第一回短編小説コンテスト 最優秀作品

春になったら、とあなたは言う  朱空

  
 雲の上から眺めるぶんには雄大で美しかった北の大地は、想像以上の寒さで私を打ちのめした。かじかんだ手に息を吹きかけても効果がまったくなかったから、思わず愚痴っぽい本音が洩れた。
「寒いわね」
「そりゃあな、冬にこっち来て寒いっていうくらいなら、来なけりゃいいんだよ」
 駐車場までの道を足早に先行するタカヤは、振り返ってそう言った。憎らしげな口調とは裏腹に、顔は爽やかに微笑んでいる。
「年下のくせに生意気な口をきくわね」
「ひとつの年齢差じゃ、人生そんなに変わらないだろ」
 変わる、と思った。少なくとも、一年前の私は、あんな痛手は知らなかった。でも、それを口にするのはいやだった。
「それはそうね。ねえ、それより車まだ? このままだと凍死しそうなんだけど」
「すぐそこだよ、ほら、あれ」
 年季の入った小型国産車を目に留めて、古いなあとか汚いなあとか小さいなあとも思ったのだけど、いちばんに心配したのは防寒性能だった。走行中に隙間風が入ってきたりなんかしたら、まちがいなく死んでしまう。
「あ、なんだよ、その目。仕方ないだろ、俺だってぼろいとは思ってるけど、バイトしてやっと買ったんだから」
「いやいや、寒くなければいいなと思っただけ。それよりあんた、あれ、自分の車なの?」
「そうだよ。こっちは東京と違って不便だからな。車がないと遊びにも行けない。しばらくしたら乗れなくなるから、友だちに売るつもりだけど」
「駐車場とかどうしてるの?」
 タカヤは笑って手を振った。「ねえちゃん、東京じゃないんだよ、ここ。土地なんて家の隣に腐るほどあるんだ。駐車場スペースを気にする奴なんて、いるわけないだろ」
 なるほど、と思った。私はいま、たしかに北海道にいるらしい。

 エンジンをかけてから、タカヤはしばらくアイドリングをした。古い車だからエンストが怖いらしい。見た目のわりに助手席の座りごこちは良く、乗り込んでしまえば寒さもそれほど気にならなかった。気をよくした私は、人差し指で車窓に落書きをしながら、年上の口調で言った。
「それにしても、高校生のくせに免許持ってるなんて贅沢ねえ。いつ取ったの」
「夏休み。誕生日、四月だったからさ、丁度よかった。志望校に学力足りてたから、そんなに必死にする必要はなかったし、大学入る前に免許ほしかったんだよね」
「受験の結果は?」
「もちろん、第一志望合格」
「つまらん」と私は舌打ちした。
「ねえちゃん、性格曲がったなあ」
「昔からよ」
「そうかな。ま、いいや、そろそろ行くよ」
 促されるままにシートベルトをした。ゆっくりとアクセルを踏み込むタカヤの仕草がぎこちなくて、運転にはそれほど慣れていないのだろうと察した。少なくとも、マサアキほど上手ではないだろう。
 タカヤにしろマサアキにしろ、ハンドルを握った男の横顔は、いつもより少しだけかっこいい。もともと造作の悪くない顔立ちだから、タカヤの運転姿はそれなりに様になった。
「性格はともかく、あんたも変わったわよ。顔が」
「そう?」
 駐車場から道路に出る。いじめてやろうという気分になったのは、タカヤを通してマサアキを見ている自分に気づいたからだ。
「うん、かっこよくなった」
 動揺する姿を期待したのだけど、タカヤは頬の筋肉をわずかに痙攣させて、それでも満点の答えを返した。「ねえちゃんのイトコだからな。美形の血が流れてるんじゃないの」
 やるな、とは思った。ハンドルにしがみつくように運転する姿さえ見ていなければ。
 私はわざとらしくため息を吐いて、首を振った。「お世辞は合格だけど、運転も、もうちょっと上手くなったほうがいいわね」
 タカヤは緊張した表情のまま、ちょっと笑った。「仕方ないだろ、雪道走るのははじめてなんだから」
 おいおい、と思った。あんたは生まれも育ちも北海道だろう。

