深く知っているから。

 翔太は眠り続けた。授業のほとんどを眠ってすごし、たまに起きだしては、真剣な顔でノートに向き合い、何事かを書き留める。悪いかなと思いつつ、熟睡しているときを見計らって、ノートを盗み見た。
 チームメイト全員の特徴や癖、トレーニング方法、健康状態までがまめにチェックされていた。理想的なオーダーや新しいフォーメーションの草案でびっしり埋まったノートは、授業の合間だけで作れるものでは到底なかった。
 夢の続きが見たいなんて、ただの嘘っぱちだったのだと私は笑った。単純に、翔太は家で眠っていない。眠る時間も学ぶ時間もすべて削って、試合に備えている。全国を夢見ている。
 その努力が報われてくれればいい。もう涙は見たくない。目に沁みる初夏の太陽を見上げて、私は嘆息した。
 トーナメントの開幕は、もうすぐそこに迫っていた。

 青々とした若葉が、染み透る蒼穹によく映えていた。アスファルトを灼く太陽は、午後になればますます猛く盛るだろう。こめかみに垂れる汗をぬぐって、早鐘を打つ胸の鼓動を悟られないように、静かに深呼吸をした。
 順調に勝ち上がった翔太は、ついに三年前と同じコートに足をかけた。
 決戦の日、白雲と軟風と迫力のある微笑を引き連れて、翔太は颯爽と会場に現れた。黒い短髪を逆立てて、目元を涼しげに緩め、私の愛しい人は体育館を見上げていた。
 もう、泣いていた少年の面影はない。絵画のように精悍な青年は、決意と覚悟とみなぎる自信を武器に取り、今日、夢の舞台へ駆け上がる。
 集まったチームメイトたちに視線をひとめぐりさせてから、特に言うことはない、と翔太は笑った。
「勝てば全国だ」太陽を握りこむように拳を掲げた翔太は、大地を黒く濡らす影を強く踏んだ。「勝ちに行くぞ」
 鬨が上がった。盛り上がった筋肉を極限まで緊張させて、部員が会場へ消えていくのを、私はまぼろしを見るように目で追った。その先頭を行く翔太の背中を目に焼き付けた。
 今度こそ勝たせてね、と聞こえない声で私は言った。神様でも仏様でもなく、幼馴染のキャプテンに。

 悲劇は突然にやってきた。第三クォーター終了間際、翔太の膝が悲鳴を上げた。テーピングでごまかしてきたツケが、ここにきて一気に爆発したのだ。
 勝ってはいた。ただ、チームの柱である翔太が抜ければ、たった五点のリードくらい、最終クォーターであっさり逆転されてしまうだろう。インターバルの二分間で、翔太は必死にテーピングを巻きなおしていた。
 激痛に顔をゆがめ、私と監督の止める言葉を聞かずに、試合に出ると言い続けた。「どうせおれのバスケはこれで終わりなんだ。だったら、ここで出なきゃ一生後悔するに決まってる」
 監督の指示で、最終クォーターの初期オーダーから、翔太は外れた。私にできるのはただひとつ、患部にタオルを当て、テーピングを丁寧に巻きなおすことだけだった。

  ラスト三分で、翔太はふたたびコートに立った。一点を追う状況に変わっていた。割れるような声援のなかで、翔太は歯を食いしばって必死にプレイした。誰よ りも大きな声を出し、怪我を感じさせない気迫でチームを盛り立てた。お互いに得点のないまま時間ばかりが過ぎて、審判が時計を気にしはじめた。
 そのあいだ、私は声もなくコートを見ていた。違う。翔太を見ていた。翔太しか見ていなかった。胸が痛かった。痛いほど高鳴っていた。
 残り秒数になったとき、ボールがこぼれて速攻のチャンスができた。その瞬間、コート上の誰よりも早く駆けたのは、翔太だった。
 誇るべき、私たちのキャプテンだった。
 翔太は速かった。膝が痛いだろうに、疲れきっているだろうに、翔ぶように駆けていた。こぼれたボールの先にある、たしかな勝利を目指して。
 その先にある、夢の続きを目指して。

「おれは、この夢の続きを見るんだ」
 五分前、ベンチに腰掛けながら、膝を抱えて翔太は言った。コート上で必死に戦う五人を見ながら、血を吐くように、翔太は告げた。
「今年はいいチームなんだ。あいつらとなら、勝っていけると思ったんだ」
 三年前、ここで砕けた夢を思い出したのか、翔太は目つきを鋭くした。
「今度こそおまえを連れて行ってやる。全国に」
 その夢を見るために、翔太は夜も眠らずに走り続けた。考え続けた。勉強を捨て、優等生の肩書きを蹴り飛ばして、今日まで必死に走りぬいてきた。その努力を、誰が笑えることだろう。誰が見捨てるものだろう!
「三 年前、勝ったらおまえに気持ちを言うつもりだった。言いそびれたまま高校に上がった。入部したとき、全国大会に行くのが私の夢です、っておまえは言った。 中学のとき、おれが叶えてやれなかったから、おれたちの夢は途切れたままだ。だから、その夢を叶えてやりたかった。今度こそ気持ちをって思ってた。三年 間、今日まで我慢してきた」
 あのとき、三年前、私の胸で、届かない声で、翔太はなにを言い続けたのだろう。なにに謝りつづけたのだろう。胸にこみ上げた嗚咽をかみ殺して、私は翔太の手を握った。
「交代、お願いします」
 監督はもうなにも言わなかった。交代を告げるブザーを聞いて、翔太はコートへ戻っていった。振り返って、私に微笑を投げてから。
「いまからおれが見せてやる。しっかり見てろよ美沙。――夢を続きをさ」

 美沙、と言ってくれた。マネージャーではなく、美沙、と。
 必死にボールを追う翔太の後姿を見て、羽の生えたようなその美しい背中を見て、私は泣いた。誰よりも速く走る翔太を見て、私は叫んだ。見せて、と。見せてよ、と。私だって、翔太と一緒に、夢の続きを見てみたい――!
 翔太の手にボールが収まり、そのまま空中を舞った。時が止まったように、会場に一瞬の静寂が満ちた。
 ボールは美しく舞った。ネットが揺れた。ブザーが鳴ったのは、その直後だった。鼓膜を劈く怒号が響き渡った。勝った。信じられない思いで膝を折った私の前に、翔太が駆け寄ってきた。整列もなにもかも放り出して、一目散に私のところへ。
「見られただろ、夢の続き」
 うん、と頷いて、抱きついた。翔太の胸で、泣き声をあげた。立場は逆だけど、三年前と同じように、翔太からは汗のにおいがした。
 それから、翔太は私の耳に唇を寄せた。世界でいちばん優しいささやきを聞いた私は、これじゃあ本当に夢みたいだと、泣きながら笑った。

(了)

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