 車窓に流れるかわり映えのしない銀世界に飽きたころ、ようやくお礼を言い忘れていたことに気づいた。
「そういえば、わざわざ迎えに来てくれてありがとう、助かった」
「いいさ。久しぶりにねえちゃんに会えたし、運転の練習にもなったし」
 見慣れた道に出たのか、ようやくなれてきたのか、ハンドルを握る手もリラックスしているようだった。
「叔母さんは?」
「夕食の準備と、ねえちゃんのための部屋の片付けかな。久しぶりにこっちに泊まってくれるから嬉しいんだろ」
「叔母さんともあんたとも本当に久しぶりだからねえ。何年ぶりだっけ?」
「七年かな。それにしても、なんでいきなりこっちに来ようと思ったの? もう来ないと思ってたのに」
「暇だったのよ。大学の春休みは長いわよー。覚悟しておきなさい」
「帰る予定は?」
「決めてない。飽きたら帰るわ」
 できれば、帰りたくなかった。春になったらマサアキにキャンパスで会うかもしれないと思うと、それだけで胸がむかむかした。新しい女と腕を組んで歩いているところに鉢合わせたら最悪だ。まったく、振るだけならばまだしも、よりにもよって直後に同じ大学の女に手を出すのは反則だ。捨てられたこっちの居心地の悪さも、ちょっとは考慮してほしい。
 もっとも、振られた原因に心当たりがなくもないのだから、お互い様という気もする。

   ***

 叔母夫婦とタカヤの好意に甘え、私は北海道に滞在し続けた。宿泊費と食事代がタダなのだから、心配ごとはなにもない。遊び場のない生活は退屈ではあったけれど、騒がしいだけの飲み会や、いかがわしいだけの夜の街にはこの一年ですっかり飽きていたら、新鮮といえば新鮮だった。
 たまに、ふたりでドライブをした。北海道の冬は深く、雪ばかりが続く世界は、なんだかとても清潔に見えた。

 タカヤが「ねえちゃん、さては傷心旅行だな」と意外と鋭いところを見せたのは、こちらに来て三週間くらいした日のことだった。ドライブとは名ばかりの運転練習につき合わされていたとき、唐突に図星をさされたのだった。
「どうして?」と私は訊いた。
「それ、どうしてわかったの、っていう意味? どうしてそう思うのって意味?」
 ちょっと考えてから、もういいか、と思った。「どうしてわかったの、っていう意味」
「いや、なんとなく。たまに変な目で俺のこと見てたし、ぼーっとしてること多かったし。そっかあ、当たりなんだ」
 しみじみと呟くその様子がなんとなく癇に障って、私は小さく鼻を鳴らした。「失恋のついでに旅行って感じだけどね。失恋しなかったら旅行はしなかったけど、失恋したから旅行してるわけでもないわ」
「なにそれ?」
「強がりよ。それくらい察しなさい、青年」
「ああ、それはごめん」と苦笑しながら、タカヤは一向に上手くならない手つきでハンドルを切った。

 叔母は私のために毎晩手のかかった食事を出してくれた。こちらの味付けはやっぱり東京と違っていて、いくつか口に合わないものもあった。でも、せっかくの振る舞いにけちをつけるわけにもいかず、笑顔を貼り付けて、私はいつも完食した。
 その日のカニがいけなかった。アレルギーというほどではないのだけど、昔からカニは駄目なのだ。夕食を終えて部屋に引っ込むと、急に気分が悪くなって、ベッドに突っ伏してしまった。吐き気がするなら吐いてしまえばいいけれど、それほどではないところがまた厄介だった。
 枕を抱えてうーうーと唸っているところに、タカヤの声がした。「ねえちゃん、入っていい?」
「いま、ちょっとダメ」
「そっか。なんか声が変だけど、平気?」
「平気。平気だから、また後にして」
 我ながら下手糞な演技だったと思う。こういうときも、「このカニ、おいしいです」と言っているときくらい上手に嘘がつけたなら、私の人生はもうちょっと明るくなったことだろう。
 扉越しだから分からないかなと期待しなくもなかったのだけど、案の定、あっさり見抜かれた。「ぜんぜん平気そうじゃないな。ねえちゃん、いま服着てるだろ」
「着てるわよ」
「じゃ、入るぞ」
「あ、こら」
 服を着ていたからって、女の子には見られたくない瞬間があるということを、こいつはもう少し学習すべきだと思った。枕に顔をうずめようとしたら、タカヤがベッドに寄ってきて、私の額に手を当てた。「熱はないな。ホント、どうしたんだよ」
「いいの、ちょっと気持ち悪いだけ」
「なにかに当たったのかな。待ってろよ、とりあえず胃薬持ってきてやるから」
「いらない」
「いらないって、だって、気持ち悪いんだろ」
 しつこい男は嫌われるとか、親切とお節介の違いとか、誰かこいつに教育してやる人間はいなかったのだろうか、と思うくらいタカヤは人がいい。普段はありがたいだけの、いかにも北海道で育ったおおらかな人という偏見みたいな印象も、いまばかりはわずらわしかった。
 嘘を考えるのは上手じゃないから、考えるのが面倒になった。
「カニがいけないのよ」
「カニ?」
「食べられないのよ」
「だって、さっきおいしいって言いながら食ってただろ」
「悪いじゃない、せっかく出してもらったのに。あれ、きっと高いんでしょう?」
 タカヤはベッドに座って、背中をさすってくれた。体は楽にならないけど、気遣いは嬉しかった。「あのな、ねえちゃん。食べられないもの食べてお世辞で褒められるより、はっきり言ってくれたほうがお袋も喜ぶよ」
「そんなわけにいかないでしょ」
「いいんだよ、残してくれたら俺たちが食うんだから。カニだって、まずいと思われながら食われるより、そっちの方が気分いいだろうよ。だいいち、俺だって嬉しい」
 正直に言ってしまったからか、さすってくれる手が暖かくて気持ちよかったからか、気分も少しだけ楽になった。「それは、そうかも」
「好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。はっきり言えるようにならないと、ねえちゃん、いつか損するぞ」
 言葉に詰まったのは、苦しかったからでも、頭にきたからでもなかった。自嘲するように私は言った。「いや、ホントその通りよね、うん」

   ***

 夜、夢枕にマサアキが立った。夢を見ているなと思いながら起きられなかったのだから、あれは完全に悪夢だ。好きこのんで振られたシーンの再現を望む女はいない。
 喫茶店の細部はぼやけていた。目の前にマサアキが座り、悪い話なのだろうと予感しながらも、私は平気な顔でミルクティーを飲んでいた。
 他に好きな人ができた、別れて欲しい、と率直に言われたとき、ああ、やっぱりなと思った。やり直そうとか、理由を訊こうとか、そういう気分にはならなかった。少し前から他に女がいるような気はしていたし、その上で何も対策を打たなかった私も悪い。
 そう、寂しいわね、と私は言った。マサアキはうつむいたまま、そうでもないだろと言った。だってお前、おれのこと、そんなに好きじゃなかったろ。
 どうして、と私はそれだけを訊いた。マサアキは寂しそうに笑った。だってさ、好きって一度も言ってくれないし、一緒にいて楽しそうでもないし。正直、ずっと辛かったんだよな。女々しいこと言ってるのはわかるんだけどさ。
 私は思わずふき出して、手を振った。振られたのは私なんだから、せめて悪役くらい引き受けてよね。
 そうだな、本当にすまん、とマサアキは言った。私は伝票を持ち上げて、許してあげるから、これ、お願いね、と答えた。笑顔のまま手を振り合って、私たちは終わった。
 マサアキはいい男だった。顔だけじゃなく、中身も。後で聞いた話だけど、女がいたといっても、私と別れるまではデートさえしていなかったらしい。そう思うと、やっぱりマサアキは悪くない。
 悪かったのは、私のほうだ。

   ***

 夢にうなされて起きたのは小学生以来だった。もう一度眠る気分にはなれなくて、上着を羽織って外に出た。真っ暗な空に、月と星が白く輝いていた。はかない光を反射する雪は、どことなく青かった。常緑の木々を渡る風は、重ね着をしていても冷たく、粉のような雪を巻き上げていた。
 こら、と背中にかけられた声に振り返ると、冴え冴えとした月光に影を曳いて、タカヤが立っていた。「なにしてるんだよ、こんな時間に」
「あんたこそ、どうしたのよ」
「ねえちゃんが出ていく音で起きたんだよ。こんな時間に外に出たら風邪引くぞ」
「いま、何時なの?」
「午前四時。いちばん冷え込む」
 おお、寒いといいながら、タカヤは私に近づいて、あ、と声を上げた。
「なに、どうしたの?」
「いや、珍しい、ほら、花」
 指差された方向には、木があった。どういう偶然か、月の光を一身に集めるように輝く木の枝には、地上の星が下がっていた。「なに、あれ」
「樹氷、じゃないんだけどな、正確には。俺もよく知らないんだけど、たしか雪とか空気中の水蒸気が凍って、木に張り付いて、白い花みたいに咲くんだ。冷たい花。でも、綺麗だろ」
 うん、綺麗、という答えは声にならなかった。私はその白い花を見つめながら、自分の肩を抱いた。白くて、綺麗で、でも冷たくて、凍ってしまった雪の花。あんなに綺麗なのに、あんなにたくさんあるのに、冷たく凍えてしまった雪の花。固まってしまった雪の花。あとは溶けるだけの、雪の花。
 だって、それはまるで――。
 嗚咽が唇を割った。雪に膝をついた。冷たいと感じる余裕さえ、なかった。
「ねえちゃん……?」
 肩におかれたタカヤの手をふり払って、私は声を上げて泣いた。
 好きだった。誰よりも好きだった。初めての恋人だった。でも恥ずかしくて、照れくさくて、うまく伝えてあげられなかった。感情を押し殺して、本心を隠して振舞った。別れたくなんてなかった。絶対にいやだった。なのに、言えなかった。捨てないでとは、言えなかった。好きとも言えず、楽しいとも言えず、思いを胸のなかに閉じ込めたまま、私は振られた。
 こんなにも好きなのに、もう花は咲かない。こんなにも忘れられないのに、私の恋は凍ってしまった。綺麗なまま、凍りついて砕けてしまった。
 ああ、それは、まるで――。
「ねえちゃん」
「振られたのよ」と、涙声で私は言った。「振られたの。好きだったのに、好きって言えなくて」
 あの花みたいに、私は終わっちゃったのよ。体が震えていたのは寒さのせいばかりではなかった。涙が凍って、頬がちくりと痛んだ。タカヤが一歩こっちに近づいたと思ったら、いきなり抱きしめられた。
「春になったら花が咲く。今は雪でも、すぐにホントの花が咲く。それでいいだろ、今はまだ」
 うん、とは言えなかった。ただタカヤの胸に顔をうずめて、あの日に流せなかった涙を、ようやく流した。

   ***

「あの夜のこと、絶対に内緒よ」と、空港までの道中、助手席に座った私は言った。
「それは口止め料をもらわないと約束できないな。今度なんか奢ってよ」
「あんた、私、これから帰るってわかってるでしょ。今度はいつこっちに来るかわからないわよ」
「いいんだよ、俺が行くんだから」
「どういう意味?」
「あれ、知らなかったの? 俺、東京の大学に通うんだ。お袋が姉ちゃんに親切だったのは、俺がお世話になる前払いみたいなもんだよ。さすがに下宿は別だけど、東京で頼りになる親戚って、ねえちゃんのところしかないからな」
 あの盛大な歓迎が、ようやく腑に落ちた。「じゃあ、この車は?」
「だから友だちに売るって言ったろ、はじめての日に。聞き返されなかったから、俺の大学の話、もう知ってると思ってたんだけど」
「ごめん、聞き流してた」
「馬鹿め」と声をあげて笑ったタカヤのハンドルさばきは、少し前に比べるとかなり上達している。
「ま、いいわ。それじゃあ、東京に来たら連絡しなさい。高いお酒でも飲ませてあげるわ」
「未成年のくせに、そんなこと言っていいのかよ」
「構いやしないわよ。記念すべきあんたの門出だもの、ぱーっと振舞ってあげるわ」
 それは楽しみだなあと呟くタカヤの横顔を盗み見て、それに、と心のなかで私は言った。
 ――春になったら、新しい花が咲くかもしれない。

(了)

